集中内観研修に臨んでの注意

自身がこれまでにしてきた失敗経験を元に、これから集中内観研修を受けようとされている方へのアドバイス・注意点を書かせていただきます。

行く前(始まる前)の注意

多くの人にとって、  研修前半で一番の問題となるのは、「(内観に)集中できなさ、身が入らなさ、心が動いてくれなさ(反応してくれなさ)」であることでしょう。

そして、その「集中できなさ」の内実は、眠気=こん沈睡眠(こんじんすいみん)― ぼんやり、ボーッとしたり、けだるかったり、居眠りしたり― と、雑念=掉挙(じょうこ)― イライラ、ザワザワ、ムシャクシャして、静まらない、落ち着かない― のどちらかであろう、と思います。

その、あらかじめの対策として、

1.

参加二、三日前から、できる範囲で充分に心身を休め、充分に寝ておくこと。

とにかく、肉体的・精神的な疲れを取った状態で研修に臨むのが望ましいです。

特に、普段から過酷な労働条件で猛烈に仕事をしておられる方など、自分で自覚していない慢性的・潜在的な疲労が心身に溜まっている場合、研修前半三日間の眠気が、どうしようもなく酷いことが良くあります。

それを避ける為に、とにかく研修前の数日間は、どうしてもやらなければならない実務的なことの処理以外、余分なことに心も体も煩わせないで、充分に休ませる。心身の休息に専念することが大切です。

2.

研修開始前に、充分に自分の問題意識・目的意識を明確にし、意識の内圧を高めておくこと。

・自分の真の問題は何か?
・何の為に、いま、この時期に研修をするのか?
・自分は何を解決したいのか?

など、「今回、内観をする目的」を自分でハッキリさせておかないと、身の入った厳しい内観・身調べはできません。
結果、それほどの、自分で満足できるだけの効果(認識の転換)が起こりません。

繰り返し自分に問いただし、紙に書き出したり、色んなやり方で、自分の問題意識(内観する目的・必然性)を確かなものにしておくことが、とても重要です。

3.

紙に、自分のこれまでの人生の履歴・経歴を書き出した年表(ライフチャート)を作っておくこと。

「何歳の時、どこで、どういう仕事をしていて、そのころ、どういう出来事があって、そのころの知り合いには誰が居た」など。

そうすると研修始まってからが楽です。

その年表を使って調べていくことで、時間的な絞込みを曖昧にすることなく、厳密に自分の人生を振り返ることができます。

これをやっておくことは、特に強くオススメします。

行ってから(始まってから)の注意

1.

食事は、腹六分目に、控えめに取る。

人によって違いはあるでしょうが、だいたい腹六分目位が良いと思います。
次の食事の直前には、お腹がグ~グ~鳴るくらいの(生かさず殺さずの)ギリギリの量が理想的です。

これは、眠気対策としては一番効果があります。

人間の体は、食べたものを消化吸収するために、かなりのエネルギーを消費すると言われています。
つまり、必要以上食べると、頭が鈍る、疲れるのです。

そして、ほとんど体を動かすことなく、畳の上に座っている研修期間中に、本当に体が必要としている食事の量は、ごく僅かなものです。
お腹がすいて、沢山食べないと持たないような気がするのは、実際の体の要求ではなく、これまでの習慣や先入観による、頭の側の要求の場合が多いようです。

2.

その時間の調べるべき課題・テーマ―「何歳のとき」の「誰に対して」―を厳密に守ること。

これは、深く鋭い内観を願うのであれば非常に重要な注意点となります。

例えば二十歳で実家から出て、独立して暮らしていた場合、
「23歳の時の母に対する自分」と云うのは、とても調べにくいテーマです。

そのとき、実際に自分が気をとられていた、身のまわりの出来事や知り合いばかりが思い出されて、ほとんど具体的なやり取りなど無かった母親との関係など、なかなか思い出せません。

あるいは、その時期に恋愛とか失恋とか、人生上の大きな事件があった場合には、その事件や相手とのやり取りばかり思い出してしまうこととでしょう。

しかし、それでも、繰り返し、繰り返し、その時間のテーマに強制的に心を引き戻し、その時期の母親との関係を思い出す努力を、全力で続けなければなりません。

そうしないと、いつまで経っても、劇的な認識の転換をもたらすに至るような、鋭い集中力・過去に潜っていく力が養われてこないからです。

故に、不自然なことと感じられようとも、研修前半期は、まずはキチンと「時期」と「相手」を絞り込んで思い出すことのみに専念すべきです。

しかし、もし、どうしても、その時間のテーマ以外の事・人が気になって、その人とのことばかり思い出してしまい、どうにも制御できないと云う場合には、面接者にそのことを伝えてください。

