同一のゴールに到達するために、じつにたくさんの道がある。
ラーマクリシュナ真理に至る道は無い。
クリシュナムルティ
自身のこれまでの修行遍歴を振り返ると、それは互いに対立し否定し合う理論と技法との戦場でした。
ある教え/方法論には、それと対立し否定する(宿敵とも云える)教え/方法論が存在し、そのそれぞれのなかにも、より細かなレベルでの考え方の相違と諸々の感情に根ざした膠着した諸問題が存在しており…と、より小さな方向にも、より大きな方向にも、無限の対立があるなかでの試行であり探求でした。
それら敵対し否定しあう教えの双方に触れ、実際にそれらを習得していくなかで、単なる平面的/二次元的な批判と攻撃に終わることなしに価値ある学びを得るため、何が必要なのか、それらを見渡せる視座をどのように確立するのか、との問いは常に切実なものとしてありました。
ここに書くのは、その問いに対する私なりの答え― 平面的/二次元的な対立に終わらないための「思考(考え方)のツール」のひとつの提案であり、同時に「修行法(訓練法・錬功)デザインの、ひとつの原理」である、とも言えるものです。
四項的認識
1.
ここに、相対・対立するA・Bの二項を考えます。
それは、たとえば、
A=重さ B=軽さ
A=伸張(遠心性) B=収縮・圧縮(求心性)
A=丸め(前屈) B=反り(後屈)
A=分離(対象化) B=一体化
A=保守 B=革新
A=理論 B=実践
など、何であっても良く、あらゆる相対立する二項を考えることができます。
この水準において、これらは概念上、互いに相手を否定しあい対立する相容れない項として存在します。
つまり、A=非Bであり、B=非Aです。
2.
次に、A・Bそれぞれに「良い」「悪い」を考えます。
この「良い/悪い」を、「上質な/劣質な」との言葉で表すこともできます。
つまり、
「良い」=「上質な」
「悪い」=「劣質な」
です。
その操作により、
・良い(上質な)A
・悪い(劣質な)A
・良い(上質な)B
・悪い(劣質な)B
の四つの項が生まれます。
縦横のニ線で十字を書き、そのそれぞれの枠にこの四項を入れます。
3.
わかりやすさを考え、以下、身体的な具体例を使って説明を進めるが、これは、あらゆる事象に当てはめることができるものである。
たとえば、「A=丸め(前屈) B=反り(後屈)」とした場合、
「良い丸め」と「悪い丸め」、「良い反り」と「悪い反り」の四項がある。
二元相対的なレベルで、「丸め」の立場から「反り」の批判・否定が為される場合、それは「悪い反り」を見て、「悪い反り」に対して言っているものである場合が多く、
「反り」の立場から「丸め」の批判・否定が為される場合、それは「悪い丸め」を見て、「悪い丸め」に対して言っているものである場合が多い(と云うか、ほぼそうである)。
しかし実際には、
「良い丸め」の正体とは、単なる「丸め」ではなく、その運動・状態のなかに「反り」の要素をうまく取り込み、「丸め/反り」の双方を上質なかたちで拮抗させ、身のうちに統合している姿であり、
「悪い丸め」とは、その運動のなかに、対立する「反り」の要素をうまく取り込み統合することができていない「単なる丸め」― 緩み/抜け/潰れのことである。
「反り」の場合も然り。
よって、「良い丸め」と「良い反り」は、陰陽図で言えば、「どちらが地(背景)となり図(前景)となるか」の顕われた面の違い(反転)を除けば同じ状態を表現しており、そこに(普通に言われる意味での)相対や対立は存在していない。
4.
ここにおいて、「良い丸め」と「良い反り」は実質的に統合されてある。
それを、どのような言葉に定着させるかは別として、ある一つの(言葉によって表現しずらい)新しい状態が生まれた。
それを仮にXと名づけ、(一時)保存する。
そして、それとは別の二元相対のセットへと取り組む。
それが仮に「A=伸張(遠心性)、B=収縮・圧縮(求心性)」であった場合、探究のなかで(再び、必然的に)統合へと進む運動が起こる。
伸張/収縮(遠心性と求心性)が絶妙なバランスを取って両立している、ある独特な状態が生じる。
それを仮にYと名づける。
5.
このとき、XとYとの間で、次なるレベルの相対・対立・拮抗の運動が起こることは必然である。
結果、それらを含みこんだ、さらなる統合、あるいは概念拡張、一般化/汎用化が果たされる。
このように統合は果てしなく進んでいく。
身体のなかに発生し保たれている対立/拮抗の多さと、それを超えた統合の層の厚みが身体的な豊穣性を決めていく。
それは、自身体のなかに(水族館の水槽のように)多くの生物を飼い、多様な生態系を営ませているような感覚であるのかもしれない。
6.
以上の四項的な分析(認識)の模範演舞的な一例を古典より引く。
『論語 為政第二』
子曰、「学而不思則罔 思而不学則殆」
子曰く、「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」
学 … 人から教わること。誰かに教えてもらうこと。
思 … ひとりで思索すること。自分で考えること
罔 … 道理に通じていない。無知なさま。
殆 … 危うい。危険である。「危」に同じ。
ここでは、「学ぶ」と「思う」― 「人から教えてもらうこと」と「自分で考えること」― の二元的な対比のどちらを正解とすることもなしに、四項的な認識に導くことにより、より上位な認識が示されている。
知識をあれこれ広く学ぶだけで、自分でよくよく咀嚼し考えることをしなければ、本当の意味で、それは深まらず、本質を理解することはできない。
しかし逆に、自分の乏しい知識だけで思い巡らし思索を進めたところで、客観的な知識や情報、古典や先人の教え、歴史的知識などに学び、それを使って自分の体験を検証することをしなければ、いつのまにか独断的になり考えが凝り固まってしまい、自分の感じ方・考え方だけが正しいのだと思い込んでしまって、危ういことになる。
論語解説 「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし」
弁証法的(対極の)統合
7.
