漸進的アプローチ

「受容的なアプローチ」において、本質的・根幹的な変化(理解)に時間は要せず、今、この瞬間、「分かるか分からないか」「変わるか変わらないか」がすべてである。

それは、スタート地点がそのままゴールである特殊なレースに似ている。

スタート地点から(ヨーイドンで)走り出してしまうことなく、そこに強烈に立ち尽くすことができたとき、そこがゴールであったことを見い出す。

そこには、即時的な了解のみがあり、
段階的な理解や、徐々なる進歩、少しづつの変化など存在しない。
(問いが、そのまま、答えである)

「漸進的なアプローチ」の眼をもって見るとき、修習とは、何年も(ときには何十年も)の時間をかけ、歩み・進み・這いあがる途方もなく長い道のりであり、そこには多くの段階(ステップ)が存在する。

それは、神社の参道を登るにも似た果てしない道のりであり、
一段登るごとに見える景色(理解されるもの)がガラリと変わるほどの明らかな認識の変化、理解の漸進的な深まりを伴いつつの行程である。

それら相容れない二つの経験の有り様― 絶対的な「段階は(明らかに)ない」と、相対的な「段階は(確実に)ある」― を、そのままに見渡し、両立させる地点を確立すること― それが、この章の主題である。

水平的な道行きと、垂直的な恩寵

実践の行程を見るとき、水平的な(横向きの、漸進的な)説明と、垂直的な(縦に切断された、頓悟的な)説明とが可能である。
ヴィパッサナーは(主に)水平的な、禅やアドヴァイタ・ヴェーダーンタは垂直的な説き方を好む。

水平的な歩み

これから先、自身の人生の多くの時間を注いで、この道を歩んでいくつもりであれば、段階的なココロの成長(取り組む順序)を考えて、そのときそのときの課題や技法を決めていく必要があります。

「無我の体験」「自我からの開放」「さとり、見性」を願う前に、まず、そもそも壊されるべき自己・自我が、健全に、倫理的に、バランス良く形成されていなければ、「自我を壊す修行」は危険なものとなり得ます。

問題は、多くの場合、一時的・突発的な無我の体験を、再び戻って来た自我が、「所有・私物化」することにあります。 そして、その戻ってきた自我は、その人が元々持っている性格上の癖・欠点を全てそのまま持っている上、普通の人間には中々できない、無我の体験、悟りを経験したと云う大きな記憶を持っています。
故に「俺ほど凄い(深い)無我の体験をした奴は何処にも居ない! この俺さまほどの!」と云うジョークのような状態になりかねないのです。

それぞれの行法には、するべき順序があり、それを飛ばして高位の修行に取り組んでみたところで、お城の基礎をキチンと組まないまま天守閣の造営に入るようなもので、(仮にそれを実現できたとしても)危うさ(バランスの悪さ)があり、壊れ、崩れやすく、人間としての歪みを後に残します。

また、修行の順序と云う時間的な問題とは別に、全体の中での成長のバランスの問題もあります。

右腕だけが異常に発達し、肥大化したボディビルダーを見たとしたら、私たちはそれを異様に思うでしょうし、本人にとっても、それは好ましいことではないでしょう。

それと同じように、感情、身体意識、社会性・他者との関係性、家族との関係性、異性との関係性など多くの側面で、自分のどの部分が弱いのか(発育不全なのか)を自覚認識し、その部分に重点的に取り組み、全体をバランス良く成長させていく― そのような客観的な自己対象化と、それに基づいた具体的な修習が必要です。(同時に、その自己を客観的に見ることを要する評価を自身で行うのは、非常に難しい)

垂直的な力、恩寵

漸進的な歩みを進めるなかで、不意に、垂直的な力・恩寵とでも云うしかない、絶対的な体験を与えられることもあるでしょう。

自己も世界も砕け散った、時間を越えた絶対の今に、突然、投げ出されるような体験です。

そのとき、これまで歩んできた「漸進的な道」「時間の中でのアプローチ」の根本的な誤りに気がつくでしょう。
「段階的な修行など、何と馬鹿げたことを考え、行ってきたのだろう!」と、独り、笑うでしょう。

その高揚した意識― 存在の明晰さは何日か続くかも知れません。
あるいは何時間かで、余韻を残してあっさりと消えていくかも知れません。
あるいは、何ヶ月か掛けて、ゆっくりと徐々に現実に離陸することになるかも知れません。

その体験の最中には、「これで自分の歩みは全て終わった」「全ては成就した」「煩悩即菩提、無くすべき煩悩もなければ、得るべき悟りも無い、すべて、このままでOK!」と感じられることでしょう。

