気づきの瞑想コース

ヴィパッサナー瞑想の技法をベースに、気づきの開発と調整、日常生活との統合に取り組んでいきます。

いま、ここに在ること―

それによって、思考と苦しみにまみれた自分から抜け出し、明晰で、満ち足りた心をもって生きられるようになること…

二十代はじめで瞑想に志した私にとって、それは何としてでも実現したい憧れ・目標であり、そこを目指して努力を重ねました。

色々な道場やセンターに通い、様々な流派や方法に挑戦し、何とかそれを実現しようと苦心する日々が続きました。

ようやく、その努力が実り、瞑想による思考の静まりと、いま・ここに在ることの透明な充実感を幾らかでも味わえるようなった頃には、十年以上の月日が流れていました。

私にとって、思考(自我・概念)の世界から一歩外に出るということは、それほどにも大変なことだったのです。

その歳月を経て私が理解したことは、

自分のなかの雑多な思考が静まり・減っていくと、心は、より今の瞬間の身体的・知覚的事実に留まることができる

それに従い、自分のなかに存在していた、苦しみ・虚しさ・不満足さなどの感覚は、遠のき、薄れていく

そして逆に、この身と心を持って、ここに存在し、生きていることの、清らかな喜びを味わうことができる

と云う、ある意味、単純な事実でした。

しかし、それは、生きていることの味気なさと、自分のなかに渦巻く(自我に根ざした)思考感情とに苦しめられ生きてきた私にとって大きな救いであり、思考と云う苦役からの大いなる開放とも感じられるものでした。

瞑想初心者のために

いま、ここで「気づきの瞑想コース」として提供しているのは、私がそうして学んできた、禅やヴィパッサナーの修行法のエッセンスです。

自らの内なる心のざわめき(思考・感情・概念)からの脱出と云う、瞑想の最初のステップを、限られた日数のなかで、いかに確実に実現し、意識構造に定着させることができるのか、と云う課題のもと編まれた最小限のプログラムです。

コースは毎回、お一人様だけを対象にすべてをカスタマイズ(組み立て)するかたちで行われます。

身体的/精神的な問題を抱えているなどの理由で、通常のタイムスケジュールや内容での実践が難しい、特別な対応が必要な方の場合にも、お受けできる可能性があります。ご相談ください。

修行の才能、必要な資質

私は、瞑想の才能に恵まれた、出来の良い修行者ではありませんでした。

心身に様々な修行の阻害要因である凸凹を抱え、しかし、ただ「この、今ある苦しみから、どうにかして開放されたい」との思いだけで、諦めず、粘り続けてきただけです。

そして、現在、かっての私と同じように、
「努力してきたけれど、自分の力だけでは、どうにも解決できない」
「多人数を対象とした指導ではついていけない」
「人が苦手で(周りが気になって)自分の修行に集中することができない」
「人よりも時間がかかってもいいので、確実に理解し、身につけたい」
「抱えている問題が特殊で、通常のやり方では解決できそうにない」などの問題を抱えた方への対応を主に、日々の運営を進めております。

ただし、「何としてでも理解したい・分かりたい・マスターしたい」と云う気持ちの強さだけは、各自、お持ちいただく必要があります。

それは結局、それぞれのなかの「今の、この自分でいることの苦しさ」「何としてでも変わりたい、問題を解決したい、現状を突破したい」との思いの強さのみが生み出せるものだと思います。

その意味において、当研修所は、初心者向けの個人制研修施設であると同時に、重症患者向けの閉鎖病棟(リハビリセンター)という顔も持ち、本気で求めていない人が来るべき場所ではありません。

不満と云う出発点

* 以下、実際の研修に際しての、実践の核心部分について触れていきます。

まず、このような実践修行に関心を持ち、いま、この記事に目を通されているからには、(それが具体的で熾烈なものであれ、あるいは漠然とした曖昧なものであれ、自身に露わなものであれ、隠されたものであれ)何らかの、今ある現状に対する不満身体的/心理的な悩み・痛み・苦しみを抱えておられることに間違いはないと思います。

