内観研修を受けてみようかと考えたとき、あるいは実際に取り組んでみたときに感じる疑問に対して、現時点での私の理解を書いてみます。
そして、この私なりの理解と回答を読んでみて、幾らかでも「なるほど…」と感じるところがあったなら、実際に内観に取り組んでみて、そして自身で確認を取ってみていただきたいです。
たいていの疑問は、実践のなかで答えが得られます。
「何ものも、あらかじめ信じる必要はないし、疑うことを許されない、いかなる前提もない」と云うのが、この自己観察と理解の道の美しい点であると思います。
内観法への疑問 1
内観法は、表向き「あるがままの事実を客観的に見る」と言いながら、実のところ、あらかじめ決まっている「感謝」と「懺悔」、「恩」と「愛」、「申し訳なさ、かたじけなさ、有り難さ」などの、内観法が正解とする、日本的・倫理的・宗教的価値体系に基づいた結論に操作的に誘導するだけの、方向づけられ、あらかじめ答えの決まっている実践―ソフトな洗脳―の如きものに過ぎないのではないのか?
それは、確かに、この世で楽に生きていくためには役立つ、有効な条件づけ(洗脳)であるかも知れないが、「あるがままの事実・客観的な現実」を観る作業とは言えないのではないのか?
この疑問自体は、私自身、内観に取り組む前にも、また実際に取り組んでいる最中にも感じていたもので、感じて然るべき、真っ当な疑問だと思います。
ここでは、問題を、「内観三項目という、内観の構造自体の持つ問題性」と、「面接者-研修者の相互関係の産み出す問題性」とに分けて考えていきます。
内観三項目という構造自体の持つ問題性について
これは、内観の本体である、三項目の設問自体に対する疑いです。
内観とは、一言で言うと、
自分と関わりの深い他者に対して、自分がどうであったかを、
1. してもらったこと
2. して返したこと
3. 迷惑かけたこと
の三つの観点から(三つの質問を使って)調べていく、内面的な作業です。
この三つの設問こそが、内観法の本体であると言えますが、問題は、その根幹にある三項目の設問自体に、「あるがままの事実を客観的に見ること」を阻害する、方向づけ、価値判断があるのではないか、と云う点にあります。
私は、その疑いには、「その通りでしょう」と答えます。
内観三項目の設問自体は、客観的なものではないし、それを使った自分の過去の洗い出しには、明らかな偏りが含まれると思います。
では、なぜ、それが分かった上で、その装置を使うのかと言えば、私たちの物事の見方・見え方・感じ方には、強烈な、生き物としての快感原則による認識の歪みと、知覚の視点依存性による認識の歪み、心理的な自己イメージ防衛のための自己正当化、認識の歪みが被さっており、それを強制的に解除して、エゴのバイアスの掛かっていない「あるがままの客観的な認識」を経験するためには、逆向きに同じく強烈な自己否定(自己の認識が間違っており、他者の認識が合っていた)の経験を与えることが有効であり、そのことを通して、やっと「客観的に見ること・感じること」が可能となる、と云う実践上の認識から使用されます。
たとえば、右回りに、強烈に歪んでいるバネがあったとします。
それをまっすぐに戻そうとしたら、ただ手で真っ直ぐに戻すだけでは足りず、右側の歪みの強烈さに負けないくらい、強く、強烈に、逆の左ねじりをかけなければなりません。
そうしてから、手を離すと、バネはようやく真っ直ぐに、左右の傾き・ねじれのない状態に戻ります。
その左ねじりをかける作業が、内観の基礎訓練としての三項目にあたります。
集中内観中、「内観三項目」と云う強烈な「逆の歪み」を伴った過去の出来事の眺め直し作業によって、はじめて、内観後、自由に心を動かしたとき、はじめて、自己中心的・自己イメージ防衛的な認知のゆがみを離れて、自分に関わる出来事を眺めることができます。
その「自由形の内観・内省」に至るための、「基礎訓練としての三項目」だと理解しています。
