内観の技法

内観は、なぜこれほどまでに効くのか?

内観と云う技法(方法論)が、とにかく良く効く(効果がある)ものであるというのは経験者には明らかなことなのですが、では、「なぜ、そんなに効くのか?」と尋ねられると、スッキリと納得できるかたちで答えるのが難しいです。

最善の答えは、「やってみれば分かりますよ」であったりするのですが、確かに、こんな単純でシンプルな構造をした技法が、なぜ、これほどまでに広範で多様な効果(変化)を短期間で引き起こすのか。

そういう意味で、内観は、「効果は実証されているのだが、その作用機序は明らかではない薬」のようなものだとも言えます。

現時点の自分の力を尽くして、その限界まで、「内観の作用機序」について考えてみたいと思います。

『内観療法は、患者の病理に直接働きかけるのではなく、患者の健康な部分に働きかけ、健康な部分を成長させる療法である。

病理を治すのではなく、病理を不問にして、個人の健康的な部分を成長させることで、相対的に病理の占める比率を個人の中で縮小させ、健康的な思考や生活習慣を取り戻し、人間本来の備わった自然治癒力や免疫力を高めて、症状を軽減させたり快方に向かわせたりする療法である。

したがって、内観療法の適応は病名で分けるのではなく、個人の健康度で分けることになる。どんな病気であっても、個人として健康的な部分があるかぎり内観療法は適応である。

逆に病名に限らず、発作が起きていたり、正常な判断力が失われている急性期の場合は内観療法の適応ではない。

つまり、内観療法の適応は病名で分類するのではなく、個人の状態、健康度で分けられる。

● 自己観察から自己認識、自己理解へ

それは、まず何よりも、自分を、正確に、客観的に見る(知る)ための技術です。

自分の、より深い内面を、正確に見・知るための体系だった訓練法(技術・方法)です。

自分という人間の正体を知るための、体系だった自己調査法である。

その実践によって生じた正確な自己理解・自己認識から、これから先の、適切な生き方、身の処し方が出てきます。

● 過去の自己観察 過去の堆積物の層が、現在の自分を形作っている。

● 他者との関係性のなかでの自己理解・自己認識、自己の再発見。

● 内観は、人生のどのタイミングで行っても、「いま、この時にやって本当に良かった」と思えるし、また、常に最適なタイミングで実践のチャンスが与えられる、不思議な技法でもあります。

多くの人は、この時期、このタイミングで内観できたことに運命を感じる。
それは逆に言うと、「今できてよかった! 今しておかなければ危なかった、大変なことになっていたかも…」との(危機一髪の)思いである。

● 内観=愛の論理療法

固定化した情緒的反応パターン、ものの見方 ・ 受け取り方 ・ 感じ方 ・ 考え方のパターンの自覚と解除 ・ 更新の為に。

人の幸不幸は、意識の志向性が決める

現象を経験した瞬間に、遺伝と、これまでの生育環境・人生経験によって刻まれた自然地形の川(脳に形成されている道筋)を通って、意識・エネルギー・認識が流れる。
それが、その人の反応系-意識の志向性である。

つり橋の喩え

内観も、ヴィパッサナーも、その生まれついての指向性を変える訓練・技術

マナシカーラ

ただでさえ限られた貴重な「効果」を、自分で認めない・否定することによって無いものとしてしまう。

否定的認識が強い人の内観体験記の例(柳田鶴声さんの挙げているものから)

「内観は効き目は無い」

私は、全身の骨が痛む病気を治すために病院の紹介で来ました。ある本で、内観に合わない人もあると云う記事を見ましたが、私もそうでした。
ほとんど効き目がありませんでした。
もちろん、皆さんが言うように、木々の緑が美しく見えたり、花が優しく微笑みかけるような気分を味わいましたが、一週間、薄暗い屏風の中にいて、突然日の当たる場所に出たので、当然の結果だと思います。内観しなくても、そのようなことはあり得る事です。
また、骨の痛みも今は全く治って痛くありませんし、体も軽いのですが、しかし、必ず再発しないと云う保証もないし、治ると云う自信もありません。
したがって、私にとって内観は無駄だったと思います。
今のところ、二度とやる気はありませんが、またお世話になりたいと云う気になるかもしれませんので、よろしくお願いします。
食事は、私の好きなものが出たときは美味しくいただきました。
ありがとうございました。

気づきと洞察による認識の枠の転換(リフレーミング)

