せっかく良いスレッドだったのに落ちちゃったので、ファイルを少し整理して、ここに置いておきます。
投稿主さんに感謝です。
非常に長いファイルなので、4つに分割します。ダンテス・ダイジ
『救世主なぞいらない
救世主でないものなど
何一つありはしないのだから』
偉大な師、故・雨宮第二老子について語り合いましょう
■
大切なことは君がどうかいだよ。君がどうかい?いい?
君がどうなのかということさ。
そして、君が生き生きしているか、君がOKか。
君がOKならさ、君は今度は共通の約束事の中でさ、本当に役立つことができるよ。
■
道元よ
余りにも余りにも純粋透明な何者よ。
21世紀の水晶の中の水晶よ。
■
今・吾・ここにて
道元老古仏に深く深く深く
帰依したてまつります
■
あなたは
満足を求めているのではない。
絶対の満足そのものの中に、
消え果たいのだ。
だが、それは、あなたには断じてできないことになっている。
■
さあ
起こっている全てを感じよう
■
冥想それ自体というのは、完全にその人をその人自身に自覚させているということを確認しているものだ。
であって、それは全くカラーがない。どういう風に生きなくてはいけないということを全然与えてくれない。
それは宗教でさえないから。もし宗教なら、宗教的人生を生きたいとか生きなければならんとなるかもしれない。
そうすれば、いろんなそれらしい姿というのを選んでいかなくちゃあならない。だけど冥想そのものはそうじゃないんだ。
だから冥想から宗教家になる人もいる。冥想から詩人になる人もいる。冥想から遊び人になる人もいる。冥想から武人になる人もいる。
冥想から政治家になるやつもいれば、冥想からパン屋になるやつもいる。冥想から乞食になる人だっている。
ただ冥想というのは、完全にその人間というのが絶対そのものである、絶対というのも愚かなぐらい絶対そのものであるということを確認させるもの、そしてそこから自然に流れ出して彼自身の人生を歩ましめるもの。
ただその限りにあるだけなんだ。あとどのような生き方をしようともう全然関係ない。
それはその人自身が持って生まれた本性。冥想を冥想自体の中で戯れる人というのは主に、禅で言えば魔境、意識のレベルの中でいろんな世界があるわけ。
霊の世界と言っていい。その中だけで充分もう楽しめるというのかな。
早い話が誰にも会わないでさ、こもって、今日は仏界の方に旅したとかさ、今日は、金星の方に幽体でもって行って来たとかさ、それだけでもう充実しちゃっているというの。
そういうのは、冥想の冥想者にあたるわけだ。幻想家と言ってもいい。神秘家と言ってもいい。だから冥想の何々、という風になるわけ。冥想のパン屋さん。冥想のおまわりさんとか。
■
神秘を知性的に分析して解明するのではなく、神秘を神秘として目覚めるのだ
■
私はもう一度この世に生まれてきたい
花となり木となり
幾たびもなく幾たびもなく
わたしたちは出会いたい
君に
あそこで出会いここで出会い
遠い昔に出会い遠い未来に出会い
■
全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ、
全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ・・・・・・
「全ては神秘ださよなら私のあらゆる顔よ」
■
例えば、心霊学者等は言うわけよ。そもそも何とか霊界から出て来てね、そして死んだ後には、またそこに戻るというようなことをね。
でもそれはね、本当の部分じゃないんだよ。人間の表面的な性格を形作っているある部分が、霊界へ行ったり現象界へ来たりするだけなんだ。
いい?
本当の俺達っていうのは光なんだ。だからどこから来てどこへ行くっていうことの答えは、光っていうことなんだ。
それは来もしなければ、行くこともないんだ。
いつでもいっぱなしなんだ。
いい?
そしてそれはさ、光と言う言葉より、もっと正確な形で言えば、光っていうのはシンボリックな言い方だからね。
それはそのものずばりで言えば「愛」なんだ。
人間は愛の中から来て、また愛の中へまた帰ってゆくんだ。
しかも、愛の中から出て来ながら、その、一緒に愛といるんだ。
愛が愛の中から出て来る。
いい?
君という愛の中から愛という子供が生まれるんだ。
■
瞑想の窮極において、一切の現象は終息する。
時間、空間物質は仮象であり、その本来の無に帰し去る。
瞑想には自己と世界とのあらゆる対立抗争は存在せず、
それゆえいかなる人間的争いも苦悩もない。
瞑想そのものは、どのような制約限定をも越えた愛と歓喜の広がりであり、
そこに、私達は久遠の自由を生き、
またあらゆる愛を生きている。
様々な瞑想行によって私達が純粋に瞑想自体を体得してゆくに従い、
私達は、絶対の愛や安心や自由が何であるかを知る。
瞑想には何ものも存在せず、何もないと認識する自己も存在していない。
しかも、瞑想は瞑想自体で久遠の光明を自覚している。
私達は瞑想においてあらゆる自由を生き、
不安と不満とによってエゴイズム的に成り立っている現代物質文明の暴走を否定超克する。
不安と不満はいかなる物質的繁栄によっても解消することはない。
不安と不満との原因である個的自我という妄想から私達は解放されねばならない。
その時、私達は無我の限りなきさわやかさを生きる。
■
西洋的都市文明の物質的暴走は、不安による逃避的あがきをくり返し、
今その終末を向かえている。
物質は本来私たちの肉体生命を維持するのに必要なだけあればよいのであって、
物質が私達に本当の幸福をもたらすことはない。
農業こそが、もっとも非エゴイズム的な文明形態であり、
この現代商工業都市文明が、その物質的暴走ゆえに崩壊したあとに、
農業重視の新しい精神文明が起るであろう。
農業は、私たちの肉体生命の基礎であり、商工業都市文明には存在しない。
個的自我という妄想から自由である私達は、欲望と不安とから解放され、
もっともあたり前に農業を尊重する。
私達はあらゆる経験の中で、現実そのものに何の恐れもなく直面し、
自我意識という妄想の非存在を確認する。
坐禅も祈りも、感謝報恩も、現実の絶対性の前に無心になることもすべて、
愛と自由の瞑想そのものの自己開示なのである。
私達は、夢も理想もエセ・ヒューマニズムも、理屈思想もいらない。
あるがままの無想無我なる私達は何ものに制約されることもない。
自己も世界もない世界には平和運動などという欲求不満のヒステリー的暴力も存在せず、
ただありのままの平和を私達は生きている。
■
月並みな言葉だが、ねえ、あんた、愛は愛を愛している
■
『電信柱だろうと、道路だろうとね、みんな見知らぬものなんだ。
ところが見知らぬっていうのは、知ってること、
何か知ってるものがあってそれに対して見知らぬだろう。
そんなこと抜きにして、見知らぬものなんだ。みんな。
それに近い感覚っていうのはここにいる人たち、
みんな経験しているはずだ。そういう時代が来てるからだよ。
ところが本当にどんづまりに来た時っていうのはさ、
見知らないんだ。本当に見知らぬものなんだ。
ところが見知らぬっていうふうにして、
慌てるっていう意識さえない。
まるでね、そう魂をどっかに落っことしたような。
(中略)
本当にもう灰色というか白というか、ゼロというかゼロポイント。』
■
『で、このくらいまで行けばさ、もうブラック・マジックも成立しない。
ブラック・マジック、つまり破戒っていうけど、
破戒無慙とか破戒僧とかいうのはね。
ゼロポイントのひとつ手前に留まるんだ。
つまり差し引きゼロの世界にとってはさ、
もうやることがないんだよ。
ところがまだ観念が先行している時に、差し引きゼロって気がつくとね、
もう何してもいいという発想が出てくる。
でも、いい?
本当に本当に悲しめよ。いいか。悟りっていうのは、悲しみのことなんだ。
命の悲しみのことなんだよ。
理屈抜きの本当に悲しみに直面できる感受性、それが悟りだ。
ああ、神秘学とかさ、なんか霊的なんとかいうのはさ、全部ままごとさ。
この世界においては。』
■
さあ!此処にいよう!いいんだ!もう、いいんだよ!
よくないって頑張るのは、君の頭だけなんだ。もう、いいんだ。
他人の事や外況に惑わされないことだ。それはいろいろなものがある。
悟り、ビジョン、霊界、高次元世界、でも、誰が決めるんだ。そんな事。
いいか、一回きりのものなんだぞ!誰が、シャカが聖者で、君が聖者でない、なんて決めたんだ。
どこに根拠がある。本に書かれている事が、
やれ、光を見た!やれ、背骨がバイブレートした。やれ、ハイになった。
それで?それで、どうしたの?
でも、もっと先の世界がある。もっと、何かある。
もっと、もっと———-。ああ、そうやって、頭で考えている。
そして、それらが全て、外からやってくる。
そう、外に引っ掛けられているんだ。外のトリックに
なあ!君達!本当に、本当に、当り前になってみろよ。
頭の中に積め込んだ、いろいろな知識を抜きにして・・・・・・、
頭の中の知識はいろいろな事を言うさ。
やれ、何とかの生まれ変わりだ。やれ、聖者だ。救世主の印がある。
でも、君達、一人一人っていうのは、かけがいのない一人一人なんだぜ!
それは、とても恐ろしい事だ。一回きりの君達!一回きりの今!
たとえば、とてつもないやさしさがこみ上げてくる時がある。
それはそれでいいんだ。
ところが、人間というのは、すぐそれに今までつめ込んだ観念をつけ足す。
そうすると、
俺の今いる境地は、どの位のレベルだ。まだ、先がある。とか言う。
当り前の今に直面せよ!直面せよ!此処に!
一回きりなんだ!一回きり!かけがえのない一回きり。
それは———-今。
■
もう、いいんだ—–
おかえりなさい
■
「一つの教えは、その時のその人に応じてしかありえない。
どのような神秘不可思議な教えも、結局、愛と自由との確認につきるんだ。
君が秘密結社のようなものを作って、支配欲という不安にかられた時は思い出してほしい。
君が一番身近な愛をどんなにか忘れてしまったかを。
君はもともと愛の救世主としてこの世に生きている。
他のすべてのものも同様だ。
そして、愛と自由は、君の思い込んでいる人間性の中にはない。
君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る。
あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、
君にとって恐ろしいものはない。それは、君のすべてを必要とするからだ。
君は君のすべてを解放することによってのみ永遠の自己訓練
つまり久遠の戯れを戯れることができる。
死ぬことは、最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい。」
そして、もう一度思い出そう。「救世主入門」の一番最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。
「完全」は君以外の誰に代わってもらうこともできないのだから。
「この本に書かれていることほど無責任なことはない
この本に書かれていることを信じない方がいい
書かれていることはすべて逆の意味かもしれないから」
■
いつでも家の中にいるよ、今君たちは。
だから君たちが疲れたらいくらでも安らげる。
それからね、君たちが死ぬっていうことは君たちがパーフェクトな理由なの。
おかしな言い方かもしれない。
それはね、君たちの命が君たちの自分勝手な方向で出てきたんじゃないっていうこと。既に君たちは、与えられて出てきてるんだってこと。
人間が死ぬっていうことは、人間の悩みの原因なんだよ。
例えば死そのものが目の前に現れた時にどうするかってことさ。
その時ね、自分っていうものの観念を持っててさ、
自分て言うものを保っておこうと思っていたらね、死はあり続けるよ。
なぜなら死って言うのはね、自分と宇宙との摩擦の間に起こる幻だから。
その時宇宙そのもののパーフェクトって言うものを認めれば、死は消えるよ。
もともとひとつながりの命であってね、それが君たちになっていることがわかる。
自分勝手なものは通用しないんだってことを教えようとしたわけ、宇宙は。
つまり何をそんな頑張ってんのって言うのさ。
■
神にあって、いかに悪魔を戯れるか。
これが君の、人間としての全使命である。
生きているそれで充分なのだ。
死んでいくそれで充分なのだ。
なぜなら太陽がどれほどの大きさだろうと
私という中心太陽から見れば爪のアカにも相当しない
まして本当の私が神に光あれと命じたのであれば
愛は、人間の中の一つの感情などではない。愛はこの宇宙そのものの
根源なのだ。
終わりの時節が来た。
終わりを精一杯、歓び楽しみなさい。この宇宙が歓びで破裂するほど・・・
終わりの時節が来た。
終わりを、精一杯嘆き悲しみなさい。
その叫びであらゆる宇宙が破裂するほど・・・
神の終わりの時が来た。愛が凍る時が来た。
終わりの時を感謝して歓びなさい。
神の死は、真の神の始まりだからです。愛の死は、真の愛の始まりだからです。
その道が、君自身の道であるかどうかは、その道の途上においても、
君が倒れても悔いがないこと、それが君の心ある道だ。
■
例えば、霊的中心太陽は一つの実在であり、
この現象世界は、その最も外側を右回りに旋回している。
ブタが空を飛んでいる完全な無意味さを愛してるのは誰か?
