クリシュナムルティの教えは美しい。
しかし、それは真空中の真理である。
そこには誰も住むことはできない。
ちょうど月に住むことができないように。
(出典不明の誰かの言葉)
私の出発点にはクリシュナムルティが居ました。
それは二十代に入る少し前のこと、
いま考えても不思議なタイミングでの出会いでした。→ 夕日の体験
初めて読み、(そのすべては理解できないなりに)衝撃を受け、そこから数年間、自分なりに苦しんだ後に伝統仏教の世界へ流れる、という経緯をたどりました。
これから説明していく実践理論/技法は、そのような背景を持った人間が、試行錯誤、紆余曲折を経た末にたどり着いた方法論であり、その細部は、伝統仏教各派の技法でもって補填されています。
* 自身の修行時代、何年もかけて作った、この「クリシュナムルティ抜粋」に目を通していただくことで、そもそも私がどのような問題意識を持って実践修行をスタートしたのかを理解していただくことができると思います。
もし、その方の気づきの純度・強度・レベルが既に充分高ければ、こちらの研修で行うような、色々な技法を使っての「気づきの基礎訓練・チューニング(調律)」の必要性はなく、クリシュナムルティの言う通り、一切の技法も努力も方向づけも無しの「あるがまま」の観察を通して、問題の理解と、その深化、そして最終的な解放があるのでしょう。
その作業を進めていく上で必要な具体的注意は、気づきの実践マニュアル(攻略本)たる彼の著作のなかで詳細に語られております。
しかし、私含め多くの修行者は、悲しいかな、絶対的に気づきの純度・強度が足りません。
今あるままでは、あまりに気づきのレベルが弱く、鈍く、故にマニュアルがマニュアルとして機能してくれません。
そこに色々な技法を用いての(前段階の)「気づきの基礎訓練」の意義が存在しています。
最終的に、それらの技法が身について(=気づき・洞察モードが、意識・脳に構造化されて)、特に「技法・テクニック」としてやっている自覚がないまま、それが充分に機能している状態が日常化され意識の常態となってしまったならば、そのときには、それらの技法はすべて捨てて忘れてしまえば良いし、また、そうしなければクリシュナムルティの言う「選択なき、限界なき、理想(あるべき)なき、刻々の気づき」の状態には入れないでしょう。
補助的技法には、使うべき時期があり、また、離れ、捨てなければならない時期があります。
* しかし実際には、「捨てる」必要も「忘れる」必要もありません。
それらの技法が完成したとき、それらは静かに本来のものである「気づき-意識」のなかに溶け込み、姿を消し、そして透明な形で完全に機能します。
それが見られる(認識される)対象ではなく、見る器官となって自分の視界から消えたとき、はじめて完成した(身についた)と言えるからです。
補助的技法の存在意義
それは初めて自転車(二輪車)に乗るのを覚えるときに似ています。
「真の意味で二輪車で乗れるようになりたいなら、初めから助けの杖、補助輪としてのコロを使うべきではない」と考えてコロ(補助輪)を使わないか、「一人前に乗れるようになるまでは補助輪の助けを借りるのも有効である」と考えるかの違いです。
「コロ」と云う一時的な補助の助けを借りないでも、繰り返し転んで転んで、そうしながらも、そのうち乗れるようになる人も居るでしょう。
しかし、もし転び続けるのに疲れて「自分は自転車に乗る才能がないようだ」と諦め、そのまま一生自転車に乗らないで暮らす人が居たなら不幸なことです。
補助輪付きであろうと実際に自転車を運転し、「自転車に乗る」と云う行為の具体的な運動イメージを脳のなかに形成することは、新たな技術の習得の際、役立つでしょう。
ただし既にコロ無しで乗れるようになっているにも関わらず、それに気づかず、いつまでもコロつきで乗りまわしている人が居たならば、それは滑稽なことですし、「自転車とは、本来コロつきで乗るものだ」との信念(教義)を築いてしまうならば、それは明らかな間違いでしょう。
それと同じような話ではないかと考えます。
* 「リハビリ前期の装着具」と云う喩えでもって、同じ説明をすることも可能でしょう。
瞑想とは…
世の中には数多くの瞑想法、瞑想流派、テクニック、伝統が存在します。
これから説明していく瞑想とは、私がこれまで主に学んできた、大乗仏教(禅)と上座仏教(ヴィパッサナー)の理論と技法を素材に要素抽出を加えたものです。
禅とヴィパッサナーのなかにすら、数多くの流派があり技法がありますが、私の理解するそれらの最大公約数ともいえる最善の部分、共通して持つ認識を挙げるとするならば、それは「いま此処で、この瞬間、みずからのカラダとココロに生起しており、感じられ、経験されている身体感覚や外界知覚、思考や感情に受容的に気づくことを出発点とする」ところにあります。
