身体の技法

ボディワークとは、意識・気づき・認識の深化/転換などを伴う身体的実践であり、自己観察と気づき、理解、洞察を、主に身体運動感覚、身体意識の世界で追及する。

それは、身体の操縦法を学ぶこと―
この自分に与えられた身体を、如何に(地球の)重力に適合し、進化のなかで形成された生物としての条件に沿ったかたちで、機能的に、正しく、美しく、気持ち良く、優雅に使いこなすかの探求である。

それは同時に、如何に意識を、正しく、機能的に、美しく働かせるかの、瞑想の訓練と常にセットで考えられる、即効性と奥深さを兼ね備えた、身心の総合的なチューニング法である。

構造と力

・重力との適合
・進化生物学的立場

身体の構造改革と統合を進める。

ふたつの身体認識のモデル

「地面からの反発力」と「上半身と下半身の引き離し」

ツリーマン(植物モデル)とチーター(脊椎動物モデル)

グラウンディングとは?

人間の身体と云う「超高層ビル」
単細胞からしたら、マジンガーZ
この高層ビルに、もし確実な基礎(地下の杭)がないとしたら、これほど怖いことはありません。
この「直立した人体」=「瞬間瞬間動き続ける高層建築」に、確実な基礎のくい打ちをすること。

贅沢な家つくりとは、基礎と構造体にお金をかける。外見では、なく見えない隠れた構造に投資する。それと同じこと。

萬象之中独露身 ばんしょうしちゅうどくろしん(「万象の中に独り身を露(あらわ)す」

● 構造的な力

1 骨格の構造 鉄塔 あるいはクレーン
2 筋肉の構造 伸張性収縮 テンセグリィティ
3 筋膜の構造 蜘蛛の糸、あるいは、繭

1 縦の軸 直立禅 縦に落ちる (第一の原則)
下に、後ろに、の方向性(前に、上に、ではなく)
骨盤水平 進化論的説明 背面感覚
天地に引き伸ばす
縦の位置エネルギ-を使う→重力を最大限に利用する。

2 一線 前方への軸 (第二の原則)

志向性を持った身体、志向性を持った力 (一線)
軸線と軸面
他者の存在 関係性 ものとの関係においても
新陰流の影響
三体式 天・地・人

3 拮抗する力 力を拮抗させる 弁証法

対極への力
体幹と末端。

はじめの1.2は、構造の話、3は、力の話

力の強さと細かさ(分解度、動素の細かさ)の訓練

勁と力 収縮する力と、膨張・拡散する力(張力)

勁と力の違いを明らかにするならば、先ず勁の定義と力の定義を明確にした上でなければならないが、各門派により勁の定義と力の定義は大分異なる。これらを考慮していくと煩雑になるので、およそ共通する『勁』の特徴を挙げていく。

勁の大きさと外面上の動作の大きさは一致しない。

勁を蓄えることは弓を引くかの如し。勁を発することは矢を放つかの如し。

楊式太極拳の陳炎林によれば
力は骨に由り、肩背に没して発することが出来ない
勁は筋に由り、能く発して四肢に達することが出来る

力は滞り、勁は暢やかである
力は散じ、勁は集まる
力は浮き、勁は沈む

気づき→気→剄→(物理的)力

心(意識)→→→→身体(物質)

私のなかでは、刀禅に最もよく似ている(近い位置にある)のは「肥田式強健術」ではないか、との認識があります。

1、武術的な何かであること
2、独創性(独自性)があること(単なる伝統的体系の改革者ではないこと)
3、単なる武術ではなく、坐禅・瞑想などへの志向性を持つこと
4、腹、腰、丹田など、東洋的な身体観に根ざしていること

と、共通する部分は多いと感じるのですが、ただ、大きな違いとして「肥田式は、その準備ができていない― つまり、体幹の歪み・骨盤の問題を持っている― 人が行うと、多くの場合、身体(腰)を痛める。が、刀禅の練功は、それ自体が、体幹・骨盤の調整・修正法となっている為、キチンと行えば、身体を痛める可能性は少ない、つまり安全性が高い」と云う点にあると思います。
刀禅の練功体系は、身体を痛めない、ダメにしない。
また、既にある故障・歪みなどを養生しながら錬功を行うことができる。
その点に、大きな利点・美点を感じます。

刀禅は、原理的な「正しさ」を追求する体系だと理解しております。

「正しく」勝つ、あるいは「正しく」負ける。
勝つか負けるかは、相手と自分のどちらが「正しさ」を純粋に体現しているかによる。
ただただ、「正しさ」に立ち続けること、そこに留まること、それを追求している。

