非難なき観察

心が問題に全的に気づいているなら、そのとき問題からの自由があります。
しかし、問題を非難するなら、存在の全体でそれに気づいていることはできません。
心が非難しないでいることは非常に難しい。
しかし、問題を理解するためには、その問題に対する少しの非難も比較もあってはならないのです。

私たちの日常生活をただ見守りましょう。
そうすれば私たちが、是非判断することなしに、比較、評価することなしには何ものをも決して見ないということに気づくでしょう。
私たちは常に「この本は、あの本ほどは良くない」とか、「この人は、あの人よりも良くない」とか言い続けます。
絶え間ない比較の過程があり、それを通して私たちは理解すると思うのですが。
しかし、比較を通じて本当に理解があるのでしょうか。
それとも理解は比較することを止め、ただ観察するときにのみ生じてくるのでしょうか。
あなたの心が真に統合されているとき、比較する時間など持たないのではないでしょうか。
比較するや否や、注意はどこかよそへ行ってしまいます。
あなたが「今日のこの夕焼けは、昨日のそれほどには美しくはない」と言うとき、本当には夕焼けを見ていません。
心は昨日の記憶のなかに逸れてしまっているからです。

心が非難も比較もすることなしに単純に問題を調べることができるなら、そのとき確かに問題は根本的な変化を受けてしまっています。
そして、そのとき問題は止みます。
単純な気づきが問題を終らせるに充分です。
それで心は、強制されることなしに、非難や比較を止めることができるでしょうか。
「非難や比較は理解をもたらさない」ということの真実を心がそれ自身で見るとき、その知覚そのものが非難と比較のすべてから心を解放します。
これは伝統と信念すべてからの心の完全な離脱を意味します。

非難や比較なしに心の過程全体を観察していること。
判断なしにそれに気づいていること。
瞬時瞬時、それを知覚していること―それが気づきです。

どうか、単に、この話を受け入れたり否定したりするのではなく、あなたが耳を傾けているこの瞬間、あなた自身の心が、実際にどんな風に作動しているのかを見出して下さい。
そのときあなたは、心の過程をただ観察することで、心の内面に根本的な変化をもたらすのに充分であることを知るでしょう。

私たちのなかに根本的な変化がなければなりません。
そして私たちは、それをもたらすために努力しなければならないと考えます。
しかし、その方向でのどんな努力も、単に結果を望むことのもう一つの形であるに過ぎません。
それで私たちは、同じ古い過程に再び戻るのです。

必要なのは確かに、より多くの制御や、より多くの知識ではなく、非難や是認のどんな感覚もなしに自身の全体に気づいていることです。
そのとき、あなたは心が蘇生し、絶対的に静かであるのを見るでしょう。
そのためには格別の量のエネルギーが必要です。
しかし、それは、比較、制御、修正、パターンの押しつけなどにおいて普通のやり方のなかで用いられる意志のエネルギーではありません。
それは全的な注意と共に生じるエネルギーです。

どんな方向であれ、あらゆる思考の動きがエネルギーの浪費なのです。
そして、完全に静かであるためには、心は絶対的な注意のエネルギーを必要とします。

心が油断なく気づいており、全体として注意深いとき、それは非常に静かに、静穏になります。
そしてそのときのみ、測り知ることのできないものが生まれ出ることが可能となるのです。

……

自由とは、あなたが自分自身のなかに見るどんなものについても少しの非難もないことを意味します。
私たちはたいてい、それを非難したり肯定したりして、それを継続させてしまいます。
決して、非難や正当化なしには見ません。

したがって、なすべき最初のことは― そしておそらく、それは最後のことなのですが― どんな形の非難もなしに観察することです。

しかし、それは非常に困難なことなのです。
なぜなら、私たちの文化のすべて、伝統のすべてが、現実を比較し、分析し、正当化し、非難することに基づいているからです。
私たちは、(自分の心は、他人は、外界は)「こうあるべきである」「こうあるべきではない」「これは正しい」「これは間違っている」と心のなかで言い続け、それは私たちが実際に観察するのを妨げます。

あなたのあるがままのものは生きているものです。
その、あなた自身のなかに動いているものを非難するとき、それは死んでいる記憶でもって非難しているのです。
したがって、「生きているもの」と「過去のもの・死物」、「あるがままのもの」と「あるべきもの・あって欲しいもの」、「現在の事実」と「過去の記憶」との間に矛盾・葛藤があります。

生きているものを見るためには過去のものは止まなければなりません。
いま私たちがしようとしていることは、誰に頼ることもなく、科学者のように、私たち自身である、この全過程を調べることなのです。