それを実現するための具体的なやり方(アプローチ)は多くあるにせよ、この一点において違いはないものと信じております。
まず、そこを、瞑想の確実なる出発点として押さえておきたい。
つまり、ここで云う瞑想とは、いま、現に存在していない「さとり」とか「覚醒」とかを求める行為ではなく、いま、此処に、現に存在している(現成している)「まよい」とか「苦しみ」とか「不安・不満」などの実体を探求し、掘り下げ、直接的に体験する試みであり、この二つは(北に進むか南に進路を取るかが全く違ったことであり、最終的に違う場所に行き着くように)まったく異なった営みであるという理解は重要です。
観察・理解・変容
実践において、観察(気づき)→ 理解(洞察)→ 変容(問題からの開放)というプロセスが、それぞれの局面において、(深まりながら)反復的に繰り返されます。
それは、自身の心理的/肉体的問題への気づき(観察)→ 洞察(理解)→ 変容(問題の自己変容・ 自己変貌・ 自己消散・ 自己消失、問題が問題でなくなること、問題でなかったことに気づくこと)と云うプロセス― 気づき(観察)から洞察(認識の転換)へと至るプロセスです。
* グリーンヒルの地橋先生の言われる、「気づき→観察→洞察」と云う説明と比較した場合、私は「気づき」と云う言葉の中に「観察」も含めていることになります。
また、これは(三つに分けることもできますが)まとめれば、一つのもの・ことでもあります。
観察は、「そのモノ(対象)を、これまでと違う仕方で観る」という意味において、理解(洞察)=(物事が違う形で立ち現れること・認識の転換)を既に孕んでいる。
理解(洞察)=ある物事が、それまでと違うモノとして認識されること=即、変容でもある。
よって、「観察」即「理解(洞察の成立)」であり、それは、そのまま「変容」である。
この「観察・理解・変容」のプロセス全体を「気づき」という一言で表すこともできます。
* 以下の「ウサギ/アヒル図形」において、二つの「見え」の反転は、一瞬で起こるとも言えるし、数秒の見つめる時間を要するとも言える。
二つの見えが同時に成立することは決してなく、必ず数秒ごとに反転する。
意識の力で、この反転を止めることは不可能である。
また、それを「ウサギでもアヒルでもない」意味不明の図としてみることには、ある種の(思考・認識しない)努力を要する。
つまり、「気づき」と云う言葉は、話者によって、あるいは話の文脈によって、
1. (観察)=気づき、と云う意味で使われる場合、
2. (気づき→洞察)=気づき、と云う意味で使われる場合、
3. (気づき→洞察→変容)=気づき、と云う意味で使われる場合があるということです。
更に、「気づき=観照者意識=純粋意識=ハイアーセルフ(と言われるもの)=意識」であり、すべては「気づき」であり「意識そのもの」である、と云う使い方をされる話者もおります。
また、この「気づき=洞察モードで働いている脳の状態」を、「日常モードで働いている脳=自我=私」が、自分とは別の一つの人格体として(外在的に)認識したとき、ハイアーセルフ、チャネリングの宇宙人、内なるグル(内なる師)として、「他者」的、「超越者」的に経験されます。
マハーシメソッドの三本柱(一つの根本原理と、二つの補助技法)
* これから説明していく瞑想の技法は、非常に合理的にできた精密な修行システムです。
そこには無駄な(空論的・観念的な)要素が少ない分、厳密に正確に適用(実践)することが大きな課題となり、少しでも技法の理解にズレがあり、違うことをやってしまうと、体験の方向にズレが生じてしまいます。
正しい方向とは、自己理解・自己認識が深まる方向性なのですが、ややもすると、そうではなく、陶酔とも言える特殊な意識状態・瞑想経験、気持ちよさを反復して味わうことが目的化していってしまうことが多くあります。
はじめは、やはり一週間以上の時間をかけての、「やり方の説明を聞く→ 集中的にやってみる→ (面接にて)レポートと疑問点を出す→ 技法の微調整(間違っている点の修正)→ (再び)実践→ レポート→ 微調整…」という繰り返しが必要となります。
世の中には、様々なタイプの瞑想法が存在し、様々なスタイルの瞑想センターが存在します。
こちらの瞑想コースの基礎訓練においては、瞑想技法のベースとなる骨組みを「マハーシメソッド」におくアプローチをとります。
マハーシメソッドとは、どのような技法でしょうか?