あるいは、もし仮に「自分には、格別、何の不満も苦しみもない。単なる知的好奇心で閲覧しているだけである」と言われるなら、それは、現在置かれている満たされた生活状況や自身の境遇に幾ばくかの退屈を感じておられる、何らかの軽い気晴らしや時間つぶしの刺激を求めておられる、という意味において、やはり、ある種の「現状不満」を持っておられるのだと言えるでしょう。

私たちは、「現在ある(嫌な)何かを(未来において)無くしたい・消したい」か、あるいは「現在ない(好ましい)何かを(未来において)手に入れたい・味わいたい」のいずれかの動機・欲求によってしか(心理的にも肉体的にも)動いていないし、また動くことができない、と云うのは、紛れもない事実であるように思います。

ですので、このような修行に取り組む際、まず最初に為すべきことは、「自分は、何に物足りなさ・不満を感じているのか? 何に悩み・苦しんでいるのか? 今ある何を無くし、今ない何を手に入れたいのか?」と自らに問い、明確にする作業である、と言うことができます。

そのワークを通し、何らかの「自らの内なる不満」「修行に向かう動機」が明らかとなるでしょう。

まず、それを明確に認識し、自らに対し認めること。
それが、実践に際しての確かな出発点として必要となります。

この「不満・苦しみ」こそが、私の唯一の事実・真実であり、これからはじまる実践の土台・足場であり、答えの種子であり、最後に、そこに花が咲く場所でもあるからです。


・ 私は、自分の現状(現にある姿、有様)の、どこに、どんな不満を抱えているのか?

・ 私が、いま感じている(抱えている)身体的/心理的な悩み・痛み・苦しみとは何か?

・ 私は、今ある何を無くしたい(免れたい)のか?
  あるいは、今ない何を手に入れたい(経験したい、味わいたい)のか?

無くせる苦しみと、無くせない苦しみ

そうして明確化された、自身の身体的/心理的な悩み・痛み・苦しみのなかには、やり方によっては無くすこと(解消させること)のできる、具体的な対処法を持つものも存在します。

たとえば、身体の怪我・病気によって、不安・悩み・痛み・苦しみが起こっているならば、適切に処置すれば、それらは解消できます。

もし、放っておいた虫歯が悪化し、疼いているならば、覚悟を決めて歯医者へ行き、治療を受ければ、その悩み・痛み・苦しみは無くせるでしょう。

心理的な悩み・痛み・苦しみの場合でも、状況を変えるなどの適切な対処によって無くせるものはあります。

それら、「具体的な対処法によって解消できる悩み・痛み・苦しみ」については、ここでは扱いません。

問題は、普通のやり方では解消できない「悩み・痛み・苦しみ」というものが人生には存在し、それらが深刻な問題としてつきまとい、自分を苦しめること― それを、どうやって解決したらいいのか、と云うことにあります。

事実(現実)と理想

無くせない苦しみの一つの例として、「むなしさ、満たされなさ、空虚感」の問題を取り上げてみます。

* 以下の話は、不安、恐れ、寂しさ、怒り、認められたさ、慢性的で治療法のない身体の痛みなど、あらゆる無くせない苦しみに共通して言えることです。

何をしても本質的な部分で無くならない、常につきまとう自分のなかの空虚感。

人や物、経験によって一時的に誤魔化せたように見えても、時間が経つと再び立ち現れてくる、自分の中に空いた穴、何かが欠けたような、満たされなさの、物足りなさの感じ。

それらを感じたとき、私たちは、「自分には充実感が無い、何かが足りない。どうすれば、この感覚を免れ、一時的ではない(終わらない)充実感を手に入れられるだろう」と考え、思いつく限りの、あらゆることをします。

趣味・娯楽への熱中、刺激を求めての行動・活動、社会的な成功・達成、認められること、充実した人間関係…
そのなかには、瞑想や修行、精神世界的な諸々も含まれるでしょう。

それによって、むなしさという問題が解消するなら、それで良いのですが、しかし、それが貴方にとって無くならない問題であるならば、まもなく、再び、それはぶり返してくるでしょう。

