brownさん 掲示板より

下から順にどうぞ。

……

◆ただの観察より徹底的考察が重要 投稿者:brown  投稿日: 2月24日(月)01時26分06秒

> それは、「考えまくること」と「観察し抜くこと」が同じであるのか、そうでないのか、と云う点です。

結論としては,基本は同じで,力点が少し違い,違う点にフォーカスして言えば,双方が繰り返し行じられるべきものと考えます。

(同じ点について)
どちらかと言うと「考え抜く」方が近いものです。
禅やヴィパシュヤナーのように,起こることをありのままに理解するのではなく,
わざわざ能動的に自己の心にメスを入れていく作業が入ります。
つまり,私の考える自己観察とは,日常の自己のありのままの姿をただ見ること,
只今,只坐る,只あるになりきることではなく,
むしろ次々と自分に疑問を投げかけたり,否定したり,問題がないか探したり,
そういう積極性を持っています。
観察には能動的働きかけが必要だということです。でなければ止まってしまいます。
人の心は次々と妄想を生み出して困るので,その雑念を断って無になることが
重要だと言う教えが一般的ですが,実際,雑念や妄想は全く無意味ですし,
観察する価値がありません。
また,心を空しくすることはそれほど難しいことではなく,
只リラックスしていることはテクニック上の上達の問題に過ぎないでしょう。
そのテクニックを上達させることは,単に安楽な精神機能の中に逃避しているだけで,
静寂をもたらしたとしても,明確な理解も,慈悲にあふれた清浄な空間をももたらしません。
より重要なことは,自己(実は世界全体と自己は最終的に全く同一のものですが)
が完全に明らかになることです。
自己をよく分析していったとしても,見つかるのは結局,全て妄想ばかりですが,
積極的に分析して発見する妄想は,只観察して見ている妄想と異なります。
それは対象とする心の深度が違うのです。
より非日常的な,より隠された,より抑圧された,より本当の自己を見つめる必要が
あります。そのためには分析が必要です。

◆孤独な自己と向き合う

文章で書くといかにも簡単そうですが,
私がいかにおろかであるか,私がいかに罪深いか,
私がいかに平安から程遠いかを知ることは実際には容易ではありません。
なぜなら,自己発見の大変な苦痛が伴うからです。
日常の我は,原則として全くこの点についての認識が不十分です。
常に,「私は偉い」,「私は重要だ」,「私は正しい」という方面で理解するために,
真の姿が包み隠されています。
真の姿とは,仏の姿でもキリストの姿でもなく,
残念ですが,罪深く,醜悪で,孤独で,寂しがり屋で,嫉妬深く,無力な私です。
(そんなのはbrownだけかもしれませんがね。まあ,少なくとも私の本質はそうです。)
この私と,日常の私の間には大変な隔たりがありますので,
決して只観察することで見極められるものではありません。
そしてそれをはっきりと知る必要があります。

閻魔様をご存知ですか?
死んだら私たちの魂は地下五百ヨージャナのところにある黄泉の国に行きます。
そこには閻魔大王という恐ろしい鬼がいます。
この大王の前に立ちますとね,自己が見透かされていることをありありと感じます。
そして自らの罪深さに圧倒されてそこに座り込んで泣き崩れてしまいます。
それこそが修行の姿です。

最後の審判はご存知ですか?
この世の終わりになりますと,人はたった一人で神様(唯一絶対の)の前に
引き出されてその裁判を受けます。
これは酷です。
そこでたった一人になって父なる神に向かい合ったとき,
それはそれは不安で仕方ありません。
そうして孤独に自分ひとりで,他に逃げ場所のないところに立たされると
やはり恐怖でへなへなと崩れてしまいます。もう泣くしかないでしょうね。
それが修行の姿です。

そういうところに自分を追い込んでいく必要がある。
誰かと会話をしたり,音楽で気を紛らわしたり,本を読んだりするのではなく,
たった一人,ほかでもないあなた一人になる必要があります。
死はその感情を強烈に喚起します。死ぬとき私はたった一人死んでいきますから。
それは心細いですよ。

素直に,より直接的に,この心細さや,孤独や不安にアクセスできるようになることが
当面の目標です。

◆観察と考察は交互に

(違う点)
ニュアンスからいきますと,

観察→ただありのままをみる
考察→積極的により深く自己に切り込む

となりますが,これは両方必要です。交互に。

まず表層の我を観察しています。
考察により少し深い自己に取り組みます。
そうするとかなり不自然で,混乱があり,不案内で,撹乱されます。
その際にはその深度に留まる必要があります。その深度で観察します。
ただ観察していると心は落ち着きをもってきます。無になります。
そうしたらより深い深度に分け入ってください。
また撹乱され,混乱します。
よって観察し,リラックスさせ,心を安定させてください。
とまあ,教科書的に書けばこういうことになります。


◆「考え抜くこと」と「観察し抜くこと」 投稿者:レイ  投稿日: 2月23日(日)16時36分17秒

> brownさま

いま一つ、明確でないことがあります。
それは、「考えまくること」と「観察し抜くこと」が同じであるのか、そうでないのか、
と云う点です。

同じであるなら、それは同じことの表現の違い、比重の違い、力点の違いであるのか?
同じでない(違う)なら、そこには順序というか段階のようなものがあるのか?
(例えば、考え抜くこと–→観察、とか云う風に…)

