この気づきの実践(修習)は、最高の娯楽、あるいは最後の道楽となり得るでしょう。
それは、自身の持てる知性・身体能力・精神力(気づきと一点集中の力、サティとサマーディ)のすべてを注ぎ込み、身を尽くし心を尽くして、全身全霊でおこなう挑戦・冒険・霊的遊びであり、そのなかに、人として味わえる極限の寛ぎと快感が、自己を見ることの大いなる苦悶と絶望が、そして強烈な明晰さの体験があります。
それを一度味わった後には、あらゆる外なる刺激は、二義的な意味・価値しか持たなくなるでしょう。
遊びに行きたいければ、私自身と云う(内なる)テーマパークへ行けば良いし、映画が見たければ、私自身と云う(常に生成し続ける)作品を見れば良いと知るからです。
それは、貸切の映画館で、自らの心身(因果の宇宙的な網の目)によって編み出される即興の作品の上演を見ているようなものです。
その映画の主人公は私であり、客席には、ただ一人、特権的な正客である私のみが座っています。
それは、気づきによる、生そのもの(存在そのもの)の刻々の芸術化/作品化の運動であり、その現場に立ち会わせることなのです。
生きるアート
いま、この瞬間、この行為において、気づきの状態にあるだろうか。
それが、マンネリ化した仕事であれ、はやく終わらせたい雑事であれ、冴えない体調での一日であれ。
創造性の、美の、気づきの状態にあるだろうか。
日常の生のなかの一瞬一瞬が、生きることそのものが、気づきによって巧みであるだろうか― 熟練した職人のように、常に瑞々しさを失わない子供のように。
― それのみが問われるべき問いである。
その気づきの― 創造的意識状態の― 滞在時間を少しでも引き延ばすための工夫こそが「修行・行」と呼ばれてきたものの実質であり、私たちは、ここから、その生活のなかでの修行― 生きる技(Art of Living)― 技術であり、芸術である、それ(工夫なき工夫)に取り組まなくてはならない。
無限遠点としての頂き
修行には、ゴールといえる地点が存在するのだろうか。
それとも、虹の根元にたどり着こうとするが如き、永遠の過程(階段登り)なのだろうか。
あるいは、世の中には悟った(大悟徹底に至った)人と悟ってない(迷っている)人の二種類がいるのだろうか。
『もっとも深いところで、すでに受け容れられている』 ジェフ・フォスタ
原題『The Deepest Acceptance: Radical Awakening in Ordinary Life』
風鈴頌(風鈴の詩)
渾身、口に似て虚空に掛かる
問わず、東西南北の風
一等、誰が為に般若を談ず
滴丁東了 滴東了
天童如浄
* 滴丁東了、滴丁東(ティツィントゥンリョゥン、ティツィントゥン・ていちんとうりょう、ていちんとう)は風鈴の音のオノマトペ
渾身是口、虚空を判ず
居起、東西南北の風
一等に玲瓏として己語を談ず
滴丁東了 滴丁東
道元希玄
摘水摘凍 七十七年
一機瞥転 火裡に泉を酎む
華叟宗曇
掘らぬ井の たまらぬ水に浪たちて 影も形もなき人ぞ汲む
雨は降る薪は濡れる日は暮れる赤子の泣くに瘡の痒さよ
* かさ【瘡】 皮膚病の総称。できもの。
この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草取るなり
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
そこまでも心澄まさむ まことより外には浮かぶもののなきまで
誓願
この、自身の内なる、自身そのものである、妙なる、間断なき、自身と不可分・対象化不能なる、気づき=意識(awareness)のみを信ぜよ。
一瞬一瞬、一刻も無駄に(放念・失念)することなく、瞬間瞬間に、身も心も完全に充実し、統合され、完璧に空白で透明な充実の状態に留まれよ。
そして、宇宙の展開の最善を祈れ、全托の心と共に。
この身体-脳-意識が、神の働きの器として、回路として用いられますよう、
聖化され、純化されますよう。
私が、どんどん小さくなって、もっともっと無くなって、より純粋に、神の回路として、奉仕の器として用いられますよう、願い、祈ります。
現在の瞬間の、あるがままの現実への全托・投げ出し・全受容こそが、全的な気づきであり、救いである。
祈り・誓願(方向づけ)を伴っての全托(御預け、全受容)、そして背後にある全的な気づき。
現在の自身の状況(身体の状態、浮念、思考、感情)、周りで起こること― それらすべてを必然的なものとして、聖なる結果、変えようのない事実として受け入れよ。
すべての心理的抵抗を無くし、自身と世界の展開を信ぜよ。