内観とは何か?

まず、内観に関する入門書・解説書から。

私がこれまでに読んだものの中から、オススメを三冊。

『一週間で自己変革、「内観法」の驚異』

外見は若い女性向けの入門書っぽいですが、読んでみると、内容は既に集中内観を経験されている方にもお薦めできる充実したものです。内観入門、最初の一冊として、お薦めできます。

『内観への招待』

内観の概要をつかむための本としては、非常にバランスよくまとまっております。
巻末に収録されている「ある検事さんの内観体験記」も、とても良い内容で、「内観って、どんなもの? どんな効果があるの?」と云う問いに、よく答えるものだと思います。

『内観実践論』

集中内観を実際に進めていく際の貴重なヒントが沢山盛り込まれた実践的な本です。
特に、第4章は、集中内観研修に行く際に、コピーして持っていっても良い内容だと思います。

内観関連サイト

内観法へのご案内

私にとって内観とは…

信前信後―私の内観体験  吉本伊信の体験記

「内観道場」に行ってきたよ  (内観体験記)

「”内観(療法)の本~こころを洗ってくれる本・映画”」

内観関連断片

* 以下、ネット上で目にした内観に関する文章の断片に、手を加えたものです。

……

いかなる境遇にさいなまれても、「ありがたいなあ」「幸せやなあ」と受け取れる心境になる方法が内観です。
他の人から見て、「あの人はかわいそうやなあ、気の毒な境遇の人やなあ」という立場であっても喜んで暮らせる、そういう精神状態に転換すること、
どんな地位、境遇、立場、状況にあろうとも、『ありがたいなあ、わしみたいな悪い奴が今日も元気で達者に、こうして暮らさせてもろうて、幸せやな。どこ痛い、どこ痒いっちゅうことあらへん。本当に私は幸福やなあ』と、感謝の気持ちで暮らせる、そういう心のすみかに大転換すること」、それが内観の目標であります。 吉本伊信

「生きるも感謝、死ぬも感謝」という境地に至るのが内観の最終目標。

「自分を、本当に、客観的に、観る(捉える)、観察するための体系だった技法(方法論)」「反省のためのテクノロジー・技術」「反省を通じて心の目を開く法」

人間は放っておくと、世の中の出来事を、とにかく自分に都合良く見るようにできています。
正しく自分のことが見えなくなって、不平不満と怒り、嫌悪の渦の中に巻き込まれ、結局不幸になっていきます。
この辺の関係も、実は内観をしてみて初めて分かることですが。

「自己中心のものの見方・考え方(認知のパターン)」から「公平な(客観的な)ものの見方・考え方」に大転換するための「しかけ」とでも言いましょうか。
あるいは、「不平不満」の生き方から「感謝」の生き方への大転換と言いましょうか。
この、「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」という三つの質問によって、そういう転換に不思議に誘われていくのです。
「あなたは自己中心的だから反省しなさい」とか「親に、もっと感謝しなさい」とか一切言わないで、内観者自身が自分を調べることによって、それを自然と悟ってゆくのです。

……

・ 死ぬ時の内観

「なぜ、内観をするのか」ということから考えてみたいと思います。

私ども医者にとって人が死ぬ場面に遭遇するのは珍しいことではありません。
一人の人間が長い人生を生き抜いてきて、そして、今まさに死んでいこうとする場面、自分の指の先で最後の脈が終わっていく瞬間に、しばしば遭遇しています。
人間にとって死ぬ時、死を迎えるその瞬間を、死ぬ一時間前か、あるいは一週間前、もっと一ヶ月前や一年前に知ることの出来る人々が沢山います。
不慮の事故、すなわち交通事故とか災害によって死ぬ人は別ですが、多くの人が病床に伏して死んでいく場合には、自分の死期、すなわち、もう自分は駄目だ、いよいよ死んでいくという時を、ほとんどの人が知っておられるようです。

その時になると、どの人もどの人も、真剣に自分の過去をふり返り、自分の人生がどういう人生であったか、ほんとうに生きてこうして死んでいく、悔いのない人生であったか、多くの人に迷惑をかけて来はしなかったか、そういうことを五分でも十分でも一週間でも、静かに静かに反省する場面に我々は遭遇しています。
そして、最後の時を見守ろうとして、あちらこちらから身内の方々が寄り集まり、手を取り合い、あるいは頬ずりをしながら最後を見取っていくわけです。

最後の場面になりますと、「どうも色々ありがとう」、「お世話になりました」、「後をよろしく頼むよ」などという言葉を残して死んで行かれます。

すべての人が死ぬ時、必ず自分の人生をふり返って「どうであったか」という反省をしておられるようです。

しかし、そのとき、死がまさに目前に迫った時に、どれほど深い反省をしても、もう後がありません。
もう何も為すすべがありません。
そこで今、あと一時間、あるいは-日、私に自由な時間を与えられるとしたら、ご迷惑をおかけした人に対して、何か-つだけでもご恩返しをしたい、あるいは、これだけはしておきたいというようなものが,必ず一つやニつはあるのではないかと思います。
しかしながら、もうその時は、身動きできません。
悲しいことです。
死の床に伏した自分の周りに身内の人たちが寄り集って、慰めてくれます。自然にぼんやりと意識がなくなっていきます,周囲の人々によって、すべてが許されたかの如く、非常に安らかな死顔を、私共は見てまいりました。