そこには、「一つの根本原理」と「二つの補助的技法」が存在します。
1 常に(いつでも、どの瞬間も)全てに(あらゆる対象に)気づいていること(根本原理)
2 ラベリング(ノーティング)の確立・意識への定着・構造化(補助技法1)
3 中心対象の設定と、その場に応じた適用(補助技法2)
1 絶え間ない気づき― つねに、すべてに気づくこと
「つねに」とは?
起きている間中(朝、目を覚ました瞬間から、夜、眠りに落ちる、その瞬間まで、切れ目なく、均質に)。
「すべてに」とは?
三つの世界(領域)全体に、ムラなく。
1 身体(内部)感覚― (体表面の接触感、圧迫感、拍動/脈動感、深部の筋感覚、痛みなど)の世界(領域)
2 外界(知覚)― 主に、見る・聞くの世界(領域)
3 意識(心)― 思考(内語)・メンタルイメージ・感情・欲求の世界(領域)
* 味(味覚)、匂い(嗅覚)は、1と2の中間にある(中と外の狭間にある)感覚領域(世界)と言える。
私たちにとって「生きてることの現実・実質・内容」とは何でしょう?
私たちが現実に瞬間瞬間感じている現実とは?
それは、身体の実感(内部感覚・皮膚感覚)、外界知覚(見えるもの、聞える音、味、匂い)、そして自分の心、意識(思考、感情、イメージ、欲求)、その三つ世界の合成ではないでしょうか。
● 触覚
・圧覚
・温覚
・冷覚
・痛覚
・振動感覚
● 筋感覚
・関節の角度や、身体の位置
● 視覚
・運動覚
・色覚
・光覚(明度の感覚)
● 内耳― 前庭(平衡感覚)
● 行住坐臥の四威儀→動く・動かない(インテンション・身体制御の意思の有るなし)の二種類のみと云う理解
● 身受心法の四随念→ 身体から心への三世界論で説明する
● 生きていることと別の場所でなく、「生きていることそのもの」のなかで瞑想を作る。
日常の「生きてることそのもの」を瞑想とする。
いわゆる「静かに座っておこなう瞑想」とは違う発想。
「何が瞑想か?」ではなく、「何を瞑想と為すのか?」「生活の中の、この行為を、どうすれば瞑想化できるか?」と云う発想に基づいた技法。
つぎにまた、比丘たちよ、
比丘は、進むにも退くにも、正知をもって行動します。
真っ直ぐ見るにもあちこち見るにも、正知をもって行動します。
曲げるにも伸ばすにも、正知をもって行動します。
大衣と鉢衣を持つにも、正知をもって行動します。
食べるにも飲むにも噛むにも味わうにも、正知をもって行動します。
大便小便をするにも、正知をもって行動します。
行くにも立つにも、坐るにも眠るにも目覚めるにも、語るにも黙するにも、正知をもって行動します。以上のように、身の内において身を観つづけて住み、
あるいは、外の身において身を観つづけて住み、
あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。
また、身において生起の法を観つづけて住み、
あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住み、
あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。そして、かれに「身のみがある 」との念が現前しますが、それこそは智のため念のためになります。
かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。
このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。長部経典 第二十二経「大念処経(心の専注の確立)」
もし、研修前に、あらかじめ瞑想を試してみたい、という場合には、以下のDVDブックをオススメします。
『実践 ブッダの瞑想法―はじめてでもよく分かるヴィパッサナー瞑想入門 (DVDブック)』 地橋秀雄
ラベリング論
ラベリングとは、概念を使って概念を超える道、言語(概念)によって、言語(概念)を超える方法論である。
それは、指に刺さった棘を抜くのに、別の棘を使ってするのに似る。