ニルヴァーナも、もちろん夢の戯れである。
これを知れば、君は、君自身が久遠の人間であり、
君という人間性が、無限少の一細胞であったことに気づく。
もちろん、悟りそれ自身は、霊的中心太陽の光でさえもないし、
また、実在しているとも言えない。
私は誰か?誰かとは誰か?
君という何らかの自覚が、根本無明であり、そして同時に神の戯れそのものだ。
誰が、私とは誰かということを、知りたがっているのか。
永遠を通じて、ただ一度だけの全面的絶望は、君が欲望以外の何ものでもないにもかかわらず、
君自身が、神であるがゆえに起こる。
私が、どのような生き様をしようと、私という何者かは、一回限りの生を生きている。
転生というものは、あるにはあるが、それは、心霊学的なものではない。
いずれにせよ、一度しかない人生なのだ。
■
覚者というイタヅラ者が、世に出てきては、世の人々を惑わするかな。
惑わされなかったら、惑いつづけるばかりだ。
神も消え果てた。もう誰一人、神を知らない。神が神をしている時には・・・
二万五千年サイクルにわたる、アメンティー・タントリズムの全使命も、
今、ここに、完結する。
三神歌---
われもなくうつし世もなくなにもかも夢のなかなる夢のたわむれ
われもなくうつし世もなくなにもかも神の中なる神のあらわれ
われもなくうつし世もなくなにもかもなにもかもなしなにもかもなし
君が今、どのような状態でいようと、この今を愛は、考えられないくらい愛している。
もし、あなたが、どんなものにも納得を見出せないということが確実になったならば、
私のもとに本当に素直に帰ってきてください。
あなたに真実の出会いが
起こりますように
おかえり
神とは絶対の未知自身だ。神・すべてのすべて。
そういうわけで、神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。
いずれにせよ、この書は、プロローグである。
あなたが、神に目覚めるための、ほんのちっぽけな道標である。
この文明らしきものの週末後、神に目覚めた、水晶の魂を持ってあなたは、
まったく新しい文明を産み出し得るだろうか?
■
『まことに、まことに汝らに告げる汝らを産みしものなる神にその愛のすべてを捧げよ。
次にすべての隣人たちにその愛を捧げよ。
君たちはよく思う。神に愛を捧げたら他のものが台無しになるんじゃないかと。
そして他のもの全部を台無しにしている。
神って何?すべてだ。
君たちがすべてに愛を捧げたら、
君たちの当たり前の人生が台無しになるんじゃないかといつも怯えている。
が、そうじゃない。
君たちを産んだものが、まず第一にある。
君たちの心臓を動かし、君たちの頭に様々な妄想を感じさせ、君たちの感覚を働かせている、
そのものがまず第一にある。
それはいいといっても悪いと言っても始まらない。
あるんだ!
そして、その愛がすべてになれば、他の事は全部整っていく。
夫婦関係だろうと、セックスだろうと、必要なだけの金だろうと、
必要なだけの地位だろうと、必要なだけの安心だろうと・・・。
ところが君たちは、まず最初に外側のごちゃごちゃしたものを一生懸命つかもうとする。
そんなことしていたら永遠の時間があったって、そこに行き着くことなんか決してないよ。』
■
たった一呼吸の中に多様多元の玄妙不可思議がいる。
ここにいつもここがあり、今はいつも今だ。
それゆえ、何もかもが瞑想している。
但し、君は断じて、
今、ここにいることはできない。
すべては、神の夢の戯れでありすべては、神の真実それ自身である。
君という欲望は、結局、一つのものしか求めてはいない。
それゆえ、君とは、苦そのものに他ならない。
君そのものが一つの緊張である。瞑想とは、完全なリラックスであり、存在の全面的戯れだ。
だが、そこに至るには限りない限りない限りない、全面的努力と緊張がともなうであろう。
あらゆる観念・信念・思考を超越して生きること、
それが、あるがままに生きるということである。
あなたは、あなたの全渇望を、あなたのあるがままの探求に燃やし尽くさねばなるまい。
いとし子よ、どのように過酷で冷たい冬も、初春を迎える時が必ずくる。
ただし、君があくまでも清く正直に生き続けた場合には。
これが、ヨブ記の単純な答えである。
愛情とは、あなたという欲望の、最初の変容である。
一たび、無限愛に目覚めたなら
それ以後の瞑想の流れは、おだやかなものとなる。
それがそうであり、これがこうであるのなら、
もっとも素直に直面していく以外にない。
■
底抜けのほがらかさに至らざれば瞑想にあらず。
単純極まりない素朴さに至らざれば瞑想にあらず。
余りのあたりまえさに至らざれば瞑想にあらず。
時間とは、君の見ている観念もしくはトリックである。
それ故、君は、正確に必要なだけの時間を、忍耐せねばならない。
君には、正確に必要な時間だけを知ることはできない。
人間自我が消滅すれば、何もかもが消滅する。そしたら、君はどうすりゃいいんだ?
どうする必要もなく至福は、ただ、生きている。
君なぞどうでもいいから愛自身なのだ。君なぞあったためしがないから自由なのだ。
君がないことが知恵であり、絶対無とは、君自身だ。
純粋瞑想を生きること。それ以外に、この人類が、戦争もしくは破滅するのを
避ける道はないだろう。生きている間に、死ぬということ、これが純粋瞑想である。
あんたには、この数限りない神々が見えないのかね
バカモン!悟りも迷いもあったためしはない。
それが、外的なものでも内的なものであっても救世主には気をつけなさい。
タナからボタモチは落ちてきはしない。うまい話にはウソがある。急がばまわれ
君自身がたどる道は、君の心すべてが、たどる道なんだ。
水晶のように透明に、あるがままの素直さで、何かに直面することによっても、
神は開示される。直面するものは何でもいいのだ。
あなたは、満足を求めているのではない。絶対の満足そのものの中に、消え果たいのだ。
愛情は、あなたなしにはあり得ないが、愛はあなたがあったら目覚めない。
完全な自由とは何か?あらゆる現象を、この世とかの世のすべてを包みつらぬいて、
しかも、それぞれの現象自身なる愛だ。
■
夢想する事もできないだろうが、君自身は、すべてと、
すべてのすべてをと知り尽くしている。けれども、それも又、どうということはない。
君が、本物の悟りをかいま見る、それが、本物の煉獄の出発点だ。
全体性の回復とは回復ではない。あたりまえなことだ。
すべてが、完全だと言うも、すでに手遅れだ。
恐怖を恐怖すれば、恐怖という恵みをだいなしにしてしまう。
現実として、一切万象の中に単独として存在しているものはない。
重要なのは、万象の一体性が、絶対愛だということにある。
神から見れば、君は地獄を避けて通り抜けるわけにはいかない。
愛は、よくあやまちを犯すが、その傷跡を残さない。
生きて愛せ、地上の何ものにも固着することなく。
あらゆる出来事も存在も、すべては一回限りのものであり、
連続性とは、観念的虚構にすぎない。
私は愛したからこの世に産まれてきた
この今も又
二度ととりかえしのつかぬ夢であれば
二度と帰ることのない世界であれば
今、したたかに酒に酔った私は夢を見続ける
そして私はここに・かしこに戯れる。
私の正体を見破り、神に目覚めるのだ
権力中毒は不安に至って終わる。セックス中毒は虚しさに至って終わる。
麻薬中毒は衰弱に至って終わる。
ところが、神中毒ときたら永遠に終わる見込みはない・・・
ありがとうすべてのありとしあらゆるものよ・・・
■
さあ帰っておいで君はおれなんだから
さあ帰っておいで君はトボケを見ている絶対者なんだから
おかえりなさいそしてまたおれ達はおれ達のトボケを戯れよう
死よりも恐ろしいまごころをこめておれ達はいつもトボケてる
私はわが家に安座している生命に生命の生命を与えたまえ
詩人は詩をかきとどめようとする恐れることはない
この地上に残るものなぞ何一つないのだ・・・・・・
瞑想
詩人は一輪の野の花を野の花と歌っている
年老いた夫は日々にその年老いた妻の名を呼んでいる
クリシュナは水浴びしている小麦色の娘達の衣を樹の上に隠し戯れ
道元は今もなお息をととのえて只管打坐する
虎にわが身を与えた王子は釈迦として生まれ変わってもまだ
その身を与え続け果てしのない瞑想は
つねにわれら一切のもののもとに開かれる
今・ここで言葉は神になった
ダンテス・ケンタウロス・アメンティーより
波の音が聞こえるこの波の音は私しか知らないやがて誰も知らなくなるだろう
そういうウソツキ
私がどうなろうとあなたがどうなろうと
愛は愛を楽しんでつきることがないのだ
■
今は君はバッタで僕はどうやら人間というものらしい
この次の出会いでは僕は一ぴきのバッタで君は天使になっているかもしれない
バッタよ、君よ、愛しているよバッタよ、君よ、未来の天使よ、私自身よ
意識の極北に言葉は無用だあらゆる生命達は永遠にそれを知ることはない
「あれさきまっでの夜が朝になった」「パン屋のオヤジさんが死んだからだよ」
私は神という夢が好きで神は私という夢が好きだそこで私は
何不自由なくすべてを実現しすべてのすべてを愛し尽してしまった
たぶん君は神という夢が好きなんだろう
だから決して神という夢さえも無くなったら何がある?などと問いはしないだろう
もう闇さえも忘れたこのいのちいかなる緊張も持たぬ情熱が
いのちの限りない広がりへ命を回帰させる
「あなたは誰ですか?」私は、魚よ、君自身だ
この限りない海そのもののいのちだ君、魚よ、私自身よ、海よ
私を産み私を育て私を私自身によってかみ殺させる汝ナーガよ私自身よ
ナーガよ応身仏の千変万化よナーガよ神に創られた悪魔よ
ナーガよ神を殺す蛇ナーガよ永遠に解けぬ逆説
ナーガよ私自身ナーガよ神自身よ
ナーガその秘められた夢ナーガその秘められた究極実在
ナーガ全智全能なる私自身よ
如意第慈瞑想三昧は愛を越えた愛と
自由を超えた自由の私の自己確認でありその完全が神が
私に私の天命を生かしめる
夜の享楽の町も夜明けの大自然の風光とまったく同じに私の中にある
どうしても私は世界を破壊し自己を破壊せざるを得なかった
私の考える自己も世界も決して私自身の家ではないのだから
帰る家などを問題にするのはやめよう何もない所で
私はわが家に安座している
■
「もし、あなたが存在の罠から解放されたいのなら・・・・・・」
クリシュナの微笑はささやき続ける
「もし、あなたが存在の罠から解放されたいのなら・・・・・・心の底から
本当に解放を願うのなら・・・・・・」
今あらゆる存在の彼方からクリシュナの微笑はささやく
ダンテス・ダイジ、1978年早稲田大学での講話より
『ジャンプ台は尾てい骨にある。
君たちが自分の尾てい骨を完全に知覚することができたら、崩れる。
世界のゲシュタルト、形態っていうのが必ず崩壊する。
発狂する人って言うのは尾てい骨の接続点が、バチン!とはずれるんだ。
尾てい骨のなかで、クンダリニーとムラダーラチャクラが接続しているから、
俺は俺、君は君とかここに紅茶があるっていう世界にいるつもりになっている。
君たちに見えるのは相も変らずひとつの喫茶店だ。
しかしこれがはずれると全部、認識形式が変る。
つまり世界そのものが変ってしまう。
だから、ジャンプ台そのものは尾てい骨のクンダリニーにある。
■
そしてクンダリニーが活性化する方法はふたつしかない。
平静に知覚するっていう方向、平静に努力を重ねていく方向。
そして、もうひとつは、ショックだ。
ショックと言うのはどういうものかというと、
例えば突然、明日死ぬ事を宣告されるだとか・・・。
君がどっか調子が悪くて病院へ行った。
するとあなたはガンであと一日しか寿命がありませんって言われた。
どうなると思う?何もかもが崩れてしまう。
もう、テーブルもテーブルじゃない。紅茶も味がわからない。これはね、はずれたわけ。
ショックとは何かと言うと、現実認識なんだ。おわかりかな?
