ここの抜粋です。
……
16名前:brown投稿日:02/03/0800:30
「正しい瞑想」はいかなることでも自己の心の中に起こることを見つめるようにしましょう。姿勢はなんでもかまいません。自己の心を恐れてはなりません。恐ろしいように見えたり、見つめれば見つめるほど苦しみが増すように思われるかもしれません。それでも恐れずにただ観察しましょう。
22名前:brown投稿日:02/03/0822:22
>20(1)さん
難しくてごめんなさい。私じゃうまく説明できないから本を紹介します。
1.マハーシ長老著「ミャンマーの瞑想」国際語学社
(方法を教えろ!というならこれほどわかりやすく方法を示したものはない。読んだら笑ってしまうかもしれないがこれはまじめな本なのです。)
2.ラマ・ミパム著「静寂と明晰」ダルマワークス
(この本の詩頌は解脱者によって書かれた。つまり,奇跡とか道徳とか偽り
の宗教ではなく,読者を悟りに導こうとする智慧と愛に満ちている。
つまり,1の方法に対してむしろ到達すべき智慧を示している。)
3.タルタントゥルク著「夢ヨーガ」ダルマワークス
(この本は,いわば瞑想に「ついて」書かれた。チベット仏教にありがちな神秘主義で煙に巻くのではなく,直接悟りを示そうとしている。)
40名前:brown投稿日:02/03/1022:15
>37さん
おっしゃる通りで、「らべりんぐ」は最初は役立つ手段となりますが、気付きの力が増してくるといちいちラベリングしなくてよいでしょう。より進むと、気付きの力すら必要なくなるでしょう。より進むと、心は自動的に気付くようになるでしょう。・・・
57名前:brown投稿日:02/03/1119:28
1さん、心から満足したことありますか?花をみて、「本当に美しい」と思い、そこに余計な思考が邪魔しなかったことはありますか?見ているときに見ていることそのもの以外に何もなく、疑いがなかったことがありますか?罪の意識が心の中に全くなくなったことはありますか?
76名前:brown投稿日:02/03/1201:48
>1さん
気分ですね?結局ね、体験そのものが全て(つまりその「気分」)を語っているその境地にとどまり続けるということ。寝ても醒めても。「別にそんな気分じゃなかったよ」と言うことの全くない完璧な癒し。やさしく絶妙で、温かく、与えるもののない愛に包まれる。何物をも望まない、生きているだけで幸せな、これまで「望まないこと」を遠ざけてきた「なにかまだ他にある」と言う感覚が失われたところ。不安な気分の失われた静寂。いつも何かかすんでいた見ることそのものの世界。新鮮で、鮮やかに見えるその花々は、初めてみるもの。「ああ、こうなっていたのか」と驚き、「こういう仕掛けだから今までわからなかったわけだ」と大笑いし、この世のありとあらゆる喜びの中で最大の、この世のありとあらゆる楽の中で最も安楽な、この世のありとあらゆる認識の中で最も妙なる真実が顕現する。それはあらゆる経験の中で最勝の経験なのである。
80名前:774投稿日:02/03/1202:40
瞑想をしていろいろ体験すると、これが本物だ、この方法が正しいなどと思い込むものだ。
それは瞑想や霊的成長においてはまだ若葉マークでしかないんだよね。テクニックや体験が瞑想の本質ではないということに気が付いてくると若葉マークが取れる。
自分のいるところに満足してちゃ進歩はありませんよ。御飯やみそ汁を食べるように瞑想しなさい。むしろそのように瞑想すべき。いつまでも瞑想をサムシングスペシャルにしてはいけない。
99名前:brown投稿日:02/03/1221:26
>1さん
幸いなことに、私の解脱は本当です。騙されてはいけない。この境地は実在する。それを私は自身で実証したのだ。解脱には比較がない。なぜなら、この平和で、清らかな静寂の状態の中では、心は「私の疑問」に口をはさまれることなく、心自らが勝手に悟り続けているのであるから。それが心の本性なのです。この体験のただ中にある「私」すら、それに疑問をはさめないのです。というのは、その疑問を心が、私の許可なく、勝手に悟ってしまうからです。いかなる欲望も、排除の念も、汚れた思考も、傲慢さも、そこにありながら、心が自動的にその場で解決してしまいます。それ故、私は迷うおうと「努力」してももはや迷うことはできなくなってしまったのです。
102名前:brown投稿日:02/03/1221:40
この境地は、単に、私が自己を中心に世界を組み立てるのを止めたから生じたのです。ただ、計らいを完全に滅すれば、そこに現れてきます。あなたの全存在を通じて、それは体験されるのです。一度体験されるとそれはあなたのものになるでしょう。しかし、実際に体験されるまでは、検討違いの解釈しかできないでしょう。解脱は「全か無か」で中間は存在しないのです。というのは、それは一つの明確な境地だからです。それを悟れば、全てを理解し、悟らなければ何一つ、検討違いに終わります。私は自ら悟った境地を元に、「これは容易に悟れる」と説くのです。ただ、計らいを静めるだけでそれは成就するでしょう。計らいを静めずにそれを解釈し続ければ、永く本質とはかけ離れた領域を有為転変とするだけなのです。
106名前:brown投稿日:02/03/1222:01
「さらにもっと上を!」これが解脱から最も遠い存在なのです。「外から見て判断する」これが解脱から最も遠い存在です。比較が存在しないのです。もしも、比較が心に現れ、心がこれをあちらの領域でただ静かに吹き消すことがなければ、彼は、心をかき乱すか、こちらが本当の解脱だと思うか、これは偽物だと思うかしなくてはならなくなってしまうでしょう。しかし、実際にはそのような矛盾した伺う心が、心全体の調和の中に何食わぬ顔で溶けいっていくことを観察することしか起こりはしないのです。
110名前:brown投稿日:02/03/1222:17
