瞑想の技法

クリシュナムルティの教えは美しい。
しかし、それは真空中の真理である。

そこには誰も住むことはできない。
ちょうど月に住むことができないように。

(出典不明の誰かの言葉)

はじまりのクリシュナムルティ

私の修行の出発点にはクリシュナムルティが居りました。

それは二十歳になる直前のこと、
いま考えても不思議なタイミングでの出会いでした。→ 夕日の体験

初読し、(その多くは理解できないまま)衝撃を受け、そこから数年間、孤独に煩悶する時期が続きました。

その後、「このままでは、ちょっとヤバい」と、抜け出せなくなった穴蔵から抜け出す梯子を求めて伝統仏教の世界へ流れる、という経緯をたどりました。

* 自身の修行時代、何年もかけて作った、この「クリシュナムルティ読解」に目を通してもらえれば、私が、そもそも、どんな問題意識を持って実践修行をスタートしたのか、理解していただけるものと思います。

ここから解説していく実践理論と技法とは、そのような背景を持った人間が、試行錯誤、紆余曲折を経た末にたどり着いた方法論であり、その細部は、伝統仏教各派の技法によって構成されています。

もし、その人の、気づきの純度・強度が既に充分なレベルにあるならば、こちらの研修で行うような「気づきの基礎訓練・チューニング(調律)」の必要性はなく、クリシュナムルティの言う通り、一切の技法も努力も方向づけも無しの「あるがまま」の観察を通しての自己理解と変容、そして最終的な解放が起こるのでしょう。
その作業を進めていく上で必要な具体的注意は、気づきの実践マニュアル(攻略本)たる彼の著作のなかで詳細に語られております。

しかし、私含め多くの修行者は、悲しいかな、絶対的に気づきの純度・強度が足りません。

今あるままでは、あまりに気づきのレベルが弱く、鈍く、故にマニュアルがマニュアルとして機能してくれないのです。

そこに色々な技法を用いての(前段階の)「気づきの基礎訓練」の意義や必要性が存在しています。

最終的に、それらの技法が身について(気づき・洞察モードが、意識・脳に構造化されて)、特に「技法・テクニック」としてやっている自覚がないまま、それが充分に機能している状態が日常化され意識の常態となってしまったならば、そのときには、それらの技法はすべて忘れて(捨てて)しまえば良いし、また、そうしなければクリシュナムルティの言う「選択なき、限界なき、理想(あるべき)なき、刻々の気づき」の状態には入れないでしょう。

補助的技法には、使うべき時期があり、また、離れ、捨てなければならない時期があります。

しかし実際には、「離れる」必要も「捨てる」必要もありません。

それらの技法が完成したとき、それらは静かに本来のものである「気づき-意識」のなかに溶け込み、姿を消し、そして透明な形で完全に機能します。

それが見られる(認識される)対象ではなく、見る器官となり自身の視界から消えたとき、はじめて完成した(身についた)と言えるからです。

補助的技法の存在意義

それは初めて自転車(二輪車)に乗るのを覚えるときに似ています。

「真に自転車(二輪車)に乗れるようになりたいのなら、初めから助けの杖としての補助輪(コロ)を使うべきではない」と考えて、始めからコロ(補助輪)無しで練習するか、「自在に乗れるようになるまで、コロ(補助輪)の助けを借りるのも有り」と考えるかの違いです。

コロ(補助輪)の助けを借りないでも、繰り返し転ぶ経験を重ねて、乗れるようになる人も居るでしょう。

しかし、もし、転び続けることに嫌気がさし「自分には自転車に乗る才能がないのかも…」と諦めてしまい、そのまま一生自転車に乗らない(乗れない)人が居るなら、それは不幸なことです。

補助輪付きであろうと実際に自転車を運転してみ、「自転車に乗る」と云う行為の具体的な運動イメージを脳裏に確立させることは、新たな技術の習得の際には有効であるでしょう。

ただ、既にコロ無しで乗れるようになっているにも関わらず、それに気づかず、いつまでもコロつきで乗りまわしている人、あるいは「自転車とは、本来コロつきで乗るものである」との信念(教義)を築いてしまってる人がいるとしたら、それは滑稽なだけで。