内観の本体である「三つの質問」1. (相手に)してもらったこと、2. (相手に)して返したこと、3. (相手に)迷惑かけたこと、とは違い、私たちは、これまで、1. (して欲しかったのに)してもらえなかったこと、2. (したくないのに)してあげたこと、3. (相手に)迷惑かけられたこと、嫌な気分させられたこと、を繰り返し考える習慣を身につけています。
これを、+-バランスの取れた見方に調整していくためには、ある程度の極端な見方の訓練、脳の訓練が必要です。その極端さを通り抜けて、初めて客観的に、自分に関する出来事を見ることができます。
以下、『内観法はなぜ効くか? 自己洞察の科学』 波多野二三彦からの抜粋です。
内観法の基盤となっている記憶想起法は、記憶をあるがままに再生する記憶術…ではありません。
内観技法によって内観者が作り出す記憶は、内観者の保存している古い記憶を、いわば恩・愛文脈という染料で染め上げて創作する新たな記憶です。
内観者が、古くから保存していた防衛意識に汚された記憶を破砕、一掃し、そのあとに新たに作る記憶の創造的再構成です。 p.59「記憶の再構成」という学的概念は、二十世紀半ばに至って、ようやく人類が発見した、経験科学に基づく価値ある発見です。
それまでは、記憶とは再生するものという固定観念しかなかったのです。
私たちは、人間の常として、人を恨みや憎しみの対象として捉え易い強い傾向性を持ちます。
それは、大脳の生命維持装置に太い神経線維で直結された情動回路に基づく、自己防衛の神経構造にその因があると思われます。
この、ずぶとい情動は、皮肉にも同時に各自の生命中枢とも云うべき視床下部や下垂体を襲撃します。
それによりまして、人々の抑圧や防衛機制を強化し、それが因で、ありとあらゆる心身症状を発生させます。
人間本性に起因する、この悲しむべき精神的自家中毒の因である防衛意識に他ならない情動を、自ら賢明に抑制・転換することなしには、価値ある生き方創造はできない。これが内観法基本の哲学です。 p.60
内観によって起こる「懺悔-感謝」「愛-恩」に彩られた記憶の再構成とは対照的なものとして、斎藤学さんのものと、岸田秀さんによるものを挙げておきます。
これらの内観の対極にある見方も、また、ある視点から見られた一つの真実の「物語」であり、視点を中和させるための価値を感じます。一読をお奨めします。
これらの異質に見える視点を含み込むことによって、内観的認識は更に深まります。
書籍としては、『「家族」という名の孤独』 『アダルト・チルドレンと家族―心のなかの子どもを癒す』など。
書籍としては、『唯幻論物語』『ものぐさ精神分析』『フロイドを読む』などの中から、母親との関係に触れた部分を。
よって、この問いへの答えは、「その通りである、しかし、それは戦略的・自覚的に、そのような方策をとっているのであり、その極端な設問による基礎訓練を使うことによって、速やかに、あるがままの客観的な観察に至れるのである」と云うものになります。
* ただし、もし、この三項目の設問自体が客観的で、あらゆる価値判断なしのものである、との理解を持っている指導者が居るならば、その内観は、洗脳的・抑圧的なものと成り得る可能性はある、とは感じます。
※ また、研修の実際の場面において、これらの設問が、抑圧的・誘導尋問的なものとなる多くの場合は、研修者自身が、習慣的な心のパターンとなっている「あるがままの自分」と「あるべき自分」、「現実の自分」と「理想の自分(イメージの中の自分)」とのギャップを埋めようとして(理想の自分であることを面接者と云う他者に見せようとして)、自ら、そこにハマッテいく、「真実ではない内観」「抑圧的な内観」にずれ込んでいくように思われます。
面接者と研修者の相互関係に関する問題ついて
まず、指導する側の問題から
指導者は、研修者が、「恩・愛」文脈に沿った、内観法にとって模範的な発言(懺悔)をすると、「うまくいっている」と安心します。
その、指導者の側の「不安/安心」構造の中で、過度に(先を急いで)内観的な認識に誘導し、既に自分の中にある「良い内観」「悪い内観」の基準を持って、目の前の研修者の面接内容や態度を評価し、より自分の持つ「理想的な内容・展開」に近づけようと、言葉(助言・叱責)や態度で働きかけます。