その辺が、私には、どうしてもハッキリしませんで、
「結局、何をしたらいいのか」が、分かったようで分からないのです。

愚問なのかもしれませんが、
いま一度、よろしくお願いいたします。

—–

以下、brownさんの以前に書かれた文章から、
「考え抜くこと」と「観察し抜くこと」をより分けて張ってみます。

───────────────────────────────
*考え抜くこと

> 要するに,全ての思考には,反対意見があります。それを全て経験することです。
> 思考を柔軟にし,全ての思考を開放しましょう。考えて考えて考えまくりましょう。
> あらゆる思考を自己のものとしましょう。全ての反対意見を同時に受け入れましょう。
> それが絶望です。つまり,一方向に行くのではなく,全ての方向に行き続けるのです。
> 止まってはなりません。

> 無思考は睡眠に等しく,解決に至りません。
> なぜなら,それは何でもないからです。
> これに対し,全思考はどこにもとどまらないダイナミックで落ち着きどころのない,完全な不安です。
> それが「一切」です。

> それは解決を予感してはなりません。無目的です。
> 実際のところそれは全目的なのですが,全はそうして無に連結しているのです。
> どこにもとどまるところがないからです。

> だから、あなたが何を考えても思っても全て自我に汚染されています。でも、そんなことはかまわず、思ったこと、考えたことを分析してください。なぜ、そのように考えたのか、そのように考えたのはどのような原因があってでてきたのか、実は背景にどんな意図があったのか。人類の思考や他人の感情について考えてはなりません。自分自身の心、具体的に発生している心の動きの一つ一つをじっくり分析してください。そうすればするほど苦しくなってくるはずです。心がいままでいたんだことがないほどに痛んでくるはずです。そのとき正しく観察しています。

───────────────────────────────
*観察し抜くこと

> いかなることでも自らの心に生じたものを観察する禅定

> ただ、自らの心を観察し、いかに汚れたものであってもそれをよく観察することにとどまり続けました。

> 私の発想は、自分の心を徹底的に観察して何がどうなっているのかを完全にはっきりとみてやろうと。そして何もかも理詰めで完全に分析、分解、破壊して心が苦しみを生み出す構造を理解力によってメカニカルに断ち切ってしまおうとしたわけです。

> 自分の心を観察するといっても、見たくないものが多くあるでしょう。でもそれを逐一全て自分の心に生じてくるものとして見ていきます。

> 自我は苦しみの観察を始めると邪魔しようとします。恐れを引き起こさせ、それを見ないようにさせます。でも恐れを恐れないで丁寧に見ていきます。

> 「正しい瞑想」はいかなることでも自己の心の中に起こることを見つめるようにしましょう。自己の心を恐れてはなりません。恐ろしいように見えたり、見つめれば見つめるほど苦しみが増すように思われるかもしれません。それでも恐れずにただ観察しましょう。

> ただ、自己の心の中に起こる事柄を、恐れることなく勇敢に見ただけなのです。

> ただ、自らの必要性において、恐れず自己観察を行ったのである。もし、修行というものがあったとしたら、それは自己観察を行っただけである。

> しなければならないことは、一言で言えば、自己観察です。基本的にそれだけです。
> 素直になることです。自分がいかに罪深いか、いかに孤独なのか、いかにいやらしい人間なのか、瞬間瞬間にとんでもない妄想を抱いて生きていることを、他ならぬ自分がそういう人間であることをはっきりと、徹底的に見ることです。自らの心の中に生じてくることを全てはっきり認識してください。結局それだけで究極的最頂点にたどり着けます。

> より重要なことは,煩悩やその根拠となっている感情が自身の心の中に存在し,それをはっきりと知り,あからさまにし,素直に見つめ尽くすことです。

> 自己観察とは,自己の望みを観察することです。
> いかなるものでも自己が望みを抱いたら,それを知り,
> その反対があることを知ることです。

> 常に,自己を観察し,自己が今どのような望みを抱いているかを知る必要があります。


◆参考まで・・ 投稿者:Nirala  投稿日: 2月22日(土)02時38分38秒

あるお話しを二つほど・・
EOさんのお話し、知ってると思うけど、一応・・
そして、円空さんのお話し、このお二人同じと思います、
起こる時はこのように起きるの見本かな?
エクハルト・トールの悟り体験も読めば同じことが
解りますね、要は「理解」したら何かするとかのこと
では無くて、即座に起こるまたは即座に目覚めに向かう
という事なんでしょうね。

円空さん
http://home.att.ne.jp/red/enku/sendo/tao/init/memories6.html
http://home.att.ne.jp/red/enku/sendo/tao/init/memories7.html

EOさん
http://www.mumyouan.com/e/eoex.html

最初は知識でも、覚醒を以て読めば了解し「理解」が生じ、
問題は無い!ですか。

ではまた。


◆薬の買い方 投稿者:brown  投稿日: 2月22日(土)02時19分02秒

どうでもいいことですが,

薬は,確実に死ねる分量をよく調べて(調べる過程も重要です)
短期間にではなく,3ヶ月も6ヶ月もかけて,ゆっくり買い集めてください。
もちろん飲むことを実行してはなりませんが,実行する気で買い集めてください。

その際にはよく死ぬ恐怖を感じてください。感じなければそれは嘘です。
普段忘れていますが,死は子供のころと同じ恐怖を大人にも与えます。
なにせ,死は怖いものです。
よくそれを感じたら,たとえ少量であっても,薬箱を持つ手が震えるはずです。
なんて自分は馬鹿なことをやっているのだと涙が出てくるはずです。

