私の日記内観

昭和五十六年、内観研修所より発行された『内観体験 Ⅱ』から

私は、ただいま七十五歳で新潟市に住まわせていただいております。
十年前までは繊維品の卸しをしておりましたが、仕事は長男にゆずり、今は店の会長で隠居の身であります。
第一回集中内観九月の日暮れ、「今日で何日になりますか」「はい、五日目です」「あなたは遠くから、はるばるお出でになったのに、これではあまりお土産がありません。残念です」との吉本先生のお言葉でした。
私は、この翌年の八月に一週間、更に二年後の九月に一週間座らせていただきました。
三回目のときでも、「まだ何か一つ足りない」と先生はおっしゃって、大変できの悪い集中内観で、とても十人中三人のなかに入っておりません。

家に帰って考えました。
自分は、細々でも商人のはしくれ、こうして時間と費用を使って行ってきたからには、内観が消えて無くなってしまっては丸損だと思って始めたのが、この内観日記です。
あれから十二年間、一日も休まず、この日記内観を続けてまいりました。

私の日記内観とは、まず次のような内観記録台帳を作りました。
一枚ずつ、リーフノート表裏一枚を一回分として記録しておきます。
記録の仕方は、お教えの、ご恩、お返し、迷惑の三点、特に迷惑をおかけしたことについては、できるだけ細かく調べて記しました。
このようにして、母には三十枚、姉には五枚、昔の勤務先の主人には三枚と、故人と現在お世話になっている方々、約六十人ほどに対しての沢山の記録ができました。
また、嘘と盗みについての全生涯の記録もとりました。
鉛筆、消しゴムを用意しておき、内観するたびに補填、修正は毎日行っております。

記録を読みながらの内観とはいえ、吉本先生の「この時間、誰に対して調べてくれましたか」の厳しい眼差しを求めて、生き生きと真剣に内観しています。
七十五年の内観を一巡するのに、半年以上かかります。
内観の時刻は、大体、夜半、午前一時から三時までが多く、ときには就寝前に調べることもあります。
畳の上に座るのではなく、布団の上や、布団のなかでやります。
新潟の真冬などは、寒くて指先を出すのがやっとです。
時間は、一時間から一時間半です。

この綴りを、私は「内観蔵」と名づけております。
第三回目の集中内観のとき、吉本先生にこれをお目にかけ、お許しをいただきました。
過去七十五年間の自分の悪と愚かな姿。多数の恩人、色々な出来事等、過去の自分の全てが納まっている「内観蔵」をいただくとき、懐かしさで胸が躍るような気持ちがいたします。

さて、内観が終わりますと、当用日記の今日に、次の四項目にわけて記録します。

一、「何歳のときの誰に対して自分を調べたか」
  そして、その内容の一端を…
  何かトラブルが起こると、その日の内観の課題として調べ、これを今日の内観にします。

二、「お返し」
  内観をさせていただきていることに対してのお返しに、どんなことをしたか。
  たとえば、パンフ配り、カセットテープ、本の利用、
  他人様にお知らせしたことや、話し合いしたことなどです。

三、「今日の午前、午後」にあった日常の出来事。

四、「今日一日」
  振り返って、どういう生き方であったか。

そして、その最後には、吉本先生の金言「何時死んでも満足か」と必ず書きます。

以上が、私の日記内観の概略です。

父は、六十二歳で私の六歳のときに、母は九十歳で、私の四十六歳のときに亡くなっております。
私は十一人兄弟の十番目、母の四十三歳のときの子です。

父が亡くなってからの母は、父の居ない片親の子でも、よい子に成人してくれと、あの小柄、無学、才覚の無い人が、生活苦のために、毎日早朝から織物工場に通い、夜帰ってからも糸繰りの夜なべを続けられました。

また、夏になると真綿むきの道具を担いで出稼ぎに行かれました。
母が、そのような苦労をしておられますのに、私は、悪童、嘘と盗みの限りを尽くしておりました。
そういう私に、母はたまりかねて、布団を被せ、上から乗って折檻されておられますのに、私は下で口笛を吹いていると云う有様でした。
どのくらい、母を泣かせたか、筆には書き尽くせません。

