身体の技法(身体道)

元来、私たちの肉体、そして心とは、何のためにあるのだろうか。

動物的生存の状態に立ち返って考えてみるに、それは生存のため― 生き延びるための道具としてあったに違いない。

飲み水の入った瓶を頭に乗せて長い距離を歩く。
仕留めた獲物を担いで居住地まで運ぶ。

その際、獲物や水を運ぶことが目的であり、それを運んでいる肉体は主題にはならない。

あるいは、道に迷い、懸命に考えながら、道を辿る。

その際にも、目的となるのは、無事、居住地までたどり着くことであり、考えている意識自体が主題となるわけではない。

現代という時代においては、肉体、あるいは意識そのものが主題や目的とされる。

その最たるものとして、ボディワークや瞑想がある。

しかし、それらについて考える出発点として、「そもそも、自分の身心そのものが主題・目的となること自体、普通のことではない」という認識からはじめるのは良いことだと思う。

指向性

生物は、生存のため、多くの行為(行動)をなす。

探索し、表現し、労働し、捕食し、ときに逃げ隠れ、戦う。

それら具体的な目的(対象)をもった行為の際、私たちの身体は透明になり、行為の背後に隠れたかたちで働く。


何かの対象を(視覚をもって)観察しようとする。

そのとき、自身の用いている視覚機構自体― たとえば、眼球の構造や脳の行っている視覚情報処理― について考える必要はない。

それらは総じて、透明化され、無化されていることによって充全に働く。

遂行すべき行為に向け、存在全体が統一され、まとまっており、その時々の対処すべき具体的対象(事象)のみが意識にのぼっている。

それは、心身が指向性を持って働いている姿である。


ハサミ(あるいはナイフ)を使って何かを加工する場面を考えてみよう。

そこには、

・ハサミ(ナイフ)を握る身体

・(道具としての)ハサミ、ナイフ

・(その道具によって加工される対象としての)素材

の三つがある。

通常の(うまくいっている)場面では、認識されるべきは「対象としての加工物」であり、自らの身体も、ハサミも、それを握っている手も、意識・認識される必要はない。

(たとえば)切り進めつつある紙(切り絵)に全神経を集中し細工をすすめる。

ところが、ある時点でハサミの調子が悪いと感じる。

その瞬間、認識される対象は(加工する道具である)ハサミ自体に移る。
それが焦点化され、意識の主題、認識対象となる。

しばらく観察してみて、問題はハサミ自体になく、ハサミの握り方自体がおかしいのではないか、と思い至る。

すると意識の焦点は、手(握り方)そのものに移る。

しかし、(もしかして)真の原因は、自分の座り方、姿勢そのものにあるのではないか…と探索は続く。

そのように、問題解決のため、意識は彷徨い、認識の焦点は移り、世界は姿を変えて意識に映じてゆく。

…最後に、違和感の原因が判明する。

意識は再び刃先の感覚に戻り、切り紙細工は続いていく。


私たちは日々、このような認識の自在な焦点化と前景の徹底した透明化を当たり前に生きている。

しかし、ある特定の場面(状況・対象)において、それが機能不全を起こすことがある。
それが常態化し、長期に渡って反復される場合もある。

私にとってボディワーク(あるいは瞑想)とは、その不具合に介入し解決するための手段の一つである。

そこには、この問題を解消し、機能を研ぎ澄まし磨きあげるため必要な知見と具体的方法が贅潤に集積されてある。

拡張性

カラダをつなぐ、カラダにとおす

つなぐ(繋ぐ、絆ぐ)。
とおす(徹す、透す)。

繋いで透す、徹して絆ぐ。

体幹と末梢をつなぐ。
下腿と上体をつなぐ。

足裏からつなぐ。
指先からつなぐ。

自身体の、体表面という輪郭線・境界線のなかでの統合(ひとまとまりになる)

ボディワーク的な次元

モノ(道具)とつなぐ

掌というアタッチメントを通しての道具先端までの身体/意識の拡張、身体への取り込み、呑み込み。道具との融合・統合

ヒトという生物種に顕著な特性、それを磨く作業。

ヒトは、掌と云う接続器官を使うことで、様々な道具を自分の身体(意識、イメージ)に取り込んで使うことができる。身体の拡張が行える。(杖のたとえ)

「持つもの(道具)を変えるたびに、自分の身体そのものをグニョグニョと変形させることができる。

道具を持っての稽古とは、それをいかに身体に取り込んで使えるか、の「身体の拡張」の具体的訓練である。

そのうえで、逆に自分の身体(末端部分)を、外的道具として使う、という展開もある。

自身の体表面、座面、対象との接触面を通しての融合(たとえば、馬、バイク、自動車など)も可能である。

身体論(道具論)的な次元

他者とつなぐ

他者の身体とつなぐ(他者へとおす)、他者に働きかける、物理的に支配する。

身体的接触ありから接触無しへ。

主に、身体的接触を通しての他者との統合(ひとまとまりになる)

武術的・社会関係論的な次元

外界(世界)とつなぐ

五感によって知覚されてる外的認識対象とのつなぎ。
イメージを介在させての「世界」とのつなぎ。

意識の放ちと、世界とのむすび。

意識の拡張というかたちでの外的世界との融合・統合(拡散と飲み込み、ひとつになる)