上記の普通の対処法― それは、むなしさから充実へ今、現にある、あるがままの事実から、あるべき理想(こうありたいもの)へと至ろう、離れよう、逃げようとする心理的な動きであると言えます。

しかし、おそらく、そのやりかたでは、いま問題となっている、無くせない悩み・痛み・苦しみを扱うことができません。

では、どうしたらいいのでしょう。
どうすることができるのでしょうか。

否定から受容へ

残されたやれることは、ただ一つのみです。

もし、いま、むなしさ、満たされなさ、空虚感が存在するなら、その対極である満たされた充実感を求め、そこに至ろうとする内的/外的行為を一切やめて、対極なしのむなしさ、満たされなさ、空虚感の実感に留まること。

いま、此処に、現に/既に存在する、全面的なむなしさ、空虚感の感覚、その事実を認め、そこに在る、それであることです。

空っぽさと充実感は、実際には対極の概念ではなく、いま、この満たされなさの紛れもない実感によって、自らの存在が充満し、一杯であるという事実を認め、そこに留まり、感じ、味わい切ることです。

問題の感覚に留まること

唯一なすべきことは、

これまでやってきた、あらゆる気紛らわせ・時間つぶし・何かやること、
時間を/頭を雑事で埋めること(読書、瞑想、外出、情報収集など)を止め、
あらゆる苦しみ、うんざりさ、問題の感覚から逃げることを止め、

そして、とにかく、苦しくとも、できる限り何もせず、自分=問題の感覚=苦しさ、行きづまり感、ウンザリさ、落ち着けなさ、不安、恐怖、どうしようもなさ、挫折感、劣等感、自分から逃げ出したさ、みじめさ、さびしさ、認められたさ、孤独感、イライラ、ソワソワ、情けなさ、諸々の悪感情、生の味気なさ、不満足さ、満たされなさ、性的欲求不満(性的な欲求、衝動、突き上げ)、誰かに甘えたさ、寄り掛かりたさ、目をかけてもらいたさ、認めて貰いたさ、不安定さ、刺激物への興味、逃避への欲求、の感覚に留まっていること。

それに充分に触れ、感じていること。
それと共に在ること、そこに徹底して留まること。
その逃げ出したい衝動に留まり、それの内実を観察すること。
あるがままのもの・いま、現に存在するものを感じ、観察し、それであること、それになること。


心理的問題(悩み・痛み・苦しみ)が存在する。

そこから逃げ出さずに、それを無くそう、解消させようともせずに、そこに留まり、全面的に、それだけになること(であること)。

解消・解決
「問題が、即、答え」であり、「問いが、そのまま答えとなる」こと。

本質的には、それのみ、しかない。


新たな対象に逃げ出したくなるのに注意すること、気づいていること。

逃げ出したさ、目を逸らしたさ欲求→逃避行為(何かしてしまうこと)へと繋げてしまうことなく、その不満足さ、うんざりさ、行き詰まりの実感に留まること。

何もしないことによって、虚しさの感覚・行き詰まり感、逃げ出したさをできるところまで強めること。苦しみの内圧を上げること。


自分にとって、「問題の感覚」とは具体的に何か?
そこから、どのように逃げようとするのか?

本当に、どうしてもやらなければならない(必要な)こと以外、手を出すのは止めて、
全エネルギー・全時間を、この空虚・不全感(問題の感覚)との対面・直面に注ぎ込むこと。

新しい刺激物、興味対象に逃げる(気をそらせる)のではなく、この不全感、虚しさの感覚に徹底して留まること。

行為・情報・刺激物(対象)への逃避を止め、情報・刺激物を遮断し、その禁断症状に耐えること。

できる限り、一日何もせずにいること。
自分を追い込み、詰めていくこと。
まずは「何もしないで居ること」に耐えること。

その空虚に対する「接し方」「向きあい方」が重要である。
その空虚と同化するか、それとも逃げて気楽な刺激物へと気紛らせを続けるかで、それは覚醒への道か、それとも永久にそれなりの不満を抱えたままの生存の道かに分かれるのである。