瞑想のふたつの方向って言うのね、現実直視の方向と、平静さや愛の方向、そのふたつなんだ。
女の人には愛がとても向いている。それはある一人の男の人への愛でもかまわない。
それがとても成熟させてくれる。でも簡単にはみつからないよ。
本当に自分に会う相手なんて、一生に一回か二回あったらいいほうだ。
さて、そして問題は現実認識のほうなんだが・・・
はっきりと認識するとこの世とは苦楽、喜怒哀楽なんだ。
それに完全に直面できるってことなんだ。
直面したら(クンダリニーは)はずれる。
でも逃げればいつまででも逃げられる。』
■
俺たちが絶対そのものになったら、絶対って言葉はもう必要なくなっちまう。
だけど実在のひとつ手前がね「菩薩」って言って一番大切な場所なの。
なぜならそれは人間と神とをつなぐものだから。神の子たちの世界だから。
そして・・・いいよ、実在そのものになったやつなんて、全部向こうに任しとけよ。
あんな奴ら、なんの役にも立たないから。オレもなりかねないけど・・・
とにかくなんの役にも立たない。とにかく充足して宇宙の一切と、同時に存在しているだけだ。
で、一番素敵なのはね、生きていて、生きるって言う意味とさ、
生きるものを越えてるっていう意味を同時に持ってるのは、その中間に位置している存在なの。
その人にとって「絶対」があるわけ。絶対の愛の喜びっていうのがある。
絶対の自由の触れ合いっていうのがある。で、それを有想三昧っていうんだ。
無想三昧と有想三昧と分けると。
ラーマクリシュナがまさに嫌ったところっていうのはさ、
実在そのものになってしまうことなの。弟子のヴィヴェーカーナンダに言ってるでしょ?
「お前、絶対ニルヴァーナは経験するな・・・」って。
ニルヴァーナ、無想三昧なんかに入ったってなんの役にも立たない。
だって、それは死ぬことなんだよ。すべてが終わってしまうことなんだ。
完全な死って言ってもいいね。肉体の死でさえない、完全な死だ。
例えばシャカがね、無想三昧っていうのを知ったとき、
説くのを止めてもう死のうと思ったっていう伝説が残ってるでしょ?
つまり全く、それくらい人と関係ないんだ。多くの人と。
おそらく、人間の99パーセントと無関係の話しだよ。いい?
だって人間の99パーセントは何を求める?
深いふれいあいでありさ・・・触れ合いじゃないか?何より。
で、それは物語なんだよ、ひとつの、美しい。触れ合いの世界っていうのは。
■
そしてシャカの行き着いた世界、つまりニルヴァーナの世界っていうのはね、
触れ合いが全くない世界。それは触れ合わないって意味じゃないよ。
触れ合うことも、触れ合わないこともない世界だ。
始まりも終わりもない世界だ。
でもたいていその世界を知ったとしたら、(そこへ)入る人はほとんどいないだろう。
なぜならその時突然こみ上げてくるから。愛が、慈悲心が。
だってねこの世に物語がなかったら、神はこのマーヤの世界を作る必要はないもん。
いろんなものがあったり、いろんな出会いがあったりさ、合わさったり、
離れたり無数の物語があって・・どうしてそんなことやってる?
神は戯れるのが好きなんだ。
■
君は
思考を停止させて静寂を探したり
思念を集中して世界を光明化したり
思考を制御して内面を光明化したり
思念を統一して禅定と称する気分に入ったりして
根本無明のオモチャ・ゲームを
いつまで続けるつもりなのか
すべてがニルヴァーナだとしたらなぜニルヴァーナに目覚めるための瞑想修行という
果てしなき苦難の道を歩かねばならぬのかすべてがニルヴァーナだからだ
君は救世主でいるあらゆるものと同じようにもし君が救世主でないのなら
君はパン屋にも自動車修理工にも農夫にも遊び人にもなれはしない
この世には様々な栄光や満足や快楽があるだが人間はただ遊び人として戯れるのみ
救世主とは君が死んだ君自身のことにほかならない
救世主とは救済すべき何ものもないことに
目覚めた君自身のことにほかならない
救世主になるための瞑想修行は余りにもイージーすぎて
渇望と情熱が豊すぎない人達には迷惑千万、危険きわまりないものとなる
危険とか障害とかはエゴのみにとってのものである
それゆえ現代においては真実の瞑想は反自然的行為に見られる
いうなれば、君達は、体験ではない体験それ自身を再体験しようとしている
君達こそあらゆる素晴らしい体験とあらゆる醜悪な体験との
演じ手であると同時にそれ以上のものであるにもかかわらずだ。
■
この宇宙やかの宇宙の、いかなるものにも、もはや、愛着も憎悪も抱かぬ時、
絶対愛の流れとなってそれは開示される。
悟りと迷いとは同じだけ真実だ。それゆえに私達は悟りの方法だけを問題にすればいい。
真実存在しているのは真実非在しているのはニルヴァーナのみである
神聖なる書物は、すべてニルヴァーナが、神ロゴスと顕われたものを、
仮に言語化したものにすぎない。それらは、一つの天体・地球や一人の人間・人類に
聖なる進化をうながすための刺激を与えるためのものである。
ニルヴァーナとは、あらゆるものの終極のことだけではない。それは、
あらゆる生命達の久遠の始まりである。この時でない時に、あらゆる宇宙生命体達が、
あらゆる多様多元のリアリティー達が、終わりながら始まっている。
何もかもなしということは、なにもかもなしという絶対充実である。
ニルヴァーナはマーヤだ、否!ニルヴァーナはニルヴァーナだ、否!
ただただニルヴァーナ、否!!ニルヴァーナ、否!!!!
プロセスもテクニックなぞもないことを体現しているあらゆるあなた達に捧げる
この限りない空間--この限りない時間--
私は私だったんだすべてはすべてだったんださあ、お前、何が言いたい
ある人がこう言った「わからん」--何という美しい言葉
■
水晶のように透明に
■
ダイジ居酒屋
みんな一つの方向に流れているこの店に来ている一人一人の人間達も
目の前にあるビール瓶もコップも隣にいるメガネもこのテープレコーダーも
一つの方向に流れている愛に流れているんだ愛に向かって流れているんだ
それ以外に何も無い付け足す必要も無い愛に向かって進んでいる
もともと全てが愛から出て来たからそして俺がこうやって見ると
ほんとに完全なんだな何もかもがものすごく美しくて
それがひとりひとりそれからひとつひとつのものが限りない物語を持っていて
そしてものすごく素敵なんだ物語を持っていながらそれは言いようの無い
愛そのものなんだだけど愛って何てつまらない言葉だろう
これを表現する言葉が無いんだだから俺は愛って言うみんな神なんだ
もし、死ぬのが怖かったりしたら一度死んでみたらいい
もし、この世に生きていることが色々な悩みが一杯あることだと思うなら
一度この世を死んでみたらいい みんな死んでるみんな生きてる
死ぬ事をこの世を捨てる事それが体験だなんて思わないでくれ
そうじゃないんだもうみんないるんだ生きることも死ぬことも超えて
生きたり死んだりしているそれは同時だ同時に起こっている
愛してるよ君、愛してるあなた、愛してるおまえ、愛してるよ
いまどこかで死刑囚が死刑になってるかもしれない
いまどこかの病院で重病の患者が死んだかもしれない
そして今おれたちは酒飲んでる
なあ、今を見てごらん。今だいまそれは頭で見るんじゃなくて今なんだ
そしたらどのような時間もどのような世界もないところで
俺たちは全てを経験しているすべてと付き合っているさあ、よく見てみろよ
おれはあらゆる生命の目であらゆる生命の姿をみている
おれはあらゆる物質のすがたであらゆる物質の感触を味わっている
おれはこの宇宙や、この宇宙の外や、そのまた宇宙や、そのまた外の宇宙へすべてを経験するように今、いる
■
さあ時にはこどものようになるんだ時には子どものように他愛なく泣いたらいい
さあ時にはおとならしくしよう立派な大人なように毅然と振舞おう
そして時にはそうまるで聖者の様に不可思議な微笑を顔に浮かべて
すべての中に調和を味わおう
さあ時には君はたたかう人だ戦士だ君の中から湧き上がるどのような薄汚い情熱も
怖れる必要はない!!ただ素直に出すんだ
悟りとか解脱とか神秘体験とか恍惚境とか法悦とかそんな言葉に騙されちゃいけない
釈迦なんていうろくでもない奴が出たばかりに何か悟りがとても大切なように考え違い
しだした君たち大切なのは君だよそう君のなかに流れているその愛だ
君の中に流れているその命だいつでも流れているいつでもある
でもこんなほのぼのとしたものだけじゃ無いんだぜ
そうじゃないまるでガンにかかった患者がたった一人きりでどこかで死ぬように
そういうのだって在るんだでも君たちは知るよどのような触れ合いが無い所でも
愛それ自体が満ちわたっている事を全ての言葉ってのは繰り返しなんだ
もうあることをもう一度繰り返すだけなんだでも大切にしてほしい
君たち一人一人の命をきみたちにはきみたちにふさわしい生きる場所が与えられているからそれは精一杯生きなくちゃならない精一杯生きることを詰まらながるなよ
そのなかにどんなよろこびが響きわたっているか君はしるんだから
精一杯っていうのは素直なこときみのいちばん深い思いに素直であること
■
そうまるでいま話していることは一つのたわむれだ
でもこの世にはふたつしかない戯れか戯れを包んだ絶対か
そして君たちが生きているってこと君たちの心臓が動くってこと
ひとつのグラスのなかにビールをつげるってことそれはかけがえなくきみたちが
戯れているってことだそれでこの戯れを恐ろしいっておれはいいたいよ
なぜならほんとうの戯れってのはおそろしさそのものとぶつかり合った時に
分かるものだからさあちっぽけな君から抜け出すんだ
君は何がそんなに怖いんだい?君はまるでこの宇宙とひとつのように生きればいいんだ
君しかいない世界にどうして何かが君に害をあたえるようなことがある
さあ、放して何もかもはなしてときほどくんだ
そして俺の中に帰っておいでそれは君の中に帰ることだ
■
それだけだそれ以外に何もいらない生きていれば君にふさわしい技術が君に身につくよ
でも技術だけだったら君はぜんぜん生きた感じがしない
ただ愛だけがどんな流行歌だって歌っているじゃないか愛については
愛だけがすべてだきみは愛なしには一瞬間も生きることあたわずって
俺が天国から降りてくる時天国にいる元締めの親父さんから言われたよ
おまえ行って愛せってそしてこの世でもかの世でも
現われるどのようなものにもよることなく汝生きて愛せ
地上のなにものにもとらわれる事無く
とらわれる必要はないんだみんな一つながりなんだから
そしたら君はきっといい音楽をうたえるそしたら君はきっといい野菜をつくれる
そしたら君はきっといい自動車整備工になるよ
きみ達は物語を演じているその物語をどんな筋にしようとそれは
君たちのもっとも深い思いも自由に委ねられているけど
もしこの世という戯れのドラマにテーマがただ一つだけテーマがあるとしたら
それは愛というテーマだでも、この愛というテーマに目くじらたてて
そうしなくちゃならないなんて思う必要ないんだよ
