統合的アプローチ

自身のこれまでの人生― 修行経歴を振り返ると、それは互いに対立し否定し合う、理論と技法との戦場でした。

ある教え/方法論には、それと対立し否定する(宿敵とも云える)教え/方法論が存在し、そのそれぞれのなかにも、より細かなレベルでの考え方の相違と諸々の感情に根ざした膠着した諸問題が存在しており…と、より小さな方向にも、より大きな方向にも、無限の対立があるなかでの試行であり探求でした。

それら敵対し否定しあう教えの双方に触れ、実際にそれらを習得していくなかで、単なる平面的/二次元的な批判と攻撃に終わることなしに価値ある学びを得るため、何が必要なのか、それらを見渡せる視座をどのように確立するのか、との問いは常なるものとしてありました。

ここに書くのは、その問いに対する私なりの答え― 平面的/二次元的な対立に終わらないための「思考(考え方)のツール」のひとつの提案であり、同時に「修行法(訓練法・錬功)デザインの、ひとつの原理」である、とも言えるものです。

四項的認識

1.

ここに、相対・対立するA・Bの二項を考えます。

それは、たとえば、

A=重さ B=軽さ
A=伸張(遠心性) B=収縮・圧縮(求心性)
A=丸め(前屈) B=反り(後屈)
A=分離(対象化) B=一体化
A=保守 B=革新
A=理論 B=実践

など、何であっても良く、あらゆる相対立する二項を考えることができます。

この水準において、これらは概念上、互いに相手を否定しあい対立する相容れない項として存在します。

つまり、A=非Bであり、B=非Aです。

2.

次に、A・Bそれぞれに「良い」「悪い」を考えます。

この「良い/悪い」を、「上質な/劣質な」との言葉で表すこともできます。

つまり、

「良い」=「上質な」
「悪い」=「劣質な」

です。

その操作により、

・良い(上質な)A
・悪い(劣質な)A

・良い(上質な)B
・悪い(劣質な)B

の四つの項が生まれます。

縦横のニ線で十字を書き、そのそれぞれの枠にこの四項を入れます。

3.

* 話の分かりやすさを考え、ここからの説明を身体的な事象を主に使って進めます。が、これは全て精神的な事象全般にも同様に当てはめることができるものです。

たとえば、「A=丸め(前屈) B=反り(後屈)」とした場合、

「良い丸め」と「悪い丸め」、「良い反り」と「悪い反り」の四項があります。

二元相対的なレベルで、「丸め」の立場から「反り」の批判・否定が為される場合、それは「悪い反り」を見て、「悪い反り」に対するものである場合が多く、

「反り」の立場から「丸め」の批判・否定が為される場合、それは「悪い丸め」を見て、「悪い丸め」に対するものである場合が多い、というか、ほぼそうである。

しかし実際には、

「良い丸め」の正体とは、単なる「丸め」ではなく、その内容に「反り」の要素をうまく取り込んでいるものであり、
「良い反り」の正体とは、単なる「反り」ではなく、その内容に「丸め」の要素をうまく取り込んでいるものである。

つまり、言葉を変えていえば、

「良い丸め」とは、その運動・状態のなかに「丸め/反り」の双方を上質なかたちで(イイトコ取りで)取り込み・統合している在り方であり、
「悪い丸め」とは、その運動のなかに対立する「反り」の要素をうまく取り込み統合することができていない「単なる丸め/緩み/抜け/潰れ」のことであり、その逆も然りである。

そして、「良い丸め」と「良い反り」は、陰陽図で言えば、「どちらが地(背景)となり図(前景)となるか」の顕われた面の違い(反転)を除けば同じ状態を表現しており、そこに(普通に言われる意味での)相対や対立は存在していない。

4.

ここにおいて、「良い丸め」と「良い反り」は実質的に統合されてある。

それを、どのような言葉に定着させるかは別として、ある一つの(言葉によって表現しずらい)新しい状態が生まれた。

それを仮にXと名づけ、(一時)保存する。

そして、それとは別の二元相対のセットへと取り組む。

それが仮に「A=伸張(遠心性)、B=収縮・圧縮(求心性)」であった場合、探究のなかで(再び、必然的に)統合へと進む運動が起こる。

伸張/収縮(遠心性と求心性)が絶妙なバランスを取って両立している、ある独特な状態が生じる。

それを仮にYと名づける。

5.