● ラベリングの五つの機能(はたらき)
1 マントラ(念仏)的、心のコマの強制的使用
2 知覚事実の事後確認
3 中心対象の指定・固定機能 意識に対する指示・命令(インテンション)機能
4 言語の要素抽出(ソート)の機能 対象の切り出し/際立たせ機能
5 言語による瞬間的な本質直感の機能(知恵が出るための伏線、仕込みとして)
● ラベリングの言葉の短縮化
感覚、感じる→ か
耳、音→ に
眼、見た→ め
思考、考えた→ い(意)
イメージ→ え(映像) など
● 認識論的問題設定と言語論的問題設定の違い
・言語の機能(ナーガルジュナ、ソシュール)
・認知科学的立場(味覚のレセプター、目の3つの色)
味覚は生物の生存に必須の感覚として進化してきた。多くの生物が持つ「甘さ」を感じ、「おいしい」と感じる能力は、エネルギー源である糖類(栄養)が含まれる食べ物を効率良く検知するためのセンサー機構である。
味覚(甘味、塩味、酸味、苦味、うま味の基本五味)は、味蕾(みらい)と呼ばれる細胞の集合体によって感知される。
味蕾は数十~百個からなる「味細胞」と呼ばれる細胞の集合体であり、5つの基本味(甘味、塩味、酸味、苦味、うま味)はそれぞれ別の味細胞で受容される。
● 3つの世界領域、それぞれのラベリングの作り方・入れ方
1 身体内部感覚→感覚 触れた(接触感) 感じた(それ以外)、
あと、オノマトペが使える。→ はじめに細分化、徐々に一元化へ進む。
2 外界知覚、門ごとに一つ 視覚→ 見た、眼など 聴覚→ 聞いた・音、など 味、匂い→ 感じた
暑さ、冷たさ
3 意識→意 まず、思考、感情、イメージ。欲求(~したい)、苦・楽→欲望・嫌悪
徐々に細分化、アドリブへと進む。
● ラベリング作りのルール
1、基本、過去形で作る
「上げる、下げる、感じる」→「上がった、下がった、感じた」
例外→膨らむ、へこむ、など
2、できるだけ短い言葉(音節)で作る(1~4音節。5音節は、他にどうしようもない場合以外避ける)
「見た、聞いた、感じた、音、耳、感覚、など」
最大4音節 できるだけ短く 一音節が最高 眼(め)、耳(に)、意(い)など 高速化に備えて
3、 より客観性のある(巻き込まれてない)対象化された言葉で作る
「痛い、寒い、眠い、イラツク(イライラする)」→「痛み、寒さ、眠気、イライラ感」など
意味があっているか? 概念として適切か?
より概念的でない言葉を選ぶ 例 進む、あげる、噛む、など。
4、(能動性・インテンション・意志・意図を含まない含まない)受動的な言葉で作る
「離れる、触れる」より→、「離れた、触れた」など。
「上げる、下げる、伸ばす、掴む」→「上がった、下がった、伸びた、掴んだ、感じた」
インテンションが混ざらないように。受動的、人の体を観察してるような。
例 「見てる、見たい、痛い、のびた、伸ばす」などは不適切。
5、響きのいい、スッキリした言葉で作る(できるだけ濁音は避ける)
「感じた、触れた、見た、聞いた」など
基本、濁音は使わない 脱けのいい音を選ぶ
語尾の音を揃える ~た、など
6 「~が、~した」の主語述語を含んだ文章にしない。結論部分のみ。自分で分かる部分は言語化しない。
目で見た。〇〇を感じたなどは、「見た」「感じた」のみに。
・身識(身体感覚)の場合、迷ったら、全て「感じた」「感覚」で次へ進む。
・意識(思考のチャンネル)の場合、「~と考えた(思った)」「考えた(思った)」「思考」で、「カッコ閉じ」する。
メンタルイメージ(心象)の場合、「イメージ」「映像」など。
・欲求(インテンション)は、すべて「~したい」、あるいは「欲求」
例→「立ちたい」「伸ばしたい」「食べたい」「掻きたい」など。
・宣言、断言(指示)のラベリング
「戻ります」「感じる」「stay!」など、中心対象に共石に戻すための言葉
適切なラベリングは、修行を容易にし、進歩を助けるが、不適切なラベリングは、気づかないところで修行を阻害する。
satiが切れてない・続いているとは、どういう状態か?