それを,修行というのです。


◆自己観察の動機 投稿者:brown  投稿日: 2月22日(土)02時09分44秒

自己観察の動機は重要です。

それは,クリシュナムルティがそれを薦めるからであってはなりません。
それは,それが何かファッショナブルな感じがするからであってはなりません。
それは,それがレイさんを悟りに導くからであってはなりません。
それは,神秘的な匂いに酔いしれたからであってはなりません。

それは,レイさんが,苦しいからでなくてはなりません。
それは,レイさんが,何かから逃れたいからでなくてはなりません。
それは,そうするしか他にどうしようもないからでなくてはなりません。

なぜなら,それ以外の動機があるときには,既にそこに望みがあるからです。

このような動機を持ち,「自己観察とは?」のような方法により,
「絶望とは?一切とは?」のような絶望・一切を目指していく
(この言葉は無論適切でありませんが)ことにより,
解脱へと人は導かれていきます。
なぜなら,人はそこにしか導かれようがないからです。


◆自己観察とは? 投稿者:brown  投稿日: 2月22日(土)02時01分30秒

自己観察とは何でしょうか?

自己観察とは,自己の望みを観察することです。
いかなるものでも自己が望みを抱いたら,それを知り,その反対があることを知ることです。
絶望も危険です。
自分が絶望していると思ったら,それは絶望したのです。
でも絶望して何が楽しいのでしょうか?絶望に意味なんてありません。
何ものも意味がないと悟ったら,それは悟りです。
しかし悟って何がうれしいでしょうか?
悟ったとしても単なる何かに気付いた詐欺師に過ぎません。
私は詐欺師に過ぎないと達観したらそれは諦観に達したのです。
でも諦観に達したら何が解決したのでしょうか?・・・・・・

いかなる思考も感情も,止まったら間違いなのです。固定すべきものは何もありません。
なぜなら,それは一方的で,極端だからです。
それは,別の観点から見れば,別の仕方で認識されるような,小さな認識に過ぎないからです。
常に,自己を観察し,自己が今どのような望みを抱いているかを知る必要があります。
絶望していると思うときは,絶望していると思いたいのです。
このように自己を発見したと思うときは,発見できたと思いたいのです。
でも,本当に絶望しているでしょうか?本当に発見できたでしょうか?
このように考え続けていくと,気が狂うかもしれません。
しかし,そのときは気が狂うかもしれない,あるいは,気が狂った,と思いたいのです。
気なんて狂いようがありません。だって,既に狂っているんですから。
だとしても本当に狂うかもしれませんよ。
そう思う不安は,不安に浸りたいからでしょうか?・・・

この思考は永遠に続きます。
なぜなら,続かなければならないからです。


◆絶望とは?一切とは? 投稿者:brown  投稿日: 2月22日(土)01時45分53秒

絶望とは,文字そのまま,望みのないことです。
絶望にとどまり続けるにはどうしたらいいのでしょうか?
それには無論,練習が必要です。やはり多少の期間は要します。
それは,中学生が二次方程式の解法を覚えるようなものです。
コツはご自身で(つまり自分の心の動きを感じながら)見つけてください。

しかし,方針としては以下のようなことになるのではないかと思います。

レイさんは死んだら何かが解決すると信じますか?
もし,チベット人の言うように本当に死後の輪廻があったらどうしますか?
自殺者はえらいことになりますよ。
レイさんは生きていることに望みがありますか?
生きていたらいつか目的に達しますか?目的とは何ですか?
解脱できるとクリシュナムルティは説くかもしれませんが,彼のことを
どうして信じることが出来るでしょうか。
彼が言っていることが本当だとして,それは彼個人のことであって,
レイさん自身にそれが起こるとどうして信じることができるでしょうか?
かといって,解脱以外の何を信じるのでしょうか。
生きることは全て苦しみである。その苦しみを受け入れるのでしょうか?
受け入れられないとして,受け入れられない自分を恨んだり,
それを生んだ親を恨むことで逃げ出しますか?
生きていて何が楽しいのでしょうか?
これまでの人生で一度でも満足したことがあるでしょうか?
生きていてよかったことなんてあるでしょうか?
でも,私は死んでいるでしょうか?
そう考えている瞬間にも,なんだかわからないけど生きているのではないでしょうか?
明日レイさんは生きているでしょうか?
急に事故があって死ぬかもしれませんが,それは幸いなことかもしれません。
しかし,死ぬとは限りません。そうして不幸は続いていきます。何も確かなものもなく。
何か望みがかなうでしょうか?未来はでたらめです。でたらめに何かを望むでしょうか?
レイさんは宝くじを買って喜んでいる人を軽蔑するでしょうか?
でもレイさんも同じですよ。生きていることはそれだけで軽蔑に値するのではないでしょうか?
そうでないとしたらいったい何を誇るのでしょうか?
たぶん外れるであろうくじけんを誇るのですか?
でも,そう軽蔑するかもしれませんが,当たるかもしれませんよ。
そうだとしたら,それに望みをたくして精一杯生きられないレイさんはなんて惨めなんでしょう?