さて、>kさん「瞑想」実践者に足りないことは何でしょう。実は私はヴィパシュヤナーを、解脱に至る道において例のホームページに掲げたようには実践しなかったのです。ただ、自己の心の中に起こる事柄を、恐れることなく勇敢に見ただけなのです。実際、そこには恐るべき絶望、狂気が眠っています。孤独で、いやらしく、頑固で、自分だけが偉いと思い、そうでなくてはならないと思う。私は幾晩も一人で泣き崩れました。自己の罪深さに恐れをなし、泣きました。どうにもならない自己の無力さにただ怒り狂いました。このように自己の心そのものを対象にしてとりくまなければそれはあらわれてくる機会すらうかがえないのです。さもなければ、自分が瞑想しているのではなく、空想が瞑想していることになってしまうからです。この抜き去りがたい障害は、取り除くのに数ヶ月かかります。しかし、2ヶ月間、自己に取り組めば、本当にその本性は向こう側から顔を見せにやってくるのです。
118名前:brown投稿日:02/03/1223:31
さあ、どんどん書くぞ。
>115さん
>私は解脱してないのでよく分かりませんが
そう、あなたは何もわかっていない。わからないことがわかっていないからそのような迷妄に陥ったのです。空に対する執着は当人を絶対に目的地に到達させない障壁を作っています。自分自身何も知らないくせに、人のことを「上だ、下だ」といってしまうのです。あなたというかけがえのない存在が、目的に達すればそのような迷いがなくなってしまうのです。要するにあなたは自ら努力することなく、全く欠陥のある思考しかできないために、「目的に対する執着も執着である」という迷いにとどまり続けるのです。
130名前:brown投稿日:02/03/1301:03
>1さん,kさん
私だけが究極の存在を悟ったのではない。古くから、まれに悟られてきたのである。日本語の文献の中にも、私が例を示したように、この明確な存在にたどり着いたか、たどり着いた者の言葉をそのまま引用したものがあるのである。そして、全てを自己の狭い観点の中に閉じ込めてしまう解釈を全て捨て去り、ただ、他でもない自己を観察することにより、あなたが自己に負けることさえなければ、心の本性がはっきりと知られるのである。心の本性が経験するものとは、一つ一つの日常の経験の、例えようのない新鮮な美しさなのである。そしてその心の本性を妨げてきたものとは、ばかばかしい虚構の驚くべきトリックだったのである。しかしながらその「計らい」がもたらすトリックは、常にそこに隣り合わせているあなたの心の本性を惜しげもなく破壊し続けているのである。その破壊を単にやめれば、しばらくすれば心は自動的に自ら悟るのである。なぜなら、心には初めから我などなかったからなのである。
135名前:brown投稿日:02/03/1301:16
>123さん
私には師はいない。教えもない。修行も特別なものはなにもない。私には「解脱」という観念も、もともとなかったのである。ただ、自らの必要性において、恐れず自己観察を行ったのである。もし、修行というものがあったとしたら、それは自己観察を行っただけである。「・・・今のような発言をしているんだね」については、修行をしたことに基づいて発言するのではなく、解脱したことに基づいて発言するのである。覚者は完全な理解力をもって必要なことを説くのである。
222名前:brown投稿日:02/03/1600:39
>kさん
いつもお世話になります。私はサラリーマンでして、受託研究などやらせて頂いております。後は瞑想の目的性ですね。私には具体的ではないのですが、どうしても引っかかるものがありました。生きていることに。何か常に満たされない、罪の意識がありました。はっきりとはしませんが常にそのようなモヤにつきまとわれている感覚があったのです。今はそれを明晰に表現できますが、以前はそのようなあいまいな感覚で、しかも比較的強い、つまり日常の他の意識にともすれば打ち勝ってしまうようなものだったのです。直観的にこれを解決するものが探求すべき真理であるとみなしていましたが、私にとってはそれが唯一の目的であったし、あるべきなのです。そしてここに瞑想という手段があり、これが何か世界の真相を明らめるものであるとするなら、瞑想の目的は、この問題解決の手段に他ならなかったのです。したがいまして、私にはもともと目的に対する迷いはなかったのです。そのため、「目的が必要でしょうか?」と問い掛けられますと、高いところに登った後、はしごをはずされたようなもので、ただ困ってしまうと申し上げるより他ないのであります。
481名前:brown投稿日:02/03/2900:25
>451,473さん
おもしろそうですね。
>解脱者brownさんと覚者451さんを戦わせてみたい。
解脱や悟りを勝手に争いのねたにしないで欲しいな。私はただ自分に必要な問題を解決しただけ。病気を治したり、経営課題を解決したり、社会問題を構造改革したりするのと同じで、人生の問題を解決したもの。自分の問題がすっぱり解決したことは本当だから人に認めてもらう必要もないし、そうなるように聖人的な言動をとるつもりもない。関係ないからね、そんなことと。
538名前:brown投稿日:02/03/3100:22
>瞑想とは、この幻の世界である五感が捉える世界を断ち切ることにより
実際にはこの逆だけどな。五感が捉える世界から切り離された、君のような妄想を断ち切るんだよ。何かを付け加えることによって何かを成し遂げることが出来るというような傲慢な思考、感情から解き放たれた五感に直に触れるとき、平和な三昧の中でくつろぐ。
>瞑想を実践して、初めて悟ることができるのです
これは正しい。しかし、実践することを人に薦めることと実践することは違っているために、誤って単に妄想を膨らませてしまったのです。
622名前:brown投稿日:02/03/3122:37
あなたはいつか「瞑想とは何か?」という質問をなさったかと思います。それはあなたご自身にお尋ねになるのがよいでしょう。人に聞いてはなりません。というのはそれは雑音に過ぎないから。生まれたときからあなたはそれを知っているし、あなた自身の心の中に秘められたそれ以外に知るべき何ものもありません。しかし、心をあれこれと弄くるのはやめましょう。妄想世界に入り込んでしまいます。ただ静かに観察するようにしましょう。五感以外の電波を受け取るのもやめましょう。霊的なものは一切存在しません。超能力もありません。転生もありません。一切妄想です。妄想を離れて五感があります。その清らかな現れはこの世の貴重なもののすべてです。
707名前:brown投稿日:02/04/0123:52