あなたの伝統・指導者も、あるいはあなた自身の過去の経験・知識も、そのどちらも役には立たないでしょう。
なぜならそれは過去のものだからです。
あなたが過去の眼で今見ているなら、生きているものが何であるか決して理解しないでしょう。
そこで私たちは「この生きているもの」「この生」を、それがどんなものであれ調べているのです。

……

私は自身の悪感情を、言葉も連想もなしに、非難も同一化もすることなしに、注意深く見続けるということができるでしょうか。
それと共に生き、それを事実として、ただ見守り続けるということが…
それは、とてつもないエネルギーを必要とすることです。
思考・感情という逃避、エネルギーの浪費があってはなりません。

……

たとえ、それが問題の数え切れない傾向、葛藤、重荷を負っていても、非難や正当化のない気づきによって、心はそれ自身の性質を理解し始めることができるのです。

そしてそのとき、並外れた沈黙が― 思考の何の動きもない静けさが生じます。
そのとき心は自由です。
なぜならそれはもはや何も望んでおらず、何も求めていないからです。
それはもはや観念に繋ぎとめられていたり目的を狙ったりしてはいません―そのすべては条件づけられた心の投影物に過ぎません。

単にそれがあなたが人から聞いたお話しで終わることのないよう、あなたがこのことの実際の体験をしない限り、生きていることは表面的で、非常に悲しいままであることでしょう。

……

自分自身を知ることは私たちにとって非常に難しい。
なぜなら私たちは、自分の思考と感情を常に判定しているからです― この判定によって自分自身をより理解するようになるだろうと考えて。
しかし確かに、常に判断しており評価している心は、それ自身のあるがままを知ることができません。
なぜなら心は、常に基準・模範を持っており、それに従って評価するからです。
評価なしに、是認や否定なしに、自らの思考と感情を観察することができないということ― これが私たちの困難の大きな一つだと思います。
私たちにとって、判断、比較、非難、是認は、私たちの存在の本質そのものとなっています。
そういう訳で私たちは、自身の思考と感情のより大きな深みを突っ込んで調べることができないのです。

……

真に気づいている精神は、あらゆる種類の非難、抵抗、抑圧を欠いている。
どんな思考、どんな感情もタブーではない。
理解は、「汚れた、不善な、みだらな、苦痛な、厄介な」思考や感情を押し沈めたり変形させたりすることによってではなく、むしろそれらに正直かつ率直に直面することによってもたらされる。

……

見ているものについて、何らかの非難の感覚、正当化の感覚、あるいは、それを「こう変えたい」という、変えることへの欲求の感覚があるなら、注意深く見ていることはできません。
そのことがまず完全に明らかでなければなりません。

何であれ比較や非難があるとき、心は鋭くあれません。
比較と非難は、自己のあるがままの理解をもたらしません。
逆に、その障害となります。

……

自分の精神を観察し、それがどんな醜いものであれ、思考をひとつとして逃さないようにしてみなさい。
選択し、選別することなしに、つかんだり、方向づけたりすることなしに、容赦なく見守るのです

……

私は嫌悪という反応を持ち、その反応を見つめます。
もし私が非常に注意深く見るなら、それは開き、私の条件づけ、私が育てられてきた背景をあばき出します。

私がそのあばき出されたものをなおも見守っているなら、更に多くのものが顕わにされてゆきます。
そこに抑圧の問題は一切ありません。
なぜなら私は起こっているものを見ることに関心があるのであって、どうやってそれらの反応を無くすかということに関心がある訳ではないからです。

……

事実存在するものから離れるどんな動きも― 言葉の動きも、非難、正当化、説明も― 逃避です。

……

羨望は人間のなかに深く染み込んでいます、非常に多くの形をとって。
人と自分を絶え間なく比較するという羨望があります。
その人にとって「もっと多くのもの」が重要です。
もっと多くの学習、もっと多くの獲得、もっと多くの知識、情報、もっと多くの経験、これをすること、あれをすること―永久にもっと多く、もっと多くです。

ひとは、そこに含まれる意味を即座に見抜き、そして分析なしに、原因を調べることなしに、それの終止に至ることができるでしょうか。
時間がそれに干渉するのをまったく許さないこと、したがって、それを直ちに終えることは可能でしょうか。

このもの、この習慣化した運動を直ちに終えるためには、明らかに「気づき」がなければなりません。
あなたは自分自身のなかの羨望の運動に実際に気づいていなければなりません。
判断なしに、拒絶なしに、気づくこと。
それは時間を要する問題ではありません。
あなたはそれを即座に見ることができます。
それは、外部のものごとから始まります。
木、人々、色彩、果てしのないおしゃべり、部屋の形とその色あい― それらに気づいていること。
そこから始めて、その波に乗っているのです。
入ってくる、内面に進む― 選択がなく、比較がなく、非難がないとき、入ってくるその波にただ乗っていることができます。