・・・・・・

要するに,全ての思考には,反対意見があります。それを全て経験することです。
思考を柔軟にし,全ての思考を開放しましょう。考えて考えて考えまくりましょう。
あらゆる思考を自己のものとしましょう。全ての反対意見を同時に受け入れましょう。
それが絶望です。つまり,一方向に行くのではなく,全ての方向に行き続けるのです。
止まってはなりません。無思考は睡眠に等しく,解決に至りません。
なぜなら,それは何でもないからです。
これに対し,全思考はどこにもとどまらないダイナミックで落ち着きどころのない,完全な不安です。
それが「一切」です。
それは解決を予感してはなりません。無目的です。
実際のところそれは全目的なのですが,全はそうして無に連結しているのです。
どこにもとどまるところがないからです。


◆ brownさんヘ…幾つかの質問 投稿者:レイ  投稿日: 2月21日(金)10時12分31秒

応答、ありがとうございます。

私は、これが自分が自分に本当に納得できるための最後のチャンスだと思っております。
brownさんの言われてることを実際にやってみようと思います。
その前に、幾つか不明瞭な点を確認させてください。

brownさんの言われてることは、
「全面的に自分に絶望する必要がある。
しかし、私は絶望のその先についての話を聞き過ぎてるため、
そこに、ヒトには無い余計な困難さがある」と云う意味だと理解しました。

> 解脱には絶望が必須です。絶望するには,解脱すら障害になります。
> なぜなら,そこには,悟りへの期待があるからです。

> レイさんは解脱についてよく知りすぎたのです。
> 解決方法がある,解決した人がいるということが
> いつのまにか心の中では「私も解決できる」 →「(多少)安心だ」
> となってしまったのです。
> この安心感は,解脱に対する厚い障壁を築いてしまいます。
> この障壁を取り除くには,
> 「私」も「解脱できる」という知識を強制的に取り除く必要があります。
> そのためには,「私にはできない」と考える必要があります。

その通りだと思います。
しかし、一度聞いてしまったことは
(一度、口に食べ物を入れ、飲み込んでしまったようなもので)
それを頭の中から消去することができません。

そこで、それを振り切るために『自己の死』に意識を専注することを言われる。


> 方法の要点は自己の死を見つめることです。

> そこへ心を導くには,自己の限界に心を集中させる必要があります。
> それが私の死なのです。
> 生に何か救いがあると思うから,心が生に期待してしまう。

> 方法の要点は,死を意識することです。
> 簡単に言えば,「私は死のう。なぜなら苦を乗り越えることはできないからだ。
> こんな生を生きていても意味がない。潔く死のう。」と意図することです。
> 本当に思ってくださいよ。遊びではない。

そのような理解でよろしいでしょうか。

そして、その『自分の死』を切実に実感するために必要な『致死量の睡眠薬』。
観念的ではない、本当に、身に迫るものとして『自分の死、行き詰まり』を感じるための、
物質的な手段の必要性、と云うことですね。

—–

最後に不明確な部分を確認させてください。(これが一番聞きたいことです)

> あらゆる期待を排除するには,注意深く「一切」を知る必要があります。
> それは「一切」を知ろうとする心や注意力すら含み,
> 結局,我々の常識的な精神構造では達成できないことです。
> しかし,そこに限りなくアプローチすることは「意識的に」可能です。

ここに出てくる「一切」とは何でしょうか。
「自分の心の動きの一切」「自分の心がする巧妙な欺瞞のからくりの一切」
と云う意味でしょうか。

—–

そして、もう一つ。

「絶望する必要がある」「死を痛感する必要がある」と言われてる訳ですが、
どうしても、それを観念的なものとしか感じられないのです。

brownさんの言われる『絶望の状態』に留まるにはどうしたらいいのでしょうか?

私は「絶望するにはどうしたら良いのですか? その方法(絶望の仕方)を教えてください。」
と尋ねているに過ぎず、その質問に答えることはできないのだと云うことは予想できます。
しかし、やはり分からないし、聞きたいのです。

『絶望の状態』に留まるにはどうしたらいいのでしょうか?
その方法を教えてください。(外面的な生活の面で、内面的な追い詰め方として)

—–

「やるしかない、やらなければならない、それ以外に自分には突破の可能性がない」
と感じております。

よろしくお願いいたします。


◆蘭恵流さん、レイさんへ 投稿者:Nirala  投稿日: 2月21日(金)02時02分51秒

レイさん初めまして、蘭恵流さんこんにちは。

>しっかりと目覚めた霊性に裏付けされた日常生活をしたいと思って
>いるのですが、

本気?です、かなり硬い決意でもお持ちです~?!
もしも、そうなら、世間には幾つもの道が用意されていますよ!
ようは、生は最初から悟っていて在るがままで良いなんて思わなければ、
(本質的にはなにも変える必要は無い)
如何様にも変容の道は見つけられると思うのです。

蘭恵流さんは、至高なるものの香りを潜在的に知っておられるから欲求
が募ってくるのでしょう。

さて、紛うことなき己という生き物がどのように臨在するのか!
————————————————————————-
   1)テレビを見ている時は無思考ですよ!その時意識を分割して
     眉間や後頭部(Kは覚醒している時目を通して頭の後ろから
     見ているようだと書いています。)胸などに意識を置き、
     テレビと自己の二つを一緒に感じる。(胸に真我が有ると
     言われていますし、頭から落ちると間違いなくハートで至福
     が湧き起こる。)
     これは、日常の中で自己のプレゼンスを確立する事に役立つ

   2)本を読む時、特にKの本のような自己の理解に役立つような
     本ですが、最初文字を読むが、徐々に目に映すようにして、
     読まないようにする、が、読まない訳ではない。
     文字を読むことは「脳」の中で言葉という「音声」を想起
     することです、この脳内の記号音声化を停止迂回して記号
     としての言語を直に意識で理解するのです。
     このようにしていると、言葉の想起に自己同一化していた
     未分化の自己意識が徐々に結晶化して、実在の内にリラックス
     する事が起き始めます。
     ここで初めて瞑想が「独りでに」起き始め、深まります。

