受容的アプローチ

気づきとは何か?

私たちの通常の言葉使いにおいて、「意識している(意識されている)」と「気づいている」の違いは何だろうか?

たとえば、いま、任意の音が「聞こえている(意識下にある)」のと、その音に「気づいている」との違いはどこにあるのだろうか?

ここでは、意識(Consciousness)を、「起きて(目が覚め、覚醒して)おり、自分の置かれている環境(音、景色などの周囲の状況)や心身(身体感覚、自分の思考・感情・欲求など)を認識できている状態にあること」と考えます。

それを一階層目の意識(認識)としたとき、気づき(awareness)とは、見ていること自体を見、聞いていること自体を聞き、考えていること自体を考え、意識(認識)していること自体を意識(認識)している再帰的(recursive)な意識、二階層目の意識(認識)が明確に成立している状態である、と言うことができます。

それは、自身の認識過程自体を自覚的に認識している、内在的/内省的、かつ退却的で離脱的な「メタ意識」です。

あるいは、こうも言えます。

「意識」において、指向性の矢は、対象の(認識される)側へと向かっている。

「気づき」において、それは、認識対象へ向かうと同時に認識している主体の側へも向かう、双方向的なものとして機能している。

スマホのカメラで喩えるならば、それは対象を写すと同時に撮影者である自分自身も写され、それが同じ画像のなかで分離できないかたちで融合している特殊なモードのようなものです。

気づきの光

気づきは光に似ている

光源の強さ(量)は、それぞれ違い(個体差があり)、限られている。

しかし、時間をかけた訓練によって増強させることはできる。

絞りを開けば、全体を照らす。
が、光は薄まり、弱く(暗く)なる。

絞れば、認識できる範囲は狭められる。
周辺は暗転し、認識の対象外となる。
が、そのスポットの中に入った領域には眩いばかりの光が注がれ、クリアに認識される。

それは、視覚の中心視野と周辺視野の関係にも似ており、

鍛えれば増強されるという点において、筋肉(筋トレ)にも似ている。

光が射せば、闇は消える。

ハッキリと照らし見ることができれば、見えないが故に、恐れ、怖がり、混迷していた事実誤認の状態は終わり、事実が(白日の下)晒され、明らかとなる。

闇(見えなさ、見えてなさ)を無くすためにできることは光をもたらすことのみである。

その光の強さに耐えられるよう脳を訓練すること。

眼が眩んでしまわないよう徐々に慣らしていくことこそが気づきの修行であり、

それは、そもそも遍在し充溢してある気づきを脳が感受・認識できるよう調整(チューニング)するための訓練である。

自身のなかの闇を見ること、見続けること、それ自体が浄化をもたらす。

「どうしたら(自分は)変われるか、どうしたら(自分の中の)この汚れを拭えるか」ではなく、自分の中の闇、汚濁を観察し続ける視線そのものが光であり、その照明により闇は闇として深まり、その深さによって光は眩さを強める。

そこに浄化されることが不可能なままの浄化があり、汚濁のなかでの救いがある。

それは地獄を離れて極楽に至ることではなく、地獄が地獄のまま昇天すること、地獄の底に光が射すことに他ならない。

光の存在によって闇はその深さを増し、闇の深さによって光はその輝きを増す。

気づきの海

宇宙があり、地球があり、社会があり、人間が沢山居て、そのなかに一つ、私の肉体があって、その頭部で脳がはたらいた、そのキラメキの断片が「気づき」である― と云う訳ではない。

気づきのなかに世界は存在する。

気づきこそが、私たちの世界を成立/存在させ、瞬間瞬間、維持している。

私たちは、気づきの海のなかに生きている。

気づきが、通身に行き渡り、存在に浸透し、すべてを満たす。

私たちは、気づきの海のなかに揺蕩うて在る。

Passive(受容的)と云う言葉

passive (⇔active)

受動的な、受け身の 抵抗しない、いいなりの、従順な 参加しない、活動的でない

* 修行感覚的には、passiveの反対語は、activeというより、操作的(operationally)