自己の心身への気づきによる洞察と解放の道。 身体的には、解放と浄化、調整

すべて「気づき-洞察志向的な技法(サイコテクノロジー・精神技術)」である。

それらはすべて認識の(枠の)転換をもたらす。リフレーミング

瞑想=気づき-洞察→(自己の心身と、それを通してみる世界に対する)認知・認識の転換

内観=懺悔-感謝→(自己の行動の動機と、それを取り巻く他者-社会との動機に関する)ものごとの認識の枠の転換(リフレーミング)

ボディワーク=開放-調整→身体と身体図式(ボディイメージ)認識の転換

どの入り口から入っても、最後には、他の二つすべての結果も含む。

reframingとは、ある枠組み(フレーム)で捉えられている物事を枠組みをはずして、違う枠組みで見ることを指す。

同じ物事でも、人によって見方や感じ方が異なり、ある角度で見たら長所になり、また短所にもなる。

例えば、試験で残り時間が15分あった場合、悲観的に考えた場合は「もう15分しかない」と思うし、また楽観的に考えた場合は「まだ15分もある」と思うであろう。

リフレーミング

「フレーム」つまり、認知の「枠組み」を変えるという意味です。

リフレーミングには「意味のリフレーミング」と「状況のリフレーミング」の二つがあります。

私たちは、この世の出来事を、そのまま見ているわけではありません。どんな出来事も、何らかの意味づけを行って見ています。

例えば、向こうから歩いてくる見知らぬ女性が笑ったとします。ちらりとこちらを見たような気がします。

Aさんはこう思います。「お、俺のことを見て笑ったぞ。俺に気があるのかな。ちょっと嬉しいかな。」

Bさんはこう思います。「何だよ、馬鹿にした笑いをしやがって。何か、今日の俺の服装はおかしかったかな?それとも、俺の顔がおかしかったのか?頭に来るなあ。」

Cさんはこう思います。「変な女性だなあ。何か、思い出し笑いでもしたのかなあ。良くわからないや。」

人間はこのように同じ現象に対して、人によって違う意味づけをします。これはあたかも、私たちが色眼鏡、しかもその人独自の色眼鏡をはめて世の中を見ているようなものです。アドラー心理学ではこれを統覚のスキーマと言います。他の心理学では認知バイアスと言ったりします。

とにかく、ある状況に対して、ある意味づけを行っているのです。

意味のリフレーミング
この、ある状況に対する意味づけを変えることを「意味のリフレーミング」と言います。

例えば、交通事故に出会ったことで、ショックを受けて、鬱々と落ち込んでいる人に、「危険な事故にあったにもかかわらず、生き残ることが出来た。」という見方や、「貴重な体験ができた。」、「今後は安全運転をする癖が身についてよかった。」などの違った側面からの意味づけを学んでもらうのです。

どんな出来事にも、考えればポジティブな側面はあるものです。そのポジティブな側面に照明を当てるのです。この意味のリフレーミングによって、ネガティブな意味づけをポジティブに変えて、気分などを改善します。

状況のリフレーミング
次は、その人が持っている色眼鏡の傾向を、違った状況に使ってみて、役に立つ場合があるということをイメージすることです。意味づけをそのままに、対象になる状況を変えるので、「状況のリフレーミング」と言います。

ある人が、どんな状況でもそれに含まれる不都合などに目がいって、批判的なあら探しの傾向があるとします。あら探し傾向の意味づけが役に立つ状況を考えるのです。

何か、危険な落とし穴があるような状況の場合、あらゆる事を批判的に見ることが、危険性を見事に察知する事につながります。この状況のリフレイミングを行うことによって、人は、自分のものの見方、意味づけ傾向を有用に使えるようになっていくのです。

さてあなたはボトルに半分飲み物が残っているときに、「もう半分しかない」と思いますか?「まだ半分もある」と思いますか?人によって見方は異なると思います。これを心理学で生かしたものがリフレーミングというものです。
同じ物事でも、人によって見方・感じ方が異なります。それは、ボトルのような例だけではなく、性格などについてもあてはまります。たとえば、何をするにも時間がかかって、特に決断するというのが苦手で優柔不断だと言われて悩んでいる人がいるとします。確かに、それも一つの見方だと思います。では、見方を変えてみましょう。何をするにも時間がかかってしまうと言うのはあせらずじっくりと物事を進める性格だとも言えませんか?すぐに決断しないというのは、慎重な性格だとも言えませんか?多少強引かもしれませんが、短所だと思っていることも見方を変えれば長所にすることができるのです。このようにある「枠組み(フレーム)」で捉えられている物事を枠組みをはずして、違う枠組みで見ることをリフレーミングと言います。
自分や身近な人を悪い方向からばかり見つめてはいませんか?柔軟な発想でリフレーミングをすることで、自分や他人とのコミュニケーションのしかたも変わってくるかもしれませんよ。