しかし時が経ってみれば、その経験によって与えられたものは、自身を見る眼― 今まで見えていなかった、より微細で潜在的な、多くの未解消問題、煩悩の動きに気づくことができる眼― でしかなかったことに気づくでしょう。

そして、そこから再び、残る問題と取り組む漸進的な道のりが始まります。

その歩みは、より微妙に、精妙に、また途方も無くダイナミックに、人知れぬものとなっていきます。(習気、ヴァーサナ、随眠、正念相続、潜行密用)

* この垂直後の水平期は、垂直体験によって見たもの(見させて貰ったもの)を深化、安定、定着させる重要な時期でもある。

* 禅宗の伝統では、この水平的・垂直的という話を「六祖慧能と神秀の詩対決」で説明する。
神秀=水平的、慧能=垂直的で、どちらが正しいと云うことではなく、どちらも無ければ足らないのです。

慧能 – Wikipedia

内観研修ひとつを取ってみても、第一段階の「愛されて許されていたことの再確認、親、家族との和解・許し、自己受容」と「倫理的な自己形成、自我確立」「恩と愛の再確認」に主眼を置いた研修もありますし、その先の「自我そのもの本性としての、うそと盗み」「人間存在そのものに根ざす煩悩の凝視」から「絶対他力」へと至る、多くの行程段階に応じた研修が実際には行われています。

禅、ヴィパッサナー瞑想、内観と、それぞれの伝統が磨き上げられた「自己を見る(見破る)ための(段階的)システム」を持っており、これは実際に時間をかけ実習し、体認・体得していく以外、窺いようもない世界です。

三つの視点(照射)

円錐の外周を、らせん状にグルグルと登りながら頂点に至る運動を、上方から眺めたとき、それは二次元平面上の渦巻き運動に見える。

* あるいは螺旋階段を上り下りする運動を真上か真下から眺めるとき、それは(反復される)円運動に見える。

その円錐を横に倒して同じく頂点へ向かう運動の軌跡を見ると、上昇と下降を繰り返しながら左右に移動しているように見える。

これら複数の視点から眺めることによって、同じ運動は違うものとして認識され記述される。

1 運動は起こっていない(はじめから最後まで、いま、此処という一点に居る)
2 上がったり下がったりしている。上昇したり、また墜落したりしている。(悟ったり、再び迷ったりしている)
3 三次元空間を、時間の経過のなかで上昇する運動がある(四次元的な認識)

修行における変化とは、螺旋状に上昇している(瞑想的理解・自己開放に向かいつつある)、あるいは螺旋状に下降している(内観的理解・迷いを極めつつある)であると言える。

太極陰陽図を二次元的に見たとき単なる平面だが、それを三次元的な高さを持って認識するとき、やはり同じ上昇運動を織り込んだものと理解することができる。

『生命のからくり (講談社現代新書)』 中屋敷均著

Vajra Brush – Alex Gray

段階的な指導と理解

頓悟と漸悟

気づきの基礎訓練(チューニング)、時間をかけた変化、定着、段階的理解


全ての指導・指示は段階を考えないと間違えたものになり得る(小用先生の言葉)

少なくとも三つの段階を考える。

例えば、

1段階目「思考は制御できない」→

2段階目「実は思考は自分が(選んで)やっている」→

3段階目「思考は(深い意味で)全く制御できてない」など…


修行の効果・成果は、短期的に大きな変化が出たように感じられこともあるが(リトリートなど)、長期的・中期的な定着率で見た場合、それほどない。

長期的な取り組みが必要である。
短期的な効果を強調する指導には気をつけた方が良い。

内観のみ、単発での効果(中期的な効果)が見込める特異性を持つ。


それは入門(門に入る・門をくぐる)はあれども卒業のない、はじめはあれど終わりのない、果てしなき営み(トレーニング・訓練)であり、かつ、それがそのまま趣味でもあり楽しみでもあり、結果、ゴールでもある


道を進む、道を歩む

盤珪さん、沢水禅師の言葉

盤珪禅師法語集より

・努力(精進)と無努力(おまかせ)

修行の効果、進み具合は、自身ではなく、家族(パートナーや子供)に聞くと良い。

「悟ったと思うなら、親と一緒に過ごせばいい。そしたらすぐ分かる」という言葉がある。
他人だったらなんか嫌なことがあっても限界があるけど、身内は厄介。
今までの色んな思いが蓄積されているから。


