ガンガジの言葉

ガンガジの著作 『ポケットの中のダイアモンド』 からの抜粋です。
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26章 感情を直接経験する

私がもっとも頻繁にされる質問は、感情についてのものです。
多くの人が、怒り、恐れ、悲嘆といった辛い感情から自由になりたがり、喜び、幸せ、至福といった、より好ましい感情を追い求めます。

幸福を手に入れるための普通の方法は、ネガティブな感情を、抑圧するか表に出すかのどちらかをして、それが目に入らないところに追いやられるか手放されるかするのを期待することです。

残念なことに、どちらの方法も、私たちの本質的な存在の真実、つまり、どんな感情よりも深いところにあり、どんな感情によっても影響されない、存在の、決して変わることのない純粋さを反映してはいません。

ある感情を押し殺す、または表に出すのが相応しい場面も、もちろんあります。
けれど、感情を押し殺しもせず、表にも出さないと云う、もう一つ別の可能性もあります。
私は、それを「直接体験」とよびます。

ある感情を直接体験すると云うのは、それを否定もせず、それに溺れることもしない、と云うことであり、それは、その感情についで、どんな「物語」も存在しない、と云うことを意味します。
その感情を持っている人についても、なぜ、その感情が起こっているのかについても、なぜ、その感情が起こっていてはいけないのかについても、誰のせいか、誰を責めるべきかについても、何の物語もあってはなりません。

どんな感情も、あなたが、その真っ只中に居るとき、それがいわゆる「ネガティブな」感情であっても、「ポジティブな」感情であっても、その核心に何があるのか見つけることが可能です。

実は、あなたがネガティブな感情を本当に経験すると、それは消えてしまいます。
そして、あなたがポジティブな感情を本当に経験すると、それは大きくなり、無限です。
ですから、相対的なレベルにおいては、感情のネガティブさやポジティブさはありますが、自己探求においては、ポジティブな感情しか存在しません。
つまり、それは、絶対意識のポジティブさです。
この驚くべき事実を裏づける材料は私たちの文化においてはほとんど存在しないので、私たちは生涯、ポジティブな感情を追い求め、ネガティブな感情から逃げ回って過ごします。
ネガティブな感情を、あなたが徹底的に、どんな物語も付け加えずに経験するとき、それはたちどころに消えてしまいます。
もしも、あなたが、ある感情を徹底的に経験しているつもりにも関わらず、それが強烈なままだとしたら、それについて、まだ何か物語が加えられていることに気づいてください。
―それが、どんな強い感情あるかとか、それを排除することは決してできないとか、それは一度消えても、また必ず戻ってくるとか、それを直接経験することが、どんな危険なことであるか、とかいった物語です。
その瞬間瞬間の物語がどんなものであれ、感情を直接経験するのを先送りにする言い訳は尽きません。

たとえば、あなたがイライラしているとき、普通は、そのイライラをなくすために何かしたり、自分自身、あるいは他の誰かを、そのイライラの原因として責めたりします。
すると、イライラをめぐる物語が生まれます。
でも、イライラに対して何もせず、それを意識から追い出そうとしたり、消そうとしたりもぜずに、それを直接経験することも可能です。
イライラを感じた瞬間、ただ完全に、徹底的に、思う存分イライラし、それを表に出すことも抑えつけることもしないで居ることができるのです。
一般的に、感情の直接経験が更に深い感情を露にすることがよくあります。
イライラする、と云うのは、おそらくほんの水面のさざなみです。
イライラよりも深いところに、実は憤怒や恐れがあるかも知れません。
ここでも、私たちの目指すべきは、憤怒や恐れを取り除くことでも、それを分析することでもなく、それを直接経験することです。
もし、イライラの根源に、憤怒や恐れがあることが分かったら、あなたの意識を更に深いところへ導き、それを外に表すことも抑え込むこともせず、完全に、徹底的に、怒り、恐れてご覧なさい。
恐れは中でも一番対処が難しい感情です。
なぜなら、ほとんどの人が恐れを習慣的に避けようするからです。
もちろん、恐れを遠ざけようとすればするほど、それは、より大きくなり、より近いところであなたに付きまといます。
私が言いたいのは、あなたは恐れに対して心を開くことができる、ということです。
怖い、と口に出して言う必要も、自分は恐れている、という思考を追いかける必要もなく、恐れという感情そのものを、ただ単純に経験するのです。
私が、恐れを直接経験する、というとき、私は、生理的に妥当と思われる恐れのことを言っているのではありません。
肉体的な危険に対して、戦うか逃げるかという反応をするのは、人間という生物にとって、自然な、適切なことです。それは、肉体の生存のために肉体の中に組み込まれているのです。
たとえば、近づいてくるバスから身を避けるのは、適切な行動です。
私が、直接、かつ徹底的に対峙すべきだと言っているのは、感情的な痛みを恐れたり、喪失や死を恐れるといった、心理的な恐れであり、私たちのエネルギーと注意を不必要に、防御・防衛に縛りつけるもののことです。
抵抗したり、逃げ出したりせずに、心理的な恐れと対峙するとき、それによって、しばしばより深い感情が露呈します。