それと同様な話ではないかと考えます。

* 「リハビリ前期の装着具」と云う喩えでもって、同じ説明をすることも可能でしょう。

観察・理解・変容

実践においては、観察(気づき)→ 理解(洞察)→ 変容(問題からの開放)というプロセスが、それぞれの局面において(深まりつつ)反復的に繰り返されます。
螺旋階段を昇っていく(あるいは降りてゆく)かのように。 漸進的アプローチ

それは、自身の心理的/肉体的問題への気づき(観察)→ 洞察(理解)→ 変容(問題の自己変容・ 自己変貌・ 自己消散・ 自己消失、問題が問題でなくなること、問題でなかったことに気づくこと)と云うプロセス― 気づき(観察)から洞察(認識の転換)へと至るプロセスです。

また、これは、三つに分けることもできますが、実際には、一つのもの・ことでもあります― 連続する一連のプロセスを撮影し、三枚の静止画像として切り取り、並べたもの。

観察は、「そのモノ(対象)を、これまでと違う仕方で観る」という意味において、理解(洞察)=(物事が違う形で立ち現れること・認識の転換)を既に孕んでいる。

理解(洞察)=ある物事が、それまでと違うモノとして認識されること=即、変容でもある。

よって、「観察」即「理解(洞察の成立)」であり、それは、そのまま「変容」である。

この「観察・理解・変容」のプロセス全体を「気づき」という一言で表すこともできる。


この「気づき」と云う言葉は、話者によって(あるいは話の文脈によって)、

1.  観察=気づき、と云う意味で使われる場合、
2.  観察→理解(洞察)=気づき、と云う意味で使われる場合、
3.  観察→理解(洞察)→変容=気づき、と云う意味で使われる場合、

と色々な含みを持って使われます。

更に、「気づき=観照者意識=純粋意識=ハイアーセルフ(と言われるもの)=意識」であり、すべては「気づき」であり「意識そのもの」であり「さとり」である、と云うような使い方をされる場合もあります。

また、この「気づき=洞察モードで働いている脳の状態」を、「日常モードで働いている脳=自我=私」が、自分とは別の一つの人格体として(外在的に)認識したとき、ハイアーセルフ、チャネリングの宇宙人、内なるグル(内なる師)として、「他者」的、「超越的存在」的に経験されます。

ウサギとアヒル― 認識の転換

この「ウサギ/アヒル図形」において、二つの「見え」の反転は、一瞬で起こるとも言えるし、数秒の見つめる時間を要するとも言える。

二つの見えが同時に成立することは決してなく、必ず(数秒ごとに)反転する。

意識の力で、それを止めることは不可能であるし、また、それを「ウサギでもアヒルでもない」意味不明の視覚情報として見ることは非常に難しい。

瞑想の実践技法

これから説明する気づきの訓練の体系は、非常に精密なものです。

そこには無駄な(空論的・観念的な)要素が少ない分、厳密に正確に適用(実践)することが問題となり、少しでも技法の理解にズレがあり、違うことをやってしまうと、体験の方向にズレが生じてしまいます。

正しい方向とは、自己理解・自己認識が深まる方向性なのですが、ややもすれば、そうではなく、陶酔とも言える特殊な意識状態・瞑想経験、気持ちよさを反復して味わうことが目的化していってしまうことが多くあります。
「修行の動機と、その純化」

はじめは、やはり一週間以上の時間をかけての、「やり方の説明を聞く→ 集中的にやってみる→ (面接にて)レポートと疑問点を出す→ 技法の微調整(間違っている点の修正)→ (再び)実践→ レポート→ 微調整…」という繰り返しが必要となります。


世の中には多くの瞑想の流派(伝統)と技法(テクニック)が存在します。

これから説明していく理論/技法とは、禅(大乗仏教)とヴィパッサナー(上座仏教)を素材に要素抽出を加えたものです。

禅やヴィパッサナーのなかにすら、数多くの流派があり技法があり、それぞれが、長所/短所(優れた部分と、いま一つな部分)を持っています。

それらを考えたうえで、こちらの瞑想コースにおいては、技法のベース(骨組み)を「マハーシメソッド」におきます。

マハーシメソッドとは、どのような技法でしょうか?

