反応系アファーメーション

誓い・願う 心理的(内面的)方向づけ、自己再-教育

日常生活の中の様々な状況、様々な場面のなかで噛み締め続ける。
気がつくたび、機会あるたびに、繰り返し考察し、適用し、精神(脳)構造に浸透させ、定着させていく。 脳に新しい回路を作る。
第二の本性、習性、習い性となってしまうまで、くり返しの実践(実際適用)。

現実(現象)の根本的受け入れ・受容(根本的態度変更)

これから先、私は私が出会うことになる(私の眼前に展開される)、すべての現象、あらゆる生における状況、すべての人との交わり・関わり(人間関係)を、受容的に受け入れ、受け取ります。

そして、そこから(あらゆる状況、あらゆる関係から)何かを学び取ります。

嫌悪、怒り、非難などの否定的感情・否定的反応(自己の正当性の内面での主張)によって、そこから(その関係から)の学びを否定しません。

私は、宇宙が差し出すもの、すべてを受け入れます。
(それが嬉しいものであれ、悲しいものであれ、美しいものであれ、そうでないものであれ)

私の人生に起こる出来事はすべて、自分について学ぶため、自分で引き起こしたものである。
すべての状況が、何らかの形で、私の師(先生)である。
人は、すべて我が師なり。 老若男女、人は皆師。人は鏡、万象はわが師
彼・彼女は・この状況は、私に一体、何を教えてくれよう(気づかせてくれよう)としているのか。

仕事に関して真に重要なことは、何かをすることによって、そのうんざりさ・退屈さを和らげる(紛らわせる)ことではなく、その抱えている仕事に対する抵抗感を、いかに無くしていくか、と云う点にある。

現実を嫌悪することで、その現実が変わるという「信仰」。
その信仰を変えること。現実の状況を変えようとするのではなく。
現実は、全面的に受け取り、それを味わい尽くすことによって、はじめて変わる。(終わる)

神様が人に試練を与える時、必ずその人に克服可能なことのみを与える。

必要性の無い経験は存在しない。
今、現在、既に経験してると云う事は、全て自分にとって必要だったからだ、と云うこと。

私に不快な気持ちを味わせた人に、私は感謝して良い。
なぜなら、その人は、私のなかにエゴ防衛的な反応(不快感・嫌悪感)を引き起こしてくれ、
そのお陰で、私は自分のその反応に気づき、それについて学ぶことができたのだから。

どんな人間関係にも意味がある。
無意味な関係、偶然の関係などというものはない。
配偶者から、顔も知らない電話交換手に至るまで、どんな出会い、どんな関係にも、幸福な関係でも不幸な関係でも、つきあう時間の長さや関わりの深さの度合いを問わず、そこには意味がある。
ただすれ違っただけという些細な関係からでさえ、そこから真の自己に関する大きな学びを得ることができる。

どんな関係も学びの機会である。
電車の向かいの席に座った一人の人を見て湧き上がる、あれこれの思い―品定め、不快や蔑視、その他諸々の感情。
それらがしっかり自覚されたならば、それは深い自己理解の機会となるだろう。(心の随観)
職場での人との関わりの一つ一つに自分がどんな反応をしているか、
普段はほとんど自覚もされずに流れ去っていく感情に気づきの光が注がれたなら、これも深い学びにつながることだろう。

ある人物に対し、なぜか嫌悪や怒りを感じたり、毛嫌いしたり許せなかったりするのは、
自分自身の同じような面を、自分自身に受容できていないからだということが良くある。
結局人は、自分を受容し得る程度にしか、他人を受容することができない。
「自分」という枠組みに取り込みにくい自分の側面は、抑圧され、他者に投影される。
「自己」というフィルター(防御壁)が弱まれば弱まるほど、内外の事物は、自己中心的な解釈や歪曲なしに受け入れられるようになる。
受容は、逆に言えば、抑圧の減少、気づきの拡大でもあり、「自己」という境界の限りなき拡張とも言える。

ある人の、ある性質・ある言動に対し、不快感や嫌悪感が起こるとき、
まず、自分のなかに、その人のその性質と同じものを、未解消な形で抱えていないかを考えてみよ。

ある人の、ある性質・ある言動に対し、怒りや腹立ち、攻撃心が起こるとき、
その言動の「何が」、自分の自己イメージのどの部分を刺激し、エゴ防衛的な反応を惹き起こしたのかを考えてみよ。

