ここでは、瞑想、内観、ボディワーク、それぞれのコースを受けた、その後に起こり得る諸問題(と注意点)について書いていきます。
瞑想コース終了後の注意
・過集中 不注意(交通事故、忘れ物など)
・食事のペース
・食べる量 断食の飢えを残さない
・知覚の過敏性について
内観コース終了後の注意
集中内観研修がうまくいった際の、自宅に戻ってからの注意です。
ボディワークコース終了後の注意
・ぎっくり腰
・体調
・過敏症など
リトリート依存症
日常生活とリトリートの二重性を解消できない。その差が縮まらないままになる。
リトリートの経験によって、日常生活の味わいが深まり、より豊かになる形で還元されることが起こっているのなら正しいが、そうでなく、日常(意識)がつまらないもの、味気ないものと感じられ、頭のなかでは常に、再び、リトリート中の高められた意識状態、瞑想意識、変性意識を味わいたいという渇望がとまらなくなる依存状態に陥ることが、ままある。
それを、どう解消するか。
倫理なき悟りと、悟りなき倫理
・個人と社会(法と自由)
道徳的・倫理的な自己確立ができていない状態で、禅的な見性体験(ワンネス体験)などをした際に起こる大きな問題は、よく知られています。
私は、昨今では当たり前に語られる「倫理なき悟り」、つまり「覚醒に人格性は伴わない」と云う話は(現状を見る限り、確かにそうであるけれども)間違っていると考えています。
ただ、悟り・覚醒体験が、日常の人格性に浸透してきて、悟りが日常で人格化されるところまで定着するのが相当に難しいと云う事実があるだけだと思います。
その根拠は、「そもそも倫理や道徳、倫理性や社会的道徳の根源・発生は、あちらの世界にあり、悟りの世界から来ている」と理解しているからです。
極端な言い方ですが、ひとつになった、融合した、脱落した、などと云う体験よりも、少しでも人格的にまともになった、自分の煩悩の酷さに悩めるようになった、と云うほうが重要で、価値があると感じます。
「悟り」と云う、全てを超えた世界から切り離された道徳や倫理は干からび形骸化した拘束物になるけれども、
「倫理」と切り離され、そこに向かわない悟りも非常に危険なものであり、「悟りなき倫理」も「倫理なき悟り」も危ないと云うこと。
それらは、本来共通のところから発生しており、あちらの世界の暗示(暗在)的構造を、こちらの世界に持って帰って明示化したものが倫理規範や道徳である。
「自分が苦しくない(苦しくなくなる、楽になる)」だけではなく、
「自分の周りの人も苦しめない(苦しくなくなる、楽になる)」が実現していない(実現する方向に向かわない)修行や瞑想体験は、どこか問題を持っているのだと思います。
「究極の学習」
・自分をきちんと客観的に知る(メタ認知)
=瞑想(単独性・独在性)・相手の気持ち、考え方、感情を知る(思いやり)
=内観(社会性・間主観性)羽生善治
水鳥の行くも帰るも跡絶えて されども道は忘れざりけり
全面的不自由と、絶対的(禅的)自由
* 禅、ヴィパッサナー、クリシュナムルティ、ラメッシ・ハルセカールなどを巡って、決定論と自由意思について。
私たちは全面的に条件づけられてある。
どんな細かな雑念の一つさえも、自分の意志で起こすことも止めることもできない。
そのなかで、如何に自由であることができるのか、自由で在れるのか。
・人生は選択である/人生は運命である。
・百丈野狐(不落因果/不昧因果)
・ひじ、外に曲がらず。
人間は機械だ。
彼の行動、行為、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これら全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。
人間は自分自身では、一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない。
彼の言う事、為す事、考える事、感じる事、これらは全てただ起こるのだ。
人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。
ウスペンスキー『奇蹟を求めて』p44自己を観察する際に(中略)自分の行為・思考・感情・言葉などは外的影響の結果生じたものであり、何一つ自己の内からは出てこないという事実に気づくだろう。
彼は自分が事実、外的刺激の影響の下で働いている自動機械だという事を理解し納得するであろう。
(中略)
完全な機械性・・・すべては起こり何一つ為すことはできない。…外からの偶発的ショックで左右される機械なのだ。
ウスペンスキー『奇蹟を求めて』p185人間の精神に独自のものは一切存在せず、すべてが模倣によるか、既成のものの組み合わせに過ぎない。
グルジェフ
『誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』 ラメッシ・バルセカール
『あなたは自由ですか?― 決定論の哲学』 テッド・ホンデリック
ダニエル・デネット『自由は進化する』- logical cypher scape
型と自由
エネルギ― を流すための最適化された溝としての型。
型によって、はじめて自由がある。型を離れて、ではなく。
自由を実現するためのルート(呼び水、導管、回路)としての型。
型によってはじめて自由に至るための実践が現実的なものとなる。
型と自由を対立的に考えるのではなく、型こそが自由の前提であり、根拠であり、発露である。
なぜなら、そもそも型とは、過去のある時点で誰かの身の上に成立し経験されたハイレベルな自由(表現)を、この世界へ定着させる為の努力(試み)であったのだから。
溝さらえ・癖とりとしての修習(手習い)
自身の無自覚的な癖(悪癖・歪み)を自覚するための規矩・基準としての型。
守・破・離
規矩作法 守り尽くして破るとも
離るるとても 本を忘るな
「型破りと型無し」
型ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。
型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば、型破りになれる。
どうだ、わかるか、難しすぎるか。
結論を云えば…
型をつくるには稽古しかないんだ。
型があるから型破り、型が無ければ形無しだ。
立川談志
カラヤナミッタ(師友・善友)の重要性について
犀の角
良き友、師友(カラヤナミッタ)に出会うことができるように心から祈るべきです。切に願うことは必ず遂げられるし、真剣に祈ればやがて成就するものです。
しゆう【師友】 師と仰ぐほどの友人。
善き友(カラヤナミッタ)
・自分の長所をほめてくれる人、励ましてくれる人、善悪を正しく教えてくれる人、心の浄らかな人、前向きな人、プラス思考に導いてくれる人、……そういう善き友を持ちなさい。
善き友(カラヤナミッタ)が得られれば、聖なる修行はほぼ成功したようなものです、とブッダも言われました。
古(いにしえ)の道を聞きても唱えても 我が行ひにせずば甲斐なし(悲しき)
「機(人)は良材のごとく、師は工匠に似たり。
たとえ良材といえども、良工を得ざれば、綺麗いまだあらわれず、たとえ曲木といえども、もし好手にあわば妙功忽ちあらわれん。」