集中内観を体験して 40代後半 女性

宮島で過ごした8日間は特別な時間でした。
島へ渡る舟。海から研修所へ向かう小道。沢蟹の親子。丁寧に調理された心尽くしのお料理の美味しさ。一生懸命薪で炊いてくださったお風呂のあたたかさ。
そして、自分の心との格闘。

この春、思いがけない形で失業という転機を迎え、今後の人生の見通しが立てられずにいました。
思いがけない…と言いつつも、これまでの生き方が影響している事は察しがついていました。
そのため、過去を棚卸して、今後に向けてより良い選択ができるような心構えを作りたいと思ったのが、今回の集中内観に至った動機です。

当初、「内観後には自心の素晴らしさを発見し、喜びと希望に溢れて帰るだろう」という期待がありましたが、実際には、自分の過去を調べる作業は苦痛に満ち、それにより見えてきた自分の姿は目を覆いたくなるようなものでした。
現在・過去・未来のあちこちに飛んでゆく心を過去の一点に縛り付けておくこと自体が難しかったですし、「嘘と盗み」というテーマで、これまでの自分の行動、言動、想念の嘘や盗みを調べた時には、次々と発掘される極悪非道の数々に救われ難いものを感じました。
パンドラの箱を開けてしまったようで、「因果応報が本当ならば、これからもっと悪いことが起こって当然だ」と絶望し、全身の力が抜けるような虚脱感と恐怖がありました。

一方、自分の悪を暴き出すことに多少慣れてくると、不思議なもので開き直りの感覚も生じてきました。
自供の途中で、「どうせ私は悪人ですから、さっさと逮捕してください」と言ってしまいたくなるような投げやりな気分です。
また、ある時には、過去の自分を対象化することで現在の自分と切り離し、「これは私のしてきたことだが、私そのものではない」「悪を自覚できた時点で悪を乗り越えている」など、自分を守ろうとする心も生まれてきました。
このように二重の意味で、どうしようもない自分が自覚されてくると、次第に感情を凍結するようになり、虚ろで醒めた気持にもなりました。
こうして、恐怖、開き直り、防衛、虚無の間を行ったり来たりしながら時間が過ぎてゆくことに焦りも感じていました。

「嘘と盗み」を調べた後は、相手からしていただいたことやご迷惑をおかけしたことを沢山思い出せても、それを言葉にすると嘘になっていくような違和感がありました。
嘘つきの自分が語る言葉を、もはや信用できないような気持です。
それでも語る時には、「有り難いです」「申し訳なかったです」という言葉に集約させてしまった。
本当は、「今は言葉が思いつかない、言葉にすると嘘のように思える、もう嘘をつきたくないから何も言いたくない」という表現の方が本心に添う時があった訳です。
形へのとらわれや見栄によって、内観をしながら新たな嘘を積み重ねてゆくことになりました。
思いと言葉の一見ささやかな食い違いが矛盾と混乱を招き、終わりに近づくほど内観が苦しくなっていったのが正直なところです。

本心を追求せず、常に逃げ道を探し、その場しのぎの安心や快楽を得る。逃げ道での居心地が悪くなると、また違う逃げ道を探す。
これまでの生き方のパターンが内観の中で再現されたのかもしれません。
「本当の自分探し」を旗印に、それこそが私の人生とばかり好き勝手に暮らしてきましたが、実際には自分を見つめるどころか、現実の行いから目を逸らし続けていた事実が透けて見えてしまいました。

私の考える「理想の内観」は次の通りです。
過去の自分の行動や言動をつぶさに観察し、今の自分をもって責任を引き受け、本心に照らして忠実に語ろうと努力する。
その過程で、救いようのない自分の姿を目の当たりにして絶望し、心からの懺悔をする。
その一方で、罪深い自分であっても深い愛情によって常に支えてくれた存在に気がつく。
罪と愛の落差に感謝の気持が生まれ、少しでも相手にご恩返しをしたいという気持が芽生えてくる。
結果として、生きる意味や使命が見えてくるものだと想像します。

逆に言えば、生きる意味や使命が見えてこないということは、これまでの歩みを十分に観察せず、心からの懺悔と深い絶望を潜り抜けていないことによる感謝の不足という原因が考えられます。
一言で「観察」といっても、正確な「観察」が成立するためには、対象を絞り込む集中力と、虚栄心や思い込みなど、観察者である自身の歪みを無くし、全方位(あらゆる人の立場や心)から見ることが必要だと頭ではわかります。
しかし、自分に都合の良い見方ばかりしながら数十年も生きてしまうと、実際にはとても難しい作業であることも痛感しました。

霊基さんからは、幾つかの印象的な言葉をいただきました。
中でも、「我々は、はしごの真ん中にしがみついて、落ちてゆくのを怖がっているようなものだ。一番下まで降りてしまえば地面があり、そこには不思議な安心感がある」という言葉が心に残っています。

そして、研修の最後に三浦綾子の自伝的小説『道ありき』を贈ってくださいました。
小説からは、敗戦によるアイデンティティーの危機、13年間の闘病生活、親しい人間の死などによって、はしごの一番下まで降りて絶望の地に足をつけた作者が、信仰に導かれ愛と希望に目覚めるまでの心の軌跡を、美化せず正直に告白しようとする姿勢が伝わってきました。
印象的なのは、作者が結核菌に侵された自分の背骨のレントゲン写真を見て、魂の問題は罪の意識が無いばかりに心が蝕まれていることに気付かないことを恐ろしいと思う場面です。
なお、身体のレントゲン写真であっても、一定方向からの撮影だけでは病巣が見つけられず誤診につながります。
実際に、作者はレントゲン撮影の度重なる見落としにより、本来は絶対安静が必要にもかかわらず、「神経質だ、もう少し起きて運動したら」と、真逆の処方を医師から告げられることにより、長年苦しむことになります。
身体も心も、中途半端な観察がもたらす危険を十分に知っておかなくてはいけないことも、この本が示唆してくれました。

「目に見える事実と見えない事実の観察を積み重ねた結果、考察ではなく洞察により物事の見え方が変わる瞬間がある」というお話も印象的です。
研修所は瀬戸内海に囲まれていますが、干潮時に見えていたものが満潮時には隠れて見えなくなり、同じ場所でも時間帯により全く違う風景に見えました。
また、潮の干満という目に見える現象の裏には、月や太陽の引力という宇宙の力が働いています。
「ニュートンのりんご」ではありませんが、目に見える事実の背景にある真実を洞察し、「ああ、そうだったのか」と人生の問いへの答えが見えてくる瞬間の訪れを信じていたいです。

問題解決のために臨んだ今回の内観ですが、自分の問題は想像以上に根深くて、一朝一夕に片付くものでは無かったようです。
当初の甘い期待とは違う結果に直後は落胆しましたが、終わった後からじわじわと効いてくる感覚もあります。容易に片付かない問題の中にこそ、人生の意味が内蔵されている可能性を感じ始めているからです。
内観で「心の成人式」を経験した今、ようやく人生のスタートラインに立つことができたのかもしれません。