つまり究極的にいえば、瞑想の意味は瞑想を実践することによってしか悟ることはできません。また瞑想について書き記されているあらゆる経典の本来の意味は瞑想を実践して、初めて悟ることができるのです。そういう意味では、古代からのあらゆる宗教が説く本来の意味を悟るための秘密の鍵ともいえるでしょう。
瞑想することによって真の瞑想の意味を悟りなさい瞑想することによって世界の宗教が説く共通の真理を理解しなさい
804名前:brown投稿日:02/04/0700:48
(今日もお休みだから長くなるよ。)愚かなものは、例え三昧の究極の自由を得たとしても、自らを新しい縄で縛ってしまう。自分が涅槃を経験したことを他人に認めて欲しいとか、それを他人が経験したものより上位と考えたいとか想っては、涅槃に対する態度が上だ、下だとぬかす。自分の体験を正当化しなければならないから、おまえのは魔境だという。それは新たなとらわれだという。それはより低い境地、低い認識、動物霊の顕れで、一方、自分のは高い境地、高い認識、高い態度、解脱後の正しい態度、天上界のあり方だという。迷妄に陥ったものは、たとえ見性したとしても、心が平安になることはない。なぜなら、心が静寂でないからである。
808名前:brown投稿日:02/04/0701:16
たとえ仏陀であろうとも、この世の法則からまぬかれることはできない。たとえ仏陀であろうとも、カルマの力の下にあるのである。もし仏陀が、(例えば言葉や論理的思考を使う事のような努力に関して)怠惰であったとすれば、仏陀は、時間が経てば、ついには怠惰さのカルマの力に影響を受けて、無明→行→識→・・・のプロセスを繰り返してしまうであろう。なぜならば、このことは定まっているからである。解脱者が怒れば(しばらくは平安な境地のままその怒りを見つめている事しか起こらないが)、怒りの心の状態が固定化・持続してしまえば、しばらく時間が経過した後、苦悩を経験するであろう。そのときダルマは覆われ、三昧の平安な認識は閉ざされて、狂ったような、凡夫と同じ精神状態に陥ってしまう。なぜなら、迷妄に陥ったからである。この迷妄なる傲慢な存在状態は、常に有情を三悪趣へと導くので、危険な状態であるといわれている。
810名前:brown投稿日:02/04/0701:37
>806,807
感情について考えてみましょう。感情は心に顕れてきます。まず、「好き」・「嫌い」の判断から始まり、連鎖的に好きなものを獲得し、嫌いなものを排除したい想いが持続します。しかし、世の中は思い通りになりません。しかし、一度感情連鎖の中に取り込まれてしまうと、その連鎖の網から抜け出すことは出来ず、感情のままになってしまいます。そうして、思い通りにならないことと、思い通りにしようとすることをやめられないことが互いに互いを強化し合って苦悩、激しい苦痛が生じるのです。この苦は非常にリアリティを持っています。実感があり、どこでもつきまといます。しかし、仏陀は、「それは虚妄である」と知ったのです。(続きます)
812名前:brown投稿日:02/04/0701:43
>806,807
「仏陀が悟ったこととは何か、ずばり言え」に対しての答えは次です。苦の実在はどのようにして虚妄なのでしょうか。固執すべき心などどこにも存在しないからです。ですから、恐れることは何もありません。なぜなら、苦を感じる心など、初めから存在しないからです。(続きます)
813名前:brown投稿日:02/04/0701:58
>806,807
心(あるいは感情)はどのように「虚妄」なのでしょうか?
三昧の平静な境地の中では、心に感情が生じてきます。また、心には「我」があります。しかし、心は我が介在をすることなしにその感情を自動的に静かに解消してしまいます。もし我が努力して感情を制御したり、滅尽したりするのであれば、感情は力をもち、それを退治しなければならない対象となってしまうでしょう。しかし、我が何の気付きも注意もすることなしに、心の方で勝手に心が感情を解決してしまいます。そのとき、感情が苦を生じせしめることはありません。なぜなら、固定も持続もなく、思い通りにならなければならないでその想いもすべて静寂にただ消え去っていくだけだからです。そのとき、感情とは清らかな喜びそのものです。全く自由です。我が悟りを獲得するというより、心が自ら悟っているのですから、実は、心の本性とは、初めから、そのように、自由で悟った歓びなのです。逆に言えば、心に実感として生じていた苦とは虚妄であったということです。(一応完結)
816名前:774投稿日:02/04/0702:08
brown君の説明は納得はできるのだが、リアリティが伝わってこないね。なぜなんだろう?と言ってみるテスト。
820名前:brown投稿日:02/04/0802:40
>815>816
そうか。危険か。リアリティがないか。あなた方には縁のないことですよ。心配しなくても私は布教する気も、誰かを救う気もありません。私は確かにこの世で解脱しましたが、何を残すこともなくただ静かに世を去っていく方針ですから、ご安心ください。ちゃんと仕事もしているし、家も買ったし、宗教団体をつくって金儲けをする必要もないしね。映画だからといって何かを捨てることもなく、悟りも真理も、あたかも何もなかったかのように生きていくんですね。これが。そのような悟り、想像できないでしょうが。生きているということの真理・意味を知らなければ生きていけない人というのが、この世にはいるのですよ。それを苦というのですな。それに縁のない人々もいる。あなたがたのように。それでも宗教に頼りたいことが何かあるのかい?それは単なる逃避、世迷いごとですよ。救済のため?迷惑だからやめときなさい。君が救済だと思っているだけで相手は迷惑してるよ。本当。
まあ、そうはいっても、一方で、その真理を必要とする人々がいることも私は知っている。私は彼らのためには、問われれば答えるであろう。けだし、このうずく苦しみは救いがたいからである。
830名前:774投稿日:02/04/0900:57
brownさんは解脱しているのですか。私はそれを言葉でしか知りません。解脱とは何でしょうか?あなたがあなたの真理と解脱についてここで書き込むことによってあなたは何をしようとしているのでしょうか?
