指向性
生物は、生存のため、多くの行為(行動)をなす。
探索し、表現し、労働し、捕食し、ときに逃げ隠れ、戦う。
それら具体的な目的(対象)をもった行為の際、私たちの身体は透明になり、行為の背後に隠れたかたちで働く。
何かの対象を(視覚をもって)観察しようとする。
そのとき、自身の用いている視覚機構自体― たとえば、眼球の構造や脳の行っている視覚情報処理― について考える必要はない。
それらは総じて、透明化され、無化されていることによって充全に働く。
遂行すべき行為に向け、存在全体が統一され、まとまっており、その時々の対処すべき具体的対象(事象)のみが意識にのぼっている。
それは、心身が指向性を持って働いている姿である。
ハサミ(あるいはナイフ)を使って何かを加工する場面を考えてみよう。
そこには、
・ハサミ(ナイフ)を握る身体
・(道具としての)ハサミ、ナイフ
・(その道具によって加工される対象としての)素材
の三つがある。
通常の(うまくいっている)場面では、認識されるべきは「対象としての加工物」であり、自らの身体も、ハサミも、それを握っている手も、意識・認識される必要はない。
(たとえば)切り進めつつある紙(切り絵)に全神経を集中し細工をすすめる。
ところが、ある時点でハサミの調子が悪いと感じる。
その瞬間、認識される対象は(加工する道具である)ハサミ自体に移る。
それが焦点化され、意識の主題、認識対象となる。
しばらく観察してみて、問題はハサミ自体になく、ハサミの握り方自体がおかしいのではないか、と思い至る。
すると意識の焦点は、手(握り方)そのものに移る。
しかし、(もしかして)真の原因は、自分の座り方、姿勢そのものにあるのではないか…と探索は続く。
そのように、問題解決のため、意識は彷徨い、認識の焦点は移り、世界は姿を変えて意識に映じてゆく。
…最後に、違和感の原因が判明する。
意識は再び刃先の感覚に戻り、切り紙細工は続いていく。
私たちは日々、このような認識の自在な焦点化と前景の徹底した透明化を当たり前に生きている。
しかし、ある特定の場面(状況・対象)において、それが機能不全を起こすことがある。
それが常態化し、長期に渡って反復される場合もある。
私にとってボディワーク(あるいは瞑想)とは、その不具合に介入し解決するための手段の一つである。
そこには、この問題を解消し、機能を研ぎ澄まし磨きあげるため必要な知見と具体的方法が贅潤に集積されてある。
拡張性
カラダをつなぐ、カラダにとおす
つなぐ(繋ぐ、絆ぐ)。
とおす(徹す、透す)。
繋いで透す、徹して絆ぐ。
体幹と末梢をつなぐ。
下腿と上体をつなぐ。
足裏からつなぐ。
指先からつなぐ。
自身体の、体表面という輪郭線・境界線のなかでの統合(ひとまとまりになる)
ボディワーク的な次元
モノ(道具)とつなぐ
掌というアタッチメントを通しての道具先端までの身体/意識の拡張、身体への取り込み、呑み込み。道具との融合・統合
ヒトという生物種に顕著な特性、それを磨く作業。
ヒトは、掌と云う接続器官を使うことで、様々な道具を自分の身体(意識、イメージ)に取り込んで使うことができる。身体の拡張が行える。(杖のたとえ)
「持つもの(道具)を変えるたびに、自分の身体そのものをグニョグニョと変形させることができる。
道具を持っての稽古とは、それをいかに身体に取り込んで使えるか、の「身体の拡張」の具体的訓練である。
そのうえで、逆に自分の身体(末端部分)を、外的道具として使う、という展開もある。
自身の体表面、座面、対象との接触面を通しての融合(たとえば、馬、バイク、自動車など)も可能である。
身体論(道具論)的な次元
他者とつなぐ
他者の身体とつなぐ(他者へとおす)、他者に働きかける、物理的に支配する。
身体的接触ありから接触無しへ。
主に、身体的接触を通しての他者との統合(ひとまとまりになる)
武術的・社会関係論的な次元
外界とつなぐ
五感によって知覚されてる外的認識対象とのつなぎ。
イメージを介在させての「世界」とのつなぎ。
意識の放ちと、世界とのむすび。
意識の拡張というかたちでの外的世界との融合・統合(拡散と飲み込み、ひとつになる)
開放性の意識(世界認識)、意念、イメージ力。
瞑想的(仏教的)な次元
このプロセスは、「自己の境界線の漸進的拡張」と云う意味においては段階的である。
それは、前景となる回路の透明化(意識の開け徹し)と、先端で認識対象となる事象との直接接触感を伴う、連続的で同質の体験である。
しかし、実践的な難易度が段階的に上がるわけではない。
それは、(階層・階段と言うよりも)カメラのズームイン・アウトの操作に似ており、直線的・平面的な意味で段階と言えるものはない。
この心身が持つ拡張性を、「統合的」という言葉でもって表すこともできる。
「統合的」と云う言葉にも、幾つもの次元がある。
身体統合(身体における統合)
身体の中(身のうち)での断片の統合。
身体の部分と部分の不調和の解消。身体の各部分の統合。身体全体としての統合。
心身統合(心身における統合)
身と心との断片化・分離の統合。
身体と意識(身と心、カラダとココロ)のチグハグさ・不調和の解消、意識と身体の統合。
存在統合(存在における統合)
