生のアート

この気づきの実践(修習)は、人間にとって、最高の娯楽、あるいは最後の道楽となり得るでしょう。

それは、自身の持てる知力・体力・精神力、それらすべてを注ぎ込み、身を尽くし心を尽くし、全身全霊でおこなう挑戦・冒険・霊的遊びであり、そのなかに、人として経験できる極限の喜び・悲しみ・苦しみ・心地良さ・明晰さの体験があります。

それを一度味わった後には、あらゆる外なる刺激・娯楽は二義的な意味・価値しか持たなくなるでしょう。

遊びに行きたければ自身の内なるテーマパークへ行けば良いし、映画が見たければ『私自身』と云う作品を見れば良いと知るからです。

それは、貸切の映画館で、自らの心身(宇宙的な因果の網の目)によって編み出される即興の作品の上演を見ているようなものです。

その映画の主人公は私であり、客席には、ただ一人、特権的な正客である私が座っています。

それは、気づきによる、生そのもの(存在そのもの)の刻々の芸術化/作品化の運動であり、その現場に立ち会うことなのです。

最後の問い

いま、この瞬間、この行為において、自分はアートの状態にあるだろうか。

それがマンネリ化した仕事であれ、はやく終わらせたい雑事であれ、体調が不良であれ関係ない―

自分は、創造性の、美の、気づきの状態にあるだろうか。

日常の生のなかの瞬間瞬間が、
熟練した職人のように、常に新鮮な芸術家のように、
気づきによって巧みであるだろうか。

それのみが問われるべき問いであり、その気づきの、創造的意識状態の滞在時間を少しでも引き延ばすための工夫こそが、伝統的に「修行・行」と呼ばれてきたものの実体である。

全面的不自由と絶対的(禅的)自由

禅、ヴィパッサナー、クリシュナムルティ、ラメッシ・ハルセカールなどをめぐって、決定論・自由意思論を考える。

人生は選択である/人生は運命である。

百丈野狐(不落因果/不昧因果)

ひじ、外に曲がらず

『あなたは自由ですか?― 決定論の哲学』 テッド・ホンデリック

『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』 木島泰三

ダニエル・デネット『自由は進化する』- logical cypher scape

ダニエル・デネット – Wikipedia

クリシュナムルティ この条件づけの問題

倫理なき悟りと、悟りなき倫理

道徳的・倫理的な自己確立ができていない状態で、禅的な見性体験などをした際に起こる大きな問題は、よく言われています。

私は、昨今では当たり前に語られている「倫理なき悟り」「覚醒に人格性は伴わない」と云う話は(現状を見る限り、確かにそうであるけれども)間違っていると考えています。

ただ、悟り・覚醒体験が、日常の人格性に浸透してきて、悟りが日常で人格化されるところまで定着するのが相当に難しいことであるだけだと思います。

その根拠は、「そもそも倫理や道徳、倫理性や社会的道徳の根源・発生は、あちらの世界にあり、悟りの世界から来ている」と理解しているからです。

極端な言い方ですが、ひとつになった、融合した、脱落した、などと云う体験よりも、少しでも人格的にまともになった、自分の煩悩のひどさに悩めるようになった、と云うほうが重要で、価値があると感じています。

「悟り」と云う全てを超えた世界から切り離された道徳や倫理は干からび形骸化した拘束物になるけども、
「倫理」と切り離された、そこに向かわない悟りも非常に危険なものであり、
悟りなき倫理も、倫理なき悟りも危ないと云うこと。
それらは、本来共通のところから発生している。
あちらの世界の暗示(暗在)的構造を、こちらの世界に持って帰って明示化したものが倫理規範や道徳であると理解しています。

「自分が苦しくない(苦しくなくなる、楽になる)」だけではなく、
「自分の周りの人も苦しめない(苦しくなくなる、楽になる)」が実現していない(実現する方向に向かわない)修行や瞑想体験は、どこか問題を持っているのだと思います。

おおよそ、そのようなことを書いていきます。

無限遠点としての頂き

修行には、ゴールといえる地点が在るのだろうか?

それとも…

虹の根元

風鈴頌(風鈴の詩)

渾身、口に似て虚空に掛かる
問わず、東西南北の風
一等、誰が為に般若を談ず
滴丁東了 滴東了     天童如浄

* 滴丁東了、滴丁東(ティツィントゥンリョゥン、ティツィントゥン・ていちんとうりょう、ていちんとう)は風鈴の音のオノマトペ

渾身是口、虚空を判ず
居起、東西南北の風
一等に玲瓏として己語を談ず
滴丁東了 滴丁東     道元希玄


摘水摘凍 七十七年
一機瞥転 火裡に泉を酎む  華叟宗曇


掘らぬ井の たまらぬ水に浪たちて 影も形もなき人ぞ汲む