このように、人間は必ず一生に一度は自分を振り返ってみるという内観をするようであります。
内観を終えて死んでいくとき、あの仏様のような静かな顔、美しい顔は、深い内観の結果だと思うのです。
ところが、内観をするのは死ぬ時になってからでは遅いということに気付きます。
死ぬ時の内観を今、まだこうして生きているうちに、本当に死ぬ時と同じ程の真剣さで過去を振り返り、自分を見つめてみようというのが内観なのです。

自分を真剣に見つめることによって、今何を為すべきか、今後いかに在るべきかということや、そしてまだいくらか残された貴重な時間をいかに生きるべきか、自ら分かってくるのではないでしょうか。

内観は、そういう厳しいものであり、尊いものであることを最初に理解して頂きたいと思います。

SEIN指宿(依存と内観) 「なぜ内観するの?」から

……

内観は、懺悔や感謝を強要するものではありません。
「自分の姿を客観的に捉えること」が内観の目的です。
人に「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」という三つの質問を、繰り返し繰り返し調べることによって、今まで知らなかった、全く見えていなかった自分自身の事実・本当の姿が見えてくるのです。

……

「懺悔」と「感謝」と「報恩」と

ただ、内観の場合、それを結論として教えることはしないのです。
あくまで内観者自身が自分の力で、内観を行ずることにより、自分の力でそこに到達するのです。
到達した結論は他の色々な教えと一致するかも知れませんが、自分が悟るということが特徴です。

……

過去は忘れようとするべきものではなく、許し、感謝することによって、初めて過去の物となります。
それができなければ、その人は今を生きていない、過去を生きている。
過去と和解することができて初めて、心の重荷は降ろせるのです。

……

内観=愛の論理療法

……

内容的には、キリスト教の「懺悔」に近いかも知れません。

元は日本仏教の浄土真宗の秘教的な一派の「身調べ」という修行です。
断食、断眠、断水で外部と完全遮断という厳しいものでした。
これを内観法創始者の吉本伊信師が、苦行色、閉鎖性を払拭して、宗教色を除いたのが現在の内観です。

本当に正確な理解を得るためには残念ながら体験してみるしかありません。
「砂糖とは何か」という問いには実物を舐めてみる以外にないのと同じです。

……

Q15 自分が悪い、申し訳ない、という気持ちが広がって自殺したくなったり、自己嫌悪で気持ちが落ち込んでどうしようもなくなったりすることがありませんか。

A 一番大事なのは、自分を責めるためにやるのではなくて、生かされてきた有り難さ、喜びを実感することなのです。
そういう安らぎと喜びに支えられながら、自分の利己的な面をみつめていくと、次第に自分のすべてを根本的に受け入れられる、自分のものとして認め、しっかりと引き受けていくことができるようになるのです。

Q16 内観のやり方を聞くと、非常にマゾヒスティックで、せっかく自分に少しずつついてきた自信が崩されてしまいませんか?

A 内観は自分をいじめたり、苦しめるようなものでは決してありません。
自分の「生」の大切さに目覚め、安らぎや生きていく上でのエネルギーをもたらすものですので、今の、すぐに崩れそうな自信よりも、ずっと根っこのしっかりした確かな自信につながるものなのです。

……

これは私自身が内観して気づいたことですが、
「自己嫌悪」というのは、実は「自己愛」(自己正当化、自己イメージ防衛)と裏表になっているのです。
自己愛の要求水準を現実の自分が満たせないとき、人は「自己嫌悪」に陥り苦しむのです。
内観により体系的な反省を行ってゆくと、自分が多くの他者の愛に支えられている事実に気づき、小さな自己執着は消失します。
したがって、内観では、一時的に自己嫌悪に陥ることもありますが、最終的にはそれを抜け出し、大きな幸福感に到達するのです。

……

カウンセリングの有名な言葉に「過去と他人は変えられない」というのがあります。
これは内観にも良く当てはまる言葉だと思います。
変えられるのは自分のものの見方(と、未来)だけなのです。

あなたの親の側に大きな問題があったとしても、そのことを追求しても何の解決にも繋がらないと思います。

内観は、親は親として、いったん横に置いておいて、「では、自分はどうであったか?」ということを追求します。
「相手がどうであったか」を考えることは、「外観」と言い習わしています。

人間は放っておいても外観はするのです。
しかし、自分の本当の姿を、くもりのない目で観る、と云うことは至難の技なのです。
そのためには人工的に設定された訓練が必要です。
「内観」と云う「ものの見方の訓練」をするのが「集中内観」です。
本当に目から鱗が落ちるような、ものの見方の転換が起きると思います。

……

「人間の幸不幸は運によるところも大きいが、その人の気質によるところも大きい」(ラ・ロシュフーコー)という言葉がありますが、ここでいう「気質」を転換する力が内観にはあるのだと思います。