このとき、XとYとの間で、次なるレベルの相対・対立・拮抗の運動が起こることは必然である。

結果、それらを含みこんだ、さらなる統合、あるいは概念拡張、一般化/汎用化が果たされる。

このように統合は果てしなく進んでいく。

身体のなかに発生し保たれている対立/拮抗の多さと、それを超えた統合の層の厚みが身体的な豊穣性を決めていく。

それは、自身体のなかに(水族館の水槽のように)多くの生物を飼い、多様な生態系を営ませているような感覚であるのかもしれない。

6.

以上の四項的な分析(認識)の模範演舞的な一例を古典より引く。

『論語 為政第二』
子曰、「学而不思則罔 思而不学則殆」

子曰く、「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」

学 … 人から教わること。誰かに教えてもらうこと。
思 … ひとりで思索すること。自分で考えること
罔 … 道理に通じていない。無知なさま。
殆 … 危うい。危険である。「危」に同じ。

ここでは、「学ぶ」と「思う」― 「人から教えてもらうこと」と「自分で考えること」― の二元的な対比のどちらを正解とすることもなしに、四項的な認識に導くことにより、より上位な認識が示されている。

知識をあれこれ広く学ぶだけで、自分でよくよく咀嚼し考えることをしなければ、本当の意味で、それは深まらず、本質を理解することはできない。

しかし逆に、自分の乏しい知識だけで思い巡らし思索を進めたところで、客観的な知識や情報、古典や先人の教え、歴史的知識などに学び、それを使って自分の体験を検証することをしなければ、いつのまにか独断的になり考えが凝り固まってしまい、自分の感じ方・考え方だけが正しいのだと思い込んでしまって、危ういことになる。

論語解説 「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし」

論語解説 「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」

弁証法的(対極の)統合

7.

以上のような「対立物の拮抗と、そこから生まれる上位での統合」のダイナミズムを伝統的に「弁証法」と呼ぶ。

ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の三つである。

全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。
生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。

最後に、二つがアウフヘーベン(止揚)される。

このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。
しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。
ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。 【弁証法 – Wikipedia】より

しよう【止揚】(Aufheben 高めること、保存することの意)
弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存される。
矛盾する諸契機の統合的発展。揚棄(ようき)【広辞苑 第五版】より

単なる融合・合体・統一ではなく、互いに否定しあう対立項が、その矛盾をより上位のレベルで”捨てると同時に保持する”ことによって次の段階の統合に至る。

そして、そのプロセスが果てしなく繰り返されながら、絶対的なるものへと向かう、それが世界であり、歴史である。

私たちが出会うことができる、瞑想法であれ、ボディワークであれ、武術であれ、哲学/思想であれ、科学/技術であれ、それらは歴史を持っています。

それは、既に(過去の)幾多の天才・達人たちの人生の中で繰り返し統合されてきたもの― それを、いま学び、自身の人生をかけた実践と理解の試みのなかで更に統合させていき、それが次世代へと引き継がれていく。

それぞれの多様な理論、多彩な技法が、互いに否定しあい協力しあい、絡み合い奪い合い、相互に影響を与えあいながら、歴史的時間を流れてゆく。

その流れのなかに私たちの日々の生活、理解、実践があり、そのなかに私たちは歴史的存在として生きている。

それは、衛星写真で写された大河のようです。

沢山ある河の支流を眺めれば別もののように見えるが、それら一つ一つを丁寧に源流まで辿るなら、すべてが流れ出てくる源、すべてが未だ分かれない始原点に至る。

自分自身が、いま、まさに歴史的存在として、その流れのなかにあることを実感/認識することは、日常的な感覚・スケールにおいては難しい。

river01

ボディワークも瞑想も、すべては大いなる統合へと、より複雑な組織化へと向かう。気づきの海へと注ぐ。

これから書こうとしているのは、私の人生で起こった統合の流れの話であり、それをこうして残そうとするのは、これを読むことになるかもしれない未来の児孫の更なる統合の一つの材料になると思うからです。

「私は自らの人生でここまでの統合を見た。あとは君たちが(それを一つの材料として)どこまで進むかだ」とのメッセージです。

同一のゴールに到達するために、じつにたくさんの道がある。
ラーマクリシュナ

真理に至る道は無い。
クリシュナムルティ

陰陽図を、三次元的な展開を平面に折りたたんで表示されたものと考える。
そこには数多くの異質的両極が切り結ばれた拮抗と統合の次元が重層的に存在し、螺旋階段のごとき終わりのない動的なダイナミズムが存在する。

● 参考図書
『生命のからくり』中屋敷均
保全と変革(保守と革新)