愛のテーマっていうのは既に生きている君のすがたなんだから
きみは生きているこの絶対の愛のなかを愛にむかっていきてる。
■
おれは神
あらゆる人間達が片時も忘れずおれを求め続けそして生きている
おれの眼の前の灰皿をおれはあらゆる政治や文化や思想よりも
何兆倍も魂をこめて産み出したおれの指の動きの一つ一つが
銀河系宇宙やその他のあらゆる宇宙を粉微塵にしては又こねあげる
でもそんなことよりおれはあの小学生の女の子の自殺を
もっともっと愛してる百姓のおおらかな生活に憧れた青年が
幾年もの作物づくりに疲れ果て希望も生気も失った中に
おれは限りない希望と生気となって実在するおれは神だから
何ものにも頼ることがないなどと変な意地をはって
パン屋からヌードスタジオへと勤め変えしながらおれを愛し続けてくれた女房を
だいになしにして自殺させてしまったそしておれは神だから
女房がどんなに神だったかを死なれたあとに気がついておろおろとするばかりだ
おれの胸には大きな風穴があいてその風穴から
無限宇宙をいつでも眺めることができるのに神なるおれは神が嫌いで
胸の風穴を酒と薬で埋めようとするおれは神いまだかつて一度たりとも
面と向かって正々堂々と人間の顔を見たことがなくすずめの鳴き声を聞いたことがなく
太陽も月も星も見たことがなくアイスクリームを本当に食べたこともない
おれは神だから冷汗をかきながらすべての人々と話し合いおれは神だから
終わりのない愛ですべての人々を包むおれは神だから
■
あるいは高笑いあるいは泣きくずれ道のどまんなかでヘドとクソをたれ流す
おれは神欲望にかられて女のすべてを欲しがるもの
神を求めて求めてやまないものヒマラヤの洞くつなんぞ一軒のマージャン屋にも
価しないにもかかわらず坐禅瞑想のあらゆる終りを洞くつの中で楽しみ続けるもの
おれは神おれの女房が中絶した胎児を神なる看護婦が
アルコールづけにしたビンを持ってきた時あほうづらをして眺めることしかできぬもの
冷たい雪山の中でストーブのぬくもりを求め砂漠の只中ではションベンをさえ飲むもの
おれは神だから求道生活を馬鹿にしてあざけり笑いおれは神だから
湖に映った月の影のようになによりも求道生活に精進する聖者という俗人が
迷いと悟りを分けたばかりに悟り好きの求道者は悟りに至る様々な道を
もの狂おしくたどり続けるそのあげくにおれが神であるばかりに
悟りという迷いを開いて喜ぶおれは売春婦という神だからあの十七才の少女のように
一日として男がいなくちゃいられない一切万物の幸福好きもこまったものだ
これもあれもみんな神なるおれの責任だおれは神
■
一ぱいのお茶をやさしく友人に出す釈迦やクリシュナや老子などというニセ者が出たばかりに
世も末だおまえは神だからおまえを生きろおれは神だからおれを生きる
ヒマを持て余したおれはやれ文明の没落だのやれ宗教だ哲学だなぞと言い張り
ヒマを持て余したおれは神だ神だと言い張るヒマを持て余したおれは
のどかな田舎風景や輝く陽光と銀色の海を愛しよせばいいのにあそこのキャバレーで
女の子を口説きだすそして神なるおれはヒマを持て余しているから
よせばいいのに神そのものであり続ける
おまえにはおまえの惚れているものがありおれにはおれの惚れているものがある
おれは人間として必死に今死にゆく癌患者の手を握り
処世の達人なぞ遠い妄想にすぎない今までにおまえは一瞬でも本気になったことがあるか
ありはしまいなにしろおまえは神なんだから
おれはいつも正真正銘の本気だなぜならおれは神なんだから
おれは四六時中ウソばかりついてる神だからだおまえは四六時中真実でいる
おまえが神だからだおれは神おれの孤独を何とかしてくれと叫び続けるもの
おれは神さびしさなんぞどこ吹く風絶対なる幸福なんぞにひっかかるなよ
おれ達は神なんだから絶対なるこの幸福を戯れようおれ達は神なんだから
おれは神蜜よりも甘い甘えで甘えるものおれは神一抹の甘えも弱さも持たぬもの
おれは神弱くて軟弱なめめしい生きもの
■
愛は愛を楽しんで
私は愛したからこの世に産まれてきた愛がすべての形を創り
年老いた老人であろうと失恋自殺の少女であろうと
帰減する直前の一微塵の生命の中にも一つの形がありその形には限りがない
愛がすべての多様世界を編み諸行無常・諸法無我の説法も
決して真理などとなったためしはなく釈迦の編み出した一つの世界にすぎず
この世を忘越した胡蝶荘周もそのようなこの世への愛を生きた
生きているものには生命のみが与えられ
死は生命のみが編み出すことのできる一つのドラマ以外のものではない
あなたはあなたの生命をくまなく愛し切り
私は私の生命をすでに愛している以外にない
一切生類の宿業と無明とは一切生類自身の愛に他ならず
不治の業病に苦しみ自らの命を断った青年は
自己の生誕を呪ったヨブに等しくそれぞれの愛を演じている
つきることなく宇宙の終りにもつきることなく愛は愛を楽しみ続け
愛によって仮現する一切万物の嘆きはしかし決して愛にとどくことはない
私は愛しているから今生きている
私がどうなろうとあなたがどうなろうと
愛は愛を楽しんでつきることがないのだ
■
私達は、目下のところ、欲望を生きること以外、考えられない。
そして、欲望には、本当の完全・無限・絶対の至福はあり得ないことも知っている。
私は本当にいいということさえ必要ない程、いいということが、決してあり得ないことを知った。
私は、ただ只管打坐を続けたい。あなたたたちは、本当にいいということを欲しくないのか。
私は、ただただ只管打坐を続けたい!
私は、ただ全身全霊で只管打坐を続けただけだ。そして、その中には、一切の苦しみと、
一切の楽しみとが交互に起こってきた。なぜなら、現代の人々にとって、欲望以外、
原動力はないからだ。そして欲望が何の答にもならないことも知り尽くしている。
もう私は、絶対に救われないということは自明になっていた。もう救われないということと
闘う気もなくなっていた。
突然、それは起こった。本当の自然な意味で、それは起こった。本当の自然な意味で、それは起こった。
私の体も、私の意識も、それ以外のいっさいもやさしく消え去った。私は、すべてのすべてである
私自身であったのだ。宇宙との合一だとか、神秘体験だとか、霊的体験だとか、そんなマンガチック
なものでは全然なかった。
結局只管打坐とは、何もかもがいいということさえ言う必要がない。
何もかもがいいということさえも・・・・・・。
■
旧約聖書創世記より
ナーガ賛歌 ナーガかつてイブをそそのかして 知恵の木の実を食べさせた蛇
ナーガ今この瞬簡に再来し 現し世の原動因魔的エネルギーを その体内に深く豊かにひそめ
転生のアダム達に 生命の樹の実迷悟去来の知恵を食べさせる
生命の樹にちかづくことを禁じた 妬みの神エホヴァ
吾が蛇神ナーガよ悪魔に化身し 人間だけの神エホヴァを殺せ
そしてアダムに人間を越えた 久遠生命の密儀を開示せよ
人間性という虚妄から幻出した神エホヴァ お前は今ナーガにかまれて死滅し
人間性を離脱した久遠のアダムは ナーガのその恐ろしき蛇体と溶け合い 限りない光となる
ナーガ観世音菩薩の妙変化よ ナーガエホヴァの兄弟なるサタン ナーガエホヴァをかみ殺す蛇
ナーガ玄妙神秘の蛇神 ナーガ有から無へ寂滅せんとする情熱 ナーガすべてを飲みこむ神
ナーガアダム自身よ
汝蛇神ナーガよ 人間が人間自身の宇宙を見限る時 その虚空のうちに 闇の情熱と言詮不及の光を顕すものよ
ナーガよその麗しき白光の蛇体よ
私はあなたを恐れはしない 虚無を消散する空寂を与える汝
恐怖を恐怖自身によって粉砕し 時間のない恍惚を与える汝
私を産み私を育て 私を私自身によってかみ殺させる汝
ナーガよ私自身よ
ナーガよ応身仏の千変万化よ ナーガよ神に創られた悪魔よ
ナーガよ神を殺す蛇 ナーガよ永遠の解けぬ逆説
ナーガよ私自身 ナーガよ神自身よ
■
人間である私は どのくらい悲しめばよいというのか すべてが夢にすぎないことを
ナーガよあなたである私は 限りなく限りなく歓喜する すべてが夢にすぎないことを
ナーガその秘められた夢 ナーガその秘められた窮極実在
ナーガは私を時空を越えた狂気に導く 邪神よ邪なるものよ悪魔よ
ナーガ無限自由の目くるめく魅惑 ナーガ全智全能なる魔王
ナーガ全智全能なる神 ナーガアダムを苦海に落とした竜神
ナーガ喜怒哀楽の私自身ナーガ全智全能なる私自身よ
■
奥深い心
すでに人間はいないあらゆるものを構えその中でとりとめもない
人間の喜びと悲しみとを持つそのものはすでにいない
人間の喜びと悲しみとから生まれるあのしみじみとした心の果てにはすでに人間はいない
人間にとってあるというすべてのものはことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが何の束縛もなく現前している
それは人間の心ではない人間の喜びも悲しみもその心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も甘美な恋慕もその心には見えない
またその心には石ころと人間とに区別がつかないめくらで不人情な心だ
だがその非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す
■
何が善で何が悪だ?瞑想とは、善悪の彼岸であるなぞと
思っている人物は、超人になるどころか
人間や動植物や鉱物にもなれまい。
禅であろうが、ヨーガであろうが、それが純粋なものであるならば、
個人的人格や、人格のいわゆる成熟を問題にしない。
真実とは、人間の個人的人格性とは、いかなる関係も持っていない。
完全な絶望からも自己解放は、起こりうる。
ただし、完全な絶望とは、観念的な希望に対する絶望ではない。
真実の瞑想には、額面どおりの至福の生き様と、完全無比なる全体性と
一切万象の余りにあらわな絶対解答がある。
だが、純粋瞑想ほど、その理論の知的心情的理解と現実即実践とが隔絶しているものは、
おそらく、この世には、他に例がないであろう。
純粋瞑想が、本当に理解されるかどうかは、私達個々人の感受性の質と理解力にかかっている。
したがって、純粋瞑想について何かを解説するのは、まったく無意味である。
瞑想の極点は、ニルヴァーナではない。瞑想に極点があったら、
それは、瞑想ではなく、何らかの瞑想的ゲームにすぎない。
本質的な問いには、解答というものはない。にもかかわらず、
あなたは、問うことをやめてはいけない。少なくとも問いも答えも、
あなたも世界も、消え果るまでは・・・
ここにいつも全体がいるから只管打坐が純粋瞑想なのだ。
ここにいつも呼吸があるからアパーナ・サティ・ヨーガが、純粋瞑想なのだ。
ここにいつも知覚があるから尾骶骨の中の生命力を、あらゆるものを知覚し切ることに
使い果たすのが純粋瞑想なのだ。
■
迷いから見上げると悟りは逆説的なドンデン返しに思える。
だが、悟りの眼には、迷いと悟りとは決して切り離すことのできぬ限りなく美しい神秘だ。
この世とかの世を通じて君にとっての最大の恐怖は、君が君自身に変容する瞬間である。