正解は一つ、でも間違う仕方は無限にある。
正しい形(やり方)は無限に存在する、しかし間違った形(やりかた)も無限に存在する、と云うこと。

進歩は、必ず否定的な形で認識される

修行の進展は必ず(間違いなく)否定的な形で自覚認識される。

「自分は、何と、こんなに分かってなかったのか!」「こんなに見えていなかったのか!」 「何と云う大馬鹿者だったのだろう!」と云う形でしか理解・認識は進まない分からない、見えない、賢くならない。

修行の進み具合は、否定的認識によってしか測れない。
修行の進歩は、否定的なかたちでしか認識できない。
修行の進歩の認識は、否定的なかたちでしか起こらない。

自身の境位は測ることが難しい。
古典との照合によるか、自身の感覚によるかだか、共に危うさを抱える。

次の段階に進んだ際の「否定的認識」によるものが最も確実。

「自分が全然できていなかったことに、やっと気がついた!」というかたちでしか、それまでの自分を対象化し、自分の境地を相対化することはできない。

これは、絶対的に真実である。

体験の「強度・純度」と「定着率」について

いわゆる「覚醒体験(見性体験)」と言われるものは、その体験の「強度・純度」において、かなりの差・違い・幅があります。

どの程度の強度・純度を持っていれば、「見性」と認めるかは、指導者・人によって、かなり違います。
なので、凄く甘い判定基準の道場・指導者もあり、そういう道場では、見性者がバンバンでます。

たとえば、これなんかも見性体験ですが、かなり強烈です。
(ここで再見性と言われてるのは、あまり気にしないで良いと思います。
厳し目の基準では、過去の見性体験は、見性と言えるほどの内容ではないと考えられるからです)

山田耕雲老師 『再見性の大歓喜』(抄)

これも、見性体験と言えると思います。

玉城康四郎 『冥想と経験』より

あと、体験の強度・純度とは別に、より重要なのは、「その体験の定着率」です。

幾ら、ブットビの凄い体験をして宇宙と一体になろうとも、その体験が、そのときだけのもので、後に大して残らなければ、(もちろん無意味ではないですが)それほどの意味は持たないでしょう。

ですので、私の夕日の体験なども、強度の面では、甘めの基準では、見性体験と言えるかもしれないですが、当時、大して定着しなかったですから、それほどの価値は無いと言えます。(ただ、この道に入るきっかけになったと云う面での意味はありますが)

その後、本格的な修行に入り、何度か、そういう体験はありましたが、いまだに、「その状態」に暮らして居る訳でないので、とても自分が良い状態にあるとは思えません。日々、色々な悩み苦しみがあり、それに懸命に、瞑想・内観・ボディワークを駆使して対処している状態です。

そういう体験をすることは、頑張れば可能だけれど(あるいは努力などとは関係なしに、起こるべき境遇に生まれている人は、事故のようなかたちで、それを経験してしまうのですが)、それを日常化する(意識に定着させる、構造化する)というのは、何倍も困難なことと感じます。

ただ、自分がこれまで歩いてきた道筋と、見定めている方向性は、そう間違っていないと思うので、死ぬまで、できるところまで進めたらな、と感じて生きているのが現状です。

二つの比較

スランプのとき(うまくいってない、と思うとき)は、必ず、以下のどちらかの比較を行っている。

「他人と自分との比較」か、「自分と自分との比較」か、そのどちらかである。

ひとつは、人の話・ひとの体験、聞いた話(悟った人、良い経験をした人)と自分の現状を比べている状態。

もう一つは、過去の自分の良い経験(の記憶)と現在の自分の状態との比較をしている状態、そのどちらかである。

その、自分がやって(しまって)いることに気づき、それをやめれば、即、スランプなど消える。そもそも存在しない。

そして、「いまの、この自分の現実」と云う、比較を絶した(ブッ超えた)事実・答えだけがある。

悟り、覚醒、見性と気づき

この道を歩み進んでいくなかで、伝統的に、「悟り、覚醒」などと云う文脈のなかで語られてきた内容に類似した体験をすることもあるかもしれない。

それは、旅の列車の窓を流れる、刻々と移り変わる景色(風景)に似ている。

ウットリさせられるほど美しい眺めのこともあれば、ウンザリして見たくない、耐え難い眺め・経験のこともある。
それら、現象の多くが、一つの風景として、現れ、経験され、過ぎ去っていく。

しかし、問題は、その景色(体験)の中身(内容)にはなく、それらをひとつの風景(体験)として眺め、流し続けられる心の質のほうにある。


覚醒、悟り、見性などの伝統的な用語は一切使わず、「気づき(観察)」「洞察(理解)」などの言葉のみですべてを語ってみたい。

大きな気づきと、小さな気づき

気づきに(大まかに)二つのレベルがある。

クリシュナムルティや仏教、アドヴァイタ系などの、一般に、悟りとか覚醒とか言われる、深い・根源的なレベルでの気づきと、心理療法的な技法で扱われるレベルでの気づきです。