ランプ夜なべ 吹雪は母に降参し

気をつけて 母の遺影は今朝もまた

母は晩年、左の眼がすっかり潰れ、右の眼がかすかに見える程度でした。
永年の糸ツムギの仕事の無理が重なって眼が駄目になり、マブタの裏に逆マツ毛が生え、糸が見えないから抜いてくれと頼まれても、ただの一度も抜いてあげませんでした。仕方なしに他人様へ頼みに行かれる始末です。
十一人も産み育てた、あの健康な眼が、長年私が苦労をかけた為に潰れてしまったのでした。

母に対しての内観三十回、終わったところで、母の在世中、一度も出したことのない母宛の長い手紙を書きます。
この手紙を読み返すとき、滝の涙止めどもなく、夜半、大きな声で「お母さーん」と呼ぶのです。

大恩ある亡き父母の恩に報いるため、私の父母と家内の父母の命日には精進潔斎して、父母の好物を供えて、ご冥福を祈り、その日は父母に対する内観をして、感謝と悔恨の念を一層深めております。

内観をさせていただいたことによって、自分の心を寸分も変えることのできない「悪と愚」の岩石のような自分であることをも知りました。
そして、その「悪と愚」が、日常生活に絶えずチョイチョイと頭を持ち上げてくるのです。
日常内観をさせていただいて、「それでもお前は内観者か」「何時死んでも満足か」と心に問いかけ、ようやく、その「悪と愚」の頭を持ち上げてくることを少し防ぐことができるのです。
もし私に、この日常内観がなかったら、ただちに千尋の谷底へ転げ落ちていく恐ろしい自分であります。
次に私が内観をさせていただいた動機について書かせていただきます。

今から十二年前の頃は、ささやかな婦人服地の卸しをやっておりましたが、私のものもとで働いていた息子二人が、無断で別の大きな町へ婦人服の卸店を出しました。
私は、高等小学校をようやく卒業させていただきまして、大正十年、十五歳で呉服屋の丁稚に入り、草履を履き荷車を引いて商いの道を学びました。
昭和三年、二十二歳のとき、母と兄の力で、早くも東京で独立させていただき、綿、布団、毛糸、針の子店を始め、そして翌年、妻を娶り、仕入れ、販売、資金繰りから、税金等、一切の仕事をしながら子供六人(四男、二女)を育て、次々と学校へあげて教育しました。
戦中は、大空襲の下をくぐり、戦後は食べ盛りの子供を飢餓の続くなか、一人のとりこぼしもなく一切を肩に背負って育ててきました。
また、子供たちが成人してからは、嫁のしつけ、嫁探しに苦労し、今度は孫の面倒まで、一人奔走してきました。
それが、背負い投げをくらい…

それは、もう頭が狂い、新聞種になるようなことまでも考え、悶々の日夜を送っておりました。
他人様から見れば、自分の育てた子供が成長して、親父の石頭のやり方にあきたらず、外へ芽を出したとは結構なことではありませんか、とおっしゃるでしょうが、どうして、そのときの自分は、さながら鬼神の荒れ狂う心でした。
そのうち、ふと一年ほど前に、朝の人生読本の時間に(これは、昭和四十二年五月二十九、三十、三十一日)内観の良い話のあったのを思い出して、メモ手帳を調べ、道場へ電話しましたら、すぐカセットテープと本を送ってくださいました。
これは良い所だと思って、早速、昭和四十三年九月に初めて座らせていただきました。
この尊いご紙面に、拙い文章を載せていただき、誠に申し訳ございませんが、一生一度の遺言と思って、筆を運ばせていただきました。

私の日常内観は、今の漫画に書けば底の無い桶で水を汲み上げているかたちで、あまりにも薄いものです。
ですが、この教えを頂いてから、日記内観を十二年、一日も休んだことはありません。
休むと日記に空きができますので休めません。
もう高齢ですし、この先、何刻もつか知れませんが、有り難い尊い、この世に生かせていただく限り、続けさせていただきます。
私は、この、親に対する内観によって、自分の姿心を知り、それによって全ての人に跪き、全てのものに合掌せずにはいられません。
この喜び、この幸せ。

教えを導いていただいた、吉本先生、奥様には、もう、どう感申して良いか分かりません。
ほんとうに、ほんとうに、有り難うございます。
どうぞ、ご健康で、何時何時までも、お導きくださいませ。