この内心の評価や働きかけが、研修者の中に時間の経過と共に自然自発的に生まれるかもしれない「自然で、作り物でない、感謝や懺悔、報恩の感情」の芽生えを邪魔してしまうことは起こり得ます。
これが結果的に、そのときは、内観がうまくいった、大きな心境の変化、気持ちの浄化があったと、面接者にも研修者本人にも錯覚させるにも関わらず、半年、一年の単位で考えた場合に、効果が後に残らず、逆に、自身の本当の感情を否定・抑圧する癖がつき、感情問題をこじらせてしまうと云う結末を招く可能性と、その現実は大いに有るでしょう。
次に、研修を受ける(研修者)の側の問題として、
人間の持つ「他者からの(また、自己自身による)自己承認欲求」は、生物的な三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)に勝るとも劣らない、心理的な自我の持つ根源的な欲求であります。
この自己承認欲求によって、自身の日常の言動の多くがかたち作られていることが、内観を進めていく中で明らかになっていきます。
そして、この同じ欲求・衝動が、内観研修(面接)の中でも働いてしまうのです。
具体的に言うと、こういうことです。
研修を受ける以前に、多くの方は、内観に関する本や情報に触れており、大まかな研修の展開や研修によって引き起こされるであろう心境の変化について知っております。
また、研修中に使われる法座の録音のテープなどの音声資料を聴くことで、「内観が上手くいったら、どうなるのか」「どのような心境の変化・認識の変換が起こるのか」をあらかじめ知ってしまいます。
これは、テストで問題用紙を与えられると同時に、模範解答が書いたプリントを分けて貰うの似ています。
そうすると、「他者に評価されたい」「出来の良い人間だと思われたい」と云うことを至上の価値として生きてきた私たちは、その「あらかじめ知った模範解答」に如何に合わすべきか、如何にして、そう成るべきか、と云うことを、懸命に(無自覚的に)始めます。
また、面接者側の、上に書いたような評価と働きかけ、誘導を研修者は敏感に察知し、これまでの人生でやってきたのと同じように、認められよう、褒められようと、自身の言動を形作ります。
それは、面接においては、無自覚的な「演技」の形で現れてきます。
内観における模範的な心の状態(懺悔、感謝など)に近づくべく、自分の心を煽り、感情を上乗せし、自分自身、その感情を真実だと思い、それに酔う心地良さも出てきますが、それは結局のところ、真実の、自然に湧いてきた感情では無く、人工的で一時的な情緒的盛り上がりに過ぎません。
(この演技性の情動経験に、本人も、また面接者も騙されることは有り得ます)
このような研修からは、その後の人生(認知・感情・行動のパターン)を変えるだけの「気づき-洞察」の深みは出てきません。
故に、半年後、一年後振り返ってみたときに、「内観は、一時的には感情が盛り上がって、自分が変わったように感じるけど、興奮が冷めてみれば、元の木阿弥」と云うことになります。
これは、研修者自身が「自身の中の真実を見、そして、真実だけを語ること」と云う、内観の原則を自覚無しに破ってしまっている事によります。
以上、「面接者の側」からと「研修者」の側から、ありがちな失敗について書いてみましたが、つまり、このような「本当でない、実の無い内観」は、たいていの場合、面接者と研修者の「合作」「共同制作」として出来上がっていると言えます。
次に、「では、そのような嘘の内観にならないためには、どうしたら良いのか?」を考えてみます。
まず、面接者の側には、「過剰に働きかけない姿勢」「研修者の内なる、気づき-洞察の力が自然に働いてくるまで待つ」と云う「信じて、待つ姿勢」、また「研修を上手くいかせたい」と云う気持ちの中に混じっている、純粋ではない部分に気づく必要があるでしょう。
そして、できる限り「評価しない」姿勢、「決め付けない」姿勢、教えるのではなく「学ぶ」姿勢、自分が連れて行くのではなく、研修者についていく姿勢、研修者が主人で、自分は、付き人である、との理解が必要でしょう。
