食事・習癖・身体の感受性

身体はそれ自身の英知を持っていますが、思考がそれを破壊したのです。
思考は快楽を求め、無節制、食べ過ぎ、性的放縦に赴きます。
思考は身体に無理を強います。
そのようにして有機体の元々持っている英知は破壊され、それは鈍感になります。

ひとは研ぎ澄まされた感受性を持っていなければなりません。
自分が何をどう食べるか見守らなければなりません。
食べ過ぎるなら何が起こるか知ります。
すぐれた感受性があるとき英知があります。

……

私たちはたいてい何らかの肉体的苦痛を持っています。
それは心をかき乱し、それについて考えることで、何日も、何年でさえも過ごすのです。

身体に苦痛があるときはそれを見つめなさい、観察しなさい。
思考がそれに干渉するままにしておいてはなりません。

……

多分皆さんはヨーガについてご存じだろうと思います。
それについて書かれた沢山の本があります。
そのヨーガという言葉は、多くの意味を持っています。
単に若さを保つために実践する体操のことだけを意味するのではありません。
それは生き方を意味します―分離がなく、したがって葛藤のない生き方を。
それは話し手が調べている生き方に他なりません。
もちろん規則正しい身体訓練は有益です。
それは身体をしなやかに保ちます。
話し手は長年それをやってきました。身体をしなやかに保つためにです。
あなたは正しい種類の体操、正しい種類の食事をしなければなりません。
多くの肉を、それが不可避的に引き起こす残忍性と鈍感さと共に自分の腹に詰め込むのでなく。
ひとりひとりが自分のための正しい食事を見出さなければなりません。
実験し、それを試してみなければなりません。

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たとえそれが何であれ、何かを完全に見、完全に聞くためには注意が必要です。
私があなたの言っていることを理解したいなら、私は注意のすべてをそれに注がなければなりません。
あなたは重要な、あるいは重要でない何かを言っています。
それを聞くために、私は全神経をそれに注がなくてはなりません。

それは、私の心、感情、身体、神経、あらゆるものが調和した傾聴でなければなりません。
心はからだから分離していない、感情は知性から分離していない。
それは注意深い、完全に調和した全体でなければなりません。
それが注意です。

あなたは完全な注意でもって話し手の言うことを聞いていますか。
それは彼の言っていることを解釈しないこと、同意も不同意もしないで、それを何かと比較したり、あるいはそれをあなたに満足がいく話に翻訳したりしないことを意味します。
心が何かそのような活動をしているとき注意はありません。

完全に注意しているということは、心が聞くために完全に沈黙しているということです。
あなたは今、それをしていますか。
その注意で話し手の言うことを聞いていますか。
しているなら、そこに「中心」がありますか。

……

心、頭脳が本当に敏感でないなら見るということはないのです。
見る為には、身体と神経が敏感であることが必要です。
それで酒や食べ物などで鈍らされているのではない、大変敏感な体と神経を持たなければならないのです― どうも、私は忠告しているのではないのですが(笑)

身体、神経、脳、心、存在の全体が強烈に鋭敏でなければなりません。
意識の全体、全領域が活性化するよう、あなたは自分の欲望と嫌悪、自分がどんな風に歩き、話し、聞いているのかに気づいていなければならないのです。

見ること、聞くこと、学びつつあることは全的な注意の過程であり、そのなかに経験者はいないのです。

……

身体は途方もなく敏感でなければなりません。
それは最も難しいことの一つです。
なぜなら私たちは身体の持つ英知を、飲酒によって、耽溺によって、快楽によって破壊してしまったからです。
私たちは身体を粗野にしてしまったのです。
途方もなく生き生きと敏感でなければならない身体を見てください!
そうすれば私たちが、身体をどんなものに引き下げてしまったのかが分かるでしょう。
身体は心に影響し、心は身体に影響を与えます。
この理由から、身体、有機体の感受性は不可欠です。

……

食べること、飲酒することの快楽は、思考のなかにその継続の根を持っています。
故に、思考がもたらしてきたこの快楽を、単に制御したり、押さえつけたりすることには意味がありません。
それでは様々な形の葛藤と問題を引き起こしてしまいます。

……

私は自分の日常生活が間違った欲望、行動、習慣を伴って、機械的、反復的であることに気づきます。
ひとはそれを一気にやめ、一日の瞬間瞬間に新鮮でいることができるでしょうか。
それが本当の問題点ではないでしょうか。

……

心には見守ることが― 特定のちょっとした習慣のみならず、習慣を形成する心の機構全体に気づいていることができるでしょうか。
指を動かすというような小さな習慣だけでなく、型にはまった考え方、感じ方、行為の仕方などの習慣もあります。
私はこう思う、こう結論する― そしてそれは習慣になります。
私は習慣のなかを生き続けます。
私の生活全体が習慣の束です。
それでは、どうやって習慣のメカニズムに気がつけばいいのでしょうか。

ひとは、千と一つの習慣を持っています。
歯を磨き、髪を梳くやり方、読み方、歩き方。
有名になりたい、認められたい、重要になりたい、という習慣もまたあります。
どうやって心は、これら習慣のすべてに気づけばいいでしょうか。

それを変えようとしているとは誰でしょうか。
もまた習慣です。
とは一連の言葉と記憶と知識です。
それは過去です、それは習慣です。

……

見る、あるいは聞くという行為そのものが注意です。
このことを習慣的に行うことはできません。
習慣的に実行するなら、それは不注意になります。

あなたは注意深くし、あなたの心はさまよいます。
さまよわしましょう!
しかし、心が不注意であることに気づいていてください。
その不注意に気づいていることが注意です。不注意と戦わないでください。
「私は注意していなければならない」と言って努力しないでください。
あなたが不注意であることに、選択なしに、非難なしに、気づいていてください。
そして、その瞬間、その不注意のなかに行為があるとき、その行為に気づいていてください。
それはとても単純なことです。

心の静寂は、それ自体美です。
鳥、ひとの声、起きているすべての騒音を聞くこと、完全に静かに聞くこと。
そのような静寂には身体の静寂もまた必要です。
そわそわとした落ち着きのなさ、指や眼の絶え間ない動きを含めて、あらゆる身体的反応は止んでいなければなりません。
今までに、眼を含め身体の動きの一切なしに完全に静かに坐ってみたことがありますか。
それを二分間やってごらんなさい。
その二分間で全てのものがあらわにされます―あなたが見るやり方を知っているなら。

バスに乗っている時、あるいはドライブしている時― ドライブをしている間、瞑想ができるということは最も途方もないことです。

……

完全な調和とは、有機体のみならず、心も途方もなく敏感でなければならないということを意味します。
したがって、あなたは、食事、運動、適切に生きることの問題全体を調べなければなりません。

……

習慣があります。
そして私は今、それを止めようとしています。
それが分離なのです。

しかし習慣が何であれ、その習慣に気づいている― まさにそのことがその習慣の終わりなのです。