私の体験

昨日2013/12/01(日)の稽古は、正式には午後2時からなのですが、徐々にみんな早く来て自修練するようになっていて、私は昨日は時間ありましたので、11時過ぎくらいに着くように電車に乗っていたところ、前日と二連続で、先生も同じ電車に乗っていて驚きました。だって電車は10分ごとくらいに運行しているので。

それで着いてすぐからマンツーマンで、これまでより細かい修正を掛けられながら一線球磨の足の運びなどのお浚いを、かなりミッチリやって、1時間半くらい過ぎたところで一旦休憩。
何となく、腕を回したりしてみたら、何だか(体幹がズッシリ・スッキリ決まった感じの強さに逆比例して)腕・肩などの末端が、スカスカに軽く、「へぇー、こりゃあ凄いですねぇ」と思わず先生に漏らして、そこから、これまで習った形意拳などの動きを試しにやってみたら、、、、何と…(自分的には未経験の)凄いことになりました。

(あとで考えると、そこまでの1時間以上かけて、かなり厳密に、自分が持っている体幹・骨盤周辺の歪みを自覚化させられて、修正させられて、かつ腰が浮き上がらないよう、持続して骨盤の水平・踵への圧迫を加えていたことによって)体幹の歪み=身体の中の回路の詰まりが一気に(一時的に)解除され、足裏から指先までの「ねじれ」と云うか「うねり」と云うか「螺旋」と云うか、何か生命力の奔流みたいなものが一気に流れ出し、腰腹がカッーと熱くなり充実し膨れ上がり、自分のからだ全体が、高熱で溶けた鉄の流れみたいになりました。
重くて、熱くて、でも流動的で、何十もの「ねじれ・うねり」が交差していて、世界が熱気を帯びて、粘っているような、暖かい油を張ったプールのなかで、グリグリ・グニュグニュと揺蕩(たゆと)っているような感じ。
これは正直、これまでの瞑想などの(変性意識の)経験が無かったら、怖くなって、パニックてたと思います。

どの動きをやっても、ずっしり重く充実していて、かつ全身がグニョグニョの捩れの複合体になっており、グサッ・ドスッと云う感じの重い切れ味、ネットリとした粘り気が気持ちよく、お腹は充実し過ぎて張り裂けそうな感じがするし… それで驚いて、興奮気味にそのことを先生に話したら「そうなんですよー、良い稽古した後は、そういう感じになるんですよー」と言われ、「うーん… 武術の人たちって、こんな途方も無いことやってるんだなぁ、こりゃあ凄いや」と改めて感心したことでした。
これまでも、毎週の稽古のたびに身体の変化を感じ喜んで来たのですが、
昨日は自分とって、それまで以上に大きなブレイクスルーの瞬間でした。

そして、その感じは、これまでやってきた坐禅・瞑想と、そう違わない感覚なのです。
ただ、武術の場合は、複雑に動いても壊れないし、あと重み・充実感が強いです。
おそらく、臨済禅(丹田禅)の感覚に近いのではないかと思います。
その感覚を、動きのなかで練り上げ、より細分化し身体中に回し、切れなくしているのではないか、と想像します。

これから一年半、本気で取り組めば、自分のなかで「坐禅・瞑想」と「武術・ボディワーク」が完全に合体して、おそらく、かなり面白いことになるんではなかろうか、と予想しています。
これからが楽しみです。


■ 刀禅の練功、「百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず」で、
私としては、ぜひ、一人でも多くの方に経験して貰いたいです。

ただし、人によっては、始めの関門を越える難易度はかなり高いかも知れないですので、少なくとも半年間以上は、意味は分からないままでも飽きずに取り組んでみる決意・覚悟がある方のみに限られるかも知れません。

■ 「真・善・美」の三位一体を、錬功のなかで追求する。

「強さ」を求める武術であると同時に、「正しく」身体を使うためのボディワーク・健康法・養生法であり、その二つを適えることによって、当然、自然な「美しさ」の質が動きに表現されてきます。

武術的な「強さ」、身体的な「正しさ」「健康さ」、身体運動としての、芸術的な「美しさ」の三つが、一つの練功(稽古・修行・訓練)のなかで追求され、満たされている。そこに、非常な美しさが存在する。

いかにして、深く、太く、養い・育てあげることができるのか。

美しく立つ
Anatomy(アナトミー:構造と機能)
Alignment(アライメント:姿勢肢位の違い)
Awareness(アウェアネス:身体を認識する)