次に、研修者の側には、気づきの研修所HPに置いてある資料、「集中内観研修に臨んでの注意」の繰り返しになりますが、
1. 「内観をする目的」「何を解決したくて、内観に臨んでいるのか」を明確にしておくこと
これがハッキリしていれば、自分が別に「模範的な内観」をしたくて来ているのではないこと、自分の問題を解決したくて来ていること、幾ら面接者に理想的な内観をしていると評価されたとしても、自分自身の内面的な問題が解決しなかったならば何の意味も無いことと云う柱がぶれることがありません。
故に、誘導的・演技的な内観に引き込まれる要因が少なくなります。
2. 「嘘をつかない」と云う点を徹底すること
特に、先ほど書いた「承認欲求からの嘘」に注意深くなること。
また、本当の懺悔や感謝の気持ちが起こっていないときは、そのことを正確に自覚し、話すこと。
たとえば、「実のところ、感謝の気持ちより、怒りの方を強く感じています」など。
そういう、飾らないで本音で話す研修者の方が、最終的に、感情面での、深い、本当の変化が起こり易いように感じます。
社交辞令としての嘘も、カッコつけとしての嘘も、言いにくいが故の嘘も。
あらゆる意味で、嘘をつかないということです。言われたことができていないのに、できてる振りをしたり、
実際にはよく分からないのに、分かってる振りをしたり、
ほんとうはやっていないのに、やってる振りをしたり…
それをして、あとで困るのは自分です。怖れ、プライド、自尊心、自分をよく見せたいという思い―
「こんなこと聞いたら、たいしたことないと思われるんじゃないか」「今更これは聞けないよなー」などという思いが優位に立っているかぎり、正直に話し、素直に聞き、尋ねるということはできません。
3. 内観の技法と、背後の世界観との切り分け・切り離し
上記2.の「嘘をつかないこと」を実践した上で、「どうしても、この面接者の世界観・価値観・指導内容には頷けない」と感じたときには、その人の世界観・価値観と、内観と云う技法を切り分けて考え、それ以上、その人の世界観・価値観について考えない、関わらない。
そうして、自分の内観のみに専念する。
自分が納得できる、自分にとって嘘のない、自分の内観を全うし、やり終えることに専念する。
※ 「面接者の世界観」と云う点について、ありえる具体例を挙げれば、内観法創始者である吉本伊信師も、その弟子筋に当たる全国の内観研修所の先生方の多くも、「輪廻、前世、来世、死後の地獄・極楽」の実在性を疑っては居られないでしょう。
故に、面接指導のなかで、それらを前提とした言葉が語られる場面に出会うことがあります。
しかし、研修者としての私たちが、その世界認識を共有できないからといって、内観の実習が不可能である訳ではありません。内観研修は、それらの背後世界論とは切り離して理解可能であるし、実践可能であると私は考えています。
私自身、三十歳のときに初めての集中内観を経験し、その後、十年が経ちました。
その間、「倫理的な方向づけ・色づけ」の問題や「技法によって誘導された気づき-洞察」の感じ(疑い)は持ったまま内観に取り組んで来ました。
しかし、いま、この十年を振り返ってみるに、
内観によって開かれた世界や他者に対する感受性や共感力、ものの見え方・感じ方・受け取り方の変化には、肯定的な意味を見出せますし、それを洗脳的なものであったとは感じていません。
非常に強力で、気づきの多い自己洞察法を学ぶ機会を持つことのできた喜びを感じております。
また、何よりも、生きていくこと、人と関わっていくことが、楽で、感謝に溢れたものになりました。
これは、「洗脳的な感謝」「思考停止的な幸福」とは異なった質を持つ、「洞察を伴った上での感謝」であり、「現状の正確な認識を伴った上での幸福」です。
そこに問題が起こるのは、エゴがそれを不純に利用するからであり、テクニック自体に罪がある訳ではありません。
ただし、そのような、エゴによる技法の変質が起こりにくくする為の、更なる実践技法上の改善工夫は為されて然るべきでしょう。