そうすれば、面接者は、これまでの指導の経験から一番良いと思える判断をして、指示を与えてくれると思います。

してはならないのは、時間の大半を他の考え事に費やしていながら、それを面接者に言わないで、キチンとやってるような振りをしてしまうことです。

(補足)
上記注意点は、ヴィパッサナー瞑想で云えば、「中心対象をハッキリとさせること」に対応しています。
「いまの中心対象が何なのか」を瞬間瞬間明確に意識し、それをはっきりと守って修行していかないと、何日経っても、意識の明晰さも、対象を突き刺すような集中力も出てきません。
結果、今までにない、対象に対する新しい洞察・認識・理解も生じてきません。

内観においては、「時間軸の中での、時期という絞込み(設定)」と「対象となる相手の絞込み(設定)」と云う二重の限定(絞込み)の上で、内観三項目(してもらったこと・して返したこと・迷惑かけたこと)の視点から、過去を想起し、再体験・再構成すると云う作業を行っていきます。
この、「時期(期間)」と「対象(相手)」と「三項目」と云う三段階の絞込み (思い出し方の設定、検索条件)のなかで自己の人生を再想起・再構成するのが内観であり、それを好い加減にしては、内観としての結果は出にくくなります。

3.

「あぁ、そう言えば、こういう出来事もあったなー」と具体的な事実・エピソードを思い出せるようになったら、次に「その出来事があったとき、自分はどんな風に、それを感じていたか?」と自分に尋ねる。

「こんなことをしてもらった、こんなことをして返した、こんな迷惑をかけた」と具体的な事実を思い出せたら、次に「そのとき自分は、どういう気持ちでそれをしていたのか(受け止めていたか)?」「そのとき、その出来事を、自分はどう云う風に感じたのか?」と自分に尋ね、その気持ち・感情を想起・再体験し、確認します。

これは、内観を軌道に乗せる、とても重要なコツのようなものだと思います。

研修中の面接者に対する考え方・心持ち

・ 仏様(仏像)に対するよう。

「これは(面接者は)人間ではないんだ、仏様の代理人なんだ」と考える。
(誰も居ないお寺の本堂で)仏像の前で、自分のことを全部包み隠さず話し、懺悔しているよう。

・ 閻魔大王の前で自分のやってきたことを全部白状しているように。

自分の前に、等身大の鏡があって、自分のやってきたこと、心の中身が全部映る。
だから、嘘を言っても全部ばれてしまう、何も隠せない。そして嘘の罪が重なって余計罪が重く、大きくなる。
故に、嫌でも本当のことを洗いざらい話すしかない。

・ 相手に話すのではなく、自分の胸の石碑に、自分のしてきた悪いこと、酷いことを、この先決して忘れないよう、鉄の釘で、心に銘記し、しっかり刻み込むようなつもりで。

・ 面接者とは目を瞑って対面する。

気持ちを自分自身に向ける為。
相手は関係ない、相手を見ない。自分の胸の内だけを見る。
自分自身に対して、自分自身の真実を語る。いま、ここには、自分と、自分の良心しかない。

以上、幾つか書きましたが、これらは、どうしても面接者の人柄が好きになれない、なじめない、うまく心を開けない、本当のことを喋れない、飾ってしまう、面接自体が嘘の上塗りになってしまうことを、どうしても免れない、あるいは面接者を、浅く、つまらない人柄に感じる、そんな人間を相手に面接すること自体に抵抗感を感じてしまう、などの心理的抵抗感が自分の側に起こってしまい、内観自体がうまくいかなくなってしまった場合の対処法としても有効です。

最後に

すでに始めてしまったからには、とにかく、この十日間、内観という技法・方法論に自分のすべてを預け、投げ入れて、とにかく言われた通りにやってみよう! という気持ちで、全力で、馬鹿正直に取り組めば、何も心配は要らないものと思います。

内観は、うまく入れた場合、その最中は地獄めぐりのように、とても苦しいです。

最後まで、その自分を見ることの苦しさに耐えて調べ進めれば、終局には「懺悔と感謝と報恩」とでも表現するしかない、とても強い肯定的な感情や、明日からを生きていく積極的なエネルギーが(不思議なことに)湧いてきます。

あるいは、「湧いてくる」と云うよりも「噴き出す」と云う表現が適切なくらい強烈な感情である場合もあるかも知れません。

ですので、苦しかったり、怖くなったりしても、途中でやめてしまわないことが肝心です。

このことを、カラダの病気の治療(手術)に譬えることができます。

重病で一週間の予定で入院して大きな手術を受けるとします。

その手術の最中で、とても痛くて苦しくて、死ぬんじゃないかと思い、開腹作業の最中に「もう嫌だ、家に帰らせてくれ」と騒いでも、誰もそれは許してくれないでしょう。

内観も、また「魂の大手術」であるのですから、途中、とても痛いことも苦しいことも、これでは自分は駄目になってしまうのではないか、死んでしまうのではないか、との不安も(正しく進んでいるなら)必ず起こります。