1 拍動の単位 入門レベルの目標
2 4分の一秒の刻み カニカサマーディの始まり
3 10分の一から20分の一の限界→ヴィパッサナーレベル
・ミシン(ホッチキス)のたとえ
・射撃ゲーム、皆殺しの例え、関ヶ原の戦いのたとえ
・サティの自動化 心の家の、気づきによる全自動化(オール電化) 何もしなくて良くなる、気づきが全てやってくれる 瞑想
生物学的一瞬
ラベリングには、大きく2つの役割がある。
①は、その瞬間、自分に何が経験されたのか、認識を確定する仕事だ。
同じものを見ても聞いても感じても、政治家と幼児とブルドッグでは、認知が異なるのだ。
言葉がなければ、経験の意味が曖昧になる。
色と形が視覚野に映じただけなら、人の認知もゴキブリも変わらない・・・。サティを入れた次の瞬間、六門からどの情報を取り、何をどのように経験するのかは、ラベリングによって大きく影響される。
例えば、①「痛み」、②「感覚」、③「(痛みに対する)嫌悪」とラベリングしたとする。
①は痛みの観察を続行し、②は痛みを感覚の一つとして上位から観るだろうし、③は、痛みに反応する心の観察を続けるだろう・・・。
● 感情の内実
それは、内的思考(内語、つぶやき)と(その場面に関する)心的映像と身体感覚(筋肉反応・脈動など)の複合体・塊のようなものかもしれません。
中心対象の設定
・朝の駅の雑踏の中での時計の音のたとえ
・絞りと開き 意識のスポットライトのたとえ
サティとサマーディのバランス(調整)
人間とは….考えられぬ速さで継起し、久遠の流転と動きのなかにある知覚の束、あるいは集まり
「感情が動くこと」が問題なのではなく、それが「残ること(残余して、尾を引くこと)」が問題。
それを掃け切らせるための技術が、瞑想、気づきの技法である。
方位磁石が東西南北、自由に振れて、滞らなければ良いように、人の心も喜怒哀楽、自由に振れてもいいから、固着しないことが肝心。
でも、それが難しいので、そうなるための方法論が色々あると云うこと。
法と概念の識別
・事実とイメージの峻別
・星の輝きと星座(の概念)
目的志向とプロセス志向
・フライング
・メンタルリハーサル
・段取り能力
・マルチタスクとシングルタスク
瞑想の実践技法
* ヴィパッサナーをベースにした実践技法のリスト
● 拍動(脈動)瞑想 ―動かない瞑想の基本型ー
座る、あるいは横たわって、身体を固定・安定させて
1 合掌 胸の前で手を合わせて(指で脈を取りながら、ストーブの熱、しびれを作って)
2 手を少し開いて
3 手を膝におろして
4 片手ずつ
5 片手をパーツに分けて
・オノマトペのラベリング化
● 呼吸瞑想
・ 鼻(気が上がりやすいの注意)
・ 腹部(イメージに気をつける)横臥時に適している
・ 全身
・ 足裏(イメージ) 真人は踵をもって呼吸す
● 歩行瞑想 ―動く瞑想の基本型ー
接触感→ 「触れた」
内部感覚・圧迫感→ 「感じた」のラベリング
6つのステップ(ボディワーク的訓練へと繋げる)
1 触れた足(軸足)で1分割(触れた)→ 2分割 (触れた、感じた)
2 すり足(かかと)2分割 (触れた、感じた)
3 浮いた(動く側の空中の足)2分割(触れた→感じた)
4 合体(左右両足同時)
5 全身(色々な組み合わせ)ボディワークを組みあわせて(ドローイン、頭部など)
6 身体外への気づき(見た、聞いた、思考、イメージ有り)
・インテンションのラベリング
・歩行瞑想の際の姿勢の注意
・歩行瞑想のための歩き方の説明
● 痛みの観察
1 空間的措定(境界線、輪郭)
2 時間的追跡(生住滅)
3 法と概念の識別・峻別
● 食事(喫茶)瞑想
・目を瞑る
・チャンネルを重ねない
・一時停止(ポーズ)を入れる
・感覚の余韻を聴く
● 日常の動作(トイレ、お風呂、歯磨き)