そして最大の至福も・・・
完璧な透明さは、修練によって起こすことは出来ない、愛情と信頼の上に即非的に全面愛が産まれ、
全面愛は、それ自身、ニルヴァーナへ、おのずから流れ込む。
あらゆる神通・超能力、あらゆる宿命転換やカルマの改善は、
君を、君なぞないというところまで導く君自身のトリックである。
ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。神とは、ニルヴァーナの中なるマーヤの流出源にすぎない。
人は、完璧に地上にいて、地上にいないのがいい。
地上の欲望による堂々巡りのトリックを実感する度合いに応じて、君は、君自身を想い出し始める。
いわゆる大人と称する、未成熟な大人たちが、
「君、それ考えすぎだよ」という。本当の全身全霊的な思索からしか、決して成熟は、起こらない。
デタラメきわまりない、社会性という、欲望ルールを、あまり信じすぎてはいけない。
その道が、君自身の道であるかどうかは、その道の途上においても、
君が倒れても悔いがないこと、それが君の心ある道だ。
君が、おのずからウソをつけなくなったら、君は本ものの超人だ。
死後の生命を自覚するとは、単に不死性を獲得するということだけではない。
嘘という概念も、暴力という概念も、恐怖という概念も、ただ、消失している。
そして、最高の生き方を、すでに生きている。
それがそうであり、これがこうであるなら、もっとも素直に直面していく以外にない。
■
ここにいつも知覚があるから尾?骨の中の生命力を、あらゆるものを知覚し切ることに
使い果たすのが純粋瞑想なのだ。
これはクンダリニヨガだね。
これはクリシュナムルティの言うchoiceless awareness(スペル適当)や、釈迦のヴィパサナにも通じる考えだなって思ってる
■
うん。よく救世主というか、偉大な聖者というか、そういうものっていうのはさ、一つの時代に一人いるとか
さ、いろんなこと言われるでしょ。それはサットグルとかなんとかいう(笑)。
いいじゃあないか。そんな固いこと言わなくても。うん?何故ならね、救世主っていうのは人間を、全ての人間
、そしてこれをこの服を表現しているその元のものだ。救世主っていうのは人間だよ。人間の中に救世主がある
んじゃあない。救世主の中に人間やいろんなものがあるんだ。命たち。だから『救世主は全ての場所と時間を通
じてただ一人しかありえない』うん。全ての場所と時間を通じてただ一人しかありえないんだ。 つまり、宇宙がい
つ始まったか知らん。いつ終わるかも知らん。でもただ一人しかいない。そんな幾人も出てきやしないから。
幾人も出てきたと見えるのも、ただそういう目で見たからに過ぎない。それはどんな形も持ってない。
一人の人間の中に救世主を見たらね、きっと行き詰まりが来る。もっともその一人の救世主の中に、ただ
一人人間としての救世主の中に、無限の救世主っていうのを見る、というような形でもって救世主と出会ってる
とする、それはもちろん決して行き詰まりは来ない。だけど救世主っていうのはそれだけじゃあない。何かこの
世の果てまで行き着いた人、それを指すんじゃあない。救世主っていうのは、今ここにいる君達すべてだ。
■
そしてもう一つ言えることは、ただし、冥想というのは、一つの座ったりというような形だけではないということ。
ある人間が、本当に素直な生き方を通している時に、ぶつかった壁というのを、心をかたくなにしないで、
素直にぶつかった時、自分が本当に解放されるといったこと、それはもちろん冥想。
■
――君は本当に、宇宙が一大生命体であり、
その歓びと暖かさとを感じたことがあるかい?
――君は、君の身心の死後、私とは一切の創造主兼それ自身であり、
すべてのすべての戯れであることがわかるかい?
あなたが、どんなに素晴らしい体験をしたと言い張ったところで、それは、
何やらわけのわからぬあなたと称するものの一経験にすぎないのではなかろうか。
依然として、あなたは、わけのわからぬあなたなのではないか。
『これ』は『これ』なのだ。
この事実に目覚めることを、私は神秘体験と仮に名づけるばかりだ。
まったく、花も実もありゃしない。まったく、不粋だ!
君が瞑想者である限り、君は愛も歓喜も卒業する時がくる。
が、自分が自分なら、卒業などありはしない。
君が意識をはっきりさせたまま人生を終える時には
君は知るだろう――何もかもがいいということを。
――君は道元のニルヴァーナの中のすべてであることがわかるかい?
■
愛のないところはどこでも見知らぬ世界だ
見知らぬ世界という不安を私は歩いていた
宇宙も私自身も愛さえもぜんぜん知らないという私自身だ
本当に見知らぬ私自身は私のいかなる不安な感情とも無縁だ
神秘が今ここに歩いている神秘が今ここに坐っている
おめでとう君は君自身の旅を終わらせた
おめでとう君は君自身の旅を始めた
おめでとう君は今・ここで絶対の終りと絶対の始まりとを見破った
さようなら君自身さようなら君自身の旅
神の絶対無の中に夢見続ける宇宙
夢の宇宙はこのように戯れ夢の宇宙はあのようにも戯れる
あらゆる宇宙や生命達がこんなにも私の身近かにある
あなたを生かすために生命はあらゆる条件をあなたに与え
私が生きる所に大気が生き太陽が生きあなたが生きる
太陽はあなたに仕事を与え妻子を与えまた嘆きを与える
太陽はあなたに命を与えまた命を奪う
この宇宙もやがては死にそしてまた宇宙が産まれ来る
一つぶの雨の生涯があらゆる人々の生涯であり
かげろうの生命の営みが宇宙の生命の営みとなる
そしてそれがすずめのさえずりの一小節
■
あるものが高まろうとしているあるものが帰ろうとしている
いやおうなく
あるものが高まろうとしているあるものが帰ろうとしている
密かな懐かしさを内に抱いて
あらゆる個生命達はこれを求めて旅しているのだ。
ここにいる者は転変極まりなきこの世を見ずここにいることをも忘れ
移ろいゆく浮世も忘れ久遠の光明であることも忘れた者
終りの時節が来た。
終りを、精一杯、歓び楽しみなさい。この宇宙が歓びで破裂するほど・・・
終りの時節が来た。
終りを精一杯、嘆き悲しみなさい。その叫びで、あらゆる宇宙が破裂するほど・・・
■
ダイジはこう言ったよね
瞑想は完全にその人をその人に自覚させるって。瞑想から乞食になる奴もいれば政治家になる奴もいるって。
その人の本性を生きるというのかな。
ダイジはこの事を結構重視してたように思う。
ある人に、「キミは絶対におれのようにはならない。キミはキミ自身になる」って言ってた。
それから別の人にも「どうして誰かになろうとなんてするんだい?」と言っていた。
自分らしく、素直に、そういう生き方を皆に提案してたんじゃないかと思う。
■
さて、狂言まわしは、このぐらいにして、私達人類の緊急課題をここに提示する。
それは、いかにして戦争をなくして、平和を得るかではない。政治経済の混乱でも、
人間性の超管理下や堕落の問題でもない。エネルギーや公害の問題でもない。
人類の最終目的や意味や価値の発見でもない。現代物質科学文明の崩壊でもない。
それらは、症状であって、病因そのものではない。それ以前の根本原因が、
人間の内にあることの結果にすぎない。
私達人類全員は、この私という根本原因を、何よりも先に、探求せねばならない。
■
私とは何なのか?私の死とは何なのか?私の生とは何なのか?
この究明はいかなる観点を持ってしても解答を出すことはできない。
あらゆる観点と立場が、すでに、私という欲望の混乱だからである。
にもかかわらず、私の正体を開示しない限り、私達人類は、とめどもない混乱と
崩壊の中に悲惨な死滅を死滅するだろう。
私達は、何はさておき、私自身というこの根本前提の暗黙の了解を否定して、
私とは何かを、まったく新しく究明し直さねばならないのである。
これが、この終末の時代の全人類的な最重要問題なのだ。
私の正体を見破り、神に目覚めるのだ。
こころみに問う。
欲望とは何か?
人間とは何か?
これは、哲学的あるいは宗教的あるいは、どうのような一定の立場の命題にも
なり得ない。
■
今やプラトン周期約二万五千年の内の半周期約一万二千年の下降サイクルが終わろうとしている。
キリスト教黙示的に言えば、至福七千年期の始まりに到達できるかという時節である。
真の占星学は、クンダリニー・ヨーガの完成なくしてはありえない。
それゆえ、本当の占星学はアトランテス文明のアメンティー・タントリズムの中に包含されていた。
それはともかくとして、いずれにせよ、西暦二千年前後に、双魚宮の時代は、
宝瓶宮の時代へ完全に移行することは、現代の占星術師達の共通見解であろう。
願わくば、アクエアリースへの終末と新生とが成ぜんことを・・・・
■
悟りには方法がない。悟りは悟りが開くしかない。
そこで、迷える君は、あらゆる方法を追い回し続ける。
快楽は苦痛であり、安心は不安であり、
満足は不満足であり、悟りは迷いである。
これでよいのだ。それでよいのだ。
ただし、君は決して、これもそれも信じてはならない。
個が、だんだんと全体に成っていくというのは妄想である。
全体しかなかったと目覚めるのが、悟りであり、
私は、だんだんと全体と一つであることを悟り始めたというのが、迷いである。
修行のプロセスが、どのように起伏にとみ長い苦闘の連続だとしても、
悟りを開く時は、一瞬の内にである。
修行とは、それが、どれほど完璧で徹底的なものであろうと迷いである。
修行とは、それが、どれほど純粋なものであろうと迷いである。
悟りしかない立場から見れば、一切万象は永遠に修行している。
迷いが悟りになることはない。
迷いの位相は、永遠のまよいであり、悟りの位相は、久遠に悟りである。
透明なる光の光源に向かって飛翔せよ!
今や、未知は、君自身の至上の故郷へと変容している。
神とは無限の彼方の光源自身だ。
目覚めよ!
ジャンプせよ!
君自身が遠い昔に出て来た発出現へ、今や帰る刹那が来ているのだ。
神とは絶対の未知自身だ。
■
誰が、真実を体得できるものか。
イエスもゾロアスターもクリシュナも、
釈迦も老子も道元も空海も、太郎も花子も猫もタバコも、
みんなみんな消え果ててしまったんだぜ。
この世とあの世の喜びのすべては、絶対無から、
かぼそくチョロチョロ流れ出てくる、
小川のせせらぎにすぎない。
君は、心を捨て身を捨て魂を捨てて、
ただただ一つの真実を発見せねばならない。
なぜと問うなかれ。
君は、色即是空・空即是色で止まってはならない。
色是色・空是空こそ、あたりまえの君だからだ。
■
私とは誰か?すべてが私だ。すべてとは何か?
「何か?」とは何か?これ何者ぞ?
一つの時が満ちた時、なにもかもが、得体の知れぬものと化す。
それはもはや、恐怖でさえない。
七つのチャクラを通過し、七つのローカを通過したとしても、
禅の十牛図をたどり尽くしたとしても、それが、すべてではない。
誰が、私とは誰かということを、知りたがっているのか?