開放性の意識(世界認識)、意念、イメージ力。

瞑想的(仏教的)な次元


このプロセスは、「自己の境界線の漸進的拡張」と云う意味においては段階的である。

それは、前景となる回路の透明化(意識の開け徹し)と、先端で認識対象となる事象との直接接触感を伴う、連続的で同質の体験である。

しかし、実践的な難易度が段階的に上がるわけではない。

それは、(階層・階段と言うよりも)カメラのズームイン・アウトの操作に似ており、そこに直線的・平面的な意味で段階と言えるものはない。

漸進的アプローチ

この心身が持つ拡張性を、「統合的」という言葉でもって表すこともできる。

「統合的」と云う言葉にも、幾つもの次元がある。

身体統合(身体における統合)
身体の中(身のうち)での断片の統合。
身体の部分と部分の不調和の解消。身体の各部分の統合。身体全体としての統合。

心身統合(心身における統合)
身と心との断片化・分離の統合。
身体と意識(身と心、カラダとココロ)のチグハグさ・不調和の解消、意識と身体の統合。

存在統合(存在における統合)
自己、外界、他者(社会空間)、それらすべてを含んだ統合。
通身に行き渡る気づき、全身の協調した動き、など。

これらは別種のものではなく、緩やかに連続している。

* 参考図書
『無境界 自己成長のセラピー論』 ケン・ウィルバー著

全体性

この実践を通して目指されるのは、「ある(名づけ難い)一つの状態」である。

そこでは、身体/意識は渾然一体となり、深く結ばれて在る。

それは(以下に述べる)多くの対立項と、それらの弁証法的な統合を孕んでおり、

それらが相互に打ち消し壊し合うことがないまま同時成立する事態が成立している。


重さと軽さ(浮きと沈み)
ツリーマンモデルとチーターモデル
反り(前傾)と丸め(後傾)
腰と腹(腰腹同量)
伸長と圧縮
伸長性(開放性)と圧縮性(求心性)
動と不動(モビリティ=可動性とスタビリティ=安定性)
体幹と末梢
内と外(内外合一)
垂直と水平(鉛直と横断、正中面と側中面、立円と横円)
引張力(凝縮)と放散力(開放、放つ方向性)
充実感と感覚の無さ
分化と統合(個別部分の可動性と全体の運動連鎖)
精神(意識)と肉体(身体運動)

画像のハリセンボンに喩えれば、向かい合い対立する二つのトゲが拮抗し反発して一つのセットができる。

そのセットが、また別のセットと拮抗し、そこに外向きの拡張性の構造ができる。

そのバネ(撓み)を内在したテンセグリィティ構造、「張り」の強度と大きさ(構造体の規模、スケール)が錬功の習熟度合いの指標となる、というイメージである。

統合的アプローチ

実際の訓練として、それらを一挙に成立させることは、原理的に叶わない。

故に、個々人の持つ具体的課題・段階に応じて、ある要素を前景に引き出し、(全体性を失い偏りを生む、という誹りを覚悟のうえで)「錬功」と呼ばれる具体的訓練に結実させ、実践者の前に提出される。(逆にも言っておこう。すべての具体化された錬功は、常に必ず、偏り・マイナスの部分、つまり盲点を孕んでいる。それは、その本質上、免れえない限界である)

しかし、それらは常に、唯一目指されている「ある状態」を実現させるための方便であり、全体性を、(現在の必要に応じて)限定された立場から切り取り・切り出したものであるに過ぎない。

最終的に、すべては全体性のなかに再び溶け去り、回収されるべきものであろう。

遡行と流出

そこには、本源(根源)=原理性へ向かおうとする強い意思が存在する。

多くの具体的技術が生み出される本源(源頭)へと遡行し、始原へ辿ろうとする方向性が。

多くの対極する要素を含んだが故に、言語化し説明することが叶わない、「ある一つの身心の(運動)状態・ありさま」が有る。

そこに至るため、それを説明するための方便(ヒントのひとつ)として、多様で多彩な入口、具体化した錬功法が(断片として)創出される。

が、それらは常に、あるひとつの全体を指し示している。
その全てが、ある一つの中心点、ある曰く言い難い一点を志向している。

太陽(夕日)は、それぞれの場所から、それぞれの主体が、それぞれの気分で眺めても、常に、各人の真正面に、身体の中心に、収斂して見えるように。

全ての(多様な)錬功法はすべて、一なる全体からの分化である。

ただし、「多」も必要である。
「多」を失い、「一」のみしか残っていない体系は、その実用性(具体性)を失う。

内容の奥深さと、具体的な方法論の多様さ、引き出しの多さ、取っ掛かりの多さの両立が必要である。

求められるべきは、可能な限りの「深さ」と「分かりやすさ・入りやすさ」の両立であり、「一/多」との拮抗・矛盾的統一である。

それは同時に、あらゆる身体技能、身体作法に(適用範囲が限られること無く)開かれていることでもある。

そこは、瞑想、ボディワーク、内観、武術、踊り、治療、ヒーリング、科学、哲学など、すべてが未分化な始原点であり、あらゆる技法、技術、型、動き、洞察が、そこから産み出され続ける存在の状態=意識の次元でもある。

沢山ある河の支流にいると、それぞれの風景は違い、別の場所のように感じられる。
しかし、それら一つ一つを源流まで遡行し丁寧に辿るなら、すべてが流れ出てくる源、それらが未だ分かれない始原点に至る― そのような感覚である。

それは科学と芸術をつなぐもの― 「内省・内観認知科学(脳科学)」としての「心の科学」の観察・実験・臨床の現場でありつつも、同時に、即興の音楽、舞踏、絵画、詩であり、治療であり、懺悔であり、神への奉納物であるような何か―

自己の心身に催されるあらゆる出来事を瞬間毎に花開かせ、解消させてゆく、途方もなく繊細な技術(サイコテクノロジー)であると同時に、瞬間瞬間更新される、私の身心・知覚・思考・感情を材料として構築される、気づきによる存在の芸術であるような何か、なのです。