原始仏典には、このようなエピソードも記されています。

在るところに、二人の息子を持つお婆さんが住んでいました。
その二人の息子の、兄の方は日傘を売り、 そして弟の方は、雨傘を売って生計を立てていました。 そこでお婆さんは、晴れた日には、弟の雨傘が売れないと心配をし、雨の日には、兄の日傘が売れないと心配をして暮らしていたのです。

その話を聞いた釈迦は、そのお婆さんに次のようなアドバイスをしました。

お婆さん、晴れた日は、兄の日傘が売れて嬉しいと喜びなさい。 雨の日は、弟の雨傘が売れて嬉しいと喜びなさい。

それを聞いたお婆さんは大いに喜び、 それからは、毎日を笑顔で楽しく暮らすようになりました。

よく、「ポジティブ(プラス思考)」と 「ネガティブ(マイナス思考)」を説明する譬えとして、

水がちょうど半分入っているコップが目の前に置いてあるとすると、「まだ半分も水が入っている」と考えるのがプラス思考で、「もう半分しか入っていない」と考えてしまうのがマイナス思考、という話しをよく聞きます。

しかし、この場合の視点には三種類あるということに気づくでしょう。

「まだ半分も水が入っている」と観るプラス思考的な視点。
「もう半分しか入っていない」と観るマイナス思考的な視点。
そして、さらに三つ目は、ただありのままに、 「ちょうど半分の水が入っている」と観るニュートラル思考的な視点。

(内観は)自分についての事実を調べ、
それに基づいて物の見方を修正するだけですから、
鏡を見て髪を直すのと一緒です。

● 人は、他人の悪を見て苦しみ、自分の悪を認めて安らぐ 柳田鶴声

● 無い物ねだりから、有るもの探しへ

● 他人と過去は変えられない。自分と未来は変えることができる。

● 内観的真実

親子二人が別々に内観すると、それぞれが互いに100%悪いのは自分の方であったと理解・認識した場合、何が真実(客観的事実)か。

● 相手がどうかに関係なく、自分の認識(思考)を変えることで、すくなくとも自分は楽になる、救われる。
ただ、自分は楽になれるという事実。

● 生まれながら憂鬱な赤ん坊など存在しない。
否定的な思考は、最初から持ったものではなく、育っていく過程のどこかで獲得したものです。
それが学習したものであるならば、それとは異なったパターンも同じように学習して獲得することが可能なはずです。
もちろん思考パターンもスキルなので、変えるためには時間をかけた地道な練習が必要である。

● 肯定的・否定的な、物事の認識(社会を見る目)のパターンは、通常
1 その人の元々持っている資質・個性
2 生育過程での経験→親の言動・出会った出来事できまる。
基本、親が唯一のモデルとなる。
→母のスーパーの買い物のクレームのたとえ
→社員研修の内観の二人の新人のたとえ

通常、それらは、おとなになって自分では変えられない。すべての経験が、自己成就予言となる。→ファミリーカルマの話

瞑想・内観は、それをなんとか変えようという人類が編み出した(歴史的に作られた)工夫

● 記憶想起の客観構造。第3者視点。

● (世界からの世話と愛を受け)愛されて育ってきた自分を確認することで、自己評価の低さ(それ故の、劣等感/優越感、肥大化した自己イメージ防衛)と云う問題を抱えていた自己に、健全な自己像・パーソナリティ形成に必要な、健全な自己肯定感・条件づきでない自己存在承認が可能となる。

・懺悔→感謝→報恩

自分は罪深いという自覚が、許しと恵みに対する感謝(または他者に対する許し)を生み、 許しと恵みに対する感謝が愛を心に満たし、心に満たされた愛が他人に働きかける。

・相手への共感能力が、罪悪感を成立させる

他者への共感能力が、罪業感を産み出す。 共感能力――つまり、他人の心を想像したり、理解したり、自分を他人の立場に置いて考える能力が、他の動物にはない人間の大きな特徴の一つだと言われている。

● 心を映す鏡 他人を鏡として、自分の心を、そこに映して見る

● 自身のうちの闇を見つめることが、心を浄化する

闇の凝視、闇への気づきの深さに応じて、心は浄化されないまま、浄化される。 見ている闇が深いほど、光のまぶしさも増す。

● 脚下照顧 回向返照 足元を照らす 自分の立っている基盤を見る

● 前提自体からの解放

トラウマ理論との違い
「愛」がないと思って(そういう前提で)の「愛情探し」「愛の狩人」、
そこから、既に/常に、愛が与えられていたのだ、満ち渡っていたのだ、との自覚。
「たとえば水の中にいて、渇を叫ぶがごとくなり」