身体における統合

「統合的」と云う言葉にも、幾つもの実質がある。

・ 身体統合(身体における統合) 身体の中(身のうち)での断片の統合
身体の部分と部分の不調和の解消。身体の各部分の統合。身体全体としての統合。

・ 心身統合(心身における統合) 身と心との断片化・分離の統合
身体と意識(身と心、カラダとココロ)のチグハグさ・不調和の解消、意識と身体の統合。

・ 存在統合(存在における統合) 自己、外界、他者(社会空間)、それらすべてを含んだ統合、など。
通身に行き渡る気づき、全身の協調した動き、など。

これらは別種のものではなく、緩やかに連続している。

. 狂った水平器で建てた家

狂った水平器(水準器・下げ振り)によって建てられた家に、生まれてからずっと住んでいる人に近い。
あるいは遊園地の、全てが体系だって重力方向とはずらして建てられた家(トリックハウス)に住んでいるに近い。
そこで何年も暮らしていると、外に出たときに世界がゆがんで感じる。
錬功初期には、そういう難しさがある。
狂った基準の世界からの脱出。

前(冠状面)への軸 (第二の原則) 志向性を持った身体、志向性を持った力 (一線) 歩行

「立つ」から「歩く(進む)」へ 一線の歩行

・ 志向性(明確な方向性)を持った身体、志向性を持った力 (一線)
・身体の全体を、志向性をもって、ある(相手のいる)方向へ統一していく訓練。
・ 軸線と軸面 (瞑想と武術の違い、他者との関係性) 他者の存在 関係性 ものとの関係においても

一線のなかに平和、安心がある。外が暴風雨でも。
「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み込み行けばそこが極楽」の意味。
「斬り結ぶ刀の下ぞ地獄なれただ斬り込めよ神妙の剣」
「打ち合わす 剱の下に迷ひなく 身を捨ててこそ 生きる道あれ」
一線の世界、そこは、時間を超え、生死を越えた、どこにも無い世界(nowhereland(place)
3次元の世界から厚みを抜いた、厚みの無い世界、一線は、身体を狭くするのではなく、厚みの無い時限に入ること。そこに壊れない安楽がある。
一線とは、「身幅を薄くする・畳み込む」のみではなく、「幅と云う次元」を超えた世界に入ること。
厚みの無い生き物になること。
故に、遅速を超え、生死を超え、強弱を超えることができる。

・なぜ一線の話がでてきたのか?
新陰流の影響 刀と云う道具の影響 両手で一本の棒を持つと云う形態

* 以上の、1,2を踏まえ、三体式の解釈 天・地・人 3つの方向、地軸、天界、他者(相手)に向かう3つの方向性

* 構造と力(ここまでの1.2章は構造の話。 次の3章からは、そのできあがった構造を通る、「力(勁)」の話)

・まず、構造を作る。

まず、大まかに構造ができないと、指導者は、その人に負荷を与え、力を通すことはできない。なぜなら、その力に耐えかねて、却って構造を崩してしまうから。
しかし、完全に構造ができないと通せない訳ではない。
現実には、ある程度構造ができたら、ある程度の負荷で力を与える→すると、その身体が感じ取った勁に反応(感応)して、身体が自主的に、より正しい構造を見つける(復元する)→すると、もっと強い力に耐えれるようにある→と云う良い循環が生まれる。
まず、構造を作ってから力を与える(通す)と云うのが、刀禅の「変化最速」の秘密である。

拮抗する力 (力を拮抗させる 弁証法) 球磨

対極への力

「動く/動かない」「伸ばす/伸ばさない」「曲げる/曲げない」「膨張/収縮」「下方への圧力/上方への圧力」などの矛盾のなかで、錬功が構成されていること
これも公案である。
「動かないで、動いてみよ」「歩かないで歩け」「膨らんだまま縮んでみよ」

その対極を超えたところに、次の次元がある、「動く/動かない」の双方を含んだ、より上質の「「動く、かつ、動かない」「動かないで動く」「動いて動かない」がある。
「曲げないで曲げる」「折らないで折る」など

弁証法(正・反・合)

拮抗する力のベクトルをどれだけ多く自分の身体の中に純粋に発生させ・働かせることができるかに錬功の秘密がある。

動素を練る 動素の細かさ

力の強さと細かさ(分解度、動素の細かさ)の訓練は、ある種別である。
重さだけではなく、動きの細分化(動素の細かさ)も訓練する必要がある。
動きが細分化されることによって粘りが出てき、質の良い重さが増す。
動素が上がることによって、力のむらが無くなり、より上質な質感が出てくる。

これは、ヴィパッサナーで云う、サティ(時間分解能)とサマーディ(空間分解能)の話と似ている。
勁の重さ・重量感=サマーディ(空間分解能)
勁の細かさ・動素の密度・細分化のレベル=サティ(時間分解能)

勁と力 収縮する力と、膨張・拡散する力(張力) ポン勁

勁と、いわゆる力とは、どう違うのか?