三を基本の数(要素)となす

二元相対(黒と白、善と悪のような二元論)ではなく、基本を三においた理論構成。

点は一、二点間を結ぶと線、もう一つ点があれば、三角形。
安定を形にする最低限の形は、三角形 △型が基本。
三角錐=三角形が4面と頂点が4点

真実は、常に対極/反対の要素を含む。
それなしの真実は無い。
理論においても、実践においても。
対極の要素を含みこんだものでなければ、すべては嘘になる。

創造とは、既に存在する物事を、新しいカタチでつなぎ合わせること、結びつけ、組み合わせること。
それは、統合である。
新たな要素が加わることにより変わること、変化すること、
創造、変化、創発― それらを統合の一つの現われであると考える。

興味を持った一つ一つのことに集中していけば、そのときは散らばっている点のような別々の存在が、将来には繋がりあって素晴らしいひとつの大きなものになる。 スティーブ・ジョブス

三つの実践理論/技法間の統合

実践は、瞑想、内観、ボディワークと云う、三つの技法(方法論)を柱とします。

それは、麓に登山口が三つある山(三角錐)に似ています。
各人の抱える問題に応じて登り口は選ばれます。
が、登り進めるにつれて、それらは徐々に近づき、頂上で一つになる。

そのように、三つの技法は、習熟に応じて相互に浸透を深め、最終的に一つ場所へ流れ込みます。
そのとき、瞑想・内観・ボディワークの区別はなく、それを見分けることもできません。
ひとつが全てを含み、全てがひとつとなって、三位一体で働きます。

瞑想とは現在の瞬間における自己観察であり、内観とは過去の関係性を通しての自己観察であり、ボディワークとは身体の運動感覚を主とした自己観察です。
それらを行った結果、それぞれの領域における認識の深化・転換があり、各人の抱える身体/心理的問題が解決する可能性が出てきます。

それは、自らの心身における事実・現実を、正しく認識し、理解したことによるものです。


存在そのものは分解できない「ひとつもの」として存在しています。
が、実践の行程上、ココロとカラダ― 瞑想(Meditation)とボディワーク(Movements)に分けることができます。

瞑想は、更に二つに分化し、現在の瞬間の自己の心身を見つめる「気づき系(純粋観察系)の技法」と、過去・関係性を見つめる「反応系の技法(内観を主とする)」となります。

修行の進展に従って、それら分化した技法は徐々に再統合され、最後に、はじめにあったすべてが渾然と溶け合った、分化できない「ひとつもの・融合体」に回帰し、技法としての完成を見ます。

内観(第一ステージ)は、三学で言えば、戒の修行であり、その実践によって初めて、「清らかになりたい、まっとうな人間になりたい、もうこれ以上、戒を破りたいくない」と云う主体的な心の動き(うめき・叫び)が生まれ、それが、その後の実践修行の原動力にも、戒を保って生きることの原動力にもなる。そこからはじめて仏教の修行が始まる。

その上で、定の修行に取り組める。
定の修行がある程度進んだところで再び、内観(第ニステージ)に取り組むことによって、自身の進境をはかることができる。

内観と瞑想は、左右の足、あるいは車の両輪の如きもので、双習するのが望ましい。

また、最終的に、瞑想のなかに内観は浸透し、内観のなかに瞑想は流れ込み、どちらとも言えない独特のものとなって意識の定着してゆく。

瞑想=今― 認知・知覚― 自己対宇宙(単独性・独在性)
内観=過去― 情緒・感情― 自己対他者(社会性・関係性・間主観性)

瞑想は、共時的(知覚的)な自己観察-認識の訓練であり、
内観は、通時的(歴史的)な自己観察-認識である。

(知覚された)環境(生命圏)としての自己=瞑想的な認識。
(堆積した)地層(歴史)としての自己=内観的な認識。

独我論/他者論という視点で見た場合には、瞑想は垂直的、内観は水平的である。

瞑想とボディワークは、身体性/精神性の目盛り(配分)の問題である。

● 三つのコースは、赤・緑・青の三原色である

原色(げんしょく、英: primary colors、単に primary とも)とは、混合することであらゆる種類の色を生み出せる、互いに独立な色の組み合わせのこと。互いに独立な色とは、たとえば原色が三つの場合、二つを混ぜても残る三つ目の色を作ることができないという意味である。

「気づき系(純粋観察系)」「反応系」「身体系(ボディワーク)」など、大まかに三つに分化した技法は、実践のなかで合流し、再統合され一つとなり、最終的に心身統合体としての存在そのものへの気づきへと結晶化する。”気づき”が最重要概念となる。