* passiveの語源はpati(苦しむ)に由来する。原義は「苦しみに耐える」 passi, pati, path = suffer (苦痛に耐える) 語根「passi, pati, path」で、情熱(passion)と受動態(passive) は同じ「降り掛かるもの」という言葉に由来する。

* 甘受する(甘んじて受ける)という日本語も感覚的には似ている。

acceptance
〔招待の〕受諾、承諾
〔贈られたものの〕受け取り、受納
〔現実などの〕受容、受け入れ
〔つらいことの〕忍従、黙認

受容的な気づき

厳密に言うならば、受容的でない気づきなど存在しない。
気づきそのものが、そもそも、その本質において受容性と云う質を含んでいる。

感じる(感受する)という事態そのものにおいて― その後、不快なものは拒絶し、快いものは掴むという反応が継起する以前に― (常に/既に)受容は成立しており、そこに受容の原初性の根拠がある。


いま、現に存在する事実に対する受容的な気づきが全てである。

そのことが真に理解されるとき、他の物事への興味関心は薄れてしまう。

生きているなかで出会う様々な悩み・痛み・苦しみ― それらから逃げ離れようとすることなく、今ある状態から別の(もっと良い)状態へ、此処(ここ)から彼処(あそこ)へ、移ろう・至ろう・変えようとする心の根深い傾向性(習癖)に惑わされることなく、いま・ここにある(身体/心理的な)事実に留まり、それに直に触れ、感じ、味わい尽くすこと。
その営為(行為/無行為)が、すべてを変えてしまう。

気づきが、弱く、遅く、滞っているとき、肉体的にも、心理的にも、あらゆるものごとが問題となり、苦しみを生み出します。
そして、問題の解決(方法)が、思考と感情の動きのなかで探し求められる。

気づきが、強く、速く、流れているとき、生きることは滑らかで自由である。
生起する内外の出来事のすべては、受容的な気づきによって、見られ、味合われ、解消されていく。

明晰な気づきと全面的な受け入れ― 能動性と受容性の双方が、その極みにおいてバランスしている状態が必要である。

受容的な気づきが熟すとき、それは問題そのものを花開かせ、問題を生み出し維持してきた、「問題の構造そのもの」の理解・洞察へと導く。

その理解が、独特な仕方で、問題を無効化(問題でなく)していく。

そのとき、問題は、即、答えである。

否定から受容へ

ここでは、無くせない苦しみの一つの例として、「むなしさ、満たされなさ、空虚感」の問題を取り上げます。

* これは、不安によるパニック、恐れ、寂しさ、怒り、認められたさ、慢性的で治療法のない身体の痛みなど、あらゆる無くせない苦しみに共通して言えることです。

何をしても本質的な部分で無くならない、常につきまとう自分のなかの空虚感。

人や物、経験によって一時的に誤魔化せたように見えても、時間が経つと再び立ち現れてくる、自分の中に空いた穴、何かが欠けたような、満たされなさの、物足りなさの感じ。

それらを感じたとき、私たちは、「自分には充実感が無い、何かが足りない。どうすれば、この感覚を免れ、一時的ではない(終わらない)充実感を手に入れられるだろう」と考え、思いつく限りの、あらゆることをします。

趣味・娯楽への熱中、刺激を求めての行動・活動、社会的な成功・達成、認められること、充実した人間関係…

そのなかには、瞑想や修行、精神世界的な諸々も含まれるでしょう。

それによって、むなしさという問題が解消するなら、それで良いのですが、しかし、それが貴方にとって無くならない問題であるならば、まもなく、再び、それはぶり返してきます。

上記の普通の対処法― それは、むなしさから充実へ、今、現にある、あるがままの事実から、あるべき理想(こうありたいもの)へと至ろう、離れよう、逃げようとする心理的な動きであると言えます。

しかし、おそらく、そのやりかたでは、いま問題となっている、無くせない悩み・痛み・苦しみを扱うことができません。

では、どうしたらいいのでしょう。
どうすることができるのでしょうか。


残されたやれることは、ただ一つのみです。

もし、いま、むなしさ、満たされなさ、空虚感が存在するなら、その対極である満たされた充実感を求め、そこに至ろうとする内的/外的行為を一切やめて、対極なしのむなしさ、満たされなさ、空虚感の実感に留まること。