あなたが心の中で悪く思っている相手は、あなたが(頭の中で、勝手に)そう思っているだけで、実は全くそうでは無い可能性が大いにある。

人を嫌うと、その人にも嫌われる。自分が嫌ったから相手からも嫌われた、と理解せよ。
問題は、相手の側にはない。

不快な出来事に出会う、あるいは不快な状況に身を置かれることは全て、自分の中の不快感の動きを学ぶ為の機会・チャンスである。
とりわけ、嫌いなタイプの人間が傍に来ると云うことは、その人を通して「不快感」と云う心の動きを学べと云う天のお示しであるのかも知れない。

私は、あらゆる嫌悪感を喜んで経験します。 → 「執着と嫌悪」

感謝の祈り

主よ! 時として病気を与えてくださり、感謝します。
人間の弱さを知ることができるようにして下さったからです。

たまに孤独の穴に投げ入れて下さり、感謝します。
それは主の近くに行く機会ですから。

為すことが計画通りに行かないようにして下さることを、感謝します。
そのおかげで、私の高慢さを反省することができます。

息子・娘が心配の種になるようして下さり、感謝します。
両親と同僚が荷物になったように感じるときを与えて下さり、感謝します。
それによって、人間としての生きがいを悟ることができるからです。

食べて、生きていくのが大変であることを、感謝します。
涙を持ってパンを食べる、その心情が理解できるからです。

汗と苦労の杯を味合わせて下さり、感謝します。
そのおかげで主の愛を悟ることができるからです。

主よ! 感謝できる心を与えて下さり、感謝します。

全託

この瞬間、宇宙の働きの中で起こることは何であれ受け入れねばならない。
それを否定し、それに抵抗することが人に苦しみをもたらす。

どんな形にしろ、苦しみの意味するところは一つである。
それは、私が宇宙的調和から外れているということである。
調和しさえすれば、苦しみは熄む。

この世は、物事が本来の方向に進むように定められている。
人にはそれを変えることはできない。

すべて人生で起きることは、私にとってちょうど良く、私の成長の為に、今ここで経験させられている重要な学びである、と考えよ。
あるいは、過去に私が蒔いた種を刈り取っているのであり、カルマが消えていきつつあるのだと理解するのである。

すべては異熟(過去に作った原因の結果・蒔いた種の結実)である。起るべくして起ってきた。
私には、それを甘受し(甘んじて受け)、受け入れる以外の道はない。

各個人のカルマに従って、宇宙全体が全事象を動かし、展開している。
故に、起こるよう運命づけられていることは、いかにそれを避け、阻止しようとしても必ず起こるし、
起こるよう運命づけられていないことは、いかにそれを起こそうとしても起こらない。

また、「各個人」と云う実体もない。あるのは宇宙全体の因果の網の目だけである。

人の行為に関する決定論的理解の徹底

自分にとって、不快な、イラつく、理解できない言動を、ある人がなぜ行なうのか、決定論的に考えてみる。

その人の「遺伝」と「環境」(過去のこれまでの、現在の)を考えると、人を怒ることはできなくなる。

全ての人が、その結果がどうであれベストを尽くしている。
それ以上、それ以外の言動は、やろう(考えよう)としてもやることはできない。
他の、私にとって、より良い、より好ましい言動・行動の選択の可能性はない。
だから、相手を責めたり、腹を立てたりしても仕方がない。
それは、私の側の考え違い(考え方の間違い)に基づいている。
そきに自由な意志・行動の選択の自由など全く介在していない、自然現象と変わらない。
それは、「反応」であって「行為」ではない。
宇宙の因果の網の目の、必然的な展開・結果としてそうなったとしか言えない。

もし他人を傷つけることが、あなたを傷つけている人の本性であれば、
あなたにもその人にも、その本性を変えることはできないのであり、
怒ることは的外れなのだと考えることができる。
もし、害を与える事が、本当にその人の本性なら、
その人にはそれ以外の行動を取ることは決してできないであろうから。
他の生き物を傷つけることがある人たちの本性であっても、
彼らに腹を立てることは、やはり良くないことだろう。
それは、火に燃える性質があることを嫌がっているようなものであろうから。


参照文献

『誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』

『あなたは自由ですか―決定論の哲学』

『自由意志 – Wikipedia』

布施

この人に対し、今、私に、何ができるだろうか。
今、私にできる(してあげられる)最高のことは何だろうか。
常に、そのような発想で人を見つめる、人と関わる、関わりのある人に対する。
「この人から何をして貰えるか、何の利益・満足を得ることができるか」からの発想の転換。

「私には何かが足りない」とか「何かが必要だ」と感じたときには、まずそれを人に与えることだ。
そうすれば、それはいつか自然なかたちで私に返ってくる。
故に、私は、私が欲しいと願うものを、まず人に与えるのである。