気づきが身体と云う回路へ向かえば舞踏となる。
気づきが思考と云う回路に流れれば哲学・思想となる。
気づきが存在することそのものの充足へ向かえば(いわゆる)瞑想になる、あるいは、ただの日向ぼっこになるのかも知れない。

そこでは、真と善と美、科学と宗教と芸術が、未だ分かれない全体として存在する。

それは、科学と芸術をつなぐもの― 自己の心身に催されるあらゆる出来事を瞬間毎に花開かせ、解きほぐしつつ進む内観認知科学の臨床(観察・実験)の現場でありつつ、同時に、即興の詩、踊り、治療、懺悔であり、神への奉納物であるような何かである。

すべてのなかで、そのものをそのものたらしめているのは”気づき”であり、気づきの実践(つまり、受容的な気づきの状態として在ること)とは、その、瞬間瞬間、生まれ続け、そして壊れ続ける不断の作品の唯一の(内的)鑑賞者として在ることである。

気づきは本源へ遡行する。
そして、再び流れ出ます。
あらゆるものへ。

統合的/全人的な実践の重要性について

なぜ、ヴィパッサナー瞑想、内観、ボディワークの統合的実践(双習)がそれほど重要なのでしょうか。

まず根源の側から語るなら、

気づきそれ自体が、そもそも(元々)全体的/統合的なものとして存在しているからです。

それは、心/身体、瞑想/ボディワーク、認知/情動系、知/情/意などと分離していない、分化する以前の、ひとかたまりの世界から流れ出ているものであるからです。

それが根本としてあります。

次に、分離した側から語るなら、

ココロの領域の開発訓練(瞑想・内観)と、カラダの領域の開発訓練(ボディワーク)、知覚・認知系の技法― この宇宙の創造者・独在者としての私へ向かうワーク(ヴィパッサナー瞑想、禅)と、認識・情動系の技法― 社会的関係性・他者の存在に眼を向けたワーク(内観)と云う、異なった領域を扱う、異質な(矛盾した)構造を持つ技法同士の双習・組み合わせ・掛け合わせは、より深い、より強烈で根源的な自己(世界)認識を与え、より先の風光を見させてくれるからです。(左右の足の歩みの如く、車の両輪の如く)
それは弁証法的な拮抗のプロセスとして存在しています。

身体系の技法(ボディワーク)に関しては、もし、その方が、一週間以上のリトリートを行なっても、特に腰も肩も凝ることなく、痛みやコリ、不快感を覚えない「恵まれたカラダ」を持っておられる方であれば、必須ではないかも知れません。

ただ言えることは、気づき-洞察モードの意識状態を存在に定着させるには、自分の身体自体が、それの受け皿となれる気づきのレベルに居なくてはならず、それができていない限り、気づき-洞察モードの意識は常に不安定で、一時的なものであり、存在(身)に定着しません。

身体の気づき-覚醒を伴わずに、安定した気づき-洞察意識は無いからです。

また、ボディワークの良い所(存在価値)は、瞑想や内観で分かったと思っていることが本当に存在に定着しているか、本当に身体で証明できるか、頭でっかちの観念優位になっていないかを、実際のカラダの動きによって、あるいは他人との手合わせによって、誤魔化しようもなく確実に点検・検証できる所にあります。

「グラウンディング」「センタリング」など精神世界ではありふれた言葉を、本当に自分の体で実証できているのかどうか。
これは、ともすれば観念的な理解・了解・独りよがりに陥りがちな私たちにとって、大きな安全装置・自己チェック機構となります。

よって、この三つは、「これ以上絞れない、三位一体、最低限の三脚である」と言えます。

統合的な実践に関する参考書として、『実践 インテグラル・ライフ-自己成長の設計図』を挙げておきます。
訳者の方の後書きから一部抜粋します。 (カッコ内は引用者による補足です)

この作品で著者たちが言おうとしていることは非常にシンプルなものです。

すなわち、人間の中には「ボディ(身体)」「マインド(理性・知性)」「スピリット(精神性・魂)」「シャドー(潜在意識・自我の影の部分)」と云う主要な4つの部分が存在しており、私たちが真に包括的・永続的な治癒と成長を実現するためには、そられ全ての領域の実践に同時並列的に取り組むことが必須となる―と云うことです。

…現在の市場には、即効的な能力開発(問題解決)を約束する無数の関連書籍や研修が存在しています。ただ、一瞥すると明らかなように、それらの大多数は、ある特定の技法や方法を紹介しながら、それこそが真の成功や成長を実現するための方法であると主張するものです。