831名前:774投稿日:02/04/0901:03
解脱したらそれで終わりなのでしょうか?
833名前:brown投稿日:02/04/0922:22
>774さん
では、いつものように嘲笑を買いながら、馬鹿真面目に答えていきましょう。私には、自分の体験が伝統と同じであるか、釈迦牟尼の悟りと同一であるか、ウパニシャッドの梵我一如の体験と同一であるのか、などということは知りえません。そんなことはどうでもよいのです。重要なことは、苦という真実です。それが単なる知的確信でなしに、実存的に、全人格的に、解決したのが私の体験です。苦諦とは、自我という全方位的な仕掛けがもたらす認識や生き方、感じ方、考え方の限界であり、また、この世が思い通りにならないことであり、拠り所がなく何の確かな拠り所もないことです。また、どんなにうれしいことでも、楽しいことでも、その瞬間にもそれを認識している我と、別の思考を意識している意識があり、その別異の意識がよい体験を反省したり、罪の意識をもったり、もっとよい体験をと思ったりしてしまう。そのために、快楽を知覚する経験は散漫なものとなり、満足できないものです。生まれてからこのように一度も満足することがないから、何か生きていることが不確かな、「何のために生きているのだ?」と問いたくなるのです。これが、人生の意味を問う疑問が発生する仕組みです。ところが、その仕掛けは解消することができるのです。すぱっと。つまり、人生の意味をはっきり理解できるのです。
834名前:brown投稿日:02/04/0922:36
苦の真実の解決とは、人が、何かを自分の思い通りにしようとすることをやめさえすれば、ただそれだけで、心は透き通るように澄み切り、ある経験をしている間に第二の意識が生じてくるような散漫な我は消え去り、現在の状態に完全に満足しており、はっきりとした意識と感覚が現出するという事実です。その事実の経験は、数週間・数ヶ月単位で、寝ても醒めても持続します。つまり、あらゆる動作をしている間にも明確な体験は顕れ続けます。その明確な分別意識により理解されることは、あらゆる実体感を持ってこれまで目の前で進行していた苦や世間の重苦しい感じ、価値観、義務感、罪悪感、人を駆り立てる欲望は、実に、単に自分が世界を自分の思うがままにしようとしていたから生じていただけで、それ以外に何の原因もないのだとはっきりと知るのです。なぜそのように知るのか。それは、作為の消滅により全ての苦が実際に完全に滅せられるからです。このようにして、今地球上で生きている全ての人々が経験している魔法の幻覚の正体は私個人の前では暴かれてしまったのです。
835名前:brown投稿日:02/04/0922:42
一度そのような認識に達すれば、この世界の真相をもはや明らめてしまったので、苦が生じることはありません。そのときに彼には次のような理解が生じます。「あらゆる苦は滅せられた。今後一切あのような苦が生じることはない。もはや探求すべき人生の課題はない。」と。
836名前:brown投稿日:02/04/0922:48
しかし、
>解脱したらそれで終わりなのでしょうか?
解脱して終わるのは苦しみとそれをもたらしていた幻覚だけです。残っているのは、この世界の驚くべき貴重な美しさ、新鮮さ、楽しいことを全身全霊で楽しみ、美しい異性を見て歓び、酒を飲んでいい気分になり、色々なことを学んで感動し、など誰でも経験している同じ事を全く異なった認識の仕方で経験することです。このようにして、解脱すれば、全てがやっと始まるのです。
837名前:774投稿日:02/04/0923:11
>brownさんへ
苦しみからの解放があなたにとっての解脱なのですね?本来の意味では確か、輪廻転生しないという意味だと思っていましたが。どうやらそういう意味で使っておられないようですね。で、あなたは苦しみから解放され、ここに書きこんでいるのは純粋な遊びであると。そうですか。それは良かったですね。あなた生きているわけですから、あなた自身に何が起ころうとも、それを「見て」いられるというわけですね。そういう俄悟りを口にする人にはたくさんあってきました。結局、悟りや解脱を口実にした自己満足ですね。そしてどのような意識状態であろうと、そこに留まり続けることは結局不可能であり、その楽園に執着するならどのような香しい楽園も牢獄に変化するでしょう。あらゆるものは過ぎ去るものであり、解脱や悟りにも執着すべきではないと私は思います。自分より下を見ることしかしない人はそれより先があることが見えませんし、認めようともしないものです。そしてそれが罠であることに気が付くのは時間がかかるかも知れません。あなたの使う言葉はすでに私が歩いてきた道です。私には幸運なことに同じところに留まる暇がありません。ありがたいことだと思います。
843名前:brown投稿日:02/04/1022:39
>774さん
なるほど。あなたはそれで生きていくべきでしょう。向上心や傲慢な心は徳目である。というのは、それは人の精神を支えるから。生きがいが与えられて人は生きるからである。もしそれを失えば、激しい苦痛を味わうであろう。それ故に、自らの信念に従って生きていくべきであります。そこから一歩でも出れば、その幸せな苦悩の英雄的精神は激流にのまれてしまう。それ故に、常に上を追い求める向上心は徳目であり、真理に縁がない人々が常に行ずべき行動指針であります。決して、それが自己満足に過ぎないなどという疑いを持たないことです。
844名前:774投稿日:02/04/1023:56
>brownさん
自己満足というのは本当にやっかいなのです。私は信念をもっていませんが、「信」はあります。この違いは微妙なようで大きな差です。あなたのお話は観念の部分がまだ多いようですね。苦しいのは嫌ですか?私は苦いのも好きな方ですが。