自己、外界、他者(社会空間)、それらすべてを含んだ統合。
通身に行き渡る気づき、全身の協調した動き、など。
これらは別種のものではなく、緩やかに連続している。
* 参考図書
『無境界 自己成長のセラピー論』 ケン・ウィルバー著
全体性
この実践を通して目指されるのは、「ある(名づけ難い)一つの状態」である。
そこでは、身体/意識は渾然一体となり、深く結ばれて在る。
それは(以下に述べる)多くの対立項と、それらの弁証法的な統合を孕んでおり、
それらが相互に打ち消し壊し合うことがないまま同時成立する事態が成立している。
重さと軽さ(浮きと沈み)
ツリーマンモデルとチーターモデル
反り(前傾)と丸め(後傾)
腰と腹(腰腹同量)
伸長と圧縮
伸長性(開放性)と圧縮性(求心性)
動と不動(モビリティ=可動性とスタビリティ=安定性)
体幹と末梢
内と外(内外合一)
垂直と水平(鉛直と横断、正中面と側中面、立円と横円)
引張力(凝縮)と放散力(開放、放つ方向性)
充実感と感覚の無さ
分化と統合(個別部分の可動性と全体の運動連鎖)
精神(意識)と肉体(身体運動)
画像のハリセンボンに喩えれば、向かい合い対立する二つのトゲが拮抗し反発して一つのセットができる。
そのセットが、また別のセットと拮抗し、そこに外向きの拡張性の構造ができる。
そのバネ(撓み)を内在したテンセグリィティ構造、「張り」の強度と大きさ(構造体の規模、スケール)が錬功の習熟度合いの指標となる、というイメージである。
実際の訓練として、それらを一挙に成立させることは、原理的に叶わない。
故に、個々人の持つ具体的課題・段階に応じて、ある要素を前景に引き出し、(全体性を失い偏りを生む、という誹りを覚悟のうえで)「錬功」と呼ばれる具体的訓練に結実させ、実践者の前に提出される。(逆にも言っておこう。すべての具体化された錬功は、常に必ず、偏り・マイナスの部分、つまり盲点を孕んでいる。それは、その本質上、免れえない限界である)
しかし、それらは常に、唯一目指されている「ある状態」を実現させるための方便であり、全体性を、(現在の必要に応じて)限定された立場から切り取り・切り出したものであるに過ぎない。
最終的に、すべては全体性のなかに再び溶け去り、回収されるべきものであろう。
そこには、本源(根源)、原理性へと向かう強い志向性と意思が存在する。
支流ではなく、本源、源頭へと向かい、辿る意思(ベクトル)が。
多くの具体的技術の生まれる本源・始原の方向性(流出する側ではなく、源頭に辿る側)
一つのもの・状態と、数多くの(具体的)稽古法・錬功法
そこには、ある(多くの対極する要素を含んだが故に言語化・説明化できない、「ある一つの状態」、ある一つの心身の在り方、ある一つの動き、しかない。
それを説明するため、そこに至るための方便、一つの断片的なヒントとして、数多くの錬功法が存在する。
それらは、あるひとつの「全体」を指し示している。
徒手での稽古、木刀を使った稽古、サンドバッグを使った稽古、舞扇子を使った稽古、一人での稽古、二人組での稽古と、色々な入り口があり、かつ、その全てが拡散することなく、ある一つの中心点、ある曰く言い難い一点を指し示し、志向している。
たとえば、太陽(夕日)は、どの場所からも見えるけど、どこから眺めようと、ある一つの方向にしか収斂しないように。
全ての(多ある)錬功はすべて、一なる全体を含んだ状態の分化である。 (一/多)
ただし、「多」も必要である。
「多」を失い、「一」のみしか残っていない体系は、その実用性(存在理由・具体性)を失う。
内容の奥深さと、具体的な方法論の多様さ、引き出しの多さ、取っ掛かりの多さの両立が必要である。
求められるべきは、可能な限りの「深さ」と「分かりやすさ・入りやすさ」の両立であり、「一/多」との矛盾的合一である。
具体化し、枝分かれしていく多くのテクニック。
表現、方法の生まれる「本源・始原」の方向性。
流出する方ではなく、源頭に辿るほう。
遡行と流出
本源志向性を持つとは、逆に言えば(方向を変えれば)、舞踊などの身体芸術、身体作法、芸能など、適用範囲が限定されること無く、他ジャンルにも開かれていることでもある。同水準で競合しない。 (源頭への遡行から支流への流出)
それは、瞑想、ボディワーク、内観、武術、踊り、治療、ヒーリング、科学、哲学など、すべてが未分化な始原点であり、あらゆる技法、技術、型、動き、洞察が、そこから産み出され続ける存在の状態=意識の次元でもある。
沢山ある河の支流に居れば別もののように見えますが、それら一つ一つを丁寧に源流まで辿るなら、すべてが流れ出てくる源、すべてが未だ分かれない始原点に至る― そのような感覚です。
それは科学と芸術をつなぐもの― 「内省・内観認知科学(脳科学)」としての「心の科学」の観察・実験・臨床の現場でありつつも、同時に、即興の音楽、舞踏、絵画、詩であり、治療であり、懺悔であり、神への奉納物であるような何かです。
それは自己の心身に催されるあらゆる出来事を瞬間毎に花開かせ、解消させてゆく、途方もなく繊細な技術(サイコテクノロジー)でありつつも、また同時に、瞬間瞬間刻まれる、私(の心と身体、知覚と思考、感情)を材料とした、気づきによる存在の芸術(Art of Living)なのです。