私が相手(他人)に、下意識的(無意識的)に望むことは全て、私が自身のために望んだこととなる。
欲望(意思)は霊的なブーメランなのである。
送り出したものを私は受け取るだけのこと。

与えたもの(送ったもの)を私は受け取る。それは、どんな場面においてもそうである。
それは霊的なブーメランである。投げたものが、そのまま自分に返ってくる。

故に、ただ、常に、相手(他人)と自分との双方に善きことのみを望むのである。

もし、何も与えられなくても、「活力をあげる」ということはできるであろう。
あるいは、慈悲の祈り(心の中で相手の幸せを祈ること)も。
バスに乗れば、乗り合わせた乗客の方々に慈悲の瞑想をしてみる。
プラットホームで電車を待っている時にも、「この駅の構内にいる全ての人が幸せでありますように」と、ミニ瞑想。たった十五秒でも構いませんから。

慈悲の瞑想(慈しみの祈り)

私が、幸せでありますように。
私の、悩み・苦しみ(心理的問題)が解消されますように。
私の、願いごとが叶えられますように(実現されますように)。
私が、心の平安、安らぎ、本当の落ち着き、真の幸せに至ることができますように。

○○さんが、幸せでありますように。
○○さんの、悩み・苦しみ(心理的問題)が解消されますように。
○○さんの、願いごとが叶えられますように(実現されますように)。
○○さんが、心の平安、安らぎ、本当の落ち着き、真の幸せに至ることができますように。

・ 私のまわりの人々が(具体的個人の顔を思い浮かべて)….
・ 私が、これまでが(今日に至るまでの人生に於いて)、出会い、関わりを持ってきた人々(嫌な思い出の残っている人々、心にしこりの残っている人々、喧嘩別れした知人など)….
・ 私の知っている人すべてが(すべての人々が)….
・ すべての生き物が….

懺悔

私は許します。
この(10日間の)修行の間、自覚的、無自覚的を問わず、
私の周りの人々が、私に対してしてしまった(味わせてしまった)、すべての不快な言葉や行為、言動のすべてを、私は許します。

私は許しを請います。
この(10日間の)修行の間、自覚的、無自覚的を問わず、
私が、私の周りの人々に対してしてしまった(味わせてしまった)、すべての悪感情を含んだ言葉や行為、嫌悪、不快感、怒りを含んだ思いに関して、私は許しを請います。

伝統的な懺悔誓願文

懺悔いたします。
無明の闇に覆われて、身・口・意の三業によって犯してしまった過ちがあります。
仏・法・僧に対する過ち、恩師に対する過ち、生きとし生けるものに対する過ち、これら一切の過ちを懺悔いたします。
また、私が受けた他のひとの過ちも許します。
このように俗事を離れ、独り静かに自己の心身を気づきを持って見つめるとき、瞬間、瞬間、生滅変化し続ける現象を観-行(自己観察-行)によって洞察し、真の幸福を得て、解脱の道へと導かれますように、と、ここに誓願いたします。

試訳
私の人生に於いて、現在・今日に至るまで、無量の時の流れのなかで、
貪り(欲望)と怒り(嫌悪)と愚かさ(理解力のなさ、蒙昧さ)の故に、
自覚的、無自覚的を問わず、
からだ(の行為)において、言葉において、そして心(想い)において、
私の為してきた諸々の悪しき行為(行い)を、私は、懺悔いたします。
諸々の悪しき行為・言葉・想念に関して、私は許しを請います。
どうぞ、お許し下さい。

この後、逆の想念を放つ
「ごめんなさい、ありがとうございます、感謝しています、幸せであって下さい」

瞋恚とは、「自分の心に逆らうものを、いかり、うらむこと」

緊急時の大丈夫マントラ

大丈夫、心配しないで、怖がらないで、安心して、すべて上手くいくから。

思い詰めないで、思い続ける。 唱え続ける。

反応系断片

想像が細部にわたっているとき、神経系統的な働きとしてみれば、それは実際の体験とまったく同じである。

そこにはカルマが、心理的刷り込みと習癖という形で蓄えられている。肯定的であれ否定的であれ、ある特定の思考パターンをとる癖があると、その癖はいとも簡単に刺激され誘発されて、いつまでも、何度でも繰り返される。この頻繁な繰り返しによって、私たちが眠っている間も、癖と習慣は着実にその根を深め強大化してゆく。

一度形成されてしまった本能的、習慣的な習癖・潜在力は、わずかな、ごく些細な刺激によっても簡単に活性化されることを覚えておかなくてはならない。
心の流れを浄めるため、あなたは残された時間―この生を使わなくてはならない。