勁と力の違いを明らかにするならば、先ず勁の定義と力の定義を明確にした上でなければならないが、各門派により勁の定義と力の定義は大分異なる。

勁の大きさと外面上の動作の大きさは一致しない。
勁を蓄えることは弓を引くかの如し。勁を発することは矢を放つかの如し。
力は骨に由り、肩背に没して発することが出来ない
勁は筋に由り、能く発して四肢に達することが出来る
力は滞り、勁は暢やかである
力は散じ、勁は集まる
力は浮き、勁は沈む

弓を射る直前の状態

. 「力」と「勁」は、どう違うか?

いわゆる「力」は、短縮性筋活動(コンセントリック・コントラクション)を使っている状態。

「勁」とは、伸張性筋活動(エキセントリック・コントラクション)を、身体の全関節・筋肉において、全方位的に起こしている状態。張る力・?勁

等尺性(等尺性収縮 isometric contraction 関節を固定し、筋肉の長さを変えないまま力を入れること)をもっと超えて・

・(全方位的)膨張性の力と、収縮性の力。
・求心性の方向性と遠心性の方向性との拮抗

体幹と末端 時間差 運動をずらすことによって勁を発生させる タイミングをずらす

普通に歩くのと、錬功の歩くのと、何が違うのか?

それは、体幹と末端(下半身と上半身(肩の乗っている構造)との時間的ずらしに拠る。


それは、「強さ」を求める武術であると同時に、「正しく」身体を使うためのボディワーク・健康法・養生法であり、その二つを適えることによって、当然、自然な「美しさ」の質が動きに表現されてきます。

武術的な「強さ」
身体的な「正しさ」「健康さ」
身体芸術的な「美しさ」

の三つが、一つの練功(稽古・修行・訓練)のなかで追求され、満たされている。
そこに、非常な美しさを感じます。

言葉を換えて言えば、「真・善・美」の三位一体を、錬功のなかで追求している、とも。

● 肉体は、神の(作られ、建てられた)神殿である。

その神殿は、後ろ踵の上に建てられている(構築されている)。
世界は、後ろ踵から開く。(後ろ踵から世界が開く)
この(人間の)肉体は、後ろ踵の上に佇立(直立)することによって、その全性能を発揮する。
この肉体は、後ろ踵の上に立つことに最適化された(デザインされた)構造物である。

気づき系ボディワークと自動運動系ボディワークの統合

気づき系(脳の上部構造、新皮質)と、活元系(脳の下部構造、爬虫類脳、脳幹など)とのボディワークの上での統合。

気づきを伴った活元運動、あるいは、気づきのなかで活元を動かす。

フェルデンクライス・メソッドとは、身体の元々持っている英知・知性を、揺り動かし、呼び覚まし、充分に機能させることを目的とした、身体の脱‐条件づけ・再-教育・再-統合の技法である。

ヴィパッサナー瞑想・禅など、気づき-洞察指向的な瞑想法との親和性が高く、組み合わせて実践するによって、増強された効果を引き出すことが可能となる。

上部構造と下部構造
具体的技術と、土台の構造

土台にたどると共通する構造が見える。

体幹(体軸)と末端

側(外殻)とコア(中身・軸)

樹のたとえ(軸・根と、枝から先)
レッカークレーン
送電線の鉄塔
構造ビル

・構造的な強さ

ビルの模型

・生物学的な説明

末端(腕、足)の動きと、骨盤・体幹の丸める動きの組み直し

前と上の反応から、後ろと下の反応へ

背面感覚

体幹の訓練のためには、末端に制限をかける必要性がある。

A(awareness & authentic)-Movementsの三つの段階

1 ゆるめる、伸ばす、身体のなかの(痛み、こわばり、強い感覚と云う)ノイズを無くす。
2 構造の発見 剄路の発見(を見出す)
3 その剄路に力を通す、流す。剄路を太くする