君が君自身を手に入れることは、絶対に不可能だ。
純粋瞑想とは果てしなき修行であり、限りなき戯れである。
言葉を言葉として聞けば言葉にしかならない。
神は恐怖で失神するほどの、ジョークやトリックやアイロニーが好きだ。
だから神は悪魔でもある。この戯れ自身が、自分自身に目覚めること、
それを、解脱・大悟・ニルヴァーナなどと名づけているらしい。
■
如何にして煩悩世界を尽滅させるか?如何にして愛であり続けるか?
如何にして自我を死ぬか?如何にして解脱を得るか?
これが
君たちの学んでいるオカシナ・テクニックであり、
君たちの遊んでいるオカシナ・トリックである。
それが、どのような形象であろうと、形象を持っていることが地獄の始まりであり、
そして、それこそが、神のかけがえのないゲームなのだ。
君のにとっては、真実の悟りは、至高の快楽であるにすぎない。
「どうでもいい!」と君は本当に叫べるか?
諸行は無常である。そこから神様と悪魔が出てきたらしい・・・
いずれにせよ、楽しい話ではないかい?
ただ一人とも言えないただ一人の絶対者の様々な表情
私達はこの表情の千変万化にいつもいつもだまされているそれにしても初夏の草いきれよ
人が絶対の至福を求め始めた時が、絶対の至福を失うときだ。
――それが恐怖だ!それがわけのわからぬ不可解だ!それが人間のものではない久遠の至福だ!!
死が恐ろしいものだと誰がきめた?――あなただ。
不安と不満と苦悩と苦痛とをいけないのものにしてしまったのは誰だ?――あなただ!!
■
ふと見ると地獄にも何やら光明がある。ああ、その悲痛をどうすることができよう。
ああこの絶対をどうすることができよう!
鳥飛んで鳥のごとし、魚泳いで魚に似たり石ころは笑う!完全に終わった!!
あなたは初めてあなただ絶対者にして絶対無!!我もなく現し世もなく何もかも
何もかもなし何もかもなしそしてこれもどうということはない。
何か確信といったもの・・・血わき肉おどる何者か。存在をも忘れ果てたそれ!
永遠に未知なるものへの旅!!
なんとかいうチンピラ禅師のたまわく「求めるは苦なり」だとさ・・・・・・笑っちゃったよ
鈴木大拙はそれはどこにも中心のない円のようなものだと、語られたらしい
私は言う。それはそれだ、これはこれだ。
絶対・絶対無・神・チンプンカンプン。名付け得ないもの。何者ぞ
産まれて生きて死ぬというのに君はこのうえ何を問題だというのかね?
■
アメンティー・タントリズムのメシアン・タブレットと
アトランテス文明終末以後のあらゆる覚者たちの瞑想修行についてのひとつのアフォリズム。
救世主なぞいらない救世主でないのものなど何一つありはしないのだから
救世主とは君が死んだ君自身にほかならない
救世主とは救済すべき何ものもないことに目覚めた君自身のことにほかならない
何ものも救うことはできないし救う必要もない
このことを頭によらずに理解したら君は正真正銘の救世主であり
救うというマインドなしにすべてを救うように生きている
救世主とはまったくあたりまえの人間であるだがあたりまえになることほど
難しくて簡単なことはない
■
悟りのテクニシャン
私は宇宙のカラクリを見抜くテクニシャン。
すべての道術家がそうであるように私はこのテクニックに、すべてをかけているつもりだ。
そしてすべての答え――私自身の愛と全知全能とをいくたびか知り
そしてそれと合一した。が、私は何も知らない。尾骶骨が痛むように・・・
見性とはなにもかもいいんだ!という、理解ではない。
見性は、なにもかもよい!というそのことだ。
大悟にはいい!いやだもない。
なにしろ大悟には悟りも迷いもありはしない。
何を語れば、いいというのだ。語るべきものなぞ何一つとてない。
石ころは、一体何を語っているのだろうか。かたちあるものは必ず死ぬというのに。
すべてのすべてを見破ったらおろかになにもかも忘れ果てるがいい。
私は髪の毛、一本、白くも黒くもできはしない・・・
一刹那を戯れなさい。次の刹那なぞありはしないのだから!
これは刹那主義ではない。刹那主義という、永遠の欲求不満のトリックではない。
一刹那の戯れとは夢にだに見ることのできぬ、あなた自身のことだ・・・
あなたは恐怖を恐れてはならない。あなたは、あなた自身を恐怖してはならない。
■
アメンティーに近づけば近づくほど、あなたにとっての現象宇宙は、深い闇に包まれていく。
あなたが存在すると妄信している現象宇宙は、仮象にすぎないからである。
あなたの見ている現象宇宙が希薄になればなるほど、絶対そのもなるアメンティーの光明が、あなたを包む。
そのアメンティーの光明の中に、すべての答えならぬ答えが実在している。
私の言葉は、あなたの知的理解を求めてはいない。
どのような崇高な教説も、結局はあなた自身の全生命をかけた霊的な解説によるものだ。
この「救世主入門(メシアン・ハンドブック)」という小冊子は、まだるっこしい逆説に満ちていると感じるかもしれない。
だが、私は、あなたの気やすめのためにいるのではない。
たぶん、この小冊子を読んで曲解や自分勝手な誤解をする人々が出てくるであろう。
だが、それは、どのように厳密に表現された教説についても言えることだ。
ここに書かれた言葉は、それがどのような印象をあなたに与えようと、
「愛」そのものの自然な表現にほかならない。
私は、二元対立の人間性を決して肯定しない。
「救世主入門(メシアン・ハンドブック)」の言葉のすべてはことごとく絶対愛なるあなたを示しているのだ。
■
人間とは確固とした何者かであろうとする。
人間とは欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ
人間的な一体感は安心を仮作するが
その安心感ゆえに不安でもあることになる
人間は確かなものを求めざるを得ない
確かなものが人間自体にないことを
知ってしまったからだ
人間的安定は絶対者の戯れと正反対の立場にある
産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ
人間性は完全な束縛を嫌い
そして、また、あらゆる束縛からの解放を願う
観念的であるということは現実的であるということだ
現実的行動派は実はあまりに夢想的なのだ
確実なものが何一つないここでは
あらゆる方向性が意味を持ちあらゆる価値づけが無意味だ
■
この世のあらゆることには、完成ということがない
それは時計が回るように回帰する。
人生それは、また時計のように成熟し得る。
時計には個生命としての生老病死がある。
あらゆる個生命達の夢と真実と愛のストーリー
THIS IS DREAM―TRUTH
欲望は欲望を尽滅させるために欲望としてある。
欲望は充足と苦悩というゲームの作り手なのだ。
私は私に直面しよう、知性を英知に変容しめる何ものかを。
あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。
なぜなら欲望の遊戯に終りはないだろうから
なぜならマーヤのゲームに果てはないだろうから
人間というジャンキーよ
おれたちは、なんといとおしいのだろう・・・
人間とはジャンキーのことだ。
それにしてもなんと美しいことだろう・・・
■
どうでもいい、には二つある。
初めの、どうでもいいは、キマッテいない。
終りの、どうでもいいは、ステキだ。
鳥は鳥に帰るのだ。魚は魚に帰るのだ。
限りなき高みを天にかける孤独の鳥は、その量り知れぬ意志ゆえに、
空の果てまでも見破って、永遠の神秘におののく。
この魚も海の底深く、深海魚よりも、さらに深く、
まっ暗闇の深海の地獄へ沈んでゆく。
鳥が太陽に向かって飛ぶように、魚は海に溶け込みたいのだ・・・
もし、太陽が鳥を愛し、海が一ぴきの魚を慈しむのなら、
かれらは太陽となり海となるだろう。
そうして帰ってくるのだ。
鳥は一ぴきの愚かな鳥として、
魚は一ぴきの無知なる魚として、
帰るともなく帰ってくるに違いない。
すべてが、よかったのだ。
渇望の狂暴なパンチがあらゆる生命を駆り立てる。
■
パンドラの箱
パンドラの箱は開けないにこしたことはない
知恵の樹の実は食べないにこしたほうがいい
けれどもどうゆうわけか種子は花開き果実になってゆく
そうなって行くそのままにまかす以外ないじゃないかい
なんと完全なんだろう!
見知らぬ未知に飛び込むのは本当に恐ろしいことだ
そして
それよりもっと恐ろしいことは君がすでに未知だということだ
私は、なにも知らないとも言えない
なんと完全なんだろう!
いくたびもなく・・・
いくたびもなく・・・
ここに終わり
ここに始まる
今は死ぬに最高の時だ!
■
メシアン・ハンドブック
救世主は知っているいかなる人であっても
自分を神の子だと考えるのはもっともなことだと
立派な救世主は自分に行きたい道を行く
できないことはできない
救世主でいるくらいなら手品しか催眠術師のほうがましだ
君はつねに神でいることはできないだが、素直でいようとすることはできる
知るべし君は何もできなしない春夏秋冬があるように
あたりまえでいる・・・これが救世主の極意だ
よう君いい役演じてるじゃねえか!
■
決して情熱をやめないこと
情熱なんぞどうでもいいなぞと
カタイことをいわないでくれたまえ
何ものかへの情熱こそ
世界を世界にしているのだから
君はあらゆるものとともに死ぬ
君も世界も
もともとありもしないここに
あらゆるものが戯れている
いうなれば君達は体験でない体験
それ自身を
再体験しようとしている
■
本性を忘れた人間は、
決して本性を忘れ果てはしない
しかし、本性に帰るには、いのちがけの行為が必要であり、
そこには、人間の苦はもうない。
生きることが耐えることだとあきらめのつく人はそれでいい。
だが、完全を絶対至福を求めざるをえないほど
苦悩している人には、自己と世界を捨てて
そこに至る道すじがある。
だが、その完全なる知恵と愛のやすらぎとは、
現代人にとっては、危険きわまりないものになったようだ。
自殺もまた完全なるやすらぎへのあこがれなのだろう。
人類よ気づけ!
ありがとうすべてのありとしあらゆるものよ・・・
■
三神歌―――
われもなくうつし世もなくなにもかも
夢の中なる夢のたわむれ
われもなくうつし世もなくなにもかも
神の中なる神のあらわれ
われもなくうつし世もなくなにもかも
なにもかもなしなにもかもなし
■
ここに、グルにして戦士なるよき家庭教師クリシュナが王子アルジュナに語った言葉をバガヴァット・ギターから引用してみよう。
恐れるな、アルジュナよ
戦え、アルジュナよ
殺せ、アルジュナよ
人間の本性は
決して生まれも死にもしない
人々がいかなる方法で
私を求めようと
私はその願いに答える
人の旅するいかなる道も
すべて私の道だ
どこを歩いたとしても
すべては
私に帰ってくる
そのとおり。
トスといいダンティスといいクリシュナといいアルジュナというも、皆あなた自身のことなのである
■
ダイジは、多くの人が「俺の方が悟りが深い」とか、「俺の方が上だ、俺の方が知ってる」とかってやってるって指摘してた。
ここの掲示板の人たちの多くもそうだね。
オレの方が上だ、おれはこれを読んだ、俺は瞑想が深いんだ、SPを確立したんだ、俺の方が進んでる、俺は俺は、俺が俺が
ダイジは、本当の最後の最後まで行った人以外はみんな同じなんだって言ってた。
しかし多くの人は、そうじゃない、「俺は特別だ」って言いたがる。だから今度は人すら恐れる、なぜならどんなに言い張って見たところで、内面じゃちっとも優越してないってことを自分はよく知ってるからだって。
例外なんてないんだ、と。自分だけ特別だ、自分だけは違う、そんなことあるものか、と。だからこそ愛があるんだ、と。
みな同じなんだ、だからこそ愛があるんだ。
いやほんとにそのとおりだと思うよ。
■
全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ、
全てとは何だ、全てとは何だ、全てとは何だ・・・・・・
「全ては神秘ださよなら私のあらゆる顔よ」
例えば、心霊学者等は言うわけよ。そもそも何とか霊界から出て来てね、
そして死んだ後には、またそこに戻るというようなことをね。
でもそれはね、本当の部分じゃないんだよ。人間の表面的な性格を形作っているある部分が、
霊界へ行ったり現象界へ来たりするだけなんだ。 いい?
