井上大智老尼・只管工夫(抜粋要約版)

以下の抜粋は、まったくそのままのかたちで存在する訳ではありません。
抜き書きした後に、要約し、表記を現代風に改め…と、かなり手を加えてあります。
その点はご承知の上、ご覧ください。

原《全文》はこちら
http://shorinkutsu.com/second/_userdata/sikankufu.htm


ここに只管を、仮に『目的、手段、結果』と、三段に分けてお話しをしてみましょう。以下の心得を、しっかり心に刻んだうえで、日々の生活のなかにおきましても、この「只管工夫」を充分に活用していただきたいと思います。

始めは『目的』におきまして、只管たるべく悟りへの精進をいたします。坐禅中、いろいろの感情が生じましても、坐禅中の感情ですから、時を重ねるに従って、やがては只管打坐に浄化されて、必ず打坐の真相を自覚する時がまいります。これも人々の努力次第で時の長短はあるでしょうが、たとえ大地を打ち外すことはあっても、この見性疑いなしと古人も証明されておられるのですから安心なことです。

さて、努力の結果始めて悟りの世界に生まれましたら、ここに初めて煩悩がそのまま菩提であったと気がつくのですが、大方の人はこれで悟りを得たとして、腰を下ろして悟りのローヤに入ってしまうのです。そうして融通のきかない人となって、何でも法界一面に取り扱って人の言葉を問題にしない。こういう人を悪平等の人として古人もいたくけなされています。それはこの只管を悪平等視させるために、只管からのろわれて悪という名が付けられ、真実の法から区別されているのです。

あるいは悟りを振りまわし、我れは聖人だ、お前たちは凡人だと、凡聖の涯際を取るどころでなく、むしろ凡聖のヘダテが強くなって、人を見下したり、馬鹿にしたりして、禅天魔となってかえって人のそしりを受けるようになります。こうなりますと、せっかく悟ったこの悟りも何の価値もないことになりますから、ここに大いに心得ねばならぬことが現われてくるのです。

これは悟ったという自分に位をつけますために、他の人々が卑下してみえるようになるのが基です。元来修行というものは自他不二の世界を味わうのでありますが、これがかえって自他をかまえていることに気がつかないのです。

ここに気がつきますと、「この自他をかまえるこの悟りは未だ本物でないぞ」と反省されるのですが、悟りだちはなかなかどうして、天狗になって受けつけません。あるいは、あまりに悟りが固まり過ぎて、抜けがたい人となるものです。悟りがかえってアダとなって、天魔のそしりを受けるようになります。

そこで、悟った世界と日常の生活が一いたしているかどうか。もし一いたしていなければ現在悟ったと思うこの悟りは充分にないぞと、いさぎよく捨てていきますと、さてこれからが只管のやり直しとして、再出発したときには実は只管が『目的』でなく『手段』となってまいります。この只管打坐は今までより大変楽にやって行けるようになる。ここのところに気の付いた尊さがあるのです。

こうなりますと、只管はもはや『目的』の段階を過ぎて『手段』の段階に入ります。坐禅のときも、日々の生活のなかでも、一切皆、只管を手段として修行していけるようになります。行住坐臥、皆只管工夫となしていけます。しかるに、この手段の道中がなかなか長いのです。これは自覚した、悟ったという気持ちがちょいちょい顔をだしては邪魔をするからです。そこで、「うたた悟れば、うたた捨てよ」という、とう隠老大師の一大スロ-ガンが生まれたのです。この一句、千金の価いありと申すべき有難き言葉です。なかなかこの悟りが捨てきれない、捨てたと思うてもふいふいと出てくる、実に魔物です。この魔物が出てきては只管の邪魔をしますから、油断は禁物です。寸暇なく只管を見守って行かねばなりません。

只管を見守るということは、行住坐臥、只管の丸ごてにあって、余念をまじえず、何にでも只々単に成っていくということ以外ありません。道元禅師も「高き恋を思うが如くせよ」と申されておりますが、「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」で、この只管を恋人として、寝ても覚めても忘れられない恋の道中です。ここに至りますと、浮き世の恋とこの恋と差替えて、身も心も放ち忘れて仏の恋に陶酔していく力が生ずるものです。このようにして身も心をも仏の家に投げ入れてこそ、「只管に在って只管を忘れる」ようになるのです。