意識ある人は他人からコントロールされることはない。
他人の問題を自分のこととすべきではない。
誰かがあなたに向かって無礼を働いたとしても、どうしてあなたが心を乱すことがあろうか。

日ごろ心掛けて実践していることが、その人を作る。
それが、その人自体になる。

宇宙全体を通じて、類は類を生むのである。
憎しみ、嫉妬、悪意、疑いなどの感情は、すべてそれと同様の子供を生む。
すべての否定的な想念は、再びそれと類似の想念を生み育てるのである。

たとえ、たった一つの思考であれ無駄にしてはならない。
心的エネルギーを大切に蓄え、それを高い目的のために使うがよい。
無益な情報を脳に貯め込むことなく、まずは心を一掃する手段を学ぶがよい。

心の庭のくだらない雑草を常に引き抜く作業が必要である。
(satiの訓練、日常の只中での気づきの行の継続しての実践)

心は常に、数限りない、ざわついた思いに占められている。
そして、それに振りまわされる。それが、その人の人格を作る。
いや、それが、その人「そのもの」なのだ。
故に、自身の思考の中身・内容に注意せねばならない。

心は習慣の束である。
適当な機会さえあれば、習い性となった悪い癖・習慣が心の表面に現れる。
習慣が絶えず繰り返されて定着すると第二の性格となる。

潜在意識の残存印象が浮上してくると、その欲望の対象に心は流れ、その対象を得て楽しみ、欲望が満たされるまで、心は落ち着きなく対象を思い続ける。普通、人間は、その印象・欲求に逆らうことはできない。

潜在意識の残存印象は行為を引き起こし、その行為によってその印象は更に強まる。
そのような悪循環を抜け出さなくてはならぬ。
その残留印象を焼き滅ぼすこと。

自分を管理するのは無意識ではなく自分自身である。

水面に一滴の油を落とすと全体に広がる。

無駄なエネルギーのたれ流しは人を大変弱くする。

散漫で弱い思考には、散漫で弱い力しかない。
凝縮された強い思考には、凝縮された強い力がある。 (虫めがねの喩え)

心の統一されたヨーギは、一度に一つのことを好きな時間だけ考えることができる。

無意識的、無自覚的な思考こそが、状況、現実を作る。
私の思考が、私の現実を作り出す。
私の考えることの一つ一つが、私自身やまわりの状況に作用していく。
毎日、何千もの思考が、心を行き来する。
日常の思考の流れが現実を作る。
故に、心のなかの思考の動き方に注意して、それを、しかるべき方向に向けてやることが必要である。
自分の思考に気をつけて、それを望ましい方向に向けてゆくこと。
「思考を変えること」は「現実を変えること」である。

おのれを以て、人を見るものなり。
愚人の見るはおそろし。おのれに利欲あれば、人をもその心を以て見るなり。
色深きは、色を以て見るなり。聖賢の人にあらざれば、見る事あやうし。 (至道無難禅師)

真正参禅の人の前には、吉凶、栄辱、逆縁、順縁、尽く道業を助ける糧となり、懈怠、惰弱の人の前には、かりそめの塵事も、夥しき障りとなる。 (白隠慧鶴禅師)

生きている間には、どんな悲劇が起こるか分からないけど、
すっぱいレモンを美味しいレモネードに変えるのは自分次第なのである。
与えられた環境でいかに振舞うかという最後の自由は、どのような場面でも奪われない。
困ったことは何も起きていない、と認識するところから全てが始まる。
人間を判断する目安は、その人が逆境に陥ったときにどうするかである。
予期せず遭遇した困難は、成長するチャンスなのである。

私が裁くように人に裁かれ、私が計ったそのハカリで私自身も計り返されるであろう。

私の中の「他人から否定されたくないという執着」「現実から乖離し、肥大した自己イメージ」等が減少すればするほど、自分への無根拠な中傷は気にならなくなるでしょう。

あなたは、色んなことを知っているが、ただ「あなた自身(自分)」だけを知らない。
あなたは、色んな場所・人を見てきたが、ただ「あなた自身(自分)」の内的空間(スペース)だけを見たことがない。
あなたは、色んな本を読んできたが、ただ「あなた自身(自分)」と云う本だけは読んだことがない。
あなたは、色んな映画を見てきたが、ただ「あなた自身(自分)」と云う映画だけは見たことがない。

何かが欲しいと願う人は、必ずそれを実現する力が与えられる。
ただし、それに向かっての全力での努力は必要であるが。