今は、何かをする(修行をする)のではなく、まずとにかく、逃げることを止める。

何もしないで、自分の苦しみ、ウンザリさ、行き詰まり感、何かに逃げ出したさに留まること。

今は、何かをやってしまうと、それが又、逃げになってしまうから。


内面的空虚

快楽と恐怖の構造

感じている私と、私の感情

この観察を行うにあたって、とても重要な理解(必要な認識)が一つあります。

* これは、本来、「徹底した観察の結果」として自らのうちに生ずべき「答え(結論)」でもあるのですが、それと同時に、まず最初に、理(理屈)としてでも、この認識を持っていることで、いま行おうとする観察が初めて可能となる循環した構造を持っています。

それは、自己の内に根本的な変化を引き起こす誘発因でもあり、かつ、その結果でもある特殊な認識です。


私たちが問題に苦しむとき、常に、自らの内側に、主体(主観)と客体(客観)の二元性(区切り・分離感)が存在します。

私に感じられている感情と、それを感じている意識主体としての私の間にある、分離感・隙間・区切られている感じ

「部屋(空間)と、その中に置かれている家具」、あるいは「鏡と、その中に写る具体物」と同じで、私たちが、悲しみや苦しみ、怒りを感じるとき、あるいは心の中の絶え間ない雑念に気づくとき、それら飛来し、移り変わる思考・感情(意識の中身)とは別に、それらの消滅・変転が起こっている芝居の舞台のようなもの、あるいは背景にある鏡面のようなものとしての「私と云う意識主体」の感覚が存在すると思います。

たとえば、「私は悩みを抱えている」と云うとき、抱えられている(意識内容としての)悩みと、それを抱えている(主体・意識)としてのは、(当然の前提として)別物として存在していると感じられます。

その区切られている・分離されている感じが紛れもない実感として存在するが故に、肉体的/心理的に、悩み・痛み・苦しみが現存し実感されている今この瞬間、それが無くなったあとに残る(いつか、未来の)容れ物としての自分を想像することが可能となります。

その分離感が実際には無い・錯覚であるのだということ、現時点で、常に/既に存在してないのだ、と云う認識が、ここで瞑想と呼ばれている自己観察には必要となります。


雪が降ったので、雪だるまを作ります。

夜中に、その雪だるまに意識が降りてきて、受肉し、宿ります。

そして、「はっ」と気がついた雪だるまは、こんなことを考えます。

「うー、冷たい! どうしてだろう?」

「そうか、お尻が地面の雪に触れているから冷たいんだ。
それなら、ここを離れて、もっと暖かい場所に移動しよう、そこで焚き火でもして暖まろう!」

しかし実際には、雪だるまは外界の雪と別の物質でできている訳ではなく、自身の全体が「それ」なのです。
そして、「冷たさ」も、雪の本性・性質としてあります。

雪だるまが心に思い描く、暖かい場所・温かい状況が実現したとき、雪だるまは無くなります。


私たちの状況も、それと似ています。

虚しいとき、苦しいとき、腹のたっているとき、私たちは、それと異なる、それと離れた主体として存在している訳ではなく、すべてが「それ」です。

私は、「その感情を持っている主体」なのではなく、「私自体が、その感情」なのです。

そのことの理解があるとき、現在ある、いま現前している事実がすべてです。

心が未来の、「これとは違うもっと良い状態」という想像(理想)に逸れ、エネルギーのロス(漏れ)が起こる、時-空の(時間的/空間的な)隙間がありません。

この、「いま感じている感情が無くなった未来」と云う心が生み出す想定自体が嘘だと分かるからです。

そのとき、観察に必要なエネルギーが存在します。

気づきのすべてが現在の、今ある事実へと注がれ、変化を起こすに足る熱量を持つのです。

いまと違うもっと良い状態(未来)と云う想像に逃げず、すべてが今に結集され、意識の内圧は、爆発に至るところまで高められます。

そこには、悟りや覚醒や問題の解決などの想像(イメージ)はなく、ただ、いま現にある、迷いや苦しみ、問題である事実だけが残ります。

そこに、問題が答えへと変貌する契機が生まれます。

* そのとき実現されてある意識の状態を「受容的(passive)な気づき」との言葉で表現しています。


分離なき観察

『生の全体性』 第二部より

法と概念(事実とイメージ)