……

人は通常、ものを見る時、自分の都合で見、自分の都合で考えて、自分の型に当てはめて物を見ているので、実際には本当に物を見ていない。
自分の都合・レッテルで見ている。
何か事を起こすと、その少年をレッテルで見る。
そうすると、それにふさわしく、段々なってくる。
お母さんのくせにとか、先生のくせにとか、社長のくせにと、その人自身を見ていない、タイトルで見ている。

自分が浪人していると、回りは全部浪人生に思う。
大学に入ってしまうと、いったい浪人生なんて、どこにいるんだ、と。
この様に私たちは、自分に都合のいいものを、都合のいい方向からしか見ていないのです。

だから一旦嫌いな人と決めてしまうと、その人が自分の為に何かしていてくれても、何も見えない。
父親に殴られた事だけ憶えていると、その父親が優しい言葉をかけてくれた事は、全部忘れている訳です。(過去の記憶の脳内編集)

お母さんから、「してもらった事」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」と云う問いは、普段考えない質問なんです。
私たちが憶えているのは、「してもらわなかった事」(欠落感)。
お母さんがしてくれた事は、あまりに当たり前で考えたことがない。
「お年玉が足りなかった」とか。
親戚の叔父さんからお年玉をもらったら、大変喜ぶんですけど、自分の親からもらうと、よその子よりも少ないと言って、不満の種になる。
で、それが恨みの種になったりする訳です。

お母さんが、買ってきたセーターがいつもダブダブだった、と。
それは、しばらくの間着れる様に、少し大きめのを買ってきます。
だから買ってきた時はダブダブなんです。
しかし、それをしばらく経って、ちょうどいい時期に長い間、着ている訳です。
しかし、着ている時のそれは忘れて、ダブダブのセーターを買ってきた時の、その事だけ憶えている。
母を一人の人間としての立場で見た場合、その何かを買いに行くために、一回限りの人生の大切な時間を、何時間もかけて、デパートに行ってくれたと云う事は考えてない。

また、して頂いても、気がつかない場合があります。

子供が砂場で遊んでいる時、お母さんはベンチに座っていて、何かあった時には、すぐに駆けつけてくれる所にいる。
子供の頃は、その事に気づいていない。
子供の方は、お母さんが自分の為に、何かしていてくれるとは思っていないが、
しかし、何かあったらお母さんは、すぐに駆けつけられる場所に居る訳です。
ですから、自分の為にお母さんは、そこに座っていて下さる訳です。
子供の頃には、まったく気づいていない。
だから、「改めて考えないと気がつかない事」なんです。

また、自分がこころよくないと、して貰ったと思っていない。

「お母さんが自分にしてくれた事」「お父さんが自分にしてくれた事」を見るということは、母なら母を、一人の人間として見ているという事になります。

「親なんだから、当たり前」とか、そういうのを捨てた問いなんです。
つまり、この女性を、一個の人間として、私にしてくれたことは何なのか、
一女性と自分自身の間を距離を少し離して、改めて見てみるという事です。
親からして貰った事、その時の状況を、改めて「内観」の問いでもって、もう一度問い直してみる必要がある。
その様にして、親からして貰った事が分かると、「やってもらった」と云う事が分かって、初めて親からの独立ができる。

それが分からない内は、「まだ足りない、まだ足りない」。
こう云うのを「愛の狩人」と言います。
そういう風に考えているうちは、あくまでも親との関係では子供なんですね。
自分の年齢が何歳であっても、親がとうの昔に亡くなっていても、自分はやはり子供のままなわけです。
で、内観の質問で幾つ考えても、出てくる答えは、実際にして頂いている事の何百分の一しか出てこないわけです。
それでもとにかく、一所懸命探していくという事です。

「親がしてくれるのは当たり前じゃないか」と言う人がいますけど、それは当たり前ではない。
コインロッカーに捨てる親もいます。
だいいち、十月十日の間、お腹の中で自分を守り育ててくれて、これを当たり前と言えるのかどうか、と云う問題であります。
自分の身を削り、命がけで産んで下さるのに、その様なお母さんに対して、それは当たり前だと言えるのかどうか。
内観の問いは、「あたり前」とか、「あたり前でない」とかとは関係ないのです。
あたり前でもいいのだけれども、では何をしてもらったのか、と云う問いです。
つまり、あたり前とかと言うのは、その人の先入観であって、ここで問われているのは、自分が親から何をしてもらったのか、と云う一点であります。

人間は狼が育てていくと、狼のようになります。
周りで、話しかけてくれる人がいなければ、言葉を憶えない。
周りで、歩いて見せてくれる大人が居なければ、歩く事は憶えない。
私たちが歩く事ができ、言葉を話すができるのは、私たちにそれを教えてくれた人たちが居る訳です。

次に「してあげた」と言う問いですが、「何もない…」 大事な事に気づいた。
そもそも私は、母親に「何かをしてあげる」と云う発想を持っていなかった。
この問いは厳しい問い、この問い自体が何かを語りかけている問いです。

