生のアート

この気づきの実践(修習)は、人間にとって、最高の娯楽、あるいは最後の道楽となり得るでしょう。

それは自身の持てる知力・体力・精神力、それらすべてを注ぎ込み、身を尽くし心を尽くし、全身全霊でおこなう、挑戦・冒険・霊的遊びであり、

そのなかには、人として味わえる極限の喜び・快感と自己を見ることの大いなる苦しみ・絶望、そして強烈な明晰さの体験があります。

それを一度味わった後には、あらゆる外なる刺激・娯楽は二義的な意味・価値しか持たなくなるでしょう。

遊びに行きたければ自身の内なるテーマパークへ行けば良いし、映画が見たければ“私自身”と云う作品を見れば良いと知るからです。

それは、貸切の映画館で、自らの心身(宇宙的な因果の網の目)によって編み出される即興の作品の上演を見ているようなものです。

その映画の主人公は私であり、客席には、ただ一人、特権的な正客である私が座っています。

それは、気づきによる、生そのもの(存在そのもの)の刻々の芸術化/作品化の運動であり、その現場に立ち会うことなのです。

気づき、美、創造性

いま、この瞬間、この行為において、私はアートの状態にあるだろうか?

それが、マンネリ化した仕事であれ、はやく終わらせたい雑事であれ、冴えない体調での一日であれ、関係なく。

創造性の、美の、気づきの状態にあるだろうか?

日常の生のなかの瞬間瞬間が、生きることそのものが、気づきによって巧みであるだろうか?
― 熟練した職人のように、常に瑞々しい作家のように。

それのみが問われるべき問いである。

その気づきの、創造的意識状態の滞在時間を少しでも引き延ばすための工夫こそが「修行・行」と呼ばれてきたものの実体であり、私たちは、その、生活のなかでの実地の修行、「工夫なき工夫」に取り組まなくてはならない。

井上大智老尼・只管工夫

全面的不自由と絶対的自由

* 禅、ヴィパッサナー、クリシュナムルティ、ラメッシ・ハルセカールなどを巡って、決定論と自由意思について考える。

私たちは全面的に条件づけられてある。

どんな細かな雑念の一つさえも、自分の意志で起こすことも止めることもできない。

そのなかで、如何に自由であることができるのか。絶対的に自由で在れるのか。

クリシュナムルティ この条件づけの問題

・人生は選択である/人生は運命である。

・百丈野狐(不落因果/不昧因果)

・ひじ、外に曲がらず。

人間は機械だ。
彼の行動、行為、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これら全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。
人間は自分自身では、一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない。
彼の言う事、為す事、考える事、感じる事、これらは全てただ起こるのだ。
人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。
ウスペンスキー『奇蹟を求めて』p44

自己を観察する際に(中略)自分の行為・思考・感情・言葉などは外的影響の結果生じたものであり、何一つ自己の内からは出てこないという事実に気づくだろう。
彼は自分が事実、外的刺激の影響の下で働いている自動機械だという事を理解し納得するであろう。
(中略)
完全な機械性・・・すべては起こり何一つ為すことはできない。…外からの偶発的ショックで左右される機械なのだ。   
ウスペンスキー『奇蹟を求めて』p185

人間の精神に独自のものは一切存在せず、すべてが模倣によるか、既成のものの組み合わせに過ぎない。
グルジェフ

『誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』 ラメッシ・バルセカール

『あなたは自由ですか?― 決定論の哲学』 テッド・ホンデリック

『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』 木島泰三

ダニエル・デネット『自由は進化する』- logical cypher scape

ダニエル・デネット – Wikipedia

型と自由(守破離)

エネルギ― を流すための最適化された溝としての型。

型によって自由がある。型を離れて、ではなく。

溝さらえ・癖とりとしての修習(手習い)

型と自由を対立的に考えるのではなく、型こそが自由の根拠であり、発露である。

なぜなら、そもそも型とは、過去のある時点で誰かの身の上に成立し経験されたハイレベルな自由(表現)を、この世界へ定着させる為の努力(試み)であったのだから。

規矩作法 守り尽くして破るとも
離るるとても 本を忘るな

「型破りと型無し」

型ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。

型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば、型破りになれる。

どうだ、わかるか、難しすぎるか。

結論を云えば…

型をつくるには稽古しかないんだ。

型があるから型破り、型が無ければ形無しだ。

立川談志

倫理なき悟りと、悟りなき倫理

・個人と社会(法と自由)