2と3は、実は一緒のこと。剄路を太くすることとは、新たなる剄路の発見と同一である。

ボディワークコース 導入の説明のためのメモ

基本理論 三つの柱

・進化論的視点(説明) 背面感覚

・ボディイメージ理論
身体イメージ障害(BID)と云う概念
人類に普遍的な「身体イメージ障害」→背面感覚

・「気づき」による治療(身体意識の開発)

・グラウンディング、センタリング(軸の感覚)

水平と垂直の基準を作る→刀禅の練功

ボディ・イメージ理論について

この、Awareness Movementと云う言葉は、私のなかでは、自働運動系(Authentic&Automatic Movement)の技法と哲学も含んでいる言葉です。

Awareness Movementは、「ボディ・イメージ理論」を理論的な柱(背景)とした、実践的な技法・方法論の集成となります。

身体イメージ障害(BID)を修正・改善するためのプログラム

・ 気づき系(観察系)~ヴィパッサナー、禅的な切り口から入る研修
・ 反応系~(情緒的)内観的な切り口から入る研修
・ 身体系~Awareness Movement、ボディワーク・身体意識的な切り口から入る研修

これらを、大きく三つの入り口とし、それらを最終的に有機的に一つに絡み合わせる形で研修は進んでいきます。

・ 気づき系の身体技法(身体意識の覚醒、身体感覚への気づき)と、自動運動系の身体技法。

からだ
こころ(思考・感情・欲求)

————————————————————

Awareness Movement

からだへの気づき

Authentic&Automatic Movement
自動運動系

Authentic
━━ a. 確実な; 本物の; 権威ある; 心からの.

身体の運動性

知覚 環境

思考・感情・欲求 への気づき

ボディワークから瞑想・自己観察へ

「自働運動系のボディワーク」に関して通常、それのみでコース全体を組み立てることはしていません。

自働運動系の技法が、実際に内容を伴って展開していくためには、まず基礎となる「身体と心(特にインテンション、身体的な快・不快に対する心の微細な反応)に対する繊細な気づきの能力」が確立していなければ、よくある、ワーワー泣いて、バタバタ騒いで、カタルシスをもたらすような表面的な内容にしかならず、それならば他のコースに時間を使った方が内容的に学びがあるからです。
もし、行う場合も、前半 ・ 中盤の多くの時間は、気づき系の技法(瞑想 ・ ボディワーク)に充てることになります。

変性意識状態への誘導・生成にはいろいろな方法があるが、代表的なものは呼吸法によるワークである。
呼吸は「人間のホメオスタシスにとって不可欠な活動であるにもかかわらず、意識的にコントロールできる数少ない活動のひとつ」であり、呼吸のコントロールは比較的容易に変性意識を生成させる。

クリアリング

ヨガ ふいごの呼吸

過呼吸 テタニー

ホロトロピック ブレスワーク

コンティニュアムの呼吸法

フーブレス

刀禅という身体原理

本源指向性

具体化し、枝分かれしていく多くのテクニック、表現、方法の生まれる「本源・始原」の方向性、流出する方ではなく、源頭に辿るほう。

本源志向性を持つと云うことは、逆に言えば(流出の方向性に向きを変えれば)、舞踊などの身体芸術、身体作法、芸能など、適用範囲が限定されること無く、他ジャンルにも開かれていることでもある。
同水準で競合しない。 源頭→流出

それは、瞑想、ボディワーク、内観、武術、踊り、治療、ヒーリング、科学、哲学など、すべてが未分化な始原点であり、あらゆる技法、技術、型、動き、洞察が、そこから産み出され続ける存在の状態=意識の次元でもあります。

沢山ある河の支流に居れば別もののように見えますが、それら一つ一つを丁寧に源流まで辿るなら、すべてが流れ出てくる源、すべてが未だ分かれない始原点に至る― そのような感覚です。

それは科学と芸術をつなぐもの― 「内省・内観認知科学(脳科学)」としての「心の科学」の観察・実験・臨床の現場でありつつも、同時に、即興の音楽、舞踏、絵画、詩であり、治療であり、懺悔であり、神への奉納物であるような何かです。

それは自己の心身に催されるあらゆる出来事を瞬間毎に花開かせ、解消させてゆく、途方もなく繊細な技術(サイコテクノロジー)でありつつも、また同時に、瞬間瞬間刻まれる、私(の心と身体、知覚と思考、感情)を材料とした、気づきによる存在の芸術(Art of Living)です。

「真・善・美」の三位一体を、錬功のなかで追求する。

「強さ」を求める武術であると同時に、「正しく」身体を使うためのボディワーク・健康法・養生法であり、その二つを適えることによって、当然、自然な「美しさ」の質が動きに表現されてきます。