・お風呂が一番難しい
・歯磨きのとき、あえて大雑把に捉える。
● ボディワークとの組み合わせ(身随観化、瞑想化)
・横臥(死体のポーズ)での注意
・立膝だて(フェルデンクライス・メソッドとの組み合わせ)
● クリアリング
禅の技法
「公案系」と「即念系」という禅の二大別(理解分類)について。
1.即念(気づき)系
関連資料
● 「少林窟法語抜粋」
● 「大智老尼・只管工夫(抄)」
● 「少林窟・修行のポイント、他」
● 「井上義衍老師示衆」
● 「青野敬宗老師語録(抄)」
● 「正受老人示衆」
● 「Krishnamurti 《あるがまままのもの》の観察」
2.公案系
世間一般で言う、「無字の公案」などは、ここで言う「公案」ではありません。
それは、まったく違ったものです。
関連資料
● 「久松真一集」
● EO「最後の公案」
● クリシュナムルティ 「最初で最後の公案(impossible question)」
● 真宗 「妙好人集」
●「信前信後—私の内観体験」吉本伊信
3.丹田系
丹田禅とは、完全に「身体技法」と言っていいものです。
「生理的に禅定をつくる特殊なテクニック」です。
上記二つのものとは異質な、身体寄りのアプローチであると考え、別項目としました。
関連資料
●「坐禅の構造と実践」 関田一喜著 (木耳社) ¥1,550
●「鉄人を創る肥田式強健術」 高木一行著 (学研 ムー・ブックス) ¥860
現在の臨済禅(いわゆる、白隠禅)が抱える問題点の一つに、
この「公案禅」と「即念禅」と「丹田禅」を、互いに効力を弱めあうような、まずい仕方で
統合してしまっていることがあるように思えます。
4.只管打坐系
坐相論(坐相の作り方について)
・坐相三年、あるいは坐相八年という言葉
・カラダからの瞑想
・ピラミッド(三角錐)イメージの間違い
・ドローイン
・坐骨のフック
・手順を守る
気づき系と反応系
● ヴィパッサナーとサマタの定義
・法の観察か、概念(複合体)を対象とした瞑想かの違い。
・二つの瞑想法があるというよりも、X(sati)Y(Samādhi)2つの軸のめもりの違い。
・どちらの技法も使えたほうが有利(二つのツール。武器を持っていたら、場面に応じて使える)
・場合によっては、イメージ瞑想の方が即効性を持つことも多い。
・ヴィパッサナー(純粋観察系)と慈悲の瞑想(反応系、イメージ系)のバランスの良い組み合わせが必要。
・ある人の、いま現在置かれている状況は、その人の信念を正確に映し出す鏡である。
・「ままならぬ」からこその修行、「ままならぬ」からこそ磨かれる
日々、生きていて、本当に「ままならぬ」ことの連続で、「ままならぬ」ことばかりが起こり続けるのですが、「ままならぬからこそ修行になる」と考えて、その労苦のなかで、自分を磨いていく。
そう思いながら日々の問題に対処し、自分を鍛えていくしかない。
マイナスの条件から、プラスの経験・洞察を生み出す心構え・向き合い方。
それは、修行の設備面においても。マイナスの条件をプラスの経験に転ずる力を持つ。
・それは、たとえば、日々握られ続けるドアノブのようなもの― その年月が自分を磨き、艶を出し、味わいのある人となす。
・幸福というのは10%は環境が決めているが、残りの90%はその環境を脳がどう処理するかで決まる。
「怒り」の処方箋
怒りは、「悪いもの」だから無くさなければならないのでも、「良いもの」だから肯定してもいいのではなく、人にとって「つらい」「苦しい」ものであり、「カラダとココロに悪い、害がある」ものだから無くさなければならない、と考えます。
怒りは体を緊張させ、縮め、硬くします。
この胸腹の、こわばり・塊を持って生きることは苦しいことで、長期に渡る、怒り ・恨みの温存は、ヒトの心と身体を駄目にします。