道徳的・倫理的な自己確立ができていない状態で、禅的な見性体験(ワンネス体験)などをした際に起こる大きな問題は、よく知られています。

私は、昨今では当たり前に語られる「倫理なき悟り」、つまり「覚醒に人格性は伴わない」と云う話は(現状を見る限り、確かにそうであるけれども)間違っていると考えています。

ただ、悟り・覚醒体験が、日常の人格性に浸透してきて、悟りが日常で人格化されるところまで定着するのが相当に難しいと云う事実があるだけだと思います。

その根拠は、「そもそも倫理や道徳、倫理性や社会的道徳の根源・発生は、あちらの世界にあり、悟りの世界から来ている」と理解しているからです。

極端な言い方ですが、ひとつになった、融合した、脱落した、などと云う体験よりも、少しでも人格的にまともになった、自分の煩悩の酷さに悩めるようになった、と云うほうが重要で、価値があると感じます。

「悟り」と云う、全てを超えた世界から切り離された道徳や倫理は干からび形骸化した拘束物になるけれども、
「倫理」と切り離され、そこに向かわない悟りも非常に危険なものであり、「悟りなき倫理」も「倫理なき悟り」も危ないと云うこと。

それらは、本来共通のところから発生しており、あちらの世界の暗示(暗在)的構造を、こちらの世界に持って帰って明示化したものが倫理規範や道徳である。

「自分が苦しくない(苦しくなくなる、楽になる)」だけではなく、
「自分の周りの人も苦しめない(苦しくなくなる、楽になる)」が実現していない(実現する方向に向かわない)修行や瞑想体験は、どこか問題を持っているのだと思います。

「究極の学習」

・自分をきちんと客観的に知る(メタ認知)
=瞑想(単独性・独在性)

・相手の気持ち、考え方、感情を知る(思いやり)
=内観(社会性・間主観性)

羽生善治

無限遠点としての頂き

修行には、ゴールといえる地点が在るのだろうか?

それとも、虹の根元にたどり着こうとするが如き、永遠の過程なのだろうか?

『もっとも深いところで、すでに受け容れられている』 ジェフ・フォスタ

原題『The Deepest Acceptance: Radical Awakening in Ordinary Life』

風鈴頌(風鈴の詩)

渾身、口に似て虚空に掛かる
問わず、東西南北の風
一等、誰が為に般若を談ず
滴丁東了 滴東了     天童如浄

* 滴丁東了、滴丁東(ティツィントゥンリョゥン、ティツィントゥン・ていちんとうりょう、ていちんとう)は風鈴の音のオノマトペ

渾身是口、虚空を判ず
居起、東西南北の風
一等に玲瓏として己語を談ず
滴丁東了 滴丁東     道元希玄


摘水摘凍 七十七年
一機瞥転 火裡に泉を酎む  華叟宗曇


掘らぬ井の たまらぬ水に浪たちて 影も形もなき人ぞ汲む

雨は降る薪は濡れる日は暮れる赤子の泣くに瘡の痒さよ
* かさ【瘡】 皮膚病の総称。できもの。

この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草取るなり 二宮尊徳

そこまでも心澄まさむ まことより外には浮かぶもののなきまで

誓願

この、自身の内なる、自身そのものである、妙なる、間断なき、自身と不可分・対象化不能なる、気づき=意識(awareness)のみを信ぜよ。

一瞬一瞬、一刻も無駄に(放念・失念)することなく、瞬間瞬間に、身も心も完全に充実し、統合され、完璧に空白で透明な充実の状態に留まれよ。

そして、宇宙の展開の最善を祈れ、全托の心と共に。

この身体-脳-意識が、神の働きの器として、回路として用いられますよう、
聖化され、純化されますよう。

私が、どんどん小さくなって、もっともっと無くなって、より純粋に、神の回路として、奉仕の器として用いられますよう、願い、祈ります。

現在の瞬間の、あるがままの現実への全托・投げ出し・全受容こそが、全的な気づきであり、救いである。

祈り・誓願(方向づけ)を伴っての全托(御預け、全受容)、そして背後にある全的な気づき。

現在の自身の状況(身体の状態、浮念、思考、感情)、周りで起こること― それらすべてを必然的なものとして、聖なる結果、変えようのない事実として受け入れよ。

すべての心理的抵抗を無くし、自身と世界の展開を信ぜよ。