武術的な「強さ」、身体的な「正しさ」「健康さ」、身体運動としての、芸術的な「美しさ」の三つが、一つの練功(稽古・修行・訓練)のなかで追求され、満たされている。
そこに、刀禅の美質があります。

本源(根源)への志向性・意思 原理性へと向かうベクトル

支流ではなく、本源、源頭へと向かい、辿る意思

多くの武術(具体的技術)の生まれる本源・始原の方向性、流出する方ではなく、源頭に辿るほう

一つのもの・状態と、数多くの(具体的)稽古法・錬功法

刀禅には、ある(多くの対極する要素を含んだが故に言語化・説明化できない、「ある一つの状態」、ある一つの心身の在り方、ある一つの動き、しかありません。

それを説明するため、そこに至るための方便、一つの断片的なヒントとして、数多くの錬功法が存在します。
それらは、あるひとつの「全体」を指し示しています。

徒手での稽古、木刀を使った稽古、サンドバッグを使った稽古、舞扇子を使った稽古、一人での稽古、二人組での稽古と、色々な入り口があり、かつ、その全てが拡散することなく、ある一つの中心点、ある曰く言い難い一点を指し示し、志向しています。

たとえば、太陽(夕日)は、どの場所からも見えるけど、どこから眺めようと、ある一つの方向にしか収斂しないように。

全ての(多ある)錬功は、全て、一なる全体を含んだ状態の分化である。 一/多

ただし、「多」も必要。 「多」を失い、「一」のみしか残っていない体系は、実用性(存在するべき、具体性)を失う。弟子が育たなくなる。

刀禅の魅力として、内容の奥深さと、具体的な方法論の多様さ、引き出しの多さ、取っ掛かりの多さが両立されている点があります。

つまり、「深さ」と「分かりやすさ・入りやすさ」の両立ができており、そこに小用先生の教育者・指導者としての資質を感じさせられます。 「一/多」と矛盾的統合

通身(存在全体)に行き渡る気づき、日常意識への定着など。

新陰流(日本)・形意拳、陳氏太極拳(中国)と云う、二つの国の偉大な伝統(武術の体系)を、小用先生と云う酒樽の中で時間をかけて醸造し、出来上がった芳醇なお酒(日本酒)、あるいは、不純物を吹き飛ばして、エッセンスのみに純化した蒸留酒(スピリッツ)、と云う感じです。

そういう意味では、古い伝統を引き金・誘発剤に成立した、「新しい何か」(現代武術・新興武術)なのだと思います。

. 刀禅は、日本(東洋)発祥の「身体(意識)開発プログラム」であると言えます。

腹、軸、腹、丹田、気、剄など、主に東洋で伝えられてきた身体開発法の系譜に連なるものであり、また、その伝統の、現代的な解釈者・整備者であり、体系化・明確化に対する強い意志を感じさせられます。

それを実現するための、具体的で実践的な技法の体系が、ここにあります。

戦いでなく、互助の体系 双方が、同時に稽古できる。
「壊し合い」でなく、「磨き合い」の稽古体系

ボディワークの際の服装について

* 長袖、長ズボンで、靴下着用、からだを締めつけることのない楽な服。きついジーパンなどは適しません。
* 床の上に仰向けになった際、背中面が気にならない、背面にボタンなどがついてない服。
* 髪を束ねる際には、頭の床に接する面(後頭部)でない場所で束ねること。
* 長時間横たわるレッスンの場合、体が冷えてくることが考えられます。服は多めにご支度ください。
* また、冬季は、手袋、帽子などの防寒対策もどうぞ。

道具論

身体の拡張

Awareness Movement 導入の説明の為のメモ

● Awareness と Movement と云う二つの単語

・ 動きへの気づき(動きに気づく)
・ 気づきを伴った動き
・ 気づきが身体を動かす
・ 動き=身体(通身にゆき渡る、気づき)
・ 気づきの身体

Movement=(外から見える)身体動作・ボディワーク、(内なる動き)身体内部感覚(瞑想)
Movement=身(体)的ムーブメント、知覚的ムーブメント(視覚・聴覚・味覚等)、心的ムーブメント(思考・感情・欲求)