いま、此処に、現に/既に存在する、全面的なむなしさ、空虚感の感覚、その事実を認め、そこに在る、それであることです。

空っぽさと充実感は、実際には対極の概念ではなく、いま、この満たされなさの紛れもない実感によって、自らの存在が充満し、一杯であるという事実を認め、そこに留まり、感じ、味わい切ることです。

問題の感覚に留まること

唯一なすべきことは、

これまでやってきた、あらゆる気紛らわせ・時間つぶし・何かやること、
時間を/頭を雑事で埋めること(読書、瞑想、外出、情報収集など)を止め、
あらゆる苦しみ、うんざりさ、問題の感覚から逃げることを止め、

そして、とにかく、苦しくとも、できる限り何もせず、
自分=問題の感覚=苦しさ、行きづまり感、ウンザリさ、落ち着けなさ、不安、恐怖、どうしようもなさ、挫折感、劣等感、自分から逃げ出したさ、みじめさ、さびしさ、認められたさ、孤独感、イライラ、ソワソワ、情けなさ、諸々の悪感情、生の味気なさ、不満足さ、満たされなさ、性的欲求不満(性的な欲求、衝動、突き上げ)、誰かに甘えたさ、寄り掛かりたさ、目をかけてもらいたさ、認めて貰いたさ、不安定さ、刺激物への興味、逃避への欲求、の感覚に留まること。

それに充分に触れ、感じていること。

それと共に在ること、そこに徹底して留まること。

その逃げ出したい衝動に留まり、それの内実を観察すること。

あるがままのもの・いま、現に存在するものを感じ、観察し、それであること、それになること。

心理的問題(悩み・痛み・苦しみ)が存在する。

そこから逃げ出さずに、それを無くそう、解消させようともせずに、そこに留まり、全面的に、それだけになること(であること)。

「問題が、即、答え」であり、「問いが、そのまま答えとなる」というかたちでの解消・解決。

本質的には、それのみ、しかない。

新たな対象に逃げ出したくなるのに注意すること、気づいていること。

逃げ出したさ、目を逸らしたさ欲求→逃避行為(何かしてしまうこと)へと繋げてしまうことなく、その不満足さ、うんざりさ、行き詰まりの実感に留まること。

何もしないことによって、虚しさの感覚・行き詰まり感、逃げ出したさをできるところまで強めること。苦しみの内圧を上げること。

自分にとって、「問題の感覚」とは具体的に何か?

そこから、どのように逃げようとするのか?

本当に、どうしてもやらなければならない(必要な)こと以外、手を出すのは止めて、全エネルギー・全時間を、この空虚・不全感(問題の感覚)との対面・直面に注ぎ込むこと。

新しい刺激物、興味対象に逃げる(気をそらせる)のではなく、この不全感、虚しさの感覚に徹底して留まること。
行為・情報・刺激物(対象)への逃避を止め、情報・刺激物を遮断し、その禁断症状に耐えること。

できる限り、一日何もせずにいること。

自分を追い込み、詰めていくこと。

まずは「何もしないで居ること」に耐えること。

その空虚に対する「接し方」「向きあい方」が重要である。
その空虚と同化するか、それとも逃げて気楽な刺激物へと気紛らせを続けるかで、それは覚醒への道か、それとも永久にそれなりの不満を抱えたままの生存の道かに分かれるのである。

今は、何かをする(修行をする)のではなく、まずとにかく、逃げることを止める。

何もしないで、自分の苦しみ、ウンザリさ、行き詰まり感、何かに逃げ出したさに留まること。

今は、何かをやってしまうと、それが又、逃げになってしまうから。

内面的空虚
快楽と恐怖の構造

「今の事実」の持つパワー

いま在る事実・現実は、心理的な不安、不快な感情、怒り、恐れ、悲しみのことも有れば、身体的不調による、痛み、吐き気、だるさのことも有るが、それらは、それ自体が強烈な力(エネルギー・威力・潜勢力)を持っている。