● 健全な自己否定と、不毛な(価値のない、徒に自己消耗的な)自己否定との違い。

健全な自尊心(セルフエスティーム)と、無くすべき自尊心(肥大化した、現実にそぐわない自己イメージ)自己防衛、傲慢さ。

● 面接者と内観研修者の関係性

・病人と看護人
・選手とコーチ
・ツアーガイドとお客
・盲者と付添人

● 弁護士抜きの裁判をする、検事が被疑者を調べるように。

誰もが、自分持ちのとても有能な弁護士を抱えて生きている。その弁護士は、自分がどんなことをしても正当化してくれる。
その弁護士を黙らせる、解雇するのが内観成功の秘訣。

● 脳の突貫工事 内観漬けにする

継続性が成功のカギを握る

● 開腹手術のたとえ。
途中でやめたくなることは想定内
途中でやめない誓いについて

● 泥水の入った水槽のたとえ。
沈殿して、見透しがきくようになるのに一日かかっても、かき乱すのは一瞬。

● 川下りの例え

長い川を船に乗って渡っていく周りの景色は見えるけども周りから見た自分は見えたことがない

● 井戸掘りの喩え 素手で井戸を掘る

内観で自分を調べるのは、素手で井戸を掘ることに似て  ようなもの。

岩だらけの岩盤を、血だらけになりながら、延々掘り続ける作業に似ていて、 そこを掘ったら、本当に水源や温泉に突き当たるのか分からない状態で、ただただひたすらに、そこ(自分の過去、他者との関係)を信じて掘り進める。 一度掘り出して、ある程度掘ってから途中で、「やっぱり、こっちの方が良いかも知れない」と掘る位置を変えたりしていては、永遠に水脈を掘り当てることにはならない。

地面とは、自分の心であり、掘り下げるのは、日常の生活では見ることの難い、自分の深い部分での正体であり、自我の本性である。

「細い井戸をたくさん掘ってみるのでなく、ひとつの井戸を深く掘り進まないと、命の水は得られない。」

● パズルのピース

あるいは、パズルに喩えれば、「それが何の絵か」と云う全体(答え)を示さず、一つ一つの断片(ピース)を並べていく作業にも(似ています)。

断片と絵 パズルのピースと図柄

一つ一つの断片的な記憶の想起と、それが一気につながって、脈絡のある理解-洞察に至る。
ゲンシュタルト図形 図-地反転。

● マラソン大会のたとえ

● 受験生の父の神社のお参り

● ヒマラヤ登山(ベースキャンプ作りと、頂上アタック)

● サイコダイビング 意識に潜る
サイコダイヴィングとしての内観 命綱

● 凍った湖を割って潜る ワカサギ釣り

● 図書館の地下の倉庫にあるヴィデオテープ再生のたとえ
記憶が無いのではなく、アクセスできない。

内観の行程・段階について

1. 愛の再確認
愛の落穂拾い・魂の宝探し(宝石拾い)としての内観。
幼児期の両親・家族からの愛情の再確認。
黄金の少年時代の再発見、発掘。
内観の第一段階としての、バランスの取れた、肯定的自己イメージの確立。
心理的安定、基礎作り。

2. 自己との和解
過去との和解、自分の生まれた境遇・親・環境・身体的状態との和解・受容
親を許し、親から許される、ココロ(魂)の体験。

3. 社会性(他者からの視点)の確立
客観的視点(第三者的視点、相手の視点から自分(状況全体)を見る経験。
自分を離れた視点の確立。

4. 恩の感覚の確立
受けたものの大きさと、返したものの少なさの非対称の自覚。
有り難さ、恩の感覚。
報恩の思いの発生。

5. 罪の自覚 罪業感
罪業感から、悟り/救いを求める内観へ。
どこまでも汚れた、救われない自分の自覚・凝視。

そこから、宗教的行としての内観。

「公案系」の技法としての内観へ

(弥蛇の公案) 二種深信

参考ファイル: 「久松真一集」

「たった今、他ならぬ此処で、どうしてもいけなければどうするか」
「どうしてもだめならば、どうするか?」

これら5つの要素は、必ずしも時系列で生じてくるものではなく、全体が同時並列的に、渾然一体となって内観者の心に育ってくるものです。

が、もし、あえて順序を言うならば、1.の「愛情の再確認」がまずあって(それは、たいてい、父母・養育者に対する内観で起こります)、自分の中に、「基本的な自己肯定・無条件の自己存在承認・自己受容」と云う基盤ができてきます。

