ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

三ヶ月

残り、あと三ヶ月しか命が(時が)ないとして、私は、どのように生きるだろうか?

残された時間を、何をして(何に費やして)過ごすだろうか?

それを、リアルに、切実に、正にこれから起こることとして、時間をかけて考えてみよ。

この場合、「三ヶ月」という期間設定が重要である。

残り三日でもなく、三年でもない、

三ヶ月(90日)間で、できること、やっておきたいこと、

「まもなく迎える死の瞬間に、最も悔いの残らない時の使い方は何か」を真剣に考えてみよ。


そして、その答えが出たならば、、、

生きている今、残された時を使って、それを実際に生きてみよ。

自己直面と自己逃避

自己直面(自分との直面)

いま、ここの、この現実の、あるがままの自分(多くの場合、たいしたことのない、情けない自分)から、目を逸らし、逃げ出すことなしに、そこに留まり、それと直面して在ること。

自己逃避(自分からの逃避)

自己直面からの根本的な逃避を(果てしなく)続けること。延期を繰り返すこと。

外的情報刺激によって、何らかの行為・行動によって、身と心、時を埋め尽くすこと、
今、此処でない、もっと良い場所、もっと良い方法、もっと理想的な状況を考えることによって、身と心を一杯にし、現在の自分から目を逸らし続ける在り方。

瞑想・内観・ボディワークとは…

その、容易には止め難い(変え難い)「現在の現実の自分から逃げ出そうとする心理的/身体的癖(衝動)」を抑制し、
実現することの稀な「現在の現実の自分と直面した状態・有様」に自身を留め置くための「仕掛け」である。

それは、自身の頭の中に、知識・記憶・思考としてしか存在していない「理想(の状態)」に向かおう、それを実現しようとする心理的運動/身体的行為の一切を止め(捨て)、今、ここに間違いなく現成している「現実(の自分)」「現在(の状態)」の認識に、持てるエネルギーの全てを振り向けることを要求する。

修行の動機と、その純化

しかし、いわゆる「瞑想・内観・ボディワーク」を自己逃避の為に使うことも可能である点に注意が必要である。

つまり、自己逃避を潜在的な目的として、修行(トレーニング)に熱中することも可能であるということ。

故に、「修行(実践)の動機が何であるか」の自己認識(自己確認)が重要である。

その真の動機が「自己直面」なのか「自己逃避」なのか…

スタート地点において、動機が正しいものでないこと(自己逃避であること)は避けられないことであるかもしれない。

「今ある苦しみを無くして、楽になりたい」
「すごい体験をしたい、すごい境地を味わいたい」
「そして、このつまらない自分を超えた、すごい自分になりたい」などの自己逃避的・承認欲求充足的な欲求が原動力となっている場合も多くあるだろう。

しかし、時と共にの動機の純化が必要である。

それがない限り、どんな努力も学習も体験も、最終的に自分を救うことにはつながらず、間違った方向へと導き、内心の苦しみは(かたちを変えながらも)続くことだろう。

孤独で寂しい利己的な私

しばらく前ですが、ある(面識のない)方からメールを頂きました。

内容は「さきほど、ネットで貴方のサイトに行きあたり、文章をはじめて読ませていただいたのですが、そこに書いてあることが、自分の書き考えていることと同じ過ぎて、とても驚いて、一度話がしてみたいと思い、衝動的に連絡してしまいました」と云うものでした。

そこに、その方のブログのアドレスも記載してありましたので私も読みにいかせていただき、結果、「うーん… 確かに…」と感じました。

いま、頑張って文章を書いてみても、その方の文章に敵わない部分も多くある、と思い、そのまま紹介させていただくことにしました。
私が、ここまで書こうとしてきたのと同じことが、とても適切に表現されていると感じる箇所が沢山あります。

生き方に疑問を感じている人へ

不満・恐怖・空しさが理想を作り出す

葛藤は事実から離れる時に生まれる

『理想の自分』と『現実の自分』のギャップに苦しまないように理想を手放す

寂しさを注視して寂しさから自由になる

苦しみ・悲しみを探究する 1

苦しみ・悲しみを探究する 2

悲しみにとどまるとき、悲しみから自由になる

恐怖からの自由:観察者のいない観察が恐怖を焼き尽くす

情熱・関心が思考を観察するには不可欠である