「してあげたこと」
母の日に、カーネーションをプレゼントしたというのは、ちょっと花屋で買えばできること。

「母が私にして下さったこと」
小学校入学の前の日に、鉛筆から、ランドセルから、ノートから、教科書まで全部、名前を付けてくれました。
これは、カーネーション一本あげたというのとは物がだいぶん違うわけです。

「迷惑をかけたこと」
親に甘えて、自分が勝手に作った期待に反すると親を恨む訳です。
私が親に電話をする時は頼みごとがある時。
にも関わらず、親が心配して電話をかけてくる時には、それをうるさがっていた自分がありました。

……

私たちは多くの場合、自分で原因を作って不満を言っていると云う事があります。
例えば「単身赴任の父親がいつも家にいてくれない」。
これは、子供が学校を転校できないから単身赴任しているんです。

私のお母さんは、どうして他のお母さんのように若くて綺麗でないのだろうか。
子供を産んで育てていれば、それだけ容姿は衰えます。
髪を振り乱して子供を育ててくれている親に、髪を振り乱させている子供が文句を言っている。

お母さんは外にでないから世間のことを何も知らないと、馬鹿にしている人がいる。
なぜ外に出ないか? 子供がいたからなんですね。

そういう事を私たちは気がつく必要がある。

特に、自分が悩んでいる時は迷惑をかけています。
受験勉強の時、ラーメンを作ってくれる。
あれは自分は頑張っているんだから、あたり前だと思っているけれども、
後でゆっくり考えると、あれは迷惑だったということになる。

自分が悩んでいる時は迷惑をかけている。
そして、自分が張り切っている時も迷惑をかけています。

内観をしている時、または初める時、自分は「迷惑をかけてこなかった」と誇示している人がいる。
私は迷惑をかけてこなかったと誇示しても意味がないのです。

自分をどれだけ見つめるかという事の方に意味があるのであり、自分を正当化しても仕方がない。
自分が、どんなに立派な人生を送ってきたかという事よりも、
今、自分が自分を厳しく見つめる事ができるのか、という事の方が大事なのです。

たとえ迷惑をかけられた事が90%で、迷惑をかけたのが10%だとしたも、その10%を調べなさいと云う事です。
「迷惑をかけられた事」と云うのは、それ相手の問題であって、自分の問題ではない。
相手の問題を、自分が替わりになって一所懸命調べてあげなくてもいい訳です。

自分はいつも反省しているから内観はイヤだ、必要がないと言う人がいます。
しかし、一般に反省すると云うのは、自分が何か、結果か都合が悪かった時、まずかった時に反省するんですね。

内観と云うのは、別に結果がいいとか悪いとか関係ないのです。
もっと言えば、自分が良かったとか悪かったとかさえ関係ないのです。
自分はどうだったかと云う事をみるのが、それが内観の質問なのです。

「そんな一週間で、何が分かるのか」と言う人がいます。
一日十時間で、七日で七十時間、朝から晩まで内観をする訳です。
たとえば心療内科ですと、一週間で一回のカウンセリングでは一年以上かかります。
決して短いとは言えない。

一週間の内観が長いと云う人がいる。一週間も嫌だと言う人もいます。
しかし、自分の人生を全体として調べ直そうという時に、一週間は長いということはないのです。

しかも内観は、さしあたって一週間勝負というところがあります。
もちろん、その後の日常内観が重要である事は言うまでもありませんが、
しかし集中内観というのは、一週間で終わるのです。
だから長いという事はないのです。

あるいは、「自分を知るのが怖い」と言う人がいます。
しかし、自分を知らないまま残りの人生を送っていく事の方が、実は怖いのです。
自分が何故、自分を知るのが怖いのかと云うことを見つめる事が、また重要なのです。
一週間ぐらい、たかが内観をして崩れるようなものを、一生大事に守って背負って行こうというのが、果たしてどうなのか、と。
それは砂上の楼閣ではないのかと思われます。錯覚したまま行くのか、と云う事です。
そう云う意味で、気づくのに遅すぎるという事はありません。

内観で気づくのは、内観をした結果、「自分はこうであった」と分かった結果、
今まで思っていた自己像が崩れるのですが、
しかし、自己像が崩れる時にはすでに、ちゃんと新しい自己像がある訳です。
だから、そう云う意味では怖くない。
批判集会の様な、人からワーッ!と言われて否定され、崩される方が怖い。
立ち直るのに半年かかったりする訳です。
それはそれで意味はありますが、そういう意味ではそんなに怖くない。

それと、「自分が変わるのが怖い」と言う人がいます。

これは、本当に自分に自信があれば、自分の弱点を見つけて磨こうとするはずです。
自分が変わるのが怖いと云うのは、自分に自信がないと云う事になります。

「自分に悩みがあって、それどころじゃない」と言う人がいます。
悩みがあるという事は、その時視野が非常に狭くなっているから、悩んでいるのです。
受験生が不合格になり自殺する人などは、合格か死かの選択しかない。視野が非常にせまい。
その時に、小学校に入る前にお母さんに「していただいた事」「してあげた事」などと質問をされて、そう云う所から発想するという事は、非常に意義があります。
また、そう云う風にして、自分をずーっと調べていった結果、今、この問題をどう見るのか、という風になれば、それはもう悩みではなくなります。