多くの人が瞑想中の体験によって、「悟りを得た」とか「解脱した」、「自分は仏陀の生まれ変わりだ。この世で使命がある」等々と錯覚してしまいます。逆に言えばどれだけ私たちが暗いところにいるかということの証明なのですが。禅などでは「仏に会ったら仏を殺せ」などと言うのもこういうことがあるからです。弟子が本当に「悟り」を得たかどうか、師は様々なことを試みることもあります。
それから苦と、それを越えたりまたは味わったりする主体と客体の関係が存在するかぎり、苦は続くのです。あなたはそこから解脱したと言いますが、苦しみに対してそれを超越することも打ひしがれることも結局は一緒です。このことを見抜くとき苦とそれにまつわる様々な観念は役目を終えます。人間は苦しみから逃げられません。お釈迦様は苦しみからの「逃げ方」を説いていません。
大事なことはこれら全体の「理解」からやってきます。そして理解はお手製の「観念」―それがどのようなものであろうと―を脇によけた時に現れる機会があります。そうした時、人は苦しみの意味を知り、どのような激流をものともしないでしょう。「信念」は苦の激流を恐れます。しかし「信」はそうではないのです。
851名前:brown投稿日:02/04/1200:20
>悟った後にも、性欲、食欲、遊ぶ欲はあったんだろか。
悟りによって性欲、食欲、(遊ぶ欲ってなんだろう?)はなくなりません。それらの欲が純粋な喜びに変わるだけだから。悟りによって思考はなくなりません。思考が正しく用いられるようになるだけだから。
859名前:brown投稿日:02/04/1222:51
それから、私には食う寝る遊ぶ死ぬ生きる考える感じるなどのない人が既に考えられません。凡夫は食う寝る遊ぶなどの行為のときに自我の干渉を受けます。覚者は食う寝る遊ぶを自我が傷つけることなく、また自我を食う寝る遊ぶが傷つけることがないということです。つまり、自我と食う寝る遊ぶの関係が十分に満足行く関係であるということです。では、関係が破壊されるとどのようになるのか。食う寝る遊ぶときに自我は反省したり、罪悪感をもったり、意味を考えたりして、食う寝る遊ぶが散漫になります。逆に、反省したり思考したりするときに、食う寝る遊ぶが邪魔をします。そこでは、行為と行為が互いに干渉し合って非常に窮屈です。そのような関係の問題が解消すれば、はっきりとした意識や極めて強靭な自由精神が得られるというものです。説明になったでしょうか。
863名前:brown投稿日:02/04/1323:55
>862
なるほど、幸福を望む点では同じだとおっしゃるわけですね。はい、同じです。では幸福を望む際の根本的な違いとは何か?それは、凡夫は幸福を望んでも不完全にしか幸福が得られない方法によるのに対し、覚者は幸福が着実に得られる方法によるのであります。つまり、何が自分にとって得なのか、損なのかがちゃんとわかるということです。なぜ覚者にはそれをきちんと分別できるのか。それは覚者が常に親しく心の本性に直面し、心のありようをはっきりと知っているからです。どのようにすれば心が喜ぶのか、どのようにすれば心が苦しむのか、その知識によって自己と他者を等しく幸福に導くことができるからです。なぜなら、それは普遍的な問題の普遍的な方法による解決であるからです。ではそのような知識、心の本性はどのようにして知られるのか。それは、直接体験によって知られます。自ら努力して悟り知ることによって得られます。知的確信や無理な観想をしたり、ゆがんだ観念を押し付けるのではなく、それを直接体験するからです。自己が心の本性のままになれば、もはや何の疑いもなく、そこに留まり続けることが出来るようになります。
892名前:brown投稿日:02/04/1600:15
>890
悟りとは、涅槃を直接体験すること、あるいは、経験の各部分の完全な調和を体験することです。それは無努力であり、自然です。また、人生のニヒリズムを解決した絶対的喜びです。覚醒とは、心におこるあらゆる事柄を不断にはっきりと観察し、注意力が持続していることです。絶え間ない気付きにより涅槃がもたらされます。無とは、涅槃には固定した形がなく、基盤も根源も獲得できるものもないことです。悟りと無とは矛盾するようですが、双方は同居しています。なぜなら、経験の各部分が調和しているからです。それらは、このように違うのです。(文脈が違っていたら違う意味になるでしょうが、このテスト問題だけによって回答すると小生の愚答はこんなところです。)
894名前:brown投稿日:02/04/1600:22
よく、悟りを求めるも執着といいますね。それは単なる怠惰なのですね。執着によって悟りに至ることを覚えておいてください。口先だけでない求道者は、シヴァちゃんのように根強く執着して、また、愛する異性に恋焦がれ、親が子を思うように、ものすごい執着心で解脱を求めるものです。それを信といいます。この信がない限り、あるいは、探求や道に対する執着、苦に対する正しい認識がない限り、成道することはないでしょう。
915名前:brown投稿日:02/04/1622:07
>902
涅槃とは、寂静のことです。つまり、あらゆる迷いの痕跡が経験の各部分の間に実在する絶対的調和の中に、痕跡を残すことなく、独りでに消え去っていくことを観察している状態をいっているのです。それは、あなたを構成する感覚と感情と思考と意図と意識以外に、何物をも付け加えることなく、また、何物をも傷つけることなく、ただそれら部分の間に自動的に成り立つ調和を観察し続けている体験です。それは、何かを成し遂げなければならないとする意図からの絶対的解放、自由であり、何物をも獲得することなしに無媒介に得られる純粋な生きる歓びであり、そのとき、あらゆる思考や感情や煩悩は途切れることなく続いていくが、それらによって傷つけられる心など、初めから存在しないことをはっきりと知るものです。
917名前:名無しさん@1周年投稿日:02/04/1622:52
brownさんは小悟を否定するか。痛いぞ。
934名前:brown投稿日:02/04/1721:50
>917さん
>brownさんは小悟を否定するか。痛いぞ。