以上のような「対立物の拮抗と、そこから生まれる上位での統合」のダイナミズムを伝統的に「弁証法」と呼ぶ。
ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の三つである。
全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。
生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後に、二つがアウフヘーベン(止揚)される。
このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。
しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。
ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。 【弁証法 – Wikipedia】よりしよう【止揚】(Aufheben 高めること、保存することの意)
弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存される。
矛盾する諸契機の統合的発展。揚棄(ようき)【広辞苑 第五版】より
単なる融合・合体・統一ではなく、互いに否定しあう対立項が、その矛盾をより上位のレベルで「捨てると同時に保持する」ことによって次の段階の統合に至る。
そのプロセスが果てしなく繰り返されながら、絶対的なるものへと向かう― それが世界であり、歴史である。
私たちが出会うことができる、瞑想法であれ、ボディワークであれ、武術であれ、哲学/思想であれ、科学/技術であれ、それらは歴史を持っています。
それは、既に(過去の)幾多の天才・達人たちの人生の中で繰り返し統合されてきたもの― それを、いま学び、自身の人生をかけた実践と理解の試みのなかで更に統合させていき、それが次世代へと引き継がれていく。
それぞれの多様な理論、多彩な技法が、互いに否定しあい協力しあい、絡み合い奪い合い、相互に影響を与えあいながら、歴史的時間を築いてゆく。
その流れのなかに私たちの日々の生活、理解、実践があり、そのなかに私たちは「歴史的存在」として生きています。
それは、衛星写真で写された大河のようです。
沢山ある河の支流を眺めれば別もののように見えるが、それら一つ一つを丁寧に源流まで辿るなら、すべてが流れ出てくる源、すべてが未だ分かれない始原点に至る。
自分自身が、いま、まさに歴史的存在として、その流れのなかにあることを実感/認識することは、日常的な感覚・スケールにおいては難しい。
ボディワークも瞑想も、すべては大いなる統合へ、より複雑な組織化へと向かう。気づきの海へと注ぐ。
これから書こうとしているのは、私の人生で起こった統合の(流れの)物語であり、それをこうして残そうとするのは、これを読むことになるかもしれない未来の誰かの更なる統合の一つの材料になると思うからです。
「私は自らの人生でここまでの統合を見た。あとは君たちが(それを一つの材料として)どこまで進むかだ」とのメッセージです。
太極陰陽図のダイナミズム
陰陽図を、(二次元的)平面ではなく、三次元的な立体(動的展開)を折りたたんで表現されたものと考える。
そこには、幾多もの異質的両極が切り結ばれ、拮抗と統合が重層的に存在する、螺旋階段のごとき、終わりのないダイナミズムの世界がある。
● 参考図書
『生命のからくり』中屋敷均
そこには、保全と変革(保守と革新)とのダイナミズムが存在する。
三を基本の数(要素)となす
二元相対(黒と白、善と悪のような二元論)ではなく、基本を三においた理論構成。
点は一、二点間を結ぶと線、もう一つ点があれば、三角形。
安定を形にする最低限の形は、三角形 △型が基本。
三角錐=三角形が4面と頂点が4点
真実は、常に対極/反対の要素を含む。
それなしの真実は無い。
理論においても、実践においても。
対極の要素を含みこんだものでなければ、すべては嘘になる。
統合の現れとしての創発
創造とは、既に存在する物事を、新しいカタチでつなぎ合わせること、結びつけ、組み合わせること。
それは、統合である。
新たな要素が加わることにより変わること、変化すること、
創造、変化、創発― それらを統合の一つの現われであると考える。
興味を持った一つ一つのことに集中していけば、そのときは散らばっている点のような別々の存在が、将来には繋がりあって素晴らしいひとつの大きなものになる。
スティーブ・ジョブス
気づきの弁証法
気づきの弁証法― 終わりのない理解のプロセスこそがArt of Awarenessの本体であり、それは、以下の「対立するものの統合」を内実とする。
- 禅とヴィパッサナー
- 小乗仏教(ヴィパッサナー)と大乗仏教(禅、浄土)
- 臨済禅と曹洞禅― 禅のなかでの統合
- クリシュナムルティと仏教
- 禅と内観(自力と他力、禅と浄土教)
- キリスト教と仏教(祈りと瞑想)との統合
- 瞑想とボディワーク(意識と身体)との統合
- 気づき系ボディワークと活元(自働運動)系ボディワーク
- 気づき系の心身技法と丹田系の心身技法― ヴィパッサナーと臨済禅
- 刀禅とフェルデンクライスなど― ボディワーク内での統合
- 形意拳・太極拳・新陰流― 刀禅のなかでの統合
- 超越主義(瞑想宗教)・真我(独我)論と相対主義・他者論
- 瞑想宗教と科学― 真・善・美の統合
- 瞑想宗教と進化生物学
- 瞑想宗教と芸術
具体的実践に関する、技法レベルの統合については、以下のページを参照のこと。
実践前の理解