また、「自分を振り返るのが嫌いだ」と言う人がいる。
振り返るのが嫌いだって言っていると、全てやりっ放しっという事にならないか。

それと、「自分よりあの人にやらせたい」って言う人が多いですが、
それは、あの人のことは、あの人が考えればいいのです。
どっちに責任があるかって問題ではなくて、内観は自分の責任の部分を見つめる訳です。
自分の人生を自分の責任としてとらえなくては、自分の人生を生きているって事にはならない。
全部、人のせいにしていたら、人を恨んでいる間は非常に暗い訳です。
それで自分が正しいと主張していても、それは問題の解決にはならない。

ねずみを迷路に入れて、ある場所にチーズを置きますと、何回か思考錯誤するうちにチーズにたどりつきます。
そしてその道順を学習します。
それが終わってから、チーズを別の場所に替えると、始めのうちは戸惑うけれども、そのうちに新しい道を学ぶ訳です。

ところが人間と云うのは、チーズの場所を替えられると、二度とチーズにあり付けないところがある。
自分の正当性を主張するあまりに、チーズの場所などどうでもよくなる訳です。

父親を恨む事によって自分が苦しんでいるのに、
その父親が恨まれるべき存在であるという事の正しさを証明する事の方が、
自分が苦しみから開放される事よりも大事になる。
それですと、自分の説を確認する為に生きている事になります。

「私が不幸なのは、お母さんのせいだ」と言っている人は、幸せにはなれない。
何故ならば、自分が幸せになってしまうと「私が不幸なのはお母さんのせいだ」と言っている自分の説が崩れるからです。
で、どっちが大事かって言うと、自分が正しい方が大事なのです。なので、幸せになれない、と。こういう事になります。
で、その様な一方的な、自分のメガネで見た記憶の結果が、現在の自分の、例えば親に対する気持ちであったりする訳です。

……

オーストリアにて。ある男性の話。
この人は三歳の時、一年間入院し、隔離病棟に入れられていた。
それ以来、彼は母親とのコンタクトを失った。

この人は、一生懸命内観をして母親を恨んでいる事に気づいた。
そして、その事に対して罪悪感を憶えた。
しかし罪悪感とはあくまでも「感」であり、
私(面接者)は、「あなたは母親を恨んでいるのか、いないのか」と聞きました。
そうしたら、彼は「恨んでいる」と断言しました。

何故? どこで恨んでいるのかと言うと、三歳の自分を一人にして、入院させた事を恨んでいる、と。
では、もし入院しなかったら、あなたはどうなっていたのか、と聞いたら、
「自分は死んでいただろう」と彼は言いました。
と云う事は、「あなたはこの世に産んでくれて、自分の命を救ってくれたお母さんを恨んでいるのか」と聞いたら、
その人は、非常にショックを受け、泣き出しました。

それでその時、彼が思い出したのは、隔離病棟の病室の外で、毎日来ては泣いていたお母さんを思い出した。
私は彼に、「泣いていたその時のお母さんの気持ちを考えて下さい」と言いました。

この様に、過去の出来事を全て、ありのままに肯定した時に、初めて自分を受け入れることができる訳です。
その人は、自分の今までの麻薬、その他の経歴は、母親への復讐であったという事に気がついたんです。
過去をありのままに受け入れて、初めて現在の自分が全て受け入れられる様になる、と云う事になります。
現在の自分が受け入れられなくては、あるいは過去の事を何十年も引きずっていては、今ここに生きているという事にはならない訳です。
誰か恨んでいる人がいるとすれば、その人に対して恨みを持つ自分の気持ちが問題であるということになる。
それをどういう風に解決するか、と云うことが問題です。

……

麻薬センターで、実の兄にレイプされた女性がいましたが、この人も内観によって、お兄さんを許す事ができました。
この女性は、お兄さんを許すか許さないかで人生が変わるのです。
これは、お兄さんの問題ではなく本人の問題なのです。
ですから、この女性はお兄さんを許す事によって人生を変える事ができたのです。

この様に、過去を色々な角度から見ることによって過去の全体像が見えてくる。
そして、その過去の全体像が見えてきて初めて、それを受け入れる事ができる訳です。
それを受け入れた時に、初めて過去が過去のものとなって、過去と決別できる。
決別するためには、忘れたい忘れたいと背負い込んでいたのでは決別できない。
重荷を背負って生きている感じになります。
で、起こってしまった事が変えられないとすれば、これは絶対変えられませんから、
それを、受け入れるか受け入れられないかと云う事は100%自分の問題でしかあり得ない。
それに対して内観は非常な助けになる訳です。

……

・ ドイツでの内観記録から。

自分の母が、アルコール中毒だった人の内観。

彼は、母がアルコール中毒だと知っていたが、この人は内観によって、「母が病気であった。アルコール中毒であるにもかかわらず、ここまで自分を育ててくれた」事に気づいた。
そういう事に気がつく事が大事。
それをしないと、ある時点で自分の成長がストップしてしまう。