私に「小悟」を教えてくださいますか。私は単にそれを知らないのです。
960名前:brown(牛か、)投稿日:02/04/2017:24
牛なんてあんまり意味ないんだけど、なあ。覚者の解説はこれ↓。
①最初、凡夫は愚かで、真理(牛)を求めようとも思わない。下劣で、迷っており、かつ自分が迷っていることも知らないし、想像だにしない。遊びほうけておる。
②いつか、人生の無常を感じ、真理を探し求める。真理とは何か、どこを探せばよいか、知りもしないけれど、居ても立ってもいられずに探し始める。
③様々な誤った道、知識、師、体験に出会う。また自らをごまかしたり、慢心したりする。ここには長い期間を要する。(三アソウギマハーカルパってやつ)
④探し求めているものは一体何なのか、という核心的な問いが始まる。それは、自らが実感している苦ではないか、人生に疑問を引き起こす心そのものではないかと推察し、それを乗り越えない限り、問題は解決しないことを知る。
⑤やがて、全て他を諦めて正しい修行をする。外に道を求めるのをやめ、自己に立ち向かう。自我と闘うとき、悪魔と闘う。
⑥ついに真理・涅槃に直面する。知的確信や想像力によるのではなく、直接体験により、自己を制した清らかさを知る。最勝であり、至福なる寂静は、大いなる歓喜である。
次に続く。
961名前:brown(牛か、)投稿日:02/04/2017:25
⑦涅槃の意味を、そこに具わった鋭い洞察力により観察し、いかなる迷いもなく、比較を絶した無上の完成であることを知る。つまり、もはや真理を求める必要もそれ以上の探求も起きないことを知る。全ての迷いからの大いなる自由である。
⑧日常生活を続けていくうちに、徐々に、完全な完成された認識が、日常的迷いの認識の中に陥っていく。しかし、たとえ迷いの認識の中に入り込んでも、そこに、もはやいかなる苦悩も迷いも本質的・固定的には顕れないことを経験する。
⑨その間、迷いの生存と目覚めた生存の間の差異についての深い洞察が続けられる。しかし、涅槃は、いかなる言葉にも、行為にも、感情にも清らかさにも人格にも能力にも本質的に差異を及ぼすものなのではないことを知る。それは、個人の体験領域に輝くが、外から知られるものではなく、いかなる形も持たず、いかなる固定的価値、恒常の基盤も見られないことをはっきりと知る。
⑩未だ迷いの中にある人々を見る。また、未だ迷いの中にあった自分を振り返る。そして、彼我の間にある本質的な違いとは、実は、真理を求める探究心が完成によって消滅したか、初めから探究心がないかの違いに過ぎないことを知る。ずいぶん回り道をして「そのままでよい」凡夫の迷いの状態に還ってきたものだと感慨を覚える。初めから何も求めなくてよかったんだな、と知る。
これが私が歩んだ道です。
965名前:774投稿日:02/04/2023:25
十牛図は象徴です。それ以上の意味はない。それを文字どおり辿ろうとすることが正しいかどうかも考えなければいけないと思う。
私の体験では、半分までが体得の過程、後の半分はそれをどう使えるようにするかだ。そして最後は「牛も人も忘れる」悟りなんかどーだっていいじゃんん。ってことになるが、彼の言葉、行動は悟りそのものの反映となる。
けどね。悟ったり解脱したりするだけじゃだめよ。目の前の人々、世界、の苦も同時に背負うことになるのだから。凡夫の罪は覚者が背負うんだな。子供の罪を親が背負うのと同じだなだから、広大な仕事があることに気が付くと同時にそれが新しい道に続いていくことも見るだろう。覚者が尊敬されるのは苦から解放されたためではなく、人々の苦しみをも解放するためだ。
969名前:brown投稿日:02/04/2122:39
brownがどれほど高い境地に達しているか、それは仏陀と同じものであるか、それが魔境と呼ばれるのか、尊敬されるべきものか、尊敬されるにはどうすればよいか、などということは重要ではありません。私が指し示すものというのは、「人々が心の底から求めているものは何なのか」、「人は何のために生きているのか」、「人生に何の価値があるのか」、「相対的でない絶対的な価値とは何なのか」、「生きる喜びとは何なのか」、ということに対する答えなのです。それをみなさま、ご自分で歩いて確かめて欲しいのです。私ははっきりと言います。それはここにあります。それは、何かに属することでも何かを知ることでもなく、体験そのものなのです。みなさまは、ご自分でそれを獲得できるし、そのために何も傷つけるものなどありません。仏陀の探求やキリストの探求はその後ですればよいのです。私の説く道は、正しいか正しくないかで裁判されるべきものではありません。それは、あらゆる衆生を利益することができるものなのです。色々と疑いもあるでしょうが、本当は誰しもこれを求めているのです。その答えが、はっきりとわかるのは、全ての疑いが晴れる体験そのものを成就するそのときです。
970名前:brown投稿日:02/04/2122:48
私の見解では、人は解脱して何か義務が課されたり、人から賞賛されねばならないなどということはありません。自由に生きていけばよいのです。自ら悟り知った大自由の歓びあふれるこの世界で自由に生きましょう。もし、(解脱者のくせに怠けていずに救済活動をしろなどと)非難されることが恐ろしいのであれば、黙っていればよいのです。誰からも「あなたは悟った」と認定される必要などありません。賞賛によって歓びが生じるのではないのです。何事も獲得しないままで、勝手に喜びが生じて心からあふれ出るのです。それが私がこの六年間経験してきた日常生活なのです。わたしはこの六年間それを維持するために何の努力もしてこなかったし、実は成就する前にも苦行も禅も何もしていないのです。なぜなら、それらはこの心の本然の姿を現すこととは無関係だからです。
971名前:brown投稿日:02/04/2122:57