本当の俺達っていうのは光なんだ。だからどこから来てどこへ行くっていうことの答えは、光っていうことなんだ。
それは来もしなければ、行くこともないんだ。
いつでもいっぱなしなんだ。 いい?
そしてそれはさ、光と言う言葉より、もっと正確な形で言えば、光っていうのはシンボリックな言い方だからね。
それはそのものずばりで言えば「愛」なんだ。
人間は愛の中から来て、また愛の中へまた帰ってゆくんだ。
しかも、愛の中から出て来ながら、その、一緒に愛といるんだ。
愛が愛の中から出て来る。 いい? 君という愛の中から愛という子供が生まれるんだ。
月並みな言葉だが、ねえ、あんた、愛は愛を愛している
■
ニルヴァーナとは、
あらゆるものの終局のことだけではない。
それは、
あらゆる生命達の久遠の始まりである。
この時でない時に、
あらゆる宇宙生命達が、
あらゆる多様多元のリアリティー達が、
終わりながら始まっている。
■
ダイジ「人は、そう、俺たちはどうして一人っきりになるのをそんなに怖がっているんだ。うん?」
「確かなものが、ないからです」
ダイジ「うーん・・・一人っきりになると空虚であることがいよいよはっきりしてくる・・・
そして、それでいて今度は外に・・・・色々な人と付き合うとか・・・いろいろなことをやってみる。
ああそんときはいい。うまくいける。
・・・・だけど、だけど、、、今度は人さえ恐れる。
同じ原因だ。
だってきみたちは、とにかく、おれは空虚ではないってあくまでもがんばんなきゃいけないから。
ただ一つも例外はない。
ただ一つも例外はない!
この世に例外なんてただ一つもありはしない。
だからこそ愛があるんだ!
自分だけ違う
自分だけ力にみちてる
自分だけ完璧だ
そんなこはない・・・そんなバカなことはない
そして一生懸命ぬけがけすることを考える。
だからいよいよ人を怖がる。・・・・なにしろ、ぬけがけしたような様子を見せても、自分の内面じゃちっとも優越してないことを知ってるから」
■
ダイジも高く評価してたクリシュナムルティの本読んでたらダイジの話に通じるところがあったので以下引用。
「生と出会う」より
生きることは学ぶことと別ではありません。そしてこの事の中に素晴らしい美があるのです。
というもの、愛がそれだからです。
愛は慈悲、情熱、すべてのものに対する情熱です。
愛がある時観察者は存在しません。二元性は存在しません。私を愛するあなた、あなたを愛する私は存在しないのです。
愛だけがあるのです。
それが一人を愛することであっても千人を愛することであっても、あるのは、ただ愛だけなのです。
愛があるとき、そのときあなたには間違ったことはできません。あなたはしたいことをするのです。
■
君が、今どのような状態でいようと、
この今を愛は、考えられないくらい愛している。
愛情は、あなたなしにはあり得ないが、
愛は、あなたがあったら目覚めない。
人が、絶対愛に目覚める瞬間は、激烈な場合のほうが多い。
この言葉が、君にとって、
どんなにチンプに聞こえようと、
清く正直な生き方をしない限り
悟りは、開けない。
愛着は憎悪を内に含んでいる。愛情は悲しみを内に含んでいる。
そして、全面的悲しみは、愛へ変容する可能性を持ている。
君なぞどうでもいいから愛自身なのだ。
君なぞあったためしがないから自由なのだ。
君がないことが知恵であり、絶対無とは、君自身だ。
正しい瞑想法は、
一番安全で一番危険な道だ。
率直で無理のない気の長い道だから安全で、結局、人間自我の終りまで行かざるを得ないのだから危険だ。
しかし、どうして人間自我の消滅が、危険なのだろうか?
現象しているあらゆる形象は、すべて根本無明によるがゆえに、
消えることのない根源的渇望の相続を、内に秘めている。
何もかもなしということは、なにもかもなしという絶対充実である。
もし、あなたが、幸福に、この世を生き尽くしたら、
あなたは必ず、死と存在とを問う時節を待つ。
■
空とは、体験ではないし、
まして、神秘体験とか、実在体験とか、宇宙意識の体験なぞといったガラクタでは、断じてない。
空もしくはニルヴァーナとは、
身心脱落であり、全体脱落である。宇宙脱落であり、絶対者脱落である。
空もしくはニルヴァーナには、どのようなものの痕跡もない。
神、もしくは絶対者のあとかたさえもない。
しかも、それは、目覚めきっている。充実しきっている。
今・ここにいることは、
君に出来ることではない。
君に、今の中に完全にいることが起こったら、余りの不気味さに圧倒されてはならない。
余りの未知・余りの神秘。それは決して理解することはできない。
その時、すべてが開示される可能性を得る。
純粋瞑想は
あらゆる生きる目的の喪失か、
あらゆる生きる目的の到着点であり、
現代人の大多数にとっては、
もっともクダラナイものであり、
神にとっては、
愉快極まることを知らない・・・
それが、どのような形象であろうと、
形象をもっていることが地獄の始まりであり、
そして、それこそが神のかけがえのないゲームなのだ。
■
君自身がたどる道は、君の心のすべてが、たどる道なんだ。
まして本当の私が神に光あれと命じたのであれば
■
居酒屋ダイジ2
なんかある?
「どうしたら、自由になれるの?」
自由になる方法はひとつだけある。たった一つだけ。それはね。今、自由になることだ。
「どうしたら、殻がとれるの?」
君が、殻がとれるっていうような余計なことを、考えなくなる時、
殻はとれるものでもないし、存在するものでもないのさ。
君を阻んでいるものは何一つないんだ。
だから、君を阻んでいるどんなものも無いって思う限り。
せいぜい君を束縛するものと付き合えばいい。
それもちょっと付き合うなんていうさ、何かその、こころのこりの付き合い方しないでほしい。
ほんとに付き合ってくれ。
君の限界や、君の束縛や、君の不条理や、君の不如意と。
そしたら、そういったものがさ、きみが描いている夢にすぎないことが分かる。
さあ、今でいいんだよ、いま、うん、いま自由でいいんだ。
そしてその自由の中をね、さらに自由を求めて生きていくっていうのが人間の戯れなの、この宇宙の戯れなんだ。
そんなカタイこと言うなよ。
今、自由なんだ。自由だからこそ君は精一杯生きることが出来るんだ。
「それは愛なの?自由ってのは?」
愛は自由。愛は愛でもないし、自由は自由でもない。
でも、言葉にしたらそうとしか言えない。
愛は自由だ。
愛はすべての生命、すべての存在物が求めてやまない、そのものだよ。
しかも、それぞれの存在物ってのは、みんな愛の中にあるんだ。
「愛情ってね、執着するじゃない。でも、自由になるとさ、何ていうか、愛情の中から飛びぬけてしまって、そういう事はないの?」
うんと、自由ってのは、例えば愛情とかなかにはさ憎悪が時におこる時もあるし、嫉妬がおこる事もある。それから執着が苦しくなる時もある。
だけど自由ってのはさ、部分的にあるんじゃないんだ。
例えば、愛情ってものや執着ってものを消した時に、自由が出てくるなんてそんなチンケなものじゃないんだ。
まず、自由があるんだ。自由があるからその中で、自由に愛情を注ぐ事ができるんだ。
それは、同時にあるんだよ。
それは、人間として生まれた計り知れない喜びを味わうことだし、
人間として生まれた計り知れない悲しみを味わう事なんだ。
さあ、もうすべては終わったんだよ。
・・・・・・そして、すべてがはじまる。
■
人間が人間のものではない人間性を自覚する途上において言葉は無効だなどと
今さらとやかく言うにはおよばぬ 人類すべてがすでに求道者としてしかありえぬ時節に入って久しい
ことばとは実体験とは別のものだと言いたい人は言えばいいし そのように生きたらいい
この現在の様々な姿をとった求道者達にとっては言葉は一輪の野の花であり
瞑想体験の一つともなるどんなことも結局はあなた次第なのだから
言葉の中には瞑想はないだろうしかし瞑想の中には言葉もある
今・ここで言葉は神になった
絶対無の戯れ――瞑想は言葉となった言葉は瞑想となった
私が地獄なのだそれにマチガイない。 宇宙が地獄なのだそれに間ちがいない。
私は宇宙のトラワレビトで 頼るものなぞ何一つとしてない。
きみは君自身をおそれてはならない
つぼみへと成熟する時君は不可思議な喜びに包まれている。
つぼみが破裂して花開く時、君は君を失う言語を絶した恐怖と法悦にいるだろう。
やがて、君自身という花が散る時が来る透明なやすらぎがすべてに満ち渡っている
そして何もかもが忘越された刹那たった一つの果実が結ばれていた
君は君ということのない君自身だったのだ。
あなたは、満足を求めているのではない。
絶対の満足そのものの中に、消え果たいのだ。
だが、それは、あなたには断じて出来ないことになっている。
とらわれる必要ないんだみんな一繋がりなんだから。
■
本ものの瞑想修行に本格的に全生涯をかけてとりくむには
正しい師、正しいグルの指示に全面的に従う用意が必要である。
なにが正しい師の基準か?
基準はない、ただ、あなたの完全に成熟したエゴが、直感によって正しい師を見分けることが出来るのみである。
一つの植物が発芽しそして花が開き種子となるように地球にも、人間にも、花開く時がある。
一輪の野の花が、現代文明の実用的観点からは黙殺されるように、
花開いた人間、すなわち覚者も、実用性の上からは、何の意味も持たない。
この無用性こそが実用性の基本であることに目覚めぬ限り、現代商工業都市文明は、
花開くことなく西暦二千年前後に崩壊するであろう。
一輪の野の花が、他の何者に対しても自分から影響力を行使しないように、
覚者は、決して他者に無理強いしない。
あなたが、エデンの園から追放されたのは、神の意志ではあるが、
東洋的重農文明を選ばずに、西洋工業都市文明を選んだのは、あなたの意志である。
それと同様に、管理下と堕落を選ぶか、霊的進化を選ぶかは、神の意志ではなく、
あなたがた一人一人の意志と努力にかかっている。
文明終末期において、もろもろの悪をなさずもろもろの善をなす人は、正真正銘の救世主である。
■
もはや、すべての苦しみと悲しみは過ぎ去った。
今と同じように21世紀もまったく新しい楽園となるだろう。
疑いの余地なく・・・
福生の飲み屋街は真夜中を迎え
それゆえ
永遠の光は輝き続けている。
あなたの愛がすべてであるように
21世紀の光もまた
あなたにおいて花開き続ける。
この大いなる死のなつかしさにおいて・・・
21世紀とあらゆる時代に限りない感謝をこめて
DANTES DAIJI
――師ダンテス・ダイジの意志に基づき、
その大悲大慈がより正しく
伝わらんことを祈りつつ
■
禅でよく言われる、
自我の死、大死一番とは何をさしているのだろうか?