   3)以上のことをやって行くと、独りでにリラックスの境地に入る
     ことが起きます、この後は理解を通して体験を深めますと、
     自在に身体の空と思考の空を一瞥出来るように成ります。
     感情の空は日常の中で覚醒を保つ事で超えるしか有りません、
     私達に苦痛や対立をもたらすものを待つことです、やって
     来たら、「心を動かすな!」というマントラを一言唱えて、
     自己の感情の動きを観照・変容します。

     大きな感情の波を変容すると、超越が起こります。

   4)メソッドとしての想念停止(マインドの主人と成る)の行は
     50日の期間が必要でして、仕事をしながらでも出来ますが、
     最低1、2、のレッスンが理解・体験出来てから、最大限の
     決心を持って取りかかる必要が有ります。
     このメソッドは行じる者の一切の疑念を超越させて、一個の
     真人を誕生させます。
————————————————————————-
これらのテクは自己のセンターから遠く離れていた認識の先端を自己の
センターに引き戻す作用が在ります、まずはこれ!
何かに注意を向けた時、自己意識がその向けたものの、「そこ」にまで
自己のセンターから離れて行っているのを確認してください。
そして、このようなメソッドで意識をセンターに引き戻してください。

初心者が初めて瞑想をすると、外の音、車や犬の鳴き声などが気になって
一向に心が静まらないものですが、これは、意識が遠くの客体まで出張
して行っていることなのです。
瞑想になれて、自己の臨在にくつろげるようになると、全ての感覚を
自己というセンターで受け止めるようになるので、如何なる騒音の中でも
気にならず瞑想できるようになります。
この違いを理解する事は大事だと思います。

以上実践的な事を書きました、疑念を抱くものは何者ぞ!求める者よ
、魂よ、一切を打ち破り顕現せよ!です。
皆に成就が訪れますように。


◆方法の有効性について 投稿者:brown  投稿日: 2月20日(木)00時12分19秒

なぜ,下記方法が有効なのか?
(それは単純に,「目的」のためには,言わない方がよいのかもしれませんが,
つまり知らない方がよいのかもしれませんが)

レイさんは解脱についてよく知りすぎたのです。
解決方法がある,解決した人がいるということがいつのまにか心の中では
「私も解決できる」→「(多少)安心だ」となってしまったのです。
この安心感は,解脱に対する厚い障壁を築いてしまいます。
この障壁を取り除くには,「私」も「解脱できる」という知識を強制的に取り除く必要があります。
そのためには,「私にはできない」と考える必要があります。
そこへ心を導くには,自己の限界に心を集中させる必要があります。
それが私の死なのです。
生に何か救いがあると思うから,心が生に期待してしまう。
解脱には絶望が必須です。絶望するには,解脱すら障害になります。
なぜなら,そこには,悟りへの期待があるからです。
あらゆる期待を排除するには,注意深く「一切」を知る必要があります。
それは「一切」を知ろうとする心や注意力すら含み,
結局,我々の常識的な精神構造では達成できないことです。
しかし,そこに限りなくアプローチすることは「意識的に」可能です。
方法の要点は自己の死を見つめることです。


◆下記投稿に関する注釈 投稿者:brown  投稿日: 2月19日(水)23時59分51秒

常識的な注釈です。
・致死量の薬は飲まないでください。
・レイさん以外は一切(一部分たりとも)実践しないでください。


◆問題意識 投稿者:brown  投稿日: 2月19日(水)23時54分02秒

こんばんは。
(初めて書き込みします。友人から紹介を受けて覗いてみました。)
問題意識,すごいですね。
結論から申しまして,レイさんの抱えている問題は完全に解決することができます。
「相対的な悟り観」という洞察も正しいし,問題の捉え方も正しい(と相対的に私は思う)。
レイさんは,自己観察がよくできるのですね。文面にて分かります。
レイさんは,社会活動を停止できる時間を取れるのですか? 2~3ヶ月くらい。
この期間は現実的にはどうしても必要になってくると思います。
方法の要点は,死を意識することです。
簡単に言えば,「私は死のう。なぜなら苦を乗り越えることはできないからだ。
こんな生を生きていても意味がない。潔く死のう。」と意図することです。
本当に思ってくださいよ。遊びではない。
その次にどうするか?睡眠薬を致死量(の2倍くらい)買い集めてください。
市販薬で20~30箱になると思います。
一度に買うと売ってくれないので,数日に一回,一箱か二箱ずつ買ってください。
そうすると一,二ヶ月かかります。
なぜなら,死ぬためです。
いや,解決法というのは死んだら直るよ,ということではありません。
でも,死ぬ覚悟くらいは必要でしょうな。
つまり,これは嘘も方便というのではなく,本当にそう覚悟して,本当に買い集める必要があります。


◆私の根本問題(15年来の私の問題) 投稿者:レイ  投稿日: 2月19日(水)23時25分53秒

結局、現在、この生活で(このままで)何が問題(不満)なのか? 何がいけないのか?