その、いま現に有る事実(身体的症状/心理的現象)の「意味探し・理由探し・原因探し」(過去の系列)や、「対処法探し・解決法探し」(未来の系列)に心を費やすことをしばらく止めて、その、いまある事実に、じっと留まっていれれば、その事実自体が、最も単純に、最も適切なタイミングと仕方で、自己展開、自己変貌し、その真の姿(存在意義)を顕わにする。

それは、事実自体の活元運動(自働運動)である。
気づき-洞察とは意識の活元運動(自働運動)であると言える。

それには、その事実が現れた意味・理由・原因を知る(理解する)必要も無い。
意味・理由・原因を探す心の運動自体が、この事実からの逃げ・逃避であり、それは、いま、ここの、この事実を受動的に見ることの妨げとなる。

その事実と共に居て、ひとつになる(ひとつである)ことができれば、それは起こる。

そのためには、その嫌な事実を無くしたい、そこから早く逃れたいとの思いを暫しの間でも停止させることが必要であり、私たちがやるべきことは、受容的な気づきをもって、それ(その事実)をじっくり見守り、待つことのみである。

それこそが、受容的な気づきと云う言葉によって表現されている内容・中身であり、それは、あらゆる問題に使える、万能の(対処しない)対処法である。

二つの比較

― 理想と現実、未来と現在、あるべきとあるがまま―

今の自分の状態に対して「良くない」と言う認識が生じているとき、必ず、この二つのどちらかが起こっている。

それは、

・(現在の)自分(の状態)と(過去の)自分(の状態)との比較

か、あるいは、

自分(の現実・現状)と他人(の経験・状態、あるいは聞いた話)との比較

の、どちらかである。

その比較の孕む問題を自覚・認識し、すみやかに、今の現実の自分に立ち返ること。
心理的に、対極を生み出し、対極に逃げることによって問題は解決しない。

今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、理由は一つしかない。
自分が持っていないもののことを考えているからだ。
喜びを感じられるものは、すべてあなたの手の中にあるというのに。
アントニー・デ・メロ

あるがままを愛する

世界に真の勇気はただひとつしかない。
世界をあるがままに見ることである。
そしてそれを愛することである。

ロマン・ロラン

真の自由と苦しみの終焉とは、この瞬間に感じることや経験することを何であれ、あたかも自分で全て選択したかのように生きることです。この内面に於ける今との一致が苦しみの終りなのです。

さとりへの扉、秘儀参入への扉があるとしたら、それは「いま、ここの、このつまんない私の現実、感覚、痛み、イライラ」、そこにしかない。
「私」と云う人型をした扉から入るしかない。

それは、出発地点である「ここ」に、全面的に立っている訓練であり、喩えれば、何処へ走り出すこともなく、スタート地点である「ここ」に全身全霊で立ち尽くすことができとき、一歩も歩まずゴールに到着している、と云うのにも似た、不思議な構造を持っている。

もし、一番先にゴールに到着したければ、いま居る此処(スタート地点)に全面的につっ立っていることである。

嫌悪と怒りの構造

自分の中に起こった怒り、についての怒り。
自分が怒ったこと自体を怒る、受容できない。

嫌悪していること、それ自体への嫌悪感。
ある出来事・人に嫌悪感を抱いたこと自体を嫌悪する、と云う悪循環。

一つ目の矢と二つ目の矢。

それをしている限り、今の事実・現実への受容的な気づきは不可能となる。

怒りについて怒ったら、二度怒りを抱え込むことになる。

泣き喚く赤ん坊だと思って抱きしめる。

「怒りのストーリー」を追うのを止めて、体の感覚に目を向ける。

まずは、第一段階として、怒りを対象化することができなければならない。

怒りにまきこまれず、「現象」として客観視する。

そして、それを深める中で、怒りが自分に他ならないこと、怒りの他に自分と云う別の実体は無いことに気づく。

そのことによる問題の異なった形での解決がある。

不安な考えごと

不安なこと(展開・未来予測)を考えて、怖くなってしまうとき。

そのときの、自分の身体の状態— 緊張感、脈拍のドキドキ、こわばり— などの生理的実感に意識を向け、それを味わい、それとじっくり付き合ってみる。

そうすると、それをしている間は、不安を強め継続させる思考・連想・予想が止まっているので、それ以上、不安になることは無い。何分間がじっと味わっていると、不安は徐々に鎮まってくる。