そのうえで、5.の「罪の自覚 罪業感」の感覚(これは、特に「嘘と盗み」というテーマで扱われる)が熾烈になっていく(あるいは、その両者が相伴って高じて来る)のが、望ましく、理想的と言えるかもしれません。

大人になる修行

内観は、大人になるための修行(訓練)である、と言えるでしょう。
子供が大人になる―
大人とは、相手の立場から物事が見えること。
自分の気持ち(モノの見え方・感じ方)とは違う、相手の気持ち(モノの見え方・感じ方)を察することができると云うこと。
たとえば、いま、私は、最高にハッピーで、ウキウキしているかも知れない。
しかし、そのウキウキした私の前に立っている相手は、まさに、いま失恋してどん底の気分を味わいながら、しかも、それを(相手に配慮して)隠しているのかも知れません。
「相手の立場に立って、物事が見え、考えることができる人」を、私たちは、人格者とか、人柄が良い、などと言うのですが、それが、今、ここで云う「大人」です。
それは、自分が主役で主人公の、自己内在的視点で描かれた映画=私の人生に出演し、リアルタイムで演じていながら、そこに登場する「ちょい役で脇役の誰か」、自分にとって何でもない彼・彼女の世界に入り、その人が主役の(その人の内在的視点から撮られた)映像を見、その内的な感情を経験し、そのストーリーのなかで脇役として登場する自分(私)が、どのようなキャラとして存在するのか、どう見えるのか、どんな奴なのかを理解する、そのような体験に似ています。
それがない限り、(ただ歳を重ねただけでは)幾つになっても、自分の感覚と感情、価値観・視点のみしか存在しない「子供」としてしか、(たとえば)親を見れない、社会に関われない、他人と親密な関係性を築いて生きていけません。
その、相手に貼り付けた、たとえば「親」という役割(ロール)を外してみると、それまで「子供」という立場・視点からしか見えていなかった「父・母」の姿が、自分と同じく、悩みも欠点も抱えた、一人の人間(人格)として、見え、理解できてきます。
そのとき、内面での成熟があり、和解があり、大人の人格同士としての新たな関係性の持ち方(会話や交流)が可能となります。

面接の心得

・面接に向けてリハーサルをしない かっこいい面接を求めない 内観は、見苦しいもの

・その時間の調べの、まとめ、要約
・調べて出てきたこと、すべて羅列して話す。
・しゃべりにくいこと、話したくないことを、あえて選んで話す。
・その時期を象徴する印象的な話を選ぶ。
・具体的なエピソード記憶(日時の刻印の有るもの)のみ。→面接者に、その場の映像が思い浮かぶような

● まずは、数を調べる。一つでも多くの具体的記憶を思い出す。

・すべてのパズルのピーズを机の上に並べる
・砂浜のビンのかけらをすべて拾い上げる
・愛の落穂拾い

まずは、すべての記憶の断片を(絵柄はわからなくとも)机の上に並べる→それが、ある臨界線を超えたとき、一気に新しい絵柄を示す(洞察・認識の転換の瞬間)

・考えるのではなく、観察する(思い出す)

「して返したこと」とは、基本的に、自分の「してあげたい、相手を喜ばせたい」との気持ちを伴う行為・行い・言葉・働きかけ。

・自身の心の動きを説明する際の「~と思います」という言い回しに気をつけること。
「でした」が望ましい。

・迷惑の説明

1、事実 2 自分の気持ち 3 相手の気持の説明

2周めの内観
・できれば、前回、掘り出せなかった記憶を探す。
・同じ出来事でも、画素数を増やす努力

・派手でインパクトのある記憶も大事だが、本当は、日常的で、当たり前になっていて、空気のように、自分にとって透明になっている「してもらったこと」の方が、絶対量的に大きい。

研修中使用する、音声資料の取り扱いについて

・規範とは考えない 真似をしない。
それぞれの内観の完成形態には、かなりの違いがあること。
聞いた他人の内観を模範的なものとして、それに自分の内観を近づけよう、真似ようとすることには大きな問題がある。

では、どこに着眼して聞くか?