三十年前に家出して、あの時家出しなければ良かったと30年間ノイローゼの人がいます。
失恋でも同じ事です。

劣等感・自己嫌悪・罪悪感とか「感」と云うのは、本当に見ていないから「感」なんです。
劣等感というのは優越感があるから、劣等感なんです。
自己嫌悪と云うのは、自惚れのもっとも最たるものです。
内観では、その劣等感だの罪悪感だのと云う、そういう物ではない、事実を事実として見る。そういう事を学ぶ訳です。
で、現実の自分と、心で思っている自分との間のギャップが大きいと悩みが大きくなる訳です。
事実が事実として認められれば、悩みから開放されていく訳です。
で、その為に、別の角度から見ていく必要がある。

これは、他人に対しても同じで、例えば自分勝手な人に向かって、思いやりが無いと言うのはですね、これは矛盾なんですね。
はじめから自分勝手な人に対して、思いやりが無いからけしからんっていうのは、100%こっちの問題になる訳です。
灰色に向かって白でないからけしからんって言っているのと同じなんです。

この様な、内観的な思考を内観によって身につけていくという事が必要なのです。
その様にして、自分を解っていく。

内観は自分を変える為にするものとは、私は思いません。
内観ってのは、自分が解るためにするものであります。
解らないと変わらない事も確かです。
だから、結果として変わることは多いけれども、しかし内観というのは、自分が解る、自分を知るという事が大切であると思います。
で、その様な体験をすると、私の周りの人達を見ていても解るんですけれども、その後の成長の度合いの角度が変わってきます。
三年ぐらい経つと、大分差が出てくるんですね。
同じ物を見、同じ物を聞いても、得ていく物が違って来る訳です。
そういう意味でも内観というのは重要であります。

……

・ 自分が愛されていると言う、証拠集めはとても大切。
・ 材料集めをして、そして愛の欠乏間から逃れる。
・ そして、自分が幸せだと思えるようになる。
・ だから自分が、幸せかどうかということは、その人がそう思える能力があるかどうかという問題であります。
・ その為には、証拠を集めていく必要があります。
・ そうやって、たくさん集まってくれば、何かこう自然に少し自分の方から働きかけることが出来るようになります。
・ その証拠集めをしないで、人の為に働いても、悲壮感がただよったりする。
・ 自分では、人の為にと思っていても、自己愛でやってたりするおそれがある。
・ だから、自分が愛されている証拠というのを集めていくということは意味があると思います。

「愛の落ち葉拾い」柳田先生の言葉より

……

そういった意味で、全ての人が広い意味で、内観をして、事実を事実として受け入れる。
で、引きずっている重荷を降ろして、さわやかなスタートを、まず切る。

また幸せの証拠を集めて、自分が幸せである、今、このままで幸せであるということを感じられるようになって頂きたいと、思います。

その人の、「まだ足りない、まだ足りない」と思っている思いを転換させて、「今、すでに、充分に、足りている」ということを理解して、「奪う人生」から、「与える人生」に。

愛を与えれる人生の方が、幸せな人生です。
その転換の為に、内観が非常な意味を持ちます。
その転換の為の、大きなキッカケとなります。
なぜならば、その転換するための証拠を一生懸命、内観で集めていくからです。

「迷惑をかけた事」と云う、今まで考えたこともない方向から自分を見ることによって、自分の全体像をつかんで、過去を受け入れて、過去から開放されていく。

吉本先生は、この喜びを世界中に伝えたいと言われました。
私も、そのような喜びを、内観をして世界中の人が得られるような、そういうことの為に、私なりの持ち場で、これからも頑張っていきたいと思います。

……

内観の前と後では、心の成長のスピードが違ってくる。
内観を知って内観をしないことは、実にもったいないことだと思います。

……

親を赦し得ない人間が親となって子を育てれば、親を赦し得ない子が育つのは、理の当然であろう。

……

内観するにあたって非常に重要なポイントとして、「どれだけ自分に非情になれるか」「どれだけ自分の都合を離れて自分の客観的な姿を見ることができるか」と云うことがあると言えます。

この「自分の都合を離れる」というのが難しくて、内観創始者の吉本伊信先生は「検事が被告を取り調べるように自分を調べなさい」といっておられます。

また、ある先生は「弁護士抜きの裁判をせよ」と言われます。
人間は無意識のうちに自分を正当化し、自分の悪事に「弁護士をつけている」というのです。
これは、内観の面接中に、良く分かることです。

また、別の先生は「相手に十発なぐられて自分が一発殴り返したら、殴り返した一発を見よ」と言われます。
「十発殴られた」と云うのは事実ですが、それは相手の側の問題であって、自分の問題ではありません。
「一発殴り返した」と云うことは、自分が相手を一発殴ったと云う事実があるということで、内観の主題となります。
そこに「十発殴られたから殴り返した」という正当化が入ってくると、自分が客観的に見えなくなってしまいます。
十発殴られたことは、ひとまず横に置いておいて、自分が殴った一発を事実としてとらえること、そこに内観のコツの一つがあると言えるでよう。