確かに、未来において、恐ろしいことは起こるかも知れない、起こらないかも知れない。
でも、今、それを予測して怖れ、不安になっているよりも、それがまだ実現していない(何も起こっていない)、平穏な「いま」を味わっているほうが良い。

もし、未来において、その「怖いこと、悪いこと」が実現したときには、それが「事実のいま」なので、そのときには、全面的に、その感情・状況を味わい、「それである」しかない。
「それであるとき」、何も考えなくとも、生体は自動的に、より良い、より自然な状態を回復する。

不安・怖れは、基本、未来予測に関わっている。
いま、この瞬間そのもののなかに不安・怖れがある訳ではない。
それは今、実現していない。

あなたがネガティブな感情を本当に経験すると、それは消えてしまいます。
恐れ、怒り、悲しみ、絶望に対して、あなたが本気で「いらっしゃい」と言い、そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることはできません。
なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語ってはいないからです。
恐れ、怒り、悲しみは、物語とつながっていなければ存在できないのです。
ガンガジ

受け入れ不可能なものを受け入れることが、この世の慈悲を受けとる最高の手段なのである。

苦しみは、痛みとその痛みを受け入れことができない、という拒絶からくる。

感情を歓迎しききること、苦しみを愛すこと。

あなたの苦しみを愛しなさい。
それに抵抗しないこと、そこから逃げないこと、
苦しいのは、あなたが逃げているからです。
それ以外ではありません。

ヘルマン・ヘッセ

「諦める」と「明らめる」

人事を尽くして尽くし切って、もうやれることがない、諦めるしかない最後の場面で、全てを手放した瞬間、全てが明らかになる、という神秘主義的パラドックス。

絶望の果ての完全お手上げのバンザイが、その刹那に、手の舞い足の踏むところ知らずの歓喜の踊りとなる逆説。

実際には多くの場合、「人事を尽くして天命を待つ」の境地に至るところまで、やれることをやり尽くさなければ、受容など起こらないものではある。


かって、若かりし頃、苦しみから開放されたい、楽になりたい、と懸命に修行していたときのことを思い出します。

いくら努力しても、今の自分の現実と、自分の目指している、苦しみから開放された、今と一つになる、これで本当に良いと思える境地とのギャップは埋められなく、本当にクタクタになり、力尽きました。(これは、当時通っていた禅宗の修行道場の摂心中のこと。そのお寺の裏山にある、斜面を切り開いた墓地でのできことでした)

それまでの何年間かの苦闘の果ての、どうしようもない行き詰まりのなかで、その時、初めて、「どう足掻こうと、自分には無理なのだ、自分には目的を達成することはできず、救われるときは来ないのだ」との絶望・あきらめの気持ちが湧いてきました。

そして、こう考えました。

「自分は、これまでずっと、そのことだけを目指して生きてきたつもりだ。いま、ここで、その宿願をあきらめたなら、明日から何をして生きていったら良いだろうか、自分には何が残るのだろうか?」と。

しばらくして、気がつきました。

「この、いま、あるままの、迷って苦しんでいる自分だけが残る」

「そして、そこから抜け出せる可能性は、もう無いのだから、自分は、いま、あるこのまま、この迷っているまま、それと共に生きていくしか無い」

そこで思いました。

「では、それは、これまでやってきた、今にある、今の事実を生きる気づきの瞑想と何が違うのだろう」

「何も違わない。ただ、これじゃない、もっと良い何かの実現を未来に期待しているかしていないかの違いしか無い」

「では、結局、修行を続けるとかやめるとか云う選択も無い。やるもやらないも、悟るも悟らないもない。
…と云うか、気づきの修行をやめる、そのやめ方がわからない」

そのようなことを思い、最終的に踵を返し、再び瞑想修行の世界に戻ったのでした。

いま、ここまでの文章を読み、「自分には、それは無理じゃないか」と感じられる方も居られるかもしれません。

確かに、「未来のいつか、あるとき、劇的な覚醒体験をして、以降、すべての悩み苦しみを感じないスゴイ人・悟った人になりたい」というのであれば、それは多くの人にとって、おそらく叶わない憧れ・実現しない夢であるに過ぎないでしょう。