・その人の懸命さ、真剣さに学ぶ。良い意味での刺激を受け、自身の内観を引き締め、奮い立たせるため。

・自分の内観で、見落としていること、調べ漏らしていることを、他者の内観によって発見する、きづくことができる。

・同じような経験に対して、自分とは異なる理解・解釈・感じ方があることを知ることができ、違う見方で物事を観るヒントが得られる、など。

ただ、模範解答をあらかじめ知ることによって、自分の本当の見調べの確立を邪魔してしまう可能性には気をつけること。
また、他者の模範的・理想的内観と、現実の自分の内観を比較し、「理想」と、自身の内観の「現実」とのギャップばかり気にすると云う(そして、内観をしないで、そのことばかりを考える)という錯誤に陥らないこと。

嘘と盗みの面接で、また嘘を重ねる可能性

面接者と研修者二人でのお芝居へ陥る可能性 、功罪がある。

物語療法としての内観

第1段階 不幸物語、あるいは武勇伝としての語り

● 我の語りとしての自我伝と、内観における語り

自伝は常に自我伝である、との言葉。
自我に心地良い物語を語ることから、自我を跳出した視点からの語りへ。
自我は、常に、無自覚的に、如何に自分が良い人間であるか、如何に深い人間であるか、イケてるか、如何に思慮深く、やさしく、良心的かをアピールしようとする。
事実(あったエピソード)のなかから、じぶんの自己イメージに都合のいい部分のみを取り出し、自伝を編み上げ、語る。しかし、それは「真実」ではない。内観における「語り」とは真実の語り。

脱・自我伝

誰もが、(内観が始まった時点で)それぞれ持ちのmy story・自分物語・自分語り(特に生育した親子関係・境遇に関して)を持っている、信じている。

まず、一旦、それを保留・棚上げして、そのストーリーから漏れている・矛盾している記憶の断片を掘り出す・探し出す。
2000の記憶のうち、自分のストーリーに都合の良い印象的な50の記憶断片で、ストーリーを紡いでるのが、事実。

2段階 物語として編集される以前の(そこからこぼれ落ちている)元事実の想起

3段階 より客観的な、新たな「物語」の編み直し、語り直し、物語の上書き、リニューアル・更新

「野家啓一の物語論」

内観は、「物語」として編集済みでない、編集前の元事実(編集以前の元-事実群)を見ていく作業である。

星と星座、コンスタレーション 星座描き、ストーリー作り

私たちは、色んな「物語」を持って、自分の過去、境遇、育った家庭、両親との関係、自分の性格、人格を説明する。 それは主に、自分を救うため、自己弁護、自己正当化、自己合理化のため行われるが、 その「物語」としての自己規定が、本当は自分を苦しめている。事実・現実を見る眼を曇らせる。

自分の本当の自由な可能性、新たな展開、これまでのパターンから飛び出ること、脱出することを妨げてい場合がある。 その「物語」は、現在世間に流通している様々な心理的理論・本などを利用し、自分の過去のエピソードの中から、そのお話に都合のいい断片的なエピソードだけを抽出し、繋げることによってできている。 「トラウマ物語」「アダルトチルドレン物語」「傷ついた子供物語」など、現代社会に於いては幾つもの通りの良い定番「物語」があり、それによって自己規定をしている

家族療法としての内観

ファミリーカルマ(家族の業)を引き継がないための方法 その切断

親が生きている間に内観できるのは、救いがあって、幸せなこと。

公案系の技法としての内観

内観、公案禅、キリスト教、クリシュナムルティ

内観法の二つのレベル

心理療法としての内観(内観療法)と、宗教的行としての内観(内観道)

「心理療法としての内観(内観療法)」においては、内観は、非常の変化の確実な、即効性のある、技法であり、一回の内観内観によって、人間は変わる、問題解決できる、と言える。

宗教的行としての内観(内観道)においては、人間は、どこまでいっても本質的には変われない、内観によって人は変らないと言える。
ただし、その「変らない、変れない」としか答えられないところに、内観の奥深さがある。

自己の存在そのものの罪業性の認識・自覚。 絶望から、救い/悟りを求める内観へ。

● 悟りと救い(自力と他力)

内観は、まず三学で言えば、戒の修行であり、内観によって初めて、清らかになりたい、もうこれ以上、戒を破りたいくない、まっとうな人間になりたい、と云う主体的な心底の心のうめき・叫びが生まれる。それが、その後、戒を守って生きることの原動力になる。
そこからはじめて、仏教の修行が始まる。
その上で、定の修行に取り組める。
定の修行がある程度進んだところで再び、内観に取り組むことによって、自身の進境をはかることができる。

内観と瞑想は、左右の足、あるいは車の両輪の如く、双習するのが望ましい。
また、最終的に、内観のなかに瞑想が流れ込み、瞑想のなかに内観は浸透し、どちらとも言えない独特のものとなって深展してゆく。