—–

◆ 1. 虚しさ、満たされなさのうずき (生の虚しさ、満たされなさの感覚、という苦)
 生の全体を覆う、漠然とした、しかし圧倒的な、いま、ここ、この状態への、何か知れない落ちつけなさ、おさまらなさ、物足りなさ、安住できなさ、くつろげなさ、空虚感、不全感、さびしさ、不満足さ、満たされなさ、退屈さ、味気なさ、イライラ、ソワソワ、「本当に、これでイイ!」と思えなさの感覚。心理的苦痛

何かをすること―何らかの心理的/肉体的な行為―刺激・関心・興味によって、心と体を埋めること、時間を埋めること。
その空虚さの感覚からの逃避、気まぎらわせ、時間つぶし。
何かをせずにはいられない。
逃避で埋め尽くされた日常、生活、時間

生の虚しさ、落ち着かなさ、おさまらなさ、物足りなさ、不全感などの、根っこにある問題・感覚が浮上してくると、その度に、次々と、絶え間なく何らかの新しい逃避(刺激、気まぎらわせ)を見つけては(で頭を埋めては)、その「空虚さ」という事実(本当の問題)から目を逸らしてしまう。

◆ 2. 自己イメージの問題 (自己イメージを持つが故の苦)
ハーレム/メシア願望。認められたい、何者かでありたいと云う欲望、プライド、自己/他者による承認への欲求、評価されたい欲求を持つが故の、人との関係における「無力感、動揺感、怖れ、怒り、嫉妬、挫折感、優越感/劣等感、みじめさ、不安定さなどの諸々の悪感情、苦痛な、心かき乱す、動揺させる、まぬがれたい心情・情動の絶え間ない生起・湧出」

自身によっても、また他人からも(修行の面で、その心境の高さ、人間性、人格性の高さにおいて)、たいした人であると認められたい、そう扱われたい、承認されたいという欲求を持つが故の「無力感、動揺感…」

何者にも成れないこと、何者でもあれないこと―
自分は、クリシュナムルティその他、悟ったと云われる人たちのようには成れなかった。成れないまま終わるだろう、と感じさせられることの「無力感、動揺感…」

あらゆる人間関係において、
特別な、注目されるべき、一目置かれるべき能力・価値・魅力を持った存在であると認められたい、でありたい、そう扱われたいという、意識構造の全体に染みついた、どうしようもない衝動・切望→そうあれないことの「無力感、動揺感…」

関係における絶え間ない自己イメージ防衛的反応・自己イメージ防衛的現実解釈、絶え間ない自己正当化。
あらゆる場面においての、内面的な自己賛美と他者おとしめ。
他をけなし、自らを引き上げようとする心の動き・反応―やらずにはいられない、止めることのできない。
そのことの生み出す「無力感、動揺感…」

現実の生活の場面は、その「そう(で)ありたい」自己イメージからの転落の連続である。→その否認→「無力感、動揺感…」

関係において、「認められたい」「何ものかでありたい」という欲求に常に衝き動かされていること。
「(誰にも)認められない」「何ものでもあれない」「(自分は)何ものでもない存在である」と感じさせられることの「無力感、動揺感…」

◆ 3. 世界イメージ・世界理論の問題 (世界イメージに関連する不安・苦痛)
理論(信念体系)と現実(経験) 観念の外部、多‐現実、相対主義、パラダイム論的問題(世界理論への欲求、の不在、への懐疑)

絶対的、超越的な世界の(自分の生の)説明・観念・解答・理論(=真理・世界理論)が欲しい。
それが手に入れば、迷いなく、確固として生きてゆくことができる。
「日々何をなすべきか、何をして(どうやって)生きてゆくべきか」の規範、指針、指し示しが手に入る。

多くの人が、それぞれの「絶対的な真理、絶対的な説明、絶対的な観念、絶対的な解答」を手にし、その実現のために身を捧げ、その理念のなかに没入し、その理論の内に、自閉して生きていくのを見る。

絶対的、超越的な世界の(自分の生の)説明・観念・解答・理論・真理(=世界理論)が「ない」こと、「持てない」でいること、が「分からない」でいることの
不安定さ、不安感、落ちつけなさ、確固としてなさ、地盤がないという感じ、不確かさ、緊張感、胸塞ぐ重苦しさ、心安んじていられなさ(の慢性化)という苦

* また、「それを得た」と言う人たちの悲惨さを見るときに感じる苦・悩み

世界理論(絶対的、超越的説明・観念)自体への懐疑・疑い(相対主義、パラダイム論的懐疑)(多‐現実論)
世界イメージ防衛的反応・理論/現実の循環構造の網目から脱け出して世界を(他者を)見ること、理論(ditthi・見)を背負わない観察、理論を抜け出た観察、理論を背負わないで世界を(他者を)見ること(への欲求、あくがれ)(という課題)→理論の外部、関係、他者

◆ 4. 性・性的欲求を持つが故の苦
異性に関わる場面(現実に/想像で)における、
肉体的、生理的な苦痛―性的衝き上げ、ストレス、フラストレーション、圧迫、逼迫感、欲求不満と、
心理的な苦痛―優越感/劣等感、嫉妬、さびしさ、みじめさ、なさけなさ、非万能感、無力感などの諸々の悪感情・否定的心情・心の痛みの絶え間ない生起・湧出、という苦。

* 「心理的苦痛」のほうには、2の「自己イメージの問題」も重なり関わっている。
* そして、この「性」の問題は、より根本的な根っこの部分で、1の「虚しさの問題」とも重なっているのかもしれない。

—–
これらの問題を根本的にどうにかしたい(なくしたい)。
どうにかするためには、どうしていけばいいのか?


◆苦と、苦しみの解消 投稿者:レイ  投稿日: 2月19日(水)23時21分56秒

こんばんは。

まず、少し前置きを書かせてください。

> レイさん自身は臨界点まで行ったことはあるのでしょうか?
> 魂の臨界点に達したときに、ある瞬間こころのビッグバンがあるはずだと思いながら
> 自己変容を遂げた方々

この問いを私の言葉に直してみると、

> クリシュナムルティの云う意味で「根源的な自己変容」を遂げているのか?
> 禅で云う意味で「見性、大悟」しているのか?
> ヴィパッサナーで云う意味で「解脱」してるのか(あるいは預流道にはなっているのか)? あるいは「涅槃」に触れたのか?