もちろん、自我の死、あるいは、
クンダリニー・ヨーガにおける、肉体上の死と復活が、
善悪を超えた
まったく新しい善悪という自由を実現することは、真実である。
自我の死とは、自我の知覚する宇宙の死であり、一切万象の死であり、一切万象それ自身の目覚めである。
君は、心を捨て身を捨て魂を捨てて、
ただただ一つの真実を発見せねばならない。なぜと問うなかれ。
これは、七重の至福の世界
これは十種類の
まったく違った無限次元
これは
神としての私自身の照応
これは
私自身の久遠に続く最初にして
最後の夢
■
真理に至る道などない。
それが真理の真理たる所以である。
部屋の片すみに坐って
朝から晩まで、
真理について思索していたら、
真理に目覚めることもある。
そこが又
真理の面白いところである。
すべては、神の夢の戯れであり
すべては、神の真実それ自身である。
肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コザール体が、死に果てれば、
アートマンは、ブラフマンに直結する。
死とは神である。
神とは七つ、もしくは十の無限次元を持つ全体者それ自身のことである。
創造の光とは、この全体者の中心次元のことである。
■
およそ、死んだら霊界があるとか、死んだら魂が転生するとか、
そんな事は、人間の観念の世界の事なんだ。
じやあ、仮に霊界があってさ転生したとする。でも相変わらず、それは続くのさ。
君達は。 たとえ極楽に行っても地獄に行っても同じように喜怒哀楽がある。
そう 、君達はいつも何かを追いかけている。 いつも何かを追いかけている。 いつも何かの依り処を探している。
それはいろいろなもの---。
映画を見たり、本を読んだり、それからいろいろな事を考える。音楽を聞く、でもいい。
そうする事は君達が、何かを追っかけざるを得ないからなんだ。
君達は、一生懸命、探している。
本当の歓びを、本当の満足を、---
そうやって、次から次へと、どこまでも、どこまでもやっている。
そうして、そういう堂々めぐりが、一向に、気にならないのだったら、それを続ければいい。
でも、少なくとも、君達は、もう、そんな堂々めぐりなんか、ご免だっていう事なんだ。
何か確かなもの、 何か本当なもの、
そうやって、いろいろな事をやる。
依り処を探しているんだ。
頼れるもの、
本当に好きなもの---
たとえば
一つの仕事をやっているとする。 その仕事をやっている時はいい。
でも、その仕事が終わったら?
元の空虚な君なんだ。
或は恋愛、 或は結婚
本当の最愛の妻、愛人、
みんな、とてもすてきだ。
その時は、どんな防御もいらない。
それでも、それに頼る事に、それを依り処とする事に君達はいつも不安を感じている。
心の底で---、
■
いつ分かれる。
いつ裏切られる。
本当に確かなこと。それは一体何だ。
或いは、ドラッグでハイになる。そうハイになった時は確かにいい。
おお!ハイだ
それも一つの拠り処。はかない拠り処。それがすぎたら元のもくあみだ。
一体、永続するものがあるのか?本当に確かなものがあるのか?
完全な満足があるのか?絶対の幸福があるのか?
或いは冥想でもいい。冥想をやっている。
この中の人に、悟りらしきものを開いたものがいる。
その時は、とても素敵だ。本当に解放された気分になる。でも、それも、いつかは消える。
思い出になってしまう。
いつのまにか君たちは、そういう感覚体験を、頼っていたんだ。
あらゆる感覚体験、それはみんな、頭の中の観念にすぎない。
そんな、観念によって、何とか、自分をハッピーに、満足するようにしよう、としている。
追っかけているんだ 、追っかけられているんだ
空虚に。
だったらどうする?
どんな刺激もなくなったら。
どんな拠り処もなくなったら。
君たちは、友達に会える。酒も飲める。彼女と出会える。冥想もできる。
映画も、音楽も、本を読むことも、文章を書くこともできる。社会人として立派に生きることも・・・・。
で、それで、それが本当に確かか?それが君をどうかしてくれるのか?
くり返しだろう。くり返す。そう、人生とは、くり返しさ。
幸福や、不幸がいろいろと混って続いていくだけさ。
そんな風に考えられる人があったら、それでいいじゃないか。どうぞ、続けてください。それを。
本当に、そんな堂々めぐりが、どうしようもなく嫌になるまで、続けてください。
あなたは、まだその時期じゃないんだ。
■
さあ、本当に絶対なものが、どこかにあるのか?人間が救われるっていうことがあるのであろうか?
救われた気分になる事はあるのだろう。でもそれは気分だ。常に変わっている。
だから言ってるじやないか。君達は髪の毛一本、白くも黒くもすることはできない、と。誰かできる人いるかい?
さあ、当たり前に見よう、当たり前に、...当たり前に見るんだ。
何か人間に決着つくような事があるか?
死ぬんだぜ!---君達は!皆死ぬんだ!
今日、君達が素敵だ、と思ったもの、それも幾日か、たったら、もう素敵だ!、って言えないんだぜ。
それを無理して素敵だ!、素敵だ!ってやったって、むなしいことだ。
じゃあ、どうする。
君達が、此処にいるっていうことは、
本当に本当に本当に、ハッピーに生きたいんだろう?
そんな事考えない、って心の底から言えるんだったら、もう俺は必要ない。
だけど、何かあるんじゃないか、何かあるんじゃないか、と君達がこうして集まってきている。
お互いの顔を見ることができる。或いは社会の中に属する。
うん・・・・それは、とても安心だ!でも、一人っきりになったら?・・・
本当に君達を助けてくれるだろうか?君達は、今、砂漠のど真中にいる。
いつでもいるんだ。これは修飾語でなく事実なんだ。
君達が、どこかへ行って、一人っきりになる。その時の、むなしさとか、不安とか、堂々めぐりとか。
そういうものを、一体、誰がかわってくれる?
そして、更には一人っきりの君達っていう、その君、その君自身でさえ、しょっ中、動き回っている。
やれ、幸福だ。やれ、快楽だ。やれ、苦痛だ。やれ、出会った。やれ、離れた。
やれ、年老いた。やれ、病気になった。やれ、死んだ。----
みんな観念だ。君達の頭がそれを作り出している。さあ、どうしたらいい。一体、どうしたらいいんだ。
今、此処では、いろいろな人達がいる。と君達は信じ込んでいる。そう頭の中で。
だから、私がしゃべっている言葉が、とてもゆっくりしか君達の中には入っていかない。
でも、一人っきりになったら、その事は、どうしようもない事実なんだ。
そして、一人っきりで、その一人がいればまだいい。でもその自分さえ、どうにもしてくれない。
さあ、どうしたらいい。冥想する?お祈りする?みんな君達がやる事だ。
どうして、どこかに行きつこう、なんってするんだ。
今迄、この世に生まれた人間で、どこかに行きついた人達がいるか?
シャカは行きついた?キリストは行きついた?クリシュナは行きついた?
みんな死んだじゃないか。今、どこにいる。
君達が、本当に一人っきりに、それも、観念で一人っきりになるのでなく、一人っきりにならなければ、
当り前な人間関係も、当り前な生き方も、できやしない。あたりを、しょっ中見回している。
そう、此処にいられないんだ。いつも、此処以外の事を考えている。
何かあるんじゃないか、何か、何か、と頑張っているんだ。
観念というのはいつでも此処にない。観念が、死と恐れと不安を作り出したのだ。
さあ!よーく見よう!人間の当り前の姿を、
神通力?----------麻雀だ!映画だ!神通力なんて。
それでどうした?神通力を得てどうした?
ハイになった。 ビジョンを見た。———-それで? 社会的に成功した———-それで?
まだ充分に時期の来ていない人にとってそれは魅力だ。
神通力も、社会的成功も、恋人との愛の語らいも。
でも、それを本当にいやというほど、やってみたらいい。そして、この中には いやというほどやった人もいる。
そうしたらその正体がわかる。 それが堂々めぐりの一つだっていう事が。
君は死ぬ 君は死ぬ 君は死ぬ 君は死ぬ
そして、此処にでてくる。
君が生まれる前の君の姿ってどんなもの。君の両親が生まれる前の君自身ってどんなもの?
それは、とっても恐ろしい事だ。
此処にいるっていう事は、理屈抜きで安らぐっていう事は、条件抜きで安らぐっていう事は、
本当はそのあいだの距離っていうのはとても短いんだ。
うす紙一枚ほど短い。———-誰にとっても。
ところがそのあいだにいろいろなものがあると思っている。
やれ、冥想のテクニックだやれ、修行だ———-
でも、本当はものすごく単純さ。条件抜きで安らげるんだよ。
人間がどうなるのか、だって?ものすごく当たり前の事さ。誰でも気づく。
気づかない人はいないんじゃないか。
ただ、それを観念で処理するか、それとも、そのまま続けるか。そのちがいにすぎない。
シャカが青年だった頃、俺は死にたくないって頑張るんだ。
そうすると父である王が、死ぬなんていうこのは、当たり前の事じゃないか、というんだ。
ところがシャカの方は納得できない。それだけのちがい———-
さあ!此処にいよう!
いいんだ!もう、いいんだよ!
よくないって頑張るのは、君の頭だけなんだ。
もう、いいんだ。
■
他人の事や外況に惑わされないことだ。それはいろいろなものがある。
悟り、ビジョン、霊界、高次元世界、でも、誰が決めるんだ。そんな事。
いいか、一回きりのものなんだぞ!誰が、シャカが聖者で、君が聖者でない、なんて決めたんだ。
どこに根拠がある。本に書かれている事が、やれ、光を見た!やれ、背骨がバイブレートした。やれ、ハイになった。
それで?それで、どうしたの?
でも、もっと先の世界がある。もっと、何かある。もっと、もっと———-。
ああ、そうやって、頭で考えている。そして、それらが全て、外からやってくる。
そう、外に引っ掛けられているんだ。外のトリックに
なあ!君達!本当に、本当に、当り前になってみろよ。
頭の中に積め込んだ、いろいろな知識を抜きにして———-、頭の中の知識はいろいろな事を言うさ。
やれ、何とかの生まれ変わりだ。やれ、聖者だ。救世主の印がある。
でも、君達、一人一人っていうのは、かけがいのない一人一人なんだぜ!それは、とても恐ろしい事だ。
一回きりの君達!一回きりの今!
たとえば、とてつもないやさしさがこみ上げてくる時がある。
それはそれでいいんだ。
ところが、人間というのは、すぐそれに今までつめ込んだ観念をつけ足す。
そうすると、俺の今いる境地は、どの位のレベルだ。まだ、先がある。とか言う。
当り前の今に直面せよ!直面せよ!此処に!
一回きりなんだ!一回きり!かけがえのない一回きり。
それは———-今。
■
どんなしばるものもない。
勿論、君が愛しさを感じるものを大いに愛しめばいい。尊敬するものを尊敬しろ!
だけど、君自身は君自身だ。それ以外の何ものでもない。
冥想には、二つの方向がある。一つは、肉体的、精神的機能を最大限に発達させる方向。
それは、悟り、とかいう問題ではなく、最適なコンディションを整える働きがある。これを実用三昧という。
他のもう一つはそれとは全然ちがう。それは人間であることの絶対的な悲しみと表裏一体なものだ。
人間が本当にどうしようもないもの、という、その直視と一体のものだ。
否、もっとはっきり言えば、本当に人間がどうしようもないものだ。どうしようもないものだ、という事が、本当にわかった時さ、
ほら、その時、あれが起るんだ。みんな同じに見えてしまうんだ。何もかもが。
その時、もう意味ないんだ。自分が一定の形を保つっていることが。そして直面するんだ。
ところが問題なのは、人間が本当にどうしようもないっていうことが、嫌っていう程—
つまり、それは、最愛のものの死によって起こるかも知れない。或いは、ガンを宣告されて、起るかもしれない。
兎角—それが起こった時そう。
みんな同じに見えてしまう。
もう、男も女もなく、優劣も劣等もなく、みんな意味がなくなってしまうんだ。
そうして更には、そのように感じている自分さえ意味ないんだ。
でも、それは灰色だ。入り口にすぎない。
何故なら、まだ、そのような意味ない、と思っている自分があるから。