このようになりますと、すでに手段は一挙一動が宇宙的になってまいりますから、『手段』の段階は過ぎて、そろそろ『結果』に入ろうといたします。柿も熟すれば自然に落ちる、只管と云う念ももはやいらなくなって参ります。これも努力の結果自然現象です。ここでの努力は、今までの勇気百倍して、昼夜兼行に身も心も打ち捨てたありさまです。このようにしているうちに、生死の涯際はいやでも取れざるを得ぬことになります。願わず、求めず、湛々としてあるとき、自然に外境からもたらされて、自覚されるべき一大事があります。即ちこれが□地一下の因縁であります。これは決して、求めて得られるべきものではありません。そこで、悟りを待つ待悟禅の忌み嫌われる理由ありさまも、おわかりになられると思います。

はじめ気づいた悟りも、悟りには違いありませんが、小悟と名づけて真実の法門の入り口に入った程度と見られたらよろしいでしょう。けなすのではありませんが、まあ只管に気づいた程度であって全部をうけがう訳にはまいりません。

大真理のこの真実の世界は、そうなま易しいことで大成できるものではありません。生きながら真実の大宇宙の世界を自覚するんですもの、学問でも哲学でも、この宇宙の真理を解剖しようとして憶測することは、人々勝手たるべきことではありますが、只これは結局憶測の世界であって、ムダなことです。水一滴の味わいですら、いかに名言妙句を弄してみても書き表わすことはできないではありませんか。なぜでしょう。これは、たとえ水一滴といえども宇宙の真理の一現象であるからです。人々には直接味合われても、この味わいは何物をもってしても表現することはできません。しかも、人々直接味合われている身近な問題ですから妙ではありませんか、これが即ち妙法の姿です。

そうしてみますと、知る知らぬにかかわらず、われわれの生活はミナ真理の当体に直面しているありさまなのです。これをかえって遠きにながめ、求めているのです。この大真理のなかに生老病死しながら、喜怒哀楽の妙を尽くして、生死々々して、只管のままの生活を現成しているのであります。

この只管修行は人生最大の教えであって、この只管の完成は結局大真理の自覚でありますから、この上もない尊い修行方法であります。こんなことを申し上げても、未知な方には想像もつかないことと思います。しかし前述しましたように、水の味わいを考えて頂ければ概念的にもよくお分かりかと思います。水ばかりではなく、苦痛の味わい、喜びの味わい、こうした無形の味わいを何によって表現することができるでしょうか。只、人々の自覚を促すより外にはないでしょう。これを妙法と名づけているに過ぎません。こうした味わいを自覚するには、只管打坐、即ち坐禅以外に方法は絶対にありません。坐禅より他に世界を統一する道はないのです。人々がこの坐禅によって生活をしましたなら、嫌でも平和な世界が生まれてくるのです。

さて、動中の工夫ですが、これは坐禅の熟してくるに従って、行住坐臥おのずから只管工夫になってまいります。天職としての人々の仕事にありましても、余念なく、あるがままに練っていくのです。要するに「其の場、其の場に単にあること」以外に心を用いぬようにするのです。

初めからそう単調にはいかないものですが、しかし努力心は必ず成るものです。この力に依って、生死問題及び人生を有意義たらしめるのですから、時々転々として変遷していくありさまを、心静かに観察して単を練るのです。そうしますと、自然にこの変遷に心を労せず、淡々と一条の滝の流れるが如くいけるようになります。

動中にあってここまで練れますことは、大変な努力と願心の賜物です。「動中の工夫、静中に勝ること幾千億倍」と古人も申されておりますが、これも人々の願心と着眼点によることで、どちらも同じ事、別に優劣はないと思います。

移り気な人は転ぜられやすいのでしょう。しかし坐の時でも、落ち着きのとぼしい人は、やはり単調に坐れにくいものですから、同じことです。これは人々の因縁生によって性格のタンパクな人と、シット心の深い人がありますように、こうした性格もよほど手伝う面があります。これは人々の個性の問題ですから、自己をよく見つめて是正していくことも大成を速める糧となります。まず器をきれいにすることが大切です。そうしませんと、入った物が汚れてしまいます。しかし、これは只管の練れるにつれて浄化されていくものです。

元来どうあっても皆真理の具眼者なのですから、一超直入如来地とあって然るべきことです。これを思いますとき、悪に強いものは善にも強いと申しますように、すべては自己の願心によることを信じます。努力と願心の賜物です。

常に無常を観じ、今生にある我が身を喜びとして、この正修行たる只管工夫に邁進せられるよう、切にお祈りいたします。願心あれば何事かならざらん。一滴一滴の雨垂れの水すらも、石にも穴を穿つではありませんか。路傍のこととしてこの尊き人生をむなしく過ごすことは、恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、と道元禅師も申されておられます。願わくば、只管々々、平和々々たらんことを。

荒磯の波もよせぬ高岩に
かきもつくべき法ならばこそ

合掌