上村秀雄 『歩むもの』抜粋

何事もよい方に判断するということ。これがどんなに困難なことか。
私のような下根の者には、この一事に生涯を賭けても、尚むつかしいと思われる。
それほど私の心は汚れ切っている。
一つの物事をすぐ悪い方へ解釈したがる。他人を疑う。他人を信じない。徒に他人を恐れる。

自分の気に入らないこと(自分にとって嫌な出来事)は、すべて自分のためになる。

そのときに直面しては、嘆き苦しみ、憎み呪うものであるが、一歩退いて大局より眺めれば、その気に入らぬことこそ、自分に反省の機会を与え、ややもすれば有頂天になり、傲慢になろうとする自分にブレーキをかけてくれる良き師であることに思い至るのである。

世の中というものは正直なものだ。
ごまかして渡ろうなんて、不貞の考えを起こしても、どっこいそうは問屋がおろさない。
貸借対照表は神様がちゃんと作っておられることを忘れてはならない。

何がこの人生においてもっとも大切なものなのか。
それをしっかり見定めて、まっしぐらに邁進することだ。
つまらぬことに心身を労している間に、短い人生は、さっさと過ぎてしまうのだ。

私の、最大の、そして最後の強敵は、私であった。

忘恩の徒となるは易く、報恩の人たるは難し。
ああ、なんと、人は恩を忘れ易いことか、われ、人ともに―。

大志を抱く者は、つまらぬことでは他人と争わない。
たいていのことは負けておればよいのだ。

誰にも知られずに、何かよいことを、毎日続けてすること―己の人つくりの秘訣である。

相手の出方の如何を問わぬ愛こそ、ほんとうの愛である。
この愛を知ることに依って、人生の趣は深くなる。

こうして五体満足にそろって、無事に生きているということ…
これは何という素晴らしい、ありがたいことであろうか。

神、われに逆境を与え給う。謹んで拝受するのみ。

孤立無援、絶対絶命の境地に追い込まれなくては、人は、本物にはならない。

この世に完全な人間なんて有り得ない。
お互いに欠点だらけの人間であることを知って大らかに許し合うこと。
これは大切な処世の秘訣である。

すべてを失ったとき、ほんとうに尊いものがものがうまれてくる。

いったん発せられた言葉は永久に消えることがない。
わが生涯を顧みて、心なき言葉の数々がいかに多かったかを思うと、慙愧に堪えない。
恐ろしいものは言葉である。

いかなる苦難をも「甘受」する覚悟が大切である。
「甘受」とはいい言葉だ。苦悩変じて歓喜となる。
苦難に際会しては、唯、合掌感謝して受け止めればよいのである。

念を入れてよく見れば、時々刻々に起こりつつある身辺の現象悉く神意のあらわれであって、それを怒り悲しみ、或いは喜び誇るのは、浅はかな人間智というものであろう。
私たちは神意のままに生きて行けばよい。

庭の隅の石を見よ。
人に知られず、あのように落ち着いて静かに生きていたいものである。

すべてのことは己より出でて己に復る。
人を恨み、人を憎むのは愚かなことである。
つねに己の至らざることを自覚していることが大切なのである。

極楽は地獄を通らなければ到達できないものであることを忘れてはいけない。
地獄あっての極楽なのである。
地獄の業火に焼かれて、心身共にこなごなになったとき、極楽の扉は開き始めるであろう。

西瓜は切ってみなければ、その良し悪しは分からない。
人も真っ向唐竹割りに斬られてみて、初めてその真価が現れる。

事上練磨― 世間の冷徹な現実が、時として私たちの頭上に加える一撃は、痛烈無比なる教育である。

自分に対して悪声を放つ者があれば、それは間違いなくわが良師である。
素直に、その言うところを聞くがいい。
謙虚に己を反省し尽くした上で、尚、彼の言うところが自分に当てはまらない場合は、彼のファウルを気の毒だと思えば良い。
だが、たいていの場合は、ぴたりと自分の過誤や欠点が指摘されているものである。
いい勉強をさせてもらったと思って、「授業料」を呈すべきである。

通身徹骨、己の至らなさと過ちとを思い知ること― すべてはここから始まる。
己を良しとしている限り、人間関係は決して好転しない。
そして、心の安らぎがなく、常に修羅の巷をさまようている。

