年末(12月30日終了)の十日間内観コースの感想を送っていただきましたので、紹介いたします。 ありがとうございました。(霊基)
新年のお慶びを申し上げます。
十日間、リスクを背負って私に付き合い続けて下さり、ありがとうございました。
ニーバーの祈り、紹介くださり感謝です。
落ち着いた心で、感謝の気持ちで休職期間を終えることができることを幸せに思います。
今年は、不安や焦りに自分を消耗するのではなく、変わる方向にエネルギーを向け行動する年にできればと思います。
温かく心を遣ってくださり、改めて感謝を申し上げます。
……
研修所に行く前は、夜が怖かったらどうしようと思う気持ちが非常に強かったですが、実際に行ってみると、そんなことを考えている余裕はないという感じでした。
二日目の洗腸、欲さない多量の水を飲むことは心地よくはありませんでしたが、これが真実の見える道につながるならばウェルカムと思いながら飲みました。
以前経験した断食に関しては、空腹感はあるものの、それによる苦しさや弊害はなかったので、私はいつもぼんやりしていて何をしても感度が鈍いんだと思っていました。
そのため洗腸一時間後に身体が反応してくれたときは「普通の人と同じような結果が出せた」と安心する気持ちでした。
養育費の計算。
額はまったく検討がついていませんでした。
出た額を見て、ともかくこれが父母のとちらかが実際にどこかで働きをしたために得たお金であり、私が生きることで確かに消費してくれたお金であるとは、驚きでした。
子育てってものすごい大金をはたくプロジェクトだなと思い、ただ普通に生きているように見えた父母がそのようなプロジェクトに参加していたんだと思うと滑稽にさえ思えました。
ご飯はとてもありがたくて美味しいという感覚でした。
入っている素材の味を私の舌で感じることができ、その物ごとの触感を感じることができることは、世の中と繋がることができる数少ない貴重な経験のような気がしました。
今まで私の周りのグルメな方と食事をしても、彼らのように豊かで繊細な味覚は私にはないと考えて、共感/否定することも少なく「これがおいしいというものなんだ」と、他人事として考えていたように思います。
でも考えてみたら、私はここまで目の前のものを味わおうとして食べたことがないということを思い知らされました。
食べる前はおいしそうと思って楽しみにして、実際にそれが目の前に来て食べているときは、それを本当に味わうことを考えるのではなく、早く胃の中に入れたい衝動に追い立てられるように食べたり、次はあれが食べたいと未来のことを考えたり始めたりしていました。
それは私の生きる姿勢そのもののようにも思えました。
内観は、最初のうちは、印象深くてこれまでも何度も思い出したことがある場面を頭の中から絞り出す感覚でした。
思い出そうとする作業は私にとって、シュノーケリングをして魚を見ることのようでした。
魚が見たいと足掻くと逃げてしまうのでその世界に静かに身を置いて「大丈夫だよ、落ち着いてやれば大丈夫だから」と岩陰に隠れる臆病な記憶を心を開いて解放する感覚でした。
船江さんが「自分の使える能力すべてを注いで調べることに集中できていますか?」と問うて下さったとき、私は「はい!」と答えることに躊躇していました。
普通の人ならもっと集中できて、きれいにできるのではないかと考え、そうではない自分をただひたすら恥だと考えて自分を受入れようとしていなかったと思います。
私にとって努力をするということは、夜遅くまで勉強をすることだったり、眠い中でも頑張ることだったり、一般的にイメージされる「努力」のことでした。
人から見たら非生産的なこと、一般的に見てそんなことで悩むことはおかしいでしょうと云うことに対して、焦りと恥を感じることばかりにエネルギーを使い、自分を受け入れていなかったことに気づきました。
私は、努力というものを型にはめて考えていたから、落ち着いて自分の問題と向き合って考えていなかったのではないかと思います。
やってもできないのではないか、大変に迷惑な存在で終わるのではないか、私は人と比べたら極端に集中力がない… 考えないようにしてもそんな不安は隠せないけれど、とにかく最後までやってみよう。
まっすぐとしたきれいなものではないけれど、余分なものがいっぱい付いてきたけれど、私は十年以上問題意識を持って来たではないか、だからもう堂々と自分のできることをやったらよい、それが今の自分の出せる力だと思うことにしました。
母に対しての内観を進めていくうちに、母は私が成長に必要なことを一貫して提供してくれていたことに気づきました。
小さいころは着替えをさせてくれ、お風呂に入れてくれ、送り迎えをしてくれ、ごはんを一日も怠ることなく用意してくれました。
そういったことを完璧にこなす母がキレイに浮き彫りになりました。
基本生活である私の太い幹をしっかりと育ててくれた上で、私が大学に行きたいと言えば行かせてくれ、カメを飼いたいと言えば飼わせてくれ、クラブ活動を応援してくれ、料理が好きになったら調理器具を買ってくれ、母は私が自分自身で枝を伸ばしたい思った方向を決して阻害せず、いつも応援して環境を整えてくれました。
私が自分の意志が持てるようになってからは教会に無理に連れて行ったり、勉強をしなさいと言ったり、家事を手伝いなさいと言ったりして、無理に枝を引っ張ることもなく、どこまでも私の自主性を尊重してくれました。
私は深く納得ができる思いでした。
私が飽きて切り落とした枝や枯葉、ペットの世話、資金を気にせずに大学時代を過ごしていたこと…
母は私の木の下でその落ち葉をずっと拾ってくれていて、十分に栄養を与えてくれていたけれど私は下を見ることがありませんでした。
これまで私が母に対して持っていたイメージは、「愛という名目で私をひたすら甘やかし、今はそうした産物の私にうんざりしている。母がしっかり育ててくれさえすれば、私はこんなことにならなかった。私は人と違って甘やかされて育てられたから私はだめな存在」というものでしたが、そうした思い込みから脱出できたことが大きな経験でした。
父親に対して、また会社や社長に対しての自分を調べていくことによって、自分には状況に合わせて都合良く言い訳をして生きていることがわかりました。
内観をすることで今まで存在にさえ気づいていなかった私の中にいる有能な弁護士(どんな場合でも自己正当化、自己弁護をしてくれる内的な心の動き)と顔を合わせることができたことを嬉しく思います。
また、高校時代くらいより私は今の自分を生きることを怠けて来た気がしていて、昔の自分とは分断された気持ちであり、幼いころからの自分の延長線上に今の自分が生きていることを実感できていませんでした。
しかし、内観によってその時の状況を私の中で自身の体験として再現することができ、生まれてからを振り返ることができ、その時代があって今の自分があることを体感することができました。
それは地上に自分の根があることを見つけたような安心感を得させてくれました。
行動障害の傾向の可能性を指摘していただいたことも、大変参考になりました。
これまで私の怠けた行動は、私を人として生きることさえできなくしてしまった、私はなんて大変なことをしてしまったのかと焦り、意識を散乱させることしかできなかったけれど、それは私の怠けた行動の問題だけではない可能性があることを知り、落ち着きを取り戻すことができそうです。
違いがあるのだから、それをカバーするためにエネルギーを使えば良いし、それをしないならばできないものだと、自分の中で納得する道が得られました。
これからは、ぐるぐるぐるぐると生産性のない問いを続けるのではなく、自分の弱点を知り、自分を変えられる方向にエネルギーを上手く使うための道を探ります。
変えられるところを変えれば、解決に向かうことを信じます。
実際の行動を振り返ることで、自分が何をしているかを見る意識を失うことのないように。