……

私たちは常日頃、自分の行いを無意識のうちに正当化し、都合よく自分を歪めて見ています。
これは自己イメージ・エゴ防衛のなせるわざです。
内観は、エゴ防衛が作り出す歪んだ自分像から離れ、ありのままの自分を観察します。
自分を非情に突き放すことができるかどうかが、内観が上手くいくかどうかの分かれ目と言えるかもしれません。

……

なぜ、お母さんから調べるかと云うことですが、
お母さんと子供の関係と云うのは非常に重要でして、この関係が自然に円満にいってますと、他の方との人間関係もスムーズに行くと言われてますが、全くその通りです。

普通の人にとって、今までの人生において、一番お世話になっているのは、お母さんな訳ですよね。

で、内観の場合、お母さんに対して、「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」の三つの観点で自分を調べていく訳です。
そうしますと、私たちはお母さんから「してもらったこと」を、水や空気と同じように、意識していない場合が多いんですね。
ですから自分一人で大きくなった様に錯覚している場合が多いんです。

内観というのは、その具体的な事実を調べていきますので、そうしますと、こんなにお母さんからしてもらって、お世話になっていたんだって分かる訳ですね。
つまり、お母さんの愛情を再発見すると言いますか。

そうしますと、人間の心は、そのしてもらったことを、たくさん思い出しますと、感謝せずにはいられないって気持ちに、自然になる訳ですね。

で、ちょうど、こう地面をボーリングしていきますと、一定の深さに達すると、地下水がバァーツ!っと吹き上げる様に、私たちの心も、自分の心を内観っていう方法で掘り下げていきますと、一定の深さになりますと、自然にその感謝の気持ちが、本当に湧いてくる訳なんです。

だから、感謝しなければならないって云う、そういう理屈で自分をもって行くんではなくて、本当に、もう、感謝せずにはおれない、自然なそういう気持ちが沸いてくる訳なんですね。

……

私が、中学三年の時、母は毎日弁当を作って持たせてくれました。
私は、その弁当が気に入らないことが多く、よく文句を言っていました。
そんな私の物言いを、母は笑って聞き流したり、聞こえない振りをしたりしてました。
しかしある時、私のあまりの物言いに、ついに母は作るのを止め、毎日五百円をくれるようになりました。
おそらく母は、そのうち私が「また作って」と頼んでくると思っていただろうと思います。
ようは互いの意地の張り合い…と私は思っていた。
私としては、浮いたお金は小遣いにできるし、願ったりかなったりでした。
それが一ヶ月続いたのですが、ある朝、母はまた弁当を作り始めました。
相変わらず文句を言う私に「栄養のバランスが悪いといかんから…」
私の罵倒を黙って聞くだけで、私に弁当を渡しました。
私のその時の態度は「しょうがないから持って行ってやるか」。
うちは兄弟が多く、家計はいつも苦しかった。
母も毎日働き、そして毎日食事を作り、姉や兄、私、弟を育ててくれました。
私に毎日渡す五百円もきつかったはず。
いま思うと、弁当には必ず緑黄色野菜が入っていて、弁当に限らず食事はいつもバランスを考えていてくれた。
お陰で兄弟皆、全く好き嫌いがなく健康に暮らしています。

私の罵倒を黙って聞き、弁当を渡してくれた時の母親の表情…思い出せました。
あの時の母に泣きながら謝りました。
内観を終えて、実家を訪ね、母に謝り、そしてお礼を言いました。

母は「あの頃、何にもしてやれなくて御免ねー」って…
自分の苦労など…

……

内観をすると、母親・父親の有り難さを始め、太陽や水、空気の有り難さ、道具や持ち物の有り難さ、身体も細胞がそれぞれの役割を果たしてくれるからこそ健康に生きていられることにも気づきます。
「有り難い」と云う言葉の、本当の意味を感じ取ることができます。

……

「してあげたい」という言葉は、内観の三項目のひとつ「して返したこと」を連想し、同じ内容に思えるかもしれません。

しかし、内観者の一問一答をお聞きしていると「して返したこと」が「してあげたい」に移行する、つまり内観研修の時間経過と共に、この質問内容に対する研修者のとらえ方が変わっていくように思えるのです。

研修当初は、「して返したこと」の事実のみを探しています。
「買い物に行った」とか「留守番をしていた」と。
研修経過の中程で、上記の「して返したこと」は真に自分からしようとしたことだろうか、という問いが心の中に湧いてくるようです。
次第に、「して返したこと」は「(まったく)何も無い、です」という返答をする人が多くなります。

もしかしたら、ここで「して返すこと」の視点の転換が徐々にされるのかもしれません。
「して返したこと」のなさに、心の奥で再考し始めるのです。

内観の大きな特徴として、「生かされている」という実感を得る事が挙げられるでしょう。
「迷惑をかけたこと」によって罪悪感が募り、居た堪れなくなるのではないかと考える人もいるのですが、そうではなく前を見て歩き始めようという姿勢になるようです。