順境の人は感謝を知らず、逆境にもまれ苦しんだ人が感謝を知っている。
私たち凡人は痛い目に遭わなければ、人生で最も大切なものが見えないのである。

夜半目覚めて静かに思えば、私はよくもこれまで無事に生きてこられたものだと思う。
人目には平凡な人生に見えても、まことに危ない綱渡りの連続であった。
この綱渡りは、これからも命のある限りは続くであろう。

朝、目を覚ましたら「ああ、ありがたいナ、今日も自分をこの地上に生かせて下さるのか」と、まず感謝の祈りを捧げたい。

どこまで孤独寂寞に堪え得るかということが、指導者の資格を計る大切な尺度であろう。
「人を相手とせず、天を相手とせよ」といった南洲は、孤独沈痛の人であった。

病苦、貧苦、愛別離苦―。あの手、この手と手段を変えて、神は私たちを痛めつける。
区々たる眼前の事象や我執に心奪われて、容易に目がさめない私たちの眠りを覚まして、
宇宙の真理と大生命に逢着させんがためである。

自分に最も気に入らぬ出来事や人物に当面したら、内心ひそかに「ああ、いい教師に出逢ったな」と思えばいい。その「教師」に月謝をうんと出してもいいのである。

究極のところは「神の公平を信じるかどうか」ということである。
ここに肝がすわれば、くよくよすることはない。

下座行を積んでない人は信用できない。

絶対の他力を信ずれば、迫害も又、神の恩寵である。

切羽詰って、はじめて真実のことばがうまれる。
切羽が詰まる、鍔迫り合いのことであって、生きるか死ぬかの瀬戸際である。

自分に働きかける神意の深さ読み取れないというのは、
結局、苦労が足りないからである。

神と共に生きる人は、この世で最も強い人である。

最後に残るのは、神と自分だけである。

どこまで本気になって自分の至らなさや愚かさを痛感するか。
まともな人間になる第一の条件である。

まことに日に新たに、また日に新たなり(大学)―
これは、人間いかに生きるべきかを教えた最高の言葉である。
今日の私は、すでに昨日の私と同じではない。

自分愚かさに気づくと云うことは容易なことではない。
私など一つの出来事について、自分が如何に愚かであったかに気づくのに数ヵ年を要することがある。
その数ヵ年の間、肩肘怒らせて虚勢を張っていた自分が、
いとも哀れに、そして惨めに思われるのである。

利他行ができないうちは、一人前の人間と思う勿れ。

親は子の、教師は生徒の、夫は妻の、上司は部下の、美点・長所をはっきりと掴まねばならぬ。
どうも私たちには、相手の欠点・短所を意識しすぎる(に目がいく)傾向がある。

赤手空拳にして起つ。
わが身を飾るものが何一つなくなって、はじめて本物が生まれる。

とどのつまりは、天が相手と覚悟せよ。

自分の意に逆らい、甚だしく気に入らぬことが月に一回くらいはあった方が良い。
これがどんなに自分の増上慢の抑止力になってくれることか。

打ち込めば打ち込むほど自分の魂が浄化される― 元来、仕事とはそんなものであるが、教師の場合、教え子を通して、その浄化作用が特に著しい。尊く、且つ有り難い仕事である。

私の心さえ澄んでおれば、あらゆるものは善意に解釈できるのである。
わが一心を磨き澄ますことに全力を傾けねばならない。

教えるは学ぶの半ば― というよりは、教えること、即学ぶことである。
教師は生徒に教えつつ、実は学んでいるのである。
俸給を貰って、いつも勉強させて貰っている―
こんな有り難い仕事が他にあるであろうか。

まわり道は無駄ではなかった。
考えてみれば、最短距離を行くなんて、凡そつまらない生き方ではないか。

「よく言う」ことは大変むつかしいことである。
しかし、「よく黙する」ことは、もっとむつかしいことなのである。
その沈黙には、百万言に勝る力がなければならない。
「維摩の一黙、雷の如し」と言われた。

どうにもならない生徒を与えられたら、教師は、これこそ、我をして一人前の教師にして下さる菩薩の化身なりと合掌礼拝して受け取るべきである。

自分の弱さ(愚かさ、つまらなさ)に徹して、はじめて強くなれる。
強がりほど弱いものはない。

「初心」というものは、すがすがしく尊いものであるが、
やがてその道のベテランになるにつれて「初心」を失いつつある姿は、実に醜いものである。
その醜さは他人には分かるが、自ら気づくことは至難である。