そこには、「一つの根本原理」と「二つの補助的技法(原則)」があります。

マハーシメソッドの三本柱

1. つねに(いつでも、眼が覚めている、どの瞬間も)すべてに(あらゆる現象、あらゆる対象に)気づいていること 【根本原理】

2. ラベリングの意識への定着(構造化) 【原則1】

3. 中心対象の設定と、場面(状況)に応じた適用 【原則2】


まず、最初の「つねに、すべてに、気づいていること(絶え間ない気づき)」と云う根本原理から見ていきましょう。

「つねに」とは?

それは、起きている間中― 朝、目を覚ました瞬間から、夜、眠りに落ちる、その瞬間まで― 切れ目なく、均質に、無差別に― ということを意味します。

そこに瞑想の時間と、そうでない時間との区別は存在しません。

「すべてに」とは?

三つの世界(領域)全体に、ムラなく。

1. 身体(内部)感覚― (体表面の接触感、圧迫感、拍動/脈動感、深部の筋感覚、痛みなど、体表面の輪郭からなか)の世界(領域)

2. 外界(知覚)― 主に、見る・聞くの世界(領域)

3. 意識(心)― 思考(内語)・メンタルイメージ・感情・欲求の世界(領域)

* 味(味覚)、匂い(嗅覚)は、1と2の中間領域(中と外の狭間)にある。


私たちにとって「生きてる(経験してる)ことの中身・内容」とは何でしょう?

私たちが、日々、瞬間瞬間、生きて感じている現実(世界)の中身・実質とは?

それは、身体感覚(皮膚感覚・内部感覚、暖かさ、冷たさ)、外界知覚(見えるもの、聞える音、味、匂い)、そして、意識の世界(思考、感情、イメージ、欲求)―

その三つが猛烈なスピードで、立ち現れ、入り乱れ、それが合成され、パッチワークのようになった複合体… ではないでしょうか。


たとえば、身体感覚のうち「触覚」に限っても、

・圧覚
・温覚
・冷覚
・痛覚
・振動感覚

などがあり、

関節の角度や身体の位置を感じ取る「筋感覚」、内耳による、前庭(平衡感覚)もある。

視覚は

・運動覚
・色覚
・光覚(明度の感覚)

などの合成である。


次に、ラベリングについて。

・これは、原理の「つねに」を実現するための補助的技法としてあります。

・主に、satiの開発を目指して行われる。

ラベリング論


最後に、中心対象の設定について。

・英語の「メイン・オブジェクト」「プライマリー・オブジェクト」の訳。

・こちらは、原理の「すべてに」を実現するための補助的技法として存在する。

・主に、samadhiの段階的な開発・増強のため作られている。

・ランタンとヘッドランプ 意識の指向性

・二段構えの照明(中心視野と周辺視野)

・テレビ局の脚付きカメラのズーム(入りと引き)

実践技法リスト

生きていること(普段の生活)と別の場所、別の時間に、ではなく、「生きていることそのもの」のなかで瞑想を作る。日常の「生きてることそのもの」を瞑想とする。
いわゆる「静かに座っておこなう瞑想」とは異なった発想がベースにある。

「何が瞑想か?」ではなく、「何を瞑想と為すのか?」「生活の中の、この行為を、どうすれば瞑想化できるか?」と云う発想に基づいた瞑想法。

プロセス指向と目的指向

具体的技法の説明に入る前に、全体に関わる重要な注意点(考え方)について。
わかっている必要がある「動中工夫」という考え方について。

・フライング
・メンタルリハーサル
・段取り能力
・マルチタスクとシングルタスク


・行住坐臥の四威儀は、動く/動かない(インテンション・身体制御の意思の有るなし)の二つの場面しかない、と考える。

・身受心法の四随念→ 身体から心への三世界論で説明する。

つぎにまた、比丘たちよ、
比丘は、進むにも退くにも、正知をもって行動します。
真っ直ぐ見るにもあちこち見るにも、正知をもって行動します。
曲げるにも伸ばすにも、正知をもって行動します。
大衣と鉢衣を持つにも、正知をもって行動します。
食べるにも飲むにも噛むにも味わうにも、正知をもって行動します。
大便小便をするにも、正知をもって行動します。
行くにも立つにも、坐るにも眠るにも目覚めるにも、語るにも黙するにも、正知をもって行動します。