怒りが発生すること自体が問題と云うよりも、それが何時までも身体反応として残ってしまうことが問題です。→ 『奇跡の脳― 脳科学者の脳が壊れたとき』の九十秒ルールを見よ。
● 処方箋を幾つか。
・ボディワーク系
体を緩めること、特に胸・腹の緊張、こわばりのリリース。
クリアリング
・反応系
言い聞かせ 知的考察・理解による対処 →反応系アファーメーション
肯定的イメージ反転法
慈悲の瞑想など
ラメッシ的理解によるもの
・ 気づき系
内観
心理療法的技法(POP、コアトラ、セドナなど)
ヴィパッサナー
禅の対応
クリシュナムルティ的理解
許しの近径
ラメッシ・バルセカールの教えでは、「罪悪感からの解放」など、「自分のなかの悪感情に対して、更に悪感情を重ねる」「怒りに対して怒る」「嫌悪を持っていることを嫌悪する」と云う、修行者が陥りがちな悪循環・ループによって、現在の事実・自分を観察するに必要なエネルギーが浪費されるのを防ぐ、と云うところに、まず第一のポイントがあるように感じます。
しかし、同時に、この観念は、返す刀で、他人に対する「怒り、うらみ」を意識の深層の部分から切ってくれる、切除に役立つように思います。
通常、私たちは、たとえば親友との関係で「どうしても困っていいるから助けてくれ、と、お金を無心され、かなり迷ったけど、自分の大切に取っておいた貯金を切り崩して、ほとんど貸してあげて、そのときは泣き出さんばかりに感謝され、必ず一年以内には返すから、と言われたのに、結局、一年経っても何の連絡もなく、こちらから連絡取ろうとしても梨のつぶて、何度か催促しているうちに不仲になり、そのうち第三者から、あの人が貴方の悪口言いふらしているよ、と聞かされ、その内容は事実無根の、自己弁護のためのかなり酷いものであった」などという事件とか、「自分の同姓の大親友と自分の奥さん(パートナー)が、実はずっと前から浮気をしていて、自分はまったく何も知らず気づかず、心を許して付き合っていたのだが、それがある切っ掛けで発覚した」とか云う出来事などが起こると、そうとう腹が立ち、こいつ殴ってやろうか、とか、まずは思いますが、瞑想などしている人ならば、どうにか色々な肯定的な考え方(反応系の思考)→反応系アファーメーションや瞑想による気づきなどで、どうにか表面的には、気づき、受け入れ、受容して、ある程度の時間をかけて、「それは自分にとって、起きるべくして起こった良きことだったのだ、甘んじて受け入れよう」と云う認識には至るでしょう。
が、実際には、心の奥底では、その相手に対する「怒り・腹立ち・軽蔑」の気持ちは残余することが多いでしょう。
その場合、主観的な感覚としては「怒り」ではなく「哀れみ」を感じる、などの形で、その怒りはくすぶり続けるかも知れません。
この「怒り」の感情の正当性の根拠は、「相手は、そうしない(その行為を選ばない)こともできたのに、そうしなかった」「違う態度・行為をすることもできたのに、あの(最低の)行為をした」と云う人間・世界認識にあると思います。
たとえば、私たちは、虫とか魚とかが、自分の気に入らない、やって欲しくない行動を起こして、それによって自分が被害を蒙ったとしても、虫や魚にそれほど怒りません。
あるいは、今日は天気がいいから、どこかに遊びに行こうと思っていたら、突然、豪雨になった際にも、がっかりして、「あ~あ…」とは思いますが、天候とか地球とかに対して怒ることはしません。
それは、虫や地球の自由意志で、それが起こされたとは考えずに、なるべき必然で、その現象が起こったと理解しているからです。
ラメッシは、すべての人間の行動・言動も、それと同じく「自由な意志、自由な選択」は、どこにも介在していないと説きます。