恐れの根底にあるのは、深い悲しみや傷ついた痛みかも知れません。
そして、それもまた、物語の必要なしに、直接、かつ完全に経験することが可能です。
もしも、あなたに、こうした感情の重なりを、最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には、底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。
この深淵は、無・空虚・無名と理性が認識するものです。
これは、非常に重要な瞬間です。
なぜなら、完全に何者でもなく、誰でもないことを、進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。
何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験。
すなわち、あなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。
いったん、その防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。
この対峙こそ、真実の自己探求によってもたらされる啓示であり、それによって、あなたの心の真ん中にずっと隠されていた、真実という秘密の宝石が露にされます。
これは、非常に大きな発見ですが、あなたはそれを自分で発見しなければなりません。
どんな感情も、もしもあなたに、それを深く完全に経験する意思があれば、その中心には、いつも変わらぬ無垢な意識があり、経験するものであると同時に、経験されるものとして自らと向き合っているのを発見するでしょう。
この真実をあなたが発見することができたなら、あなたは、いわゆるネガティブな感情から逃げ、いわゆるポジティブな感情を求め続けることから開放されます。
そして、また、本質的に一過性のものを拒絶することも、それにしがみつくこともしなくてよくなります。
あなたは、あなた自身と本当に出会う自由を得、その出会いの中で、喜びを味わうことができるでしょう。

意識の中で生まれるどんな感情も、意識によって完全に対峙することができます。
物語や分析に身を隠す必要はありません。
理性の働きには従わず、ただじっとして湧き上がる感情のすべてを完全に経験するという意思があなたにあれば、あなたには、そうした感情は存在しないことが分かるはずです。
感情とは、ただ思考によってのみつなぎ合わされています。
その思考が意識的でも無意識的でも、です。
あなたには、ただ立ち止まって、「恐れ、怒り、悲しみ、絶望 ― みんな、いらっしゃい」と言う力があります。
あなたが本気で「いらっしゃい」と言い、そして、あなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることができません。
なぜなら、その瞬間、あなたはそれについて何の物語も語っていないからです。
自分で試してご覧なさい。
恐れ、怒り、悲しみ、そして絶望は、物語とつながっていなければ存在できないのです!
そう、これは、驚異的な、シンプルだけれど深遠な発見です。
それは、とてつもなく大きな発見です!

あなたは、あなたがそこから逃げ出そうとしているものは、実は最終的には存在せず、
あなたが、そこに向かって走っているものは、既に、そして常に、ここにある、と言うことに気づくでしょう。

コロンブスや他の探検者が「新世界」を発見したとき、彼らは皆、帰ってきて、「俺たちが知っている以上のものが、あそこにはある。地球は平面ではない」と言いました。
でも、多くの人は、「いや、俺は行かない。海の怪物に捕まってしまう。地球の縁から落ちてしまう」と答えたのです。
私たちは、これと同じ原始主義、私たちの感情を眺めています。
あなたに地球の縁から落ちる勇気があれば、地球を支えているのが、あなた自身であること、あなたはあなた自身から「落ちる」ことはできないことを知るでしょう。
あなたにできるのは、あなた自身の中に、より深く入っていくことだけです。

それとは正反対に、時に西洋の精神世界やサブカルチャーにおいては、人は自分の感情を経験することに、とてもオープンです。
それによって、人間的な深み、それに自由を感じるからです。
でも、それは、何の感情も経験できないことに対する恐れを覆い隠すことにもなりかねません。
「自分は、感情的な人間である」と定義するのは、「完全に理性的な人間である」と言うよりも、一歩深みがあるかも知れませんが、でも、それでは不十分です。
自分を「感情的な人間」と定義することで、あなたは感情的の欠落、無、空虚を避けているのです。
一度純粋な空虚を経験すれば、あなたという存在は、どんな理性的、または感情的な状態によっても定義することはできない、ということを、直ちに理解するでしょう。
そして、この理解こそが自由なのです。

自分を、いかなる感情によっても定義しないとき、感情は自由に湧き上がります。
感情と、あなたが誰であるかということとは無関係だからです。
あなたには、すべての感情は、あなたの本質である純粋なスペースを通り過ぎるだけであるということが直接分かるのです。

純粋な存在の中心まで、ずっと入っていってご覧なさい。
どんな感情も排除せずに、どんな感情も脚色したり美化したりせず、ただ、それぞれの感情が何のためにそこにあるのかを発見して下さい。
そして、あなたが自分で自分だと思っている存在が死んでしまう前に、あなたが自分で自分だと思っている存在と決別するのです。

ガンガジとの対話 – 恐れ