欲求
1. 渇望(快)→貪
2. 嫌悪(不快)→愼

からだの動きを良くする為にやっているのでは無いということ。
気づきを養う為、その結果として、からだの動きが改善される、統合される。

自動操縦(オートパイロット状態)→ 気づきを伴った動きへ。

mindless と mindfull

意識と動きが統合される(知覚・感じることと、動くこと)。

この「気づき」は、肉体的・心理的なあらゆる問題に適用できる。
そのための基礎訓練として、身体への気づきを養う。

● 存在すること、生きてること、意識の中身

・身体感覚(外界との接触感、内部感覚、筋感覚)
・外界知覚、五感(音、色、香、味)
・思考(イメージ的・映像的、メンタルイメージ・概念的・言語的)
・感情
・欲求(意思、意図 インテンション)

● 大まかな注意点

・目をつむる、情報遮断(人の動きを見ない、外面的な真似をしない、自分の内的な実感に聴く)

・顎(首、のど、口)を緩める(口を噛み締めない、常に、だらしなく半開きにして、よだれの垂れそうな感じで)口で呼吸する。 集中することと噛み締めることの連動の解除。

・あくび推奨、できるだけあくびを誘発し、呼び寄せて、欠伸しまくること(トランスの説明、生あくび連発→変性意識)

・気持ちよさ優先(痛いとか、疲れる、力が要るのは、まず間違っていると考えて良い)
気づきを伴わない反復練習には意味なし。

・疲れたら自由に休んでよい→ただし、休んでいる間も、身体を感じ続けること、身体への気づきを中断しない、考え事モードには入らないこと。外界にできるだけ意識を彷徨わせないこと。
できるだけ、レッスンの間、自分の身体に自閉する、閉じ篭る、サイコダイビング、感覚の海に潜ること。

・ビクビクしない、自由に、のびのびと楽しく。周りを気にしない。間違うことを気にしない。先生に注意されることを気にしない。

● AM実践の3悪 外的環境

・狭い(目をつむって、思いっ切り動いても、他の人や周りの物にぶつかる心配の無いスペースの確保)

・痛い(床の敷物等。あと、敷物に皺ができないよう→動いていて気になるから。衣服のボタン、頭(髪の毛)の結わえ方)

・寒い(寒いとどうしても体が緩まない、縮んでしまう。手袋、靴下等着用。寒いときは、おなか(胴体)に毛布などを被せても良い)身体の末端を冷やさないこと。

これら三つは、自由に伸び伸びとすること(伸びる、緩むこと)の妨げとなる。

● Awareness Movementを構成している、幾つかの逆説・対比

1.「小さく動く」ことによって、「大きく動ける」ようになる

感覚の閾値
ヨーガとの比較(痛快までやらない、腹六分目の動き)
小さく始めて(地震の余震)結果的に可動域が拡がる

2.「動くこと」と「動かないこと」
「動きながら、その動きを観察すること」と「動かないで、さきほどまでの運動の余韻を観察すること」→両方を結びつけている「気づき」

基本姿勢で全身の観察
・動的自己観察
・静的自己観察

エアロビを例に
「動く=筋肉の運動」「動かない=筋肉の休息、筋肉を休めること」ではない、と云う理解。
→脳への働きかけ

3.「変えない」と「変わる」=受動的な観察
変えようとしないで、受動的に、違和感・痛み・不調和。不快感などを観察することによって、その問題(不調和)が、自然に解消する(全体の調和のなかに解け込む)
不快感、ギクシャクした感じ、痛み―動きのなかのノイズ(ラジオのチューニングの例で)
変えようとしないで「観る」、すると自動的に変化が起こる(日常意識で干渉しない)

・クリシュナムルティの言葉
「心がもはや、「これ」を「あれ」に変えようとする試みに関わっていないとき、そのとき、まさにその事実自体が作用し始めます。
しかし、心が変えたいと望むかぎり、それがもたらすかもしれないどんな変化も、それがそうであったものの継続であるでしょう。」

4.「部分」への気づきと、「全体」への気づき
SamadhiとSati
拡散的な気づきと、一点集中(自分が、その時点で定めた対象にフォーカスする能力、倍率上げ
「細分化」と「統合」
気づきの対象領域を、絞って、開くこと

部分的(領域限定的、一点集中的)な気づき=Samadhi=深さ
拡散的(領域を限定しない、全体への)な気づき=Sati=広さ

コンティニュアムとの兼ね合い

5.左右のアンバランス 状態の認識(違い、変化)は、記憶(時間的差異、時間的比較)によって起こる。
動くことと基本姿勢に戻っての観察。

6.実感(イメージ排除)と、イメージ(コントロール)

● 基本姿勢での観察ポイント

・床との接触感
どこが、どれだけ、どんな風に触れているか? どこが浮き上がっているか? 左右の違いはあるか?