● キリスト教と浄土教 共通する基本構造(骨組み)

「阿弥陀(法蔵菩薩)の誓願、二種深信、地獄と極楽、煩悩罪重の身)に対し、「神-キリスト、天国と地獄、原罪」など、道具立ては違えども、その構造は共通する。

二種深信とは

「深心」(じんしん)と言うは、すなわちこれ深信(じんしん)の心なり。
また二種あり。
一つには決定(けつじょう)して深く、「自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もっ)し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

親鸞 『教行信証』の信巻

● 公案禅と内観 共通する基本構造(骨組み)

また、その基本的構造は、公案禅の基本的構造そのものであり、内観とは、弥陀の公案と云う唯一の公案のみで一切の人間的問題からの突破を目指す、浄土系の思想が生み出した公案禅だと言える。

この内観=弥陀の公案の素晴らしいのは、高みに上ることでなく、誰よりも深い地獄に転落することによってしか、その問題を解けない構造にある。
地獄から出て天国に上るのではなく、地獄の底の床板に這いつくばったとき、地獄そのものが地獄のままに衝天する、その構造にある。

しかし、その神秘主義的パラドックス自体が、禅、キリスト教神秘主義などと通底する逆説構造の
純化されたものである。

・久松真一の基本的公案

「たった今ほかならぬここで、どうしてもいけなければどうするか」
「どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか? ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。」 『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191)」

久松真一集

● 内観の未来 (来たるべき内観)

内観のテーマ一覧

・三項目(してもらった、して返した、迷惑かけた)

・嘘と盗み

・五戒

・酒・薬物、ギャンブルなど、依存症をテーマとして

・宗教心の目覚め

・愛と性

・身体(食など)に対して

・物(身の回りのもの、施設、持ち物など)に対して

・臨死内観

三項目 基本手順

面接者
ただいまの時間、どなたに対して、いつのご自分をお調べ下さいましたでしょうか。

研修者
○○に対しての、○才~○才までの(○才のときの)自分について調べました。

1-1 して頂いたことは(してもらったことは)~ 事実を詳細に調べ上げる

1-2 そのとき私は(その事に関し)○○と感じていました。自分の感情の掘り下げ
○○という気持ちで、(そのことを)受け止めていました。

1-3 そのときの相手の気持ちは○○であったろうと思います。相手の感情の掘り下げ
相手の方は、そのとき、○○と感じていただろうと思います。

2-1 して返したことは(お返ししたことは)~

2-2 そのとき私は、○○の気持ちで、(そのことを)していました。

2-3 そのときの相手の方の気持ちは、○○であったろうと思います。
相手の方は、そのとき、○○と感じていただろうと思います。

3-1 迷惑をかけたことは(特に相手を傷つけたこと、悲しませたこと、苦しませたこと、申し訳なく思うことは)~

3-2 そのとき私は、○○の気持ちで、(そのことを)していました。

3-3 そのときの相手の方の気持ちは、○○であったろうと思います。
相手の方は、そのとき、○○と感じていただろうと思います。

すべて話し終えたら、最後に「以上です。」と締めくくる。


過去全体に3つの絞込をかける
・PCのソート(絞込)機能

過去全体→対象(人・人物)のしぼり→時間的(時期)しぼり→3項目という絞り
スポットライト、サマーディ、

* 三項目は別々の出来事だという説明

● 調べる意味

・ねじれたバネの修正
・櫛のたとえ(戦後のたとえ)
・認識の歪み 非対称性
・ある和尚さんの話し(弁当のおかず)
・否定的感情を伴う記憶は残りやすい
・めったにないことの記憶は残りやすい

してもらったこと→してもらえなかったこと
迷惑かけたこと→迷惑かけられたこと
になりやすい。

● 調べ方(アドバイス)

・してもらったことが何も思いつかない、無いと感じる場合

仮に、その時期に、対象としている相手(母・父など)が死んでしまっていたとしたら、そこから先に自分の人生・日々の生活が、どのように変わってしまっていたかを考える。その差が、してもらっていたこと。→お母さんが死んだ男の子の部屋のたとえ→父がいつも仕事でいなかったので、に何もしてもらっていない、の男の子のたとえ

・陰(影)の部分ではなく、陽の部分、明るい光が当たっている、健康的な部分を探す。そちらに光を当てる ポジ/ネガ

・役割(ロール)をはずして、その人を見る。

自分にとっては母という役割。父にとっては伴侶・恋人。姑からしたら嫁、職場では勤め人。
それらの役割を外して、ひとりの、ある年齢の、色々な人間的問題を持った一人の人間が、自分に何をしてくれたか、を観る。