すると行動として、人に(世間に)何かを「してあげたい」「何かで恩返しをしたい」という強い気持ちが芽生えます。

……

内観初めての方が最初に取り間違いしやすい点なのですが、
対象が親であれば、その親に対して「自分がどうであったか」を調べるのです。

たとえば子供の頃、お母さんの誕生日に花をあげたとします。
お母さんの事で考える方法なら、「お母さんは嬉しそうだった」「喜んでいた」、そんな感じですよね。

でも、内観ではこの時のお母さんの気持ちがどうであったかは(ひとまず)関係ないのです。
自分が、その時どう思ったか。なので、「誇らしかった」とか「喜んでくれて嬉しかった」とか、それが内観で見ていく部分になります。

対象が何であれ、あくまでも「自分がどうであったか」です。

「私の母は、こうこうこうで、こういう人なんです」と云ったような、母親の人柄を調べるのではなく、
母親がどうだったであれ、自分が「してもらったこと」「して返したこと」、「母親に対しての自分は、どういう態度や心であったか」を真剣に調べるのが内観なのです。

相手を調べること、それは「外観」であって「内観」ではありません。

母親に対して、自分がどうであったかを調べている中で、「あぁ、あの時、お母さんは、きっとこういう気持ちだったんだな」と気づくことがあります。
その気づきは、自分の心の奥底からズトーンと突き上がってくるような、深い深い、そして身体中にその思いが染み渡っていくような気づきです。
それ故、そのお母さんの気持ちに溢れんばかりの感謝の気持ちがこみ上げてくるのです。

これは実際に経験しないと分かり辛い所なんですが(私はこの気持ちを体感するだけでも、内観に行く価値はあると思いました)、
ここの所は内観のなかで非常に大事なところで、初めから対象人物の事を考えたのでは絶対に到達できない所でもあるんです。

……

私は、通勤途中の満員電車のなかで内観しています。
電車を待っている時に、調べる事を決め、車内で目を閉じて内観しています。
片道四十五分、往復九十分、結構続いています。
電車で通っておられる方、お試しになってみては如何でしょうか。

……

日常生活の中で最たる縁というのは親子の縁で、その親子の縁は追求されればそれだけ深まる。
「あなた方は神とかいうものからはかなり遠いところにいるのだから、神がどうのと思ってもしょうがない。それよりも父母のことを思いなさい」とグルジェフは言ったそうだ。

考えてみると、父と母というのは、いかなる価値関係にも規定されない特権物である。
自分の父母については世間的な価値観は通用しないし黙らざるを得ない。

父がみじめな人生を送ったからといって、誰が彼を軽蔑しようか。
父と母は尊敬しなくてはならないという世間知は、その奥にもっと別の価値あるものを隠しているかもしれない。

……

今度こそ、日常内観を継続して、「敢行し、貫行し、慣行となり、歓行となる」となりたいものです。

……

今、死んだらどこへ行きますか。何にも持っていかれないのですよ。死をみつめて内観して下さい。

明日、もしあなたが死んだとしたら、後悔することはありませんか。

明日、まだ生きられると思わずに、今、しっかり内観して下さい。

……

人は他人に善を求めて苦しみ
己の悪を認めて安らぐ

(柳田鶴声の言葉)

内観道歌

省みよ、日に幾度も省みよ 欲と怒りの絶え間なければ

謗るまじ、たとえ咎ある人なりと 我が過ちはそれに勝れり

偉そうにする値なぞなき身なり

まことなきおのが心をあらためて 祈ればまことあらわれぞする
(真なき己が心を改めて 祈れば真、現れぞする)

心だにまことの道にかなひなば 祈らずとても神や守らん

悲しむべし凡愚の瞋恚無慙無愧 咎なく過ごすまさに是れ僥倖

極楽は西にはあらず皆身にあり 地獄のさまも己がこころぞ

己心の弥陀、己心の悪鬼の入りまじり 今日ひと日の無事に額く

● 八木重吉 詩三篇

ねがい

どこを
断ち切っても
うつくしくあればいいなあ

盲点照射

「他人が
知ってくれぬ」って

ああ、
だれが 未だかって
「自分」をすら
知った者が あったろうか

草にすわる

わたしの まちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば
それがわかる

● 正像末和讃 愚禿悲歎述懐

(九四)浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

(九五)外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり

(九六)悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる

(九七)無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

(九八)小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき

(九九)蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん

● 教行信証 信巻

内に虚仮を懐いて、貧瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵(や)めがたし、
事、蛇蝎に同じ、三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、
また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。

● 大無量寿経

心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善

● 浅原才市

あさましとよろこびは どちらもひとつ、なむあみだぶつ
あさましのざんき かんきの念仏、なむあみだぶつ
ざんきかんきは法の宝で 世界国土がみなざんき
世界国土がみなかんき
ざんきかんきのなむあみだぶつ


自分を知るのは怖いけど、
知らずに死ぬのは、なお怖い。
自分を知るには、内観が近道です。