・内部感覚
呼吸(膨らんだり、縮んだり、寄せては返す波)
脈拍・脈動(ドックンドックン、ジンジン、ズックンズックン)
温感(涼しさ、暖かさ、ポカポカ、スースー、ひんやり、カッカッ)
筋感覚(ジンジン、こわばり、しびれ、緩んだ感じ、清涼感、などなど)
痛み(ズキズキ、ジンジン、ズッキンズッキン)
・左右の感覚の比較、右半身と左半身。
・からだの表と裏、胸側と背中側
・全身を全体として観る、1パーツ、一つの固まりとして(通身の観察、足のつま先から頭の天辺まで)

● 問題の現れ方

・見えるもの(大きく聞こえる)
いたみ、違和感、引きつり、引っかかりとして感じる、動きのなかのノイズ(ラジオの喩え)と、

・見えないもの(音が消える)
動きの繋がりが切れる、感覚が消える(消失する)、感覚が捉えられない部分、という「音が消えるところ」(ラジオの喩え)。

具体的技法リスト

・足(のアーチ)の造り
・かかと呼吸
・拍動瞑想
・ブレーシング(ドローイン)
・クリアリング
・歩行
・胴体の三つの動き
・ウェイトレッスン
・7lines(球磨バンドトレーニング)
・ストレッチポールを使ったレッスン
・バランスボール・ボードを使ったレッスン
・アイアインウォーク(鉄の歩行)

道具論

刀と云う道具を使うこと固有の面白さ。

人間は、手と云う接続器官を使うことで、様々な道具を自分の身体(意識、イメージ)の中に取り込んで使えます。
つまり、「持つもの(道具)を変えるたびに、自分の身体そのものをグニョグニョと変形させることができる」と云うところに特徴がある生き物で、刀を持っての稽古とは、それをいかに上手く行うか、刀そのものを身体に取り込んで使えるか、「身体の拡張」の具体的訓練だと感じます。

逆に、自分の身体(末端部分)自体を、道具として使う。

参考図書

『脳の中の身体地図―ボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ』

『アナトミー・トレイン』

『ボディ・ナビゲーション―触ってわかる身体解剖』

フェルデンクライス・メソッド入門書

『からだと心のマネジメント―フェルデンクライス・メソッドへの誘い』 深沢悠二

日本人の手で書かれた、ATMの読みやすい入門書です。
著者は、もともと禅の修行をされていた方らしく、細かな表現のしかたなどが瞑想修行者向きです。
収録されているレッスンは平易ですが、どれもすべて素晴らしく奥行きがあり、お薦めできます。

『フェルデンクライス・メソッドWALKING―簡単な動きをとおした神経回路のチューニング』

ここに載せられているレッスンをやってみて、「おっ、なにか違う!」と感じられるなら、おそらくフェルデンクライス・メソッドには適性あると思われます。まず試してみるに良い本です。

『フェルデンクライスの脳と体のエクササイズ』

椅子に座ってのレッスが主体となった本です。職場でのデスクワークの合間にお薦めです。

『フェルデンクライス身体訓練法』 M・フェルデンクライス

原題『Awareness Through Movement』。
ATMの根本聖典。
密度の高い、非常に凝縮された本です。
故に、はじめにいきなり読むのは難しいかもしれません。

訳者の方の紹介

「モーシェ・フェルデンクライスのもっとも広く読まれている基本文献です。フェルデンクライス・メソッドの実体を、理論と実際の両面から周到に説いた名著と言っていいでしょう。12個の基本的なレッスンを取り上げ、理論的な説明を加えながら、分かりやすく段階を追って展開されています。」


その他、多くのレッスンテープ、MD、DVD等が発売されています。
片手に本を持ちながら、えーっと…こうやって…とやっていくのは、実際かなり大変なことです。そういうときに音声のガイドがあれば助けとなります。

さらに詳しく知りたい方は、「フェルデンクライス」でインターネット検索をされてみてください。
この何年かで、フェルデンクライス・メソッドに関する情報は、国内でも多く読めるようになってきております。
フェルデンクライス・メソッドの魅力の大きなひとつとして、本一冊買ってしまえば、後は基本的に独習可能で、お金が要らない、と云うところがあります。

センスと熱意さえあれば独習可能、そして自分で一生深めていくことができる、というのは魅力的なところです。

ただし、もし機会があるならば、時々教室などに通ってフェルデンクライス教師の指導を受けてみるのも大いに助けにはなります。自分ではなかなか気づけない問題点を簡単に指摘して貰えるかも知れません。