そして、もう一つ、触れておかなくてはならない大きな主題があります。

それは、「むなしさ」という言葉・概念・イメージを剥ぎ落とした状態で、その言葉によって指し示されている「当のもの」「実感そのもの」に意識の焦点を当て、それを感じることができるか、という問題です。


小学校3年生の頃だったと思います。
理科の授業で夜空の星座のことを習いました。

オリオン座、北斗七星… それが、夜の空の、どこに、どのように見えるのか、図解入りで説明を受けました。

その後、夜空を眺めると、いつでも、すぐにオリオン座を見つけることができるようになりました。

成人してから、科学啓蒙書を読むのが好きになり、宇宙論や天文科学の本に親しむなかで、色々なことを知りました。

1000年とかの時間の単位でみると、星の位置は固定されておらず、流動的に動いていること(つまり、いま、このカタチで、この星座を見ているのは、この時代の我々だけで、未来の人類は違うものを見ること)

星座は、それぞれの民族の持つ文化・神話などに基づく連想でしかないので、ギリシャ・西洋文化以外のところでは、星を全く違う連なりで(異なる生き物などになぞらえて)見ている(認識している)こと

星座を構成している星は、実は、地球以外の方向から見たら、何光年も前後にずれており、横並びに並んではいないこと(つまり、この地球からの視点でのみ、意味ある連なりをしているように見えているに過ぎないこと)

など、多くのことを楽しみつつ学びました。

それらの結論として、「オリオン座とは、現代日本人として教育を受けてきた私と云う個人の頭の中にあるだけの妄想で、外界に存在してはいない」と云うことを理解しました。

しかし、その上で夜空を眺めてみても、私にはオリオン座が見えてしまいます。
いまでも、七つの星が細い線で繋がれ、事実、ひとまとまりの図形のように見えてしまうことに変わりはないのです。


以上の話において、「星のキラメキ=法・事実存在するもの」で、「オリオン座=思考・イメージ・概念」なのですが、かように「概念を外して世界を観る」ことは難しく、これと同じことが、私たちが認識する全て-聴覚・視覚などの外界知覚、思考・感情・欲求などの意識界、身体感覚・身体運動を主としたカラダの世界で瞬間瞬間起こっています。

* 外界知覚に対しての知覚イメージ、身体運動感覚に対しての身体イメージ、そして自分自身に対しての自己イメージによる認識。

この「概念・イメージを外して自身の内外の事実を見ることができるかどうか」に、ここで云う瞑想の成否はかかっています。


「むなしさ、寂しさ、満たされなさ」という言葉(概念)と価値判断を介在させずに、それら感情・感覚に直接触れ、感じ、味わったとき、それらは実際、どのようなものなのでしょう。

それを行ったときに、普通と違ったかたちでの変化と救いが起こる可能性が出てきます。

命名なき観察

イメージなき観察

参考となるサイト

先日、ある(面識のない)方からメールを頂きました。

内容は「さきほど、ネットで貴方のサイトに行きあたり、文章をはじめて読ませていただいたのですが、そこに書いてあることが、自分の書き考えていることと同じ過ぎて、とても驚いて、一度話がしてみたいと思い、衝動的に連絡してしまいました」と云うものでした。

そこに、その方のブログのアドレスも記載してありましたので私も読みにいかせていただき、結果、「うーん… 確かに…」と感じました。

いま、頑張って文章を書いてみても、その方の文章に敵わない部分も多くある、と思い、そのまま紹介させていただくことにしました。
私が、ここまで書こうとしてきたのと同じことが、とても適切に表現されていると感じる箇所が沢山あります。