しかし、人間とは非常に多面的・重層的な存在であり、そうした少数の方法だけを実践することだけでは、そこに真の治癒と成長を実現することは到底できません。

…そこでは、自己を完全に指導者や伝統に明け渡すのではなく、自身の欲求と状態を的確に把握しながら、多様な資源(リソース)を創造的に融合し活用していく必要があるのです。

…ただし、自らの判断に基づいて実践のあり方を構想しようとするとき、そこには往々にして、既存の権威を否定して、あらゆる「型」を拒絶しようとする安易な発想に陥る危険があります。

そうした危険を回避し、世界に存在する豊穣な伝統の恩恵を統合的に活用できるためには、多様な「型」の共存を可能とする包括的な枠組みが必要となります。(この本は)、そうした枠組みを提示するものなのです。

1.

「瞑想(禅、ヴィパッサナー)」は、取り組む価値がある技法だということ。

* 私の場合、その理解の前提として、クリシュナムルティの教えが絶対的に存在してはいる。

2.

「内観」は、これもまた、一度は経験する価値のある強烈な心理的技法だということ。

* 瞑想と内観は、組み合わせて実践する(双習・併宗)ことによって、バランスが取れ、その真の効果を発揮します。それは、右足と左足のようなもの。片足では早く進むことができないように。

* ただし、一週間以上の日数をかけて行う「集中内観」に関しては、単発で、一発勝負・短期決戦的に結果を出せる側面もある。結果を出せるとは、「問題解決を期待できる」と云う意味である。

3.

「ボディワーク(身体系の技法)」については、指導者なしに実践するなら「フェルデンクライス・メソッド」、習いに行くことが可能ならば「刀禅」、そして「胴体力」は、即効性と奥深さを備えた素晴らしい体系である。

* 私は、「刀禅」に(武術である以前に)ボディワークとしての有効性を見出しており、それはつまり、身体の歪みの調整、ブロックの解除・開放を行うための整体法としての治療的な効果を実感していると云うことです。
フェルデンクライス・メソッドの健康法・治療法としての有効性に関しては言うまでもないです。

そして、その先に、瞑想的な身体意識の深化と云うレベルがあります。

これらの技法においては、「強さ(年齢、体力、体格に関わらない本質的な力強さ)」と「正しさ(つまり、身体に良い)」と「美しさ(無駄が無い、機能的な美しさ)」が一致しており、真・善・美の三つが溶け合っているのを錬功のなかで実感できる所に魅力を感じます。

4.

それら、瞑想・内観・ボディワークを、バラバラなものとしてではなく、統合した視座のもとに組み合わせて実践することで、更なる深み・高みを目指すことができる。(単なる「足し算」ではなく、強力な「掛け算」になる)

瞑想・内観・ボディワークは、最低限必要な組み合わせで、三角錐の三つの底辺、三位一体的なものとしての実践が望ましい。

* 統合的なバランスの取れた実践なしには、腕だけが肥大化したボディビルダー(シオマネキの右腕)のようになる可能性がある。

* 知・情・意、身体性と精神性、社会性と単独性、サティとサマーディなど、幾つかの項目でバランスを見るチャート(レーダーチャート)を作ることができる。

気づきの弁証法

気づきの弁証法、終わりのない理解のプロセスこそがArt of Awarenessの本体であり、それは、以下の「対立するものの統合」をその本体とする。

臨済禅と曹洞禅 禅

禅(自力)と内観・浄土系(他力) 日本仏教

小乗(テーラワーダ)仏教・ヴィパッサナーと大乗仏教・禅 仏教

クリシュナムルティと仏教

そして(潜在的には)、キリスト教と仏教

祈り・助けを求める先の「神」は=全体(とつながっている私)=宇宙それ自体のこと。
小さき「我(われ)」が、大いなる「私」に頼み、祈る。
祈りと瞑想の統合。
自力と他力の統合。
禅と内観(浄土教)、仏教とキリスト教との統合。
悟りを超えたところに生じる祈り。

瞑想とボディワーク

気づき系ボディワークと活元(自働運動)系ボディワーク

気づき系の心身技法と丹田系の心身技法

刀禅とフェルデンクライスなど ボディワーク内での統合

形意拳・太極拳・新陰流 刀禅のなかでの統合

超越主義(瞑想宗教)・真我(独我)論と相対主義・他者論

瞑想宗教と進化生物学

瞑想宗教と科学

瞑想と芸術