自分お相手に対する感情・イメージを外して、事実のみを観る。

・自分が生まれたときに親の年齢を超えてると内観しやすい。入れ替えが行いやすい。

・出来事がたくさん思い出せないからダメ(うまくいってない)ではなく、制限時間内に、他のことに頭を費やさず、そのテーマだけを懸命に調べている事が大事。それさえしていれば、あとは時間の問題。徐々に集中力は上がっていく。

・内観に、こうある「べき」は、ない。理想像に合わせた内観をしない
事実、どうであったか、
そして、今、自分は事実、どのように感じているかを脚色なしに認め、述べる。

あるべき(理想)とあるがまま(現実)なしに、端的に事実を調べ、伝える練習。

・母に対して 無給の家政婦のような扱い

嘘と盗み

面接者 この時間、どういうことをお調べ下さいましたでしょうか。
研修者 ○才~○才までの(○才のときの)嘘と盗みについて調べました。

1-1 嘘には~ これこれ、こういう事がありました。

1-2 そのとき、私は、○○の気持ちで(思いで)、その嘘をついていました。
(そのときの私の気持ちは、○○と云うものでした。)

1-3 そのときの相手の方の気持ちは、○○であったろうと思います。
(相手の方は、そのとき、○○と感じていただろうと思います。)

2-1 盗みは~ これこれ、こういう事がありました。

2-2 そのとき、私は、○○の気持ちで(思いで)、その盗みをしていました。
(そのときの私の気持ちは、○○と云うものでした。)

2-3 そのときの相手の方の気持ちは、○○であったろうと思います。
(相手の方は、そのとき、○○と感じていただろうと思います。)

※ 身・口・意(しん・く・い)の三業にわたって自分を調べる。
1 身-身体的行為、行動としての 嘘・盗み。
2 口-言葉による 嘘・盗み。
3 意-思い、考え、感情による 嘘・盗み。

全て話し終えたら、最後に「以上です」と締めくくる。


● 嘘と盗みの調べ方

1 事実を具体的に 警察の取り調べ表のように
2 自分の心、それをした動機を調べる、掘り下げる。たぐり寄せる。
根本的な動機は限られている。

1 (不正なことをしてでも、とにかく)快・快感が味わいたい。(代償を払わずに、快感・満足を味わいたい)
2 愛 寂しさを埋めたい
3 怒り
4 承認欲求

3相手の気持
視点の入換え
相手からの視点、世間様の視点

その出来事の客観化・相対化

● 嘘と盗みの説明

・反省をしいるものではないこと。
・守秘義務

面接で、すべてを話す必要はないこと 、その強制はない
選ぶなら、話したくないものを選んで話す、何故話したくないかといえば、認めてないから・否認してるから、受容がないから。

・自分の嘘と盗みを反省しろという話ではない。ただ、事実を具体的に漏らさず・遍く客観的に調べ、それを、そのまま自己弁護などなく淡々と報告することのみを求められている。

・言動(実際行為と言葉)からはじめ、徐々に、心まで見ていく。
具体的事実から、抽象的な洞察へ

「盗み」には、物・金だけではなく、時間・盗み読み・情報・真心・人生・未来・手間、良心・好意など、色々ある。そのすべてを調べること。


嘘と盗み-個別

・ 自分の利益のため(自分の欲望を満たすため)

・ 自分をよく見せるため

1. 騙す、偽る、誤魔化す、裏切る

2. 自己正当化、言い訳

3. 見栄、虚飾、知ったかぶり

4. 開き直り、逆ギレ、逆恨み、八つ当たり

5. 陰口、告げ口(離間語、両舌)

盗み

1. 物→ 万引き、拾い物、学校や会社の備品の私物化、など

2. お金
→ 他人・社会から→ 正当な使用料を払わない(タダ乗り、おつりの誤魔化し、税金、社会保障、など)
→ 会社から→ 給与(就業中の私用、さぼり、私的なメール・用事、など)
→ 親・身内から→ 学費・習い事(授業サボる、代返、教材の扱い、など)

3. 情報→ 盗み見、盜み聞き、カンニング、違法ダウンロード、など

4. 時間→ 遅刻、長電話、グチを聞かす、など、他人の時間を盗む行為

5. 心(気持ち)→ 人の好意・善意などを利用する・もてあそぶ、など

* 未発の盗み(内心における盗み)