以上のように、身の内において身を観つづけて住み、
あるいは、外の身において身を観つづけて住み、
あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。
また、身において生起の法を観つづけて住み、
あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住み、
あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。

そして、かれに「身のみがある 」との念が現前しますが、それこそは智のため念のためになります。
かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。
このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。

長部経典 第二十二経「大念処経(心の専注の確立)」

拍動(脈動)瞑想 ―動かない瞑想の基本型ー

座る、あるいは横たわって、身体を固定・安定させて

1 合掌 胸の前で手を合わせて(指で脈を取りながら、ストーブの暖かさ、しびれを作って)
2 手を少し開いて
3 手を膝におろして
4 片手ずつ
5 片手をパーツに分けて
6 身体の他の場所で(足の裏、腰腹部など)

・オノマトペのラベリング化(ジンジン、ドクドクなど)

呼吸瞑想

・ 鼻(気が上がりやすいの注意) 基本、オススメはしない。
・ 腰腹部(身体イメージの混入に気をつける) 横臥時に適している
・ 全身 (偏身、あまねく)
・ 足裏 真人は踵をもって呼吸す(イメージを使って)

歩行瞑想 ―動く瞑想の基本型ー

接触感→ 「触れた」
内部感覚・圧迫感→ 「感じた」のラベリング

6つのステップ(ボディワーク的訓練へと繋げる)

1 触れた足(軸足)で1分割(触れた)→ 2分割 (触れた、感じた)
2 すり足(かかと)2分割 (触れた、感じた)
3 浮いた(動く側の空中の足)2分割(触れた→感じた)
4 合体(左右両足同時)
5 全身(色々な組み合わせ)ボディワークを組みあわせて(ドローイン、頭部など)
6 身体外への気づき(見た、聞いた、思考、イメージ有り)

・歩行瞑想の際の姿勢の注意
・歩行瞑想のための歩き方の説明

痛みの観察

1 空間的措定(境界線、輪郭)
2 時間軸での追跡(生・住・滅)
3 法と概念の識別・峻別

食事(喫茶)瞑想

・リトリートにおける実践修行の総合問題であり、非常に重要度が高い。

・極力、目を瞑る。
・チャンネルを重ねない。「ながら」にならないよう気をつける。
・動作の一つ一つに、一時停止(ポーズ)を入れる
・感覚の余韻を聴く(鐘の音の喩え)
・出だしの細分化のレベル設定がすべてを決める。

日常の動作(トイレ、お風呂、歯磨き)

・お風呂が一番難しい。

・歯磨きのとき、あえて大雑把に捉える。

・立っている足の裏の接触感・圧迫感でとるというやり方もある。

ボディワークとの組み合わせ(身随観化、瞑想化)

・フェルデンクライス・メソッド、漸進的弛緩法との組み合わせ

・横臥の姿勢(仰向け・うつ伏せ・膝だて)

・立位

・歩行

・自重トレーニングとの組み合わせ

・ヨーガ、太極拳の套路などとの組み合わせ

・ウォーキング・ジョギングとの組み合わせ


・クリアリング(呼吸の操作を使った技法)

テタニー(過呼吸による痺れ)について

ホロトロピック・ブレスワークとの比較

心の観察(心随観)

・まず、インテンションのラベリング(身体に指令を出す心の動き)からスタートする。 そこから、「心に指示を出す心」へと進む。

・感情は、身体感覚として取る

・ 快と不快、欲望と嫌悪― ラベリングによる仕分け・感じ分け。

快(身体的感覚)→ 欲望(心理的反応)
不快(身体的感覚)→ 嫌悪(心理的反応)

・現在進行型(リアルタイム)の内観― 内観とヴィパッサナー(心随観)の合流・合体


反応系の技法