親友の裏切りも踏み倒しも、そこに本人の何の自由も選択も、自分にとってもっと良い、他の別の行動を選ぶ余地も、存在していないと説きます。
この人間・世界理解の徹底によって速やかに、他人に対する「うらみ・怒り」は解けていくことでしょう。
やるべきことは、このことの徹底した考察と納得です。
「私を傷つけた人々すべてを完全に許します」との「許しの祈り」というものを目にしました。
この祈りを、自身の内面で、言葉通り遂行するには、おそらくラメッシ的な「自由意志の不在」の認識徹底が必要だろうと思うのです。
そうしないと、怒り・恨みと云う本当の感情の微妙な抑圧となってしまうか、あるいは、それが「高みからの見下し」と云う形に変形されて、相手との関係に残るのでは、と。
現実・現象の根本的受容、受け入れ、全托、許し、感謝— それらすべてに「人間の心に対する決定論的理解の徹底」は関わってくるように思います。
良い出来事、悪い出来事
(ある方への文章から)
人が、その人生において経験する状況・出来事が、究極的・絶対的な意味において、良いものであるのか悪いものであるのかは、どの時点で結論を下すかによって、どのようにもなり得るものだと感じます。
一年前に起こった、自分の人生をメチャクチャにした災難・災いと思っていたことが、一ヶ月後には、自分の人生を劇的に変換させた、最高の祝福・神の恩寵と感じられているかもしれない。
そのように、ある出来事が、魂の成長と云う観点において、究極的に「善なる」出来事であるのか、「不幸なる災い」であるのかは、最終的に、人生の終わりの最後の瞬間(あるいは、更にその先に)になるまで分からないことなのかもしれません。
あなたが現在見舞われている過酷な状況が、祝福すべき良き出来事であるのか、同情されるべき不幸なる事態であるのかは、私には分かりません。
ただ、そういう大変な状況が日々の生活に起こっている以上、その出来事に、そのつど、自身の中心(奥底)の声に耳を澄ませ、耳を傾けながら、瞬間瞬間、自身を通して最善の対応が為されることを神に(あるいは運命に、あるいは何かは分からない絶対なるもの SomethingGreatに)祈りながら、一瞬一瞬、泳ぎ抜いていくしかありません。
その、為した対応が、良きものであったの間違ったものであったのかは、誰にも、どこまで行っても分からないことです。
今、自分にできる、自分に考えられる最善だと思えることを、祈りを持って、愛を持って為すしかありません。
結果は神に任せ、また成功か失敗かの判断も、自分の限定され、短いスパンで考えられた、小さな頭で出すことなしに。
ただ、私自身の(これも正しいかは分からぬ)印象で言えば、最終的な決断(実際行動)は、内観研修を受けられた後に、もう一度、再度熟考されてからにした方が良いのではないかと思います。
内観後に、もしそれまで考えられていた「最善なる対応」とは異なった「最善・解決策」に思い至ったときに、それを方向修正できるだけの余地を残されておかれることをお勧めしたく思います。
以上、私の書きました提案が、良いもの・適切なものであるか間違ったものであるか、私自身にも分かりません。また責任も取れません。
しかし、今の私に思いつける最善だと思える提案を書かせていただきました。
● 慈悲の瞑想 慈しみの随念
Aham avero homi, abyaapajjo homi,
sukhii attaanam pariharaami.
Sabbe sattaa averaa hontu, abyaapajjaa hontu,
sukhii attaanam pariharantu.
私が、怒りのない、憎しみのない人間であらんことを。
安楽に過ごせんことを。
生きとし生けるものが、怒りのない、憎しみのないものであらんことを。
安楽に過ごせんことを。