しかし、仮に、それが無理だとして、「では残る生涯、どう生きていくのか、何をして暮らしていくのか」「どのように、この自分と向き合い、時を過ごしていくのか」と問うたとき、できることは、「いま、ある、等身大の、決して素晴らしくも優れてもいない、この自分の身と心と寄り添い、それに気づき、それを受容し、それを味わって生きていくしかない」― それが、一番マシな残る時間の過ごし方・在り方に違いない、と思うのです。

それは、やるかやらないかの選択の余地のない、唯一許され・残された事実です。

つまり、ここで言う「受容的な気づき」とは、努力や訓練や恩寵によって選ばれた人だけが達成し、獲得し、受用できる「これから先、手に入る素晴らしい状態・境地」などではなく、すべてのやれることに失敗し、すべての方策が尽き、希望が果てた後に残る、唯一否定できない現実-それ以外がない場所としての「今、此処にある、この自分の、この事実。この現実」であり、最後に残された、生き残りの、死に場所としての現成(現状)でしかないのです。

それは、その外に出ることも、逃げることも、変えることも、離れることもできない事実として、常に/既に、いま、此処に、息をしている、そのもののなかに、絶対的に成立しています。

寒時寒殺、熱時熱殺

寒時(かんじ)は闍黎(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、
熱時(ねつじ)は闍黎(じゃり)を熱殺(ねっさつ)す 『碧巌録』

僧「寒暑到来如何が回避せん」

厳しい寒さや激しい暑さがやってきたとき、どうしたらそれを回避することができるでしょうか。

洞山『何ぞ無寒暑の処に向かって去らざらんや』

どうして暑さや寒さの無いところへ行かないのか。

僧「如何なるかこれ無寒暑の処」

「暑さ寒さの無いところ」とは、どういう意味でしょうか。

洞山「寒時(かんじ)は闍黎(じゃり)を寒殺(かんさつ)し熱時(ねつじ)は闍黎を熱殺(ねっさつ)す」

寒ければ寒殺され、熱ければ熱殺されてあるだけだ。

* 僧が問うた「寒暑」とは、単なる暑さ寒さのことでなく、心のうちの苦悩煩悩全般を代表した表現である。

* 寒殺・熱殺の「殺」は強調語で、殺すと云う意味ではない。

格言

外なる技法を求めるな(方法を外に求めるな)。
ただ、みずからの内なる気づきのみを信じて、その道具のみを磨け。

もっとを求めるな。
いま、この瞬間の、この事実、この現象のみを味わって、留まって居れ。
それが、どんな不快な、ウンザリするものであれ。

「もっと」は、いま現在の現状・事実から、頭の中にしかない「もっといい未来・理想」へ逃げることに、過去の経験・記憶を基に作った「こういうのではない、もっと良い状態」を一瞬先の未来において実現させようとすることに他ならない。

その絶え間ない現実からの逃避の習慣に、永遠の苦しみがある。

過去と未来は頭の中にしかなく、今と現実は目の前にある。

気づきの行において、問題を作っているのは思考。
上手くいかなくて、どうしたらいいのか、もっといい方法、もっといい情報が無いかと逃げ回っているのも思考。

思考することではなく、気づくことに解決がある。
どの場合、どの瞬間においても。

どの状況においても、問題は全て、「あるべき自分像、今・ここには無い理想の自分の状態」を頭に思い描き、「現にあるもの・事実・現実の自分・状況」を見ないことにある。

その、「あるべき」を捨てて、裸になって、「現実の、情けない自分」に着地することに解決がある。

全ての問題は、「今・ここ・この、あるがまま(の自分)」に対する気づきがないこと、刻々の自由な気づきがないことにある。 それのみ。