と云う問いになります。

さらに簡潔にすると、

> つまり悟っているのか、悟っていないのか?

と云う問いとなります。

—–

しかし、最近、私は自身に問うのですが、
自分は一体、悟りたくて(あるいは、見性したくて。大悟したくて、解脱したくて、涅槃を見たくて)こんな修行を始めたのだろうか? それが私の修行・生活の目的なのだろうか? こう問うのです。

違うはずです。

私は元々、現にある苦しみ=心理的問題を解消したくて(から解放されたくて)、
それが動機で、本を渉猟し、読み漁り、指導者を探し尋ね、技法を実践し、してきたはずです。

つまり、「悟りたくて」修行・探求を始めた訳ではなく、
「現にある苦しみを無くしたくて」修行や探求を始めたのです。

これは、つまり、「悟るためにする」修行と、「苦しみ(迷い)を無くしたくてする」修行とは、まったく異なったもの(逆方向を向いたもの)ではないか、と云う疑問です。

「悟るためにする」修行の場合、その目的地・最終地点は、「見性、大悟、解脱、根源的な自己変容、光明」などであり、その場合、その「悟り」が本物かどうかは伝統との比較によって為されます。(指導者、文献、先達などによって)

ですので、もし私が「見性した、解脱した、光明を得た」などと表明した場合、
「あいつの見性はニセモノだ。なぜなら古人の話と食い違っているし、悟ってるはずなのに、かなり我が強いし、プライド高いし…云々」と伝統を基準として、伝統に照らし合わして、批評・批判することができます。

しかし、もし、そのヒトが「ただ苦しみを無くしたくて」、ただそれだけを目的に修行・探求している場合はどうでしょう。

その場合、本物/ニセモノの基準は、ひたすらに、本人がその現在の心境・現在の自分の状態に納得できているか、本当に「自分はこの状態でホントにイイ! 心底イイ!」と言えるかどうかに懸かっています。

その場合、それを聞いてる他人が、
「キミの満足・納得は正しくない! それはニセモノだ!」と言うことはできません。

本人が「自分の納得・満足は未だ本物ではない」と感じている場合以外は、
それを外部から(伝統などに照らし合わせて)批判することはできません。

自分が長年付き纏われてきた心理的問題・苦しみが、
自分にとって、明らかに氷解した、根断された、根本的に解決ついた、
と感じてる個人にとって、その自分の了解だけが法律(基準)です。

そして、その、自分固有の問題の根本的なる解決を見た個人が、
そのとき「自分は悟った、悟りを得た」と言うことは許されることかもしれません。

「私のさとり」を得た、「私の実存的問題に関する根本的な解決を得た」と言うことは許されるでしょう。
しかし、同じそのヒトが、「自分はブッダと同じさとりを得た。原始仏教で云う涅槃を経験した」「禅で云うところの大悟をした」と言い出したときには、その言明は伝統によってチェックされ、批評され、「ニセさとり、観念さとり、一枚さとり」などと云う言葉でもって切り捨てられるかもしれません。

問題の形に応じて、答えがあります。

「死の恐怖を免れたい」という問題をもって探求した人のさとりは、
「死の超克、不死の体得」かもしれませんし、

「虚しさ」の問題に出発している人の到着地は、
「存在=充足」の状態かもしれません。

「動物的欲求の完全なる停止」という目的をもって始めた人の終点(最終解脱)は
食欲・性欲・睡眠欲などを完全に制御した上での生物的死かもしれません。

もし、そうやって自然死していくヒトを見た私が、「それは間違っている。それはホントのさとりではない」と言うことは無意味です。
そのヒトにとって、「動物的欲求の完全なる停止」こそが悟りであって、
言葉の定義上、そのヒトは悟りを実現して死んでいく訳ですので、、、

言えるのは唯、「あなたのさとり(の定義)は、私のそれとは違うみたいですね」ということだけです。

故に、他のヒトからどんなにつまらないことに思えようとも、私の根本的問題の解消は、私にとって「本当のさとり、最終解脱」なのかもしれません。

さて、長々と書いてきましたが、言いたいことは、つまり『相対主義的なさとり像』の提唱です。 (あるいは、『悟りの相対主義』の提唱と言ってもよい。)

これまで私たちが使用してきた「さとりモデル」は超越主義的なものです。

どこかに人類共通の、宇宙開闢以来決まっている「本当のさとり」の基準・モデル・状態があって、個々人のさとりの程度・純度は、その基準からの距離によって決まる。
分かりやすいところでは、ブッダやキリストが、その標準であって、ある人の、自称「さとった!」は、ブッダの教説からの距離によって測ることができる。
この「本当のさとり」は万国共通、万教帰一である。
(表面的には、文化的・時代的な教雑物の混入で、違ったようには見えるけど)

と云った考えです。

これに対して「相対主義的なさとりモデル」では、
本物/ニセモノ、優れている/劣っているの基準は、ひとえにそのヒト本人の感じている納得度・安定度に有ります。
唯一、そこに有り、そして、そこにしか有りません。

この「相対主義的なさとりモデル」に踏み止まるには、
自分のした「さとり体験」が、ブッダのさとり体験と同じものである、
と云うような「古い」形の(超越主義的な)基礎づけ欲求を退ける覚悟が要ります。

さきほど、
> 言えるのは唯、「あなたのさとり(の定義)は、私のそれとは違うみたいですね」ということだけです。

と書きましたが、この後に続けて「私の悟り(の定義)はブッダの悟り(の定義)と同じだから本当の悟りで、あなたのさとりはそうでは無い」と言うことのできない不安定さに留まる強さ(ある断念)が必要だということです。

—–

で、それで、いよいよ長い前置きが終わりまして、
さて、言いたいことは、

> レイさん自身は臨界点まで行ったことはあるのでしょうか?