生き方に疑問を感じている人へ

不満・恐怖・空しさが理想を作り出す

葛藤は事実から離れる時に生まれる

『理想の自分』と『現実の自分』のギャップに苦しまないように理想を手放す

寂しさを注視して寂しさから自由になる

苦しみ・悲しみを探究する 1

苦しみ・悲しみを探究する 2

悲しみにとどまるとき、悲しみから自由になる

恐怖からの自由:観察者のいない観察が恐怖を焼き尽くす

情熱・関心が思考を観察するには不可欠である

方法を超えるための技術

以上が、Art of Awareness(気づきの技術)の核心部分にあるものです。

それは、普通の意味で、段階的な行程化やマニュアル化することができない内容を含んでいます。

なぜなら、それを実践し、実現するには、「今のこの状態から抜け出し、もっと楽な良い状態に変わる」と云う希望を捨て、全面的に絶望することが、その瞬間求められ、それが受容的な気づきが成立する前提条件となっているからです。

その「全面的なあきらめ、受け入れ」を方法(テクニック)によって、作りあげることなど、当然、できない訳です。

しかし、間接的なかたちで、それが起こりやすい環境設定をし、方向づけを与えること、ある種の練習をすることは可能です。

カラダに深く突き刺さった、やっかいな棘を引き抜くためデザインされた(道具としての)別の棘-
それが、それぞれの研修コースの中身であり、その具体的な技術である、と言えます。

それは、ハシゴをかけることができない場所へ向けてかけられた特殊なハシゴ、
登り切った最後にジャンプする(飛び降りる)ことを想定して設計された13段の登り段、なのです。

だからと言って、最初から登らないで何かが起こることを待っていても、何も起こらないでしょう。

私たちにできることは、いま、全力で、この眼の前に降りてきた踏み段・天につながる梯子を、たとえ一段でも這い上がることのみです。

真に人事を尽くしたとき、はじめて天命の扉が開かれるチャンスが訪れるのでしょう。

私自身の立ち位置(境位)について

研修をリードする私(船江霊基)自身は、それを達成しているのでしょうか。
その「受容的な気づき」をマスターし、実現し、日々、苦しみのない状態で生きているのでしょうか。

まったく、そんなことはありません。

私自身、日々、新たな問題に直面し、そのたびに悩み、苦しみ、失敗し、そのなかで自分の愚かさについて学びながら、生きております。

では、なぜ、自らが身を持って救われていないのに、この方法論が正しく、価値あるものと言えるのでしょうか。

それは、これまで生きてきたなかで、幾度も味わった危機的な状況において、最終的に自分を救ってくれたのは、やはり、そのときそのときの「受容的な気づき」の成立によるものであった、という経験によります。

最終的な、二度と元に戻らない、決定的な、救われた体験― 伝統的に悟り・覚醒などと呼ばれる、そのような生存の状態― それを自身も求めて生きてきましたし、過去に幾度か、それらしき経験の瞬間もあったのですが、私の場合、それらは常に一時的なもので、時間と共に元に戻り、いまも変わらず悩み・迷いを抱えたまま生きています。

しかし同時に、この、自分が狙いを定め、歩んできた方向自体は間違えていないだろうとの確信は強くあり、ですので、こうして研修所を主催することを自分に許せています。

また、これまで研修でお世話をさせていただいた、それぞれの方が、それぞれの仕方で、自分に向き合い、自身の姿を見ることによって、変化し、楽になり、救われていく姿を見て、自分のやっていることは無意味ではないだろう、と感じさせられる経験があるからこそ続けていられる、と云う事実もあります。

研修は常に上手くいく訳ではありません。
過去に多くの失敗も犯し、そのことに対する後悔もありながら、二度と再び、そのような失敗を繰り返さぬよう、誓い・願いながら、この仕事をしているー それも一つの事実です。

私の自己認識では、自分は、まったく悟った先生・指導者などではなく、単なる、この道の(旅の行程の)ガイドであり、この修行体系での実践を何年か前から始めている先輩でしかなく、そして修行が好きでこの道に入ったのですが、才能的にはそれほどのものがなく、長くやっている割には大したことはなく、人間的な欠点も多く持っている。