クリシュナムルティやアドヴァイタ系、仏教系の技法に取り組んでいる人は、心理療法的な技法を、対症療法的な(根源的でない、表面的な解消しかもたらさない)ものとして否定的に見ることが多いですが、私自身は、扱っているレベルの違いとして、連続的に捉えています。

浅い気づきから深い気づきへと、そのときそのとき、その人その人のレベルに合った適切な技法で、気づきの練習、基礎訓練、脳に気づきの筋道・習慣をつけることは大いに助けになるでしょう。

指導者に求めるべきもの

パーフェクトな指導者を求めないこと、みんな修行中。

それは、はじめ(入門、入り口)はあるけど、おわり(卒業、出口)の無い、死の瞬間まで続く、果てしない道行きです。

その行程の一歩一歩に、自己を見つめることの苦しみと惨めさがあり、自己理解と洞察の喜びがあり、そして他の何ものとも代え難い、大いなる自由・開放があるでしょう。

一回のリトリートでできるのは、振り返ってみて、せいぜい「全身鱗だらけの半魚人から、2.3枚の鱗がポロポロはがれ落ちた程度」に過ぎないもの。
しかし、その分だけの、発見も解放も、楽さも、間違いなくある。
そこからは、どう、それを継続し、波及させ、深化させていくかになる。

方法を超えるための方法

以上が、Art of Awareness(気づきの技術)の核心部分にあるものです。
それは、段階的な行程(ステップ)を作ったりマニュアル化したりすることが難しい理由を原理的な部分に持っています。
なぜなら、それを実践し、実現するには、「今のこの状態から抜け出し、もっと楽な良い状態に変わる」と云う希望を捨て、全面的に絶望することが、その瞬間求められ、それが受容的な気づきが成立する前提条件となっているからです。
その「全面的なあきらめ、受け入れ」を方法(テクニック)によって、作りあげることなど、当然、できないです。

しかし、間接的なかたちで、それが起こりやすい環境設定をし、方向づけを与えること、ある種の練習をすることは可能です。

カラダに深く突き刺さった、やっかいな棘を引き抜くためデザインされた(道具としての)別の棘-

それが、それぞれの研修コースの中身であり、その具体的な技術であると言えます。

それは、ハシゴをかけることができない場所へ向けてかけられた特殊なハシゴ、
登り切った最後にジャンプする(飛び降りる)ことを想定して設計された13段の登り段なのです。

だからと言って、最初から登らないで何かが起こることを待っていても、何も起こらないでしょう。

私たちにできることは、いま、全力で、この眼の前に降りてきた踏み段・天につながる梯子を、たとえ一段でも這い上がることのみです。

真に人事を尽くしたとき、はじめて天の扉が開かれるチャンスが訪れるのでしょう。

悟りは易く、相続は難し。

蝸牛 そろそろ登れ 富士(不二)の山 (小林一茶)

身を捨てることを知らない人に

心にはたしかに入りし法の道を いくたびけがす我が身なるらん
(心では確かに入った仏法の道を いったい我が身で何度けがすのであろうか)

道人といっても普通の人と変わらないと言った人に

色好む女なりとも法の師に 向かえば消ゆる時を知るべし
(色事を好む女でも仏法の師に 対面すると情欲が消える時があることを知るだろう)

人がいつも誤る事

他人の死を知って自分の死を知らない
貧乏を苦しんで逃れることを知らない
本来無と言えば無と知る事
悟らなければ仏道は成就できないが、悟る人はまれである
仏道に法(理論)を立てること
他人に騙されるのを嫌い、我が身に騙されるのを喜ぶ
神仏に祈る人はあるが、身の仏を敬わない
仏道の根本に到達しなければ、身を守る事はできない
他人の作法を詮索し、我が身が不作法である事

道歌集

道場に 入るべき時は 身をただし、心の鏡 曇り無きよう
花咲けば はや実になると 思うなよ、絶えず吹き来る 六つ欲の風
古は 術に留めし 此の道を、広げて説けや 人道として
徳を得れば 一天世界ことごとく 風に木草のなびくことわり
直立(つった)つた身とは自由のすがたにて 位といふはなほ心あり
位とは 行住坐臥に動静に 直立つものぞ位なるけり
稽古とは 一より始め十に行き 十より還る元のその一
はぢをすて 人に物とひ習ふべし これぞ上手のもとゐなりける