その際に、途中で逃げ出してしまってはなりません。
開腹して閉じないまま、病根を摘出できないまま帰ることになります。

あと、内観の場合、これまでに瞑想修行の経験や宗教的・精神世界的の知識がある方の方が、かえってうまく(深く)内観に入れない、あるいは、それなりの内観をしているような誤解を、自分に、また面接者に与えるような「小奇麗な内観」をするに留まることが良くあります。

逆に、瞑想とか修行とか精神世界とか、そういうことにこれまで触れたことのない普通の人が、具体的な人生問題があって行き詰まり、苦しくて、自分の内面の悩みをどうにかしたくて、何も分からないままに言われた通りにガムシャラに十日間を過ごした方が、大きな成果をあげられるような印象を受けます。

これは結局、これまでの知識や経験を心に抱えてしまって捨てきれないで、丸裸の初心になれないで内観に臨んでいるからで、内観の場合、それらの過去の修行経験・瞑想体験・知識は、たいてい邪魔になると考えておいた方がいいと思います。
それら、自分を防衛する(防衛してきた)一切の鎧を剥ぎ取らなくては、本当の内観に入るのは難しいです。

修行経験や知識などのある方は、そのことには特に注意しておいた方が良いだろうと思います。


面接指導の受け方

これは以前に、ヴィパッサナー瞑想の合宿研修に臨む友人に送った文章です。
内観面接と重なる部分もあるように思い、紹介してみます。

1.

一つ一つの指導を、しっかりと、充分に、最後まで聞くこと。
そうして、言われた通りに実行すること。

これは、特に強調したいです。
ある意味、これが総てです。

ひとの話しをきちんと聞かず、自分流に理解し、自分流に実践してしまう。
そうしておいて、うまくいかずに、悩む。
それが私たちの、いつものパターンです。

しかし、今度こそ、そこは抜け出さなくてはなりません。

そのためにも、まず、「一つ一つの細かなテクニックを、とにかく正確に理解し、正確に実践しよう」という心構え(決意)が必要です。

2.

指導を受けていて、分からなかったことは、一つ一つ確実に聞き直し、問いただすこと。
わからないまま黙っていないこと。分かったふりをしないこと。

3.

指導の内容に、どうしても受け容れられない部分がある場合は、そのことをきちんと伝えること。
具体的に、「ここのところは、私には受け容れられません。それは違うと思います。それをやろうとは思えません」などと。
「従えない」と感じる指導に対しては黙っていないこと。
言わないかぎり通じはしません。
通じないのを、相手のせい、相性のせいにしないこと。
あるいは、「所詮、ひとには通じないものだ」で済ましてしまわないこと。


この、三つの注意点に共通して言えることは、つまり「嘘をつかない」ということです。

社交辞令としての嘘も、カッコつけとしての嘘も、言いにくいが故の嘘も。
あらゆる意味で、嘘をつかないということです。

言われたことができていないのに、できてる振りをしたり、
実際にはよく分からないのに、分かってる振りをしたり、
ほんとうはやっていないのに、やってる振りをしたり…
それをして、あとで困るのは自分です。

怖れ、プライド、自尊心、自分をよく見せたいという思い―
「こんなこと聞いたら、たいしたことないと思われるんじゃないか」「今更これは聞けないよなー」などという思い―
が優位に立っているかぎり、正直に話し、素直に聞き、尋ねるということはできません。

自分のなかの、恥ずかしい部分や、みっともない感情、語りたくない胸の傷、それらすべてをぶちまけて、という覚悟がないかぎり、良い指導は貰えません。

「恥をさらす」ということが、できればできるだけ、私は私の問題から解放されていく。
それは、さらす相手の側の問題ではないのです。


もう一度、確認します。

1.

一つ一つの指導を、充分に、完全に、最後まで聞き果し、理解すること。

2.

そうして、とにかく、言われた通りに、自分で勝手にアレンジしないで、馬鹿正直に、やってみること。

3.

その過程で出てきた、少しでも曖昧に感じる点は、かならず問いただし、確認すること。
「このやり方で、あっていますか?このやり方で、いいんですか?」と。

4.

そして、それをやってみた結果、「自分は、いま、どんな内面的状態にあるか」を、正直に、正確に、かざることなく話すこと。

この四つを徹底して実行すること。

とにかく、正確に、正直に、自分の現状(今ある状態)を話すこと。

自分に対しても、相手に対しても、真実を語ること。

自分を飾ること、キレイに包み隠すことをしないで。

それが何処まで深くできるかが、ある意味、研修の全てかも知れません。

最善の結果の出ることを祈っております。