ただ、才能に恵まれてない分、一般の方の修行上の行き詰まり・悩みを理解し、解決へのアドバイスをすることにおいては優れた面も持っている、というものです。

最後に

かって、若かりし頃、苦しみから開放されたい、楽になりたい、と懸命に修行していたときのことを思い出します。

いくら努力しても、今の自分の現実と、自分の目指している、苦しみから開放された、今と一つになる、これで本当に良いと思える境地とのギャップは埋められなく、本当にクタクタになり、力尽きました。(これは、当時通っていた禅宗の修行道場の摂心中のこと。そのお寺の裏山にある、斜面を切り開いた墓地でのできことでした)

それまでの何年間かの苦闘の果ての、どうしようもない行き詰まりのなかで、その時、初めて、「どう足掻こうと、自分には無理なのだ、自分には目的を達成することはできず、救われるときは来ないのだ」との絶望・あきらめの気持ちが湧いてきました。

そして、こう考えました。

「自分は、これまでずっと、そのことだけを目指して生きてきたつもりだ。いま、ここで、その宿願をあきらめたなら、明日から何をして生きていったら良いだろうか、自分には何が残るのだろうか?」と。

しばらくして、気がつきました。

「この、いま、あるままの、迷って苦しんでいる自分だけが残る」
「そして、そこから抜け出せる可能性は、もう無いのだから、自分は、いま、あるこのまま、この迷っているまま、それと共に生きていくしか無い」

そこで思いました。

「では、それは、これまでやってきた、今にある、今の事実を生きる気づきの瞑想と何が違うのだろう」
「何も違わない。ただ、これじゃない、もっと良い何かの実現を未来に期待しているかしていないかの違いしか無い」
「では、結局、修行を続けるとかやめるとか云う選択も無い。やるもやらないも、悟るも悟らないもない。
…と云うか、気づきの修行をやめる、そのやめ方がわからない」

そのようなことを思い、最終的に踵を返し、再び瞑想修行の世界に戻ったのでした。


いま、ここまでの文章を読み、「自分には、それは無理じゃないか」と感じられる方も居られるかもしれません。

確かに、「未来のいつか、あるとき、劇的な覚醒体験をして、以降、すべての悩み苦しみを感じないスゴイ人・悟った人になりたい」というのであれば、それは多くの人にとって、おそらく叶わない憧れ・実現しない夢であるに過ぎないでしょう。

しかし、仮に、それが無理だとして、「では残る生涯、どう(何をして)生きていくのか」「どのように、この自分と向き合い、時を過ごし、生きていくのか」と問うたとき、できることは、「いま、ある、等身大の、決して素晴らしくも優れてもいない、この自分の身と心と寄り添い、それに気づき、それを受容し、それを味わって生きていくしかない」― それが、一番マシな残る時間の過ごし方・在り方に違いない、と思うのです。
それは、やるかやらないかの選択の余地のない、唯一許され・残された真実だと思うのです。

つまり、ここで言う受容的な気づきとは、努力や訓練や恩寵によって選ばれた人だけが達成し、獲得し、受用できる「これから先、手に入る素晴らしい状態・境地」などではなく、すべてのやれることに失敗し、すべての方策が尽き、希望が果てた後に残る、唯一否定できない現実-それ以外がない場所としての「今、此処にある、この自分の、この事実・現実」であり、最後に残された、生き残りの、死の場所としての現成(現状)でしかないのです。

それは、その外に出ることも、逃げることも、変えることも、離れることもできない事実として、常に/既に、いま、此処に、息をしている、そのもののなかに、絶対的に成立しています。

このような方へお薦めできます

クリシュナムルティ、禅、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)などに関心を持ち、惹かれながらも、実践の具体的な手掛かりや有効な方法論が見つからず、試行錯誤されておられる方。

瞑想初心者にとって、まず問題となる、「如何にすれば、この止むことなく湧き続ける思考を減らし、現在の瞬間(この身体的/知覚的事実)に留まれるのか」と云う課題(瞑想の第一関門)に、じっくりと取り組んでまいります。