この体験が、人々のそのままの状態で自然に顕れてくるということは絶対にありません。それにはやはり正しい努力と呼ばれるものが必要です。みなさまには、なにものか乗り越えなければならない障害が、厳然とした障害が立ちはだかっています。その障害を乗り越えていかない限り、こちらに来ることは出来ないでしょう。単に何か思考を押さえつけたり、禅をすればよいのではないのです。無思考や禅や中観の本をいくら探求しても現実のリアリティのトリックを暴くためには役立たないでしょう。道への執着なくして初めから悟っているというとき、単に怠けているだけなのです。偽り、ごまかし、放逸の中にあるときと、ただ凝り固まった哲学や無理な要求を自分に押し付けるとき、それは顕れてきません。如来は中道を悟ったからです。
973名前:brown投稿日:02/04/2123:24
そこに至るためには実は唯一の道しか用意されていないのです。私は誰にも教えられることなく(偶然)それを発見したのですから、まあ、誰でも終にはそれを探し当ててここに来るのでしょう。しかし探し当てるのは大変だと思いますよ。ただ、一旦それを探し当てればその道を歩くこと自体は容易なことではないけれど、無理なことでは全くないのです。むしろ容易なのです。まあ、数ヶ月ですね。無駄な探求をしなければそういうことになるわけです。せっかく生まれてきたこの命、人を裁いていないで、是非、本当の生きていることそのものの価値を素直に探求してください。本当に求めたとき、そこに答えがあるのですから。誰でも、実際にご自分で体験をしたとき、私の申すことがありありとわかるはずです。私はあまり頭がよくない厨房なので、表現はいろいろと間違っている部分もあるでしょうが、それは仕方のないことです。精一杯の努力がこんなもんですから。
974名前:brown投稿日:02/04/2123:32
>972
そういう質問をしてくれると私はうれしい。
しなければならないことは、一言で言えば、自己観察です。基本的にそれだけです。(詳しくは、このスレッドの上の方でも言っているでしょうし、私のページでも、眠たくなるようですが書いています。)素直になることです。自分がいかに罪深いか、いかに孤独なのか、いかにいやらしい人間なのか、瞬間瞬間にとんでもない妄想を抱いて生きていることを、他ならぬ自分がそういう人間であることをはっきりと、徹底的に見ることです。自らの心の中に生じてくることを全てはっきり認識してください。結局それだけで究極的最頂点にたどり着けます。なぜならば、その地点とは、単に心の本性だからです。自らを信じてください。しかし、同時に自我が引き起こす妨げに打ち勝ってください。どんなことがあっても恐れず、騙されず、ごまかさず、おごり高ぶらず、その壁をぶち抜いてください。
975名前:brown投稿日:02/04/2123:40
此岸にあるとき、自我はあなたの全てです。しかし、本当はそうではないのです。彼岸では、自我はあなたの一部です。でも、今は此岸にいるのですから、自我はあなたの全部なのです。だから、あなたが何を考えても思っても全て自我に汚染されています。でも、そんなことはかまわず、思ったこと、考えたことを分析してください。なぜ、そのように考えたのか、そのように考えたのはどのような原因があってでてきたのか、実は背景にどんな意図があったのか。人類の思考や他人の感情について考えてはなりません。自分自身の心、具体的に発生している心の動きの一つ一つをじっくり分析してください。そうすればするほど苦しくなってくるはずです。心がいままでいたんだことがないほどに痛んでくるはずです。そのとき正しく観察しています。
977名前:brown投稿日:02/04/2123:49
ただ、この方法を行うときには、解脱や悟りに関する観念は全て捨ててください。全ての信仰を捨ててください。仏教ももちろん捨ててください。なぜなら、そのような暇はないからです。それらは、単に自我の付け入るすきを与えるだけです。頼りになる思考とは、「誰も助けていくれるものなどない」という思考くらいのものです。何者にも属さず、頼らず、ただ自己の心を観察することだけに留まり続ける必要があります。続けていくと何かにすがりたくなるかもしれませんが、その恐れを恐れずに突き進んでください。そのように恐れず真理を探求していく心を「信」というのですから。
978名前:brown投稿日:02/04/2123:56
なぜ、この方法は心の本然にたどり着く道なのでしょうか。それは、自己観察が心を浄化し、心の浄化が自己観察の力を強め、強まった自己観察の力がさらに心を浄化し、という寸法で自然に導かれていくからです。なぜ自己観察が心を浄化するのでしょうか。それは、心の汚れなど、いくら自分に染み付いたもののように思えても、虚妄なものに過ぎないから。なぜ浄化された心は自己観察の力を強めるのでしょう。それは、澄んだ湖はより深くまで見えるからです。
979名前:brown投稿日:02/04/2200:04
その道は、最初は輝ける可能性とともに歩むでしょうが、次第に苦しみが増してくるでしょう。まあ、申し訳ありませんがそれはただ耐えてください。危険なことは何もありません。それは単に心が痛んでいるだけで何も起こりやしないですから。(免疫力が弱くなって風邪くらいはひくかもしれません。)しかし、目的に達したときにはそれらの全ての苦しみはきっぱりと完全に消えうせ、歓びだけが顕れてくるでしょう。そのとき、苦しみの世界は終わり、歓びだけの世界に超脱するのです。これまで長い間さまよってきた輪廻から本当に解放され、流転のない、全き自由の中にあなた自身が到達するでしょう。
980名前:brown投稿日:02/04/2200:08
私は、これを読まれた方で、道を求める方なのであれば、どうか、目を覆ってしまうのではなく、自らそれを体験していただきたいと心より思うのです。そのときには、私の示した、感謝や解脱、心の本性というもの、調和なるもの、それら全てのものに対する理解がはっきりと生じてくるでしょう。そしてそれが成就すれば、また、あなたの縁ある人に、それを説いてください。そして大いに自由に生きてください。