と云う問いが

> クリシュナムルティの云う意味で「根源的な自己変容」を遂げているのか?
> 禅で云う意味で「見性、大悟」しているのか?
> ヴィパッサナーで云う意味で「解脱」してるのか(あるいは預流道にはなっているのか)? あるいは「涅槃」に触れたのか?

と云う意味の質問であるのなら、
それは間違った問いであるのだと思います。

なぜなら私は「禅の悟り」が何なのか知らないし、テーラワーダの「解脱」が何なのか知りません。(勉強はして来ましたが、結局はよく分かりません)

そして、知らないが故に、もしかして、私は既に/常に、無自覚なうちに、禅で云う大悟や、テーラワーダの解脱の状態に生きちゃってた、という可能性もありますよね。

あるいは私が「ハイ、私は禅で云う見性は体験しておりますし、テーラワーダでは預流道といったところです」と答えたなら、いろいろなヒトから「やっぱりそうかー、あいつは本物だったかー、レイさんはスゴイ!」と言われるか、「いや、ありゃー、どうしようもないバカだ。まがい物の勘違いヤロウだ」と言われるか知らないですが、「伝統による照合」という仕方での批評/評価/批判を受けることになります。

—–

で、いよいよ言いたいことですが、

もし、蘭恵流さんが、私に、
「レイさんはレイさんの根本的問題(唯一の公案)を、ホンットウに、心から、根本的に解決されてますか?」と聞かれておられるのなら、この質問には、明確に、間違いなく答えられます。

否です。
まったく解決できておりません。

昼間に、「この問いに答えるに適切な人物からの応答を、しばし待ちましょう」と書いたのは、自分は蘭恵流さんの問いかけに答えるには適当な人物ではないですから、の意味でした。
もし、軽くかわしてる風に感じられたなら、ここに訂正しておきます。

私は、私が長年に渡って付きまとわれている心理的問題=苦をスッキリ解消したく、それが現在の生活の主題である筈なのですが、その主題を全力で突きつめることもできずに漫然と日を送ることが、もう何年も続いており、実際、かなり困っており、詰まってます。
年々、問題に対する切実さが失われていくようで、と云って問題が本質的に解消していっている訳でもなく…

最大の問題は、
どうやら自分は本当には(心の底の底では)この問題に決着つけたいとは思っていないのではないか、と思われる点にあります。(もし思っているなら、やらない筈はないし、ならない筈はないのです。)

—–

今日は、書くのはここまでにしておきますが、私が自分自身の問題を整理する為に、自分の現在の問題点を文章に書き出してまとめたものがありますので、それも張っておきます。
私の飾らない現状が理解していただけると思います。


◆いくら本を読んでも・・ 投稿者:蘭恵流  投稿日: 2月19日(水)15時48分26秒

反省を込めて告白しますが、クリシュナムルティの読書体験も、一番先に「自我の終焉」を手にしてから、すでに10数年になります。(初版が出版されたときだから20年になるかもしれない)数も10冊以上に上ります。その他シュタイナーやブラバツキー、ニコライレーリヒなどの神智学系、ダライラマや和尚その他数限りなく読んでいて、結局何一つ得られたような気がしないのは、現在の自分自身の姿そのものが証明しています。「頓悟」という言葉がありますが、魂の臨界点に達したときに、ある瞬間こころのビッグバンがあるはずだと思いながら、ずーっとずーっと「自我のトリック」にはまり続けております。そして今でも、永遠にこうなのかもしれないという恐怖と自身が創り出した幻影との葛藤に苦しんでおります。自分の中の「分離」や「葛藤」と格闘する愚かさに気づいていながら(本当は気づいていない?)、このトリックを破ることができないでいます。「気づき」に到達するためには、「絶え間ない注意深さで、あるがままの自己を観察すること」が必要である・・・なんて簡単そうですが、これを達成できた人は、名の有る無しを問わずこれまでどれくらいいたのでしょうか。レイさん自身は臨界点まで行ったことはあるのでしょうか?(これは決して皮肉でも何でもありません、率直に質問しています)「臨界点」に達した人に直接触れてみたいからです。これも「葛藤や分離」のなせる業なのでしょうか?私にとっては大きなヒントになるかもしれません。


◆自己変容を遂げた方々は・・・? 投稿者:蘭恵流  投稿日: 2月18日(火)13時25分31秒

「弥陀の誓願」ではありませんが、自己変容を遂げた方々は、彼らと同様な「自己変容を」求める人たちに手を差し伸べてくれるのでしょうか?最近、霊的というのか魂的というのか精神的なエネルギーの低下が顕著で、「無条件の絶え間ない自己観察」もなかなかままならず、「怖れ」からの脱却もうまくいっていない状況です。現実的な忙しさに依存しすぎて、というより、ただただ「騒々しさの漂う場所」が安心とばかりにその牢獄に閉じこもっているばかりです。その反対に、精神的にはこれまで観念的な幻想ばかり追いかけてきましたが、シンプルさを失って次から次へと違う牢獄を渡り歩いているだけのような気がしています。冷たい知識・思考や放埓な感情などの全てを手放して、しっかりと目覚めた霊性に裏付けされた日常生活をしたいと思っているのですが、どなたかアドヴァイス頂けませんか?甘いでしょうか・・・