病気や怪我、身体の不調、慢性疼痛など、長期化した身体的問題を抱えておられる方。

痛み・苦しみを、受容的に、丁寧に、徹底して感じ、味わい尽くすことによる和解・共存のあり方を学びます。
また、そこに、問題そのものの根本的解消への道もあるのでしょう。

芸術・身体表現・武術・スポーツ・治療などに関わっておられる方。

より繊細な感受性と、統合された運動性、存在の深みから発する運動・表現の可能性を探っていきます。

研修の全体像

気づきのアート

当研修所の各コースが、どのような構想をもって組み立てられているのか、それぞれがどのように関係しているのか、などを書いた文章です。

旅の支度(必要な装備)

実際に修行を始める前に目を通しておいて欲しい文章です。

クリシュナムルティ

私は、自分が何よりも大きな影響を受けたのはクリシュナムルティであると自認しており、こちらの研修コースは、そのような背景を持った人間が、苦しんだ挙げ句、細部を伝統仏教の技法をもって補填した、特殊な方法論だと理解していただいて良いです。

以下の資料群は、自身の修行時代、クリシュナムルティをより理解しようと作成したものです。
私はクリシュナムルティを、このように理解しております。

クリシュナムルティ読解

ヴィパッサナー瞑想

昨今、話題となっているマインドフルネスとは、元々、ヴィパッサナー瞑想という伝統仏教流派の修行法を脱宗教化・心理療法化することによって成立したものであると認知されております。

ここでは、そのネタ元のひとつとなったヴィパッサナー瞑想について、語義の面から説明します。


Vipassana Meditationと云う言葉は、vipassanā-bhāvanā(ヴィパッサナー・ヴァーバナー)と云う、原始仏教の時代、古代インドで使われていたパーリ語の英語訳として存在しています。

Andersonの『PALI READER』によると、vipassanā の vi とは、動詞や名詞の前につく前置詞であり、その意味は、”asunder, out, away, about”あるいは”in various directions”とあります。
名詞と共に使われるときは、しばしば”negation, separation”という意味。
動詞と共に使われるときは intensity 「強調」を意味するとあり、例として vipassati という動詞が出ています。

passanā は passati という動詞から来る名詞です。
passati を辞書で見ると、”to see, look at, consider, perceive, notice, find out”という訳語が出ています。
大体において「見る」「観察する」「気づく」という意味です。

この vi と passanā をあわせてみると、vipassanā は、「くわしく観察する」「細かく分けて、よく見る」「特別な観察」という意味だと分かります。

bhāvanāは、この場合、「修習する、繰り返し実践する、それによる能力の育成・成長」などの意味となります。

それらを組み合わせると、「特別な仕方で(非常に細かく、分解して、良く)観察する、そのことの実践、反復練習、その実践による観察力の増強」などを意味することがわかります。
つまり、「よく観ることの実践、繰り返しの実習」です。

意味をとって、「気づきの瞑想(Mindfull Meditation)」「洞察の瞑想(Insight Meditation)」と呼ばれることもあります。


下記ページの左段、下から3つ目の見出しをご参照ください。
http://www.manduuka.net/pali/ptsdic/jpg/638.jpg(「PTSパーリ語辞典」より)

バーヴァナー – Wikipedia

以上の文章の一部は、こちらの内容のリライトです。
ありがとうございました。


* もし、研修前に、あらかじめ瞑想を試してみたい、という場合には、この本(DVDブック)をオススメします。

『実践ブッダの瞑想法―はじめてでもよく分かるヴィパッサナー瞑想入門』

禅仏教

禅 – Wikipedia

禅・資料室

フェルデンクライス・メソッド

よりボディワーク寄りの瞑想をご希望の方には、まず、こちらをオススメします。

フェルデンクライス・メソッドとは?

フェルデンクライス・メソッド入門書

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パキスタン・ガンダーラ出土 ラホール博物館蔵

アウェアネス・リトリートセンター 気づきの研修所

船江 霊基(ふなえ れいき)
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