自分が罪深き人間であり「地獄一定」なることを、真の宗教者は知っている。

ただ一つのものを見つめておればいい。
そして、まっすぐに歩くのだ。 よそ見をすると危ない。

苦難は、まともに受けて起つのがよい。
逃れようという卑怯な心を生じてはならない。
逃れようというのは、自分が可愛いからである。
「己を愛するは良からぬことなり」と南洲も説いている。

どんなにあがいても、どうにもならないときがある。
あがいている人間を救うために、神の大愛は働いているのであるが、
当の本人は、それに気がつかないで、苦しみ悲しんでいる。
これは人智の及び難い世界である。

「捨てる神あれば拾う神あり」というが、
本当に捨てられることは、本当に拾われることである。

両手を離せ。
放してしまえば、抱き取られる。

苦しい練習を積まなければ、良い選手になれないように、
言うに言われぬむつかしい人生の難関を潜って来なければ、
ひとかどの人間にはなれないであろう。
苦しいことに出逢ったら、そう思って合掌礼拝して受けとめるのがいい。

他人の欠点を見つけ出すのは、いともたやすいことだ。
そして、他人の長所美点を見つけ出して、心から誉め讃えると云うことは、
なかなかできないものである。
人に対して点の辛(から)過ぎる自分をしばしば見出す。

人から誤解される苦しさにじっと堪える辛抱が大切である。
生半可な言い訳をしてはならない。
我に存する一片の真心は神のみぞよく知り給う。
実際、お互い人間は、誤解と中傷の只中に生活していると言っても過言ではない。

人間は恵まれ過ぎていると、どんなに素質のいい人でも駄目になる恐れがある。
万事意のままになり、失意絶望の地獄を知らない人は、
人の心の奥底を見抜くことや、人の苦しみに対する明察を欠き易い。
恵まれた境遇に在る者は、よほど心して敬虔な態度を堅持しなければならない。

「己を以って人を律する」ということは、殆ど例外なく誰もが犯している過ちである。
自分の器量相応にしか、私たちは相手を理解するできない。

私に苦言を呈してくれる人は最大の恩人である。
人に苦言を呈すると云うことは、よほどの勇気と慈悲心がなければできないことである。
世間では、苦言を呈した人は殆どの場合、当の相手から憎まれる。
何年かのちになって感謝されることもあるが…

人間、どん底に突き落とされたら肚が据わる。
逆境に置かれて、はじめて真の勇気が湧いてくるものである。

神道の根本は「みそぎ」と「祓え」であるが、
祓っても祓っても、又湧いてくる己が心の罪けがれには、唯々驚くばかりである。
罪けがれとの戦いは、いのちがけである。(気づきによる「みそぎ・祓え」)

「一日一生」などと唱えながら、とかく心がゆるみ、すべてのことが中途半端になりやすい自分を情けなく思う。
「一日一生」ということは、明日を頼まぬ生きかたである。
かって映画の題名にあったように「明日なき人々」が、私たちなのだ。

夜が更けて、じっと坐っていると、窓の下で一しきり虫が鳴く。
こんなとき「どうやら一番いけないのは自分ではないか」と思えてくる。
気ままで傲慢で、そして卑怯で、何かといえば保身を考える。
すこしでも人によく見られたいと思う。
まことに救い難き俗物である。
ふと耳にひびいてくるのは「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という「歎異抄」の一節である。

朝々、境内や道路を掃く、わが箒の音が、われながら澄んでいるときもあれば、濁っているときもある。
どうかすると、焦りのようなものが箒の音に感じられることがある。
そんなときは「これは、いかんな、今日は気をつけなければ―」と思うのである。

無私無欲の人こそ、この世の中で最も強い人である。

言葉の布施を惜しんではならない。
ちょっとした、あたたかなひと言を、人は喜ぶものである。
殊に、老人と病人は―。
心なきひと言に、深く傷つくのも老人と病人である。

人間、ほんとうの力は、泣く涙も涸れてしまったところから湧いてくる。
森先生の、かってのお歌に「悲しみの極みといふも尚足りぬ いのちの果てにみほとけに逢ふ」