981名前:774投稿日:02/04/2200:31
>967
もちろん覚者ではないです。凡夫です。しかし凡夫でもこのスレ上ではいくらでも覚者になれるわけですね。そして当然ながら、brownさんを覚者だと思っておりません。しかし彼は自分は覚者だと思っているのですから、そっとしておきましょう。その人が覚者かどうかは2チャンネルのカキコで判断できるわけないです。
そして私にとっての覚者の定義も、皆さんのそれと実際には違います。私は神智学系なので。神智学での覚者(マスター)は仏教的なそれと似ているところはありますが、やっぱり違います。イニシエーションのプロセスと過程、覚者になってから広がる7つの道についてなど、解脱や悟りのあとにも又新たな階梯が現れるわけです。そんなことは凡夫が知ったところで何の役にも立ちませんがね。
イニシエーションについては、かなり誤解があるようですが、凡夫から覚者になるまでには普通、五つのイニシエーション(門)を通ります。詳細は神智学関係の書物を見てください。
991名前:brown投稿日:02/04/2300:52
>982
あなたが体験したのは私が開示した心の本性と全く同じものです。間違いない。その体験が人生に対する理解をどの程度与えるのかは、もともと持っていた疑問によります。一切衆生にあまねく等しい救いをもたらす手段がない、人生に絶対肯定できる価値がないことを悲しむ心のあるところにその体験をすれば、それがすばらしい理解を与えてくれるのです。つまり、正覚とは、問いの中に、疑いの中に、迷いの中にあるんですな。つまり苦ですよ。それを苦諦というのです。
◆ 実践瞑想スレッド2
4:brown:02/04/2401:18
1さん、新規開設おめでとうございます。人生の価値とは、安らぎです。安らぎは調和によってもたらされます。私を信じる者はそれを信じてください。なぜなら、私はそれを知ったから。
16:brown:02/04/2421:53
>11さん
私は若輩者で、あなたが想像するよりかなりアオイ人間です。もうすぐ30になります。社会人として学ばねばならないことは多くあります。家を持ったのもその一つで、ようやくビジネスの仕方とか、人と人のつながりとか少しわかってきたようなそんな状況です。仕事が楽しくなってきて、今日も四千万円の仕事決めてきましたよ。これからの実施が大変ですが。仕事の価値は安らぎではありませんから。そちらはいたって厳粛にやる所存であります。
現在彼女はおらず、募集中です。いい人がいましたらご紹介ください。好きなタイプはやさしく心の明るさがある人です。心の明るさですよ。性格でなくて。愛情のもたらす癒しというものは、やすらぎ、つまり人生の純粋な価値とは違いますが、これも貴重なものでしょう。それは憎しみや激しい苦痛と伴にあり、常に覚醒への手引きをしてくれます。
私は頭がよく、体験したことを理路整然と語れるのはそのためです。実際には自分では頭が悪いと思っていますが。世間的にはそういうことになっているようです。他にとりえもないし、世の中のためにはそれで何かお役に立てる仕事をしていきたいと考えています。というのは、役に立つとは、相手にとってどのような価値があるかということなので、自分がどう感じるかはどうでもよいからです。
17:brown:02/04/2422:15
人の徳とは、「素直さ」と「注意深さ」と「物事を理解する力か努力」です。また、人の偉大さとは、「忍耐か勇気ある行動」と「寛容」と「道徳的行為」です。より完成された態度とは、周囲の調和のために働くことです。私を尊敬するものはそれを尊敬してください。なぜなら、私はそのように幸せに生きているから。
29:brown:02/04/2519:20
がんばっておりますな。相変わらず。正法は覚者がいなくてもあらゆるところに偏在しています。この時代でも。もちろん正法が明らかな書籍もありますし、正法の知識体現者もいます。なので、求めれば必ず得られるでしょう。苦難や迷いは多いでしょうが。いかなる望みも探し物もそこにしかたどり着き得ませんから。でないと、せっかく生まれてきたのにもったいないですよ。刻々と削られていく命が。かけがえのない、交換不可能な、あなた自身が。あなた自身の心をただ、恐れずにはっきりと見開いていくとき、そこには他にないかけがえのない価値が眠っているんですがね。私はただそのことを思っているだけなんですがね。
30:brown:02/04/2519:21
妄想に身を投じるのは、本当にもったいないです。私はそう思います。いかなる体系にも団体にも属さないことです。自分自身で探求することです。正法は覚者がいなくてもあらゆるところに偏在しています。この時代でも。なので、求めれば必ず得られるでしょう。苦難や迷いは多いでしょうが。自分で求めて探し当ててください。
あなた自身に、かけがえのないその生命の偉大な歓び、大自由が、くっきりと立ち顕れてくるまで。すべての疑問が、その疑いと比較のない完全な調和の中に、ただ静かに、何食わぬ顔で、跡形もなく溶け去っていくまで。あなた自身が、自分が何のために生まれてきて、ここで何をしているのか、教えられるのではなく、自らはっきりと悟りきるまで。
そしてそれは可能なのです。求めたときにその人に与えられます。だって私はそうやってきたのですから。それは人類普遍の貴重な秘められた宝なのですから。
31:brown:02/04/2519:26
私はこれまで自分が悟り知ったことをただ述べてきました。そのために付け加えたことも隠したこともありません。(まだまだ語っていないことはありますがね。)これで最後になりますが、それが必要だと思う人は、ただ求めてください。それは必ず得られるのですから。実際に道を最後まで歩みきった人がここにいて、はっきりと断言するのですから。どのような断言もこの断言には叶わないでしょう。求道者ならそれがわかるはずです。勇気づけられるはずです。ただただどこまでも求めてください。それだけです。