私の内観体験記 30代女性

この度は、この様な尊い時を与えて下さった霊基さんと屋久島に大変感謝しております。

私は、ここ一年ほど、自分をどうにかしたい、変わりたい、浄めたい、でもどうしていいのか分からないと云う、もぞもぞした時期で、今までは自分のことは自分が一番よく分かる、自分しか解決できないという先入観を持っておりましたが、これはもう自分ではどうしようもできないと感じていた矢先に霊基さんお会いしまして、本当に幸運でした。

また、何かの経典を教えていただくとかでは無く、自分で自分を観察して、自分がどういう人間なのか解明すると云うのが私の好みにスッパリ合いました。まったく初めての感覚でした。

はじめの3日間ほどは、自分が集中力の無い人間だということを生まれてはじめて知り(実は自分は集中力のある人間だと思っていました)、如何にいつも妄想ばかりしていて、一時たりとも一つのことに集中できないかと云うことに気がついただけでも大発見でした。
その後、私は何だ、どうしてこう頭が真っ白でバカなんだ、そうだ、私、実は他の人ほど切羽詰ってないから、だからできなくても、やらなくてもいいんだ♪ 必要ないさー♪ などと考えつつ、お腹すいたー、帰りたいーとも、チラッと頭をよぎったりしておりました。
しかし、その次の朝、自分が大泣きしたり笑ったりしているので目が覚め、ひとりで何事かしゃべったり笑ったり泣いたり、ひとしきりしておりました。

前の日の晩、幾ら小さいころの母の記憶を辿ろうとしても、写真で見たものや断片的なものがチラチラあるだけで、どうしても深く入れなかったのですが、その朝は私と兄を二人抱いている母の映像が浮かび、私は私ではなくて、母の心と一体になっていると云う感覚でした。
たったそれだけのことですが、無性に有り難くて有り難くて感謝の気持ちで一杯で、感謝の涙だけでした。
「ああ、母が私を、赤ん坊である私を抱いている! 兄も居るのに、年子である私まで!」と云う、そのことだけで。
それ以外には憶えていませんが、それだけで充分でした。
何とも言えない清々しく幸せな気分でした。
母をはじめて、ひとりの24才の若い女性として受容した瞬間でした。

人間は、どんなに賢くなって、ものが分かるようになった積もりでいても、所詮、結局のところ、同じ場所をぐるぐる回ってエサを探すネズミみたいに、自分の都合の良いようにしか考える脳を持たず、自分を上から見る視点、「ああ、ぐるぐる回っているな」と云う視点が無いのです。
この視点の転換が訪れたとき、人は間違いなく、疑いようもなく、ああ、そうだったのか、と云う気づきと幸福感を感じるのです。
この感情を伴う発見でないと、人と云うのは、幾ら人に説教されても、偉い人に何百回言われても、絶対に分からないのです。頭で理解できて分かると云うことではないからです。

母は私の物語の中では母ではありますが、他の人にとっては嫁であったり、妻であったり、姉であったりするのです。人は世の中に他の物語が存在することを忘れているのです。
極端に言えば、他人には心が存在していないと思っていると云うことです。
まさか自分がそういう風に思っていたなんて、驚きの事実でした。

従来の私の頭の中での母の位置づけは「文化的でない、おしゃれでない、常識的な、お母さん」というもので、「だから私も、そうなんだ。それは、お母さんのせいなんだ」と云う気持ちが根底にありました。
同様に、父に対しては「インテリでない、大学を出ていない、野蛮なお父さん」と感じており、それらを合わした総合的な認識としては、「いなかの古い農家の貧乏な娘―都会に出る」とでもタイトルをつけられそうな物語を信じて生きていました。
それはそれで別に悪くもないのに、そんなお話も本屋にあったら面白いだろうに。
そうだと思いながらも、世間に対しては「ピアノも弾けて頭も良くて、かわいい娘―都会に出る」と云うお話なのです。
この本のタイトルはこうこうで、主人公はこういう子なんですよ、と世間に対して遠まわしに言ったり、態度で示したり、そう思われそうな言動をとっていたわけです。

しかし、それは演技と云うもので、いくら完璧にやっても芝居は芝居なので、心ある人にはすぐ分かるし、本人も見ている人もその茶番ぶりに疲れるし、第一面白くないのです。リアルでない、本物でないからです。それどころでなく周りにも迷惑なのです。

そしてこれが一番大事なことなのですが、自分に良かれと思って演じている芝居が、実は公害的なもの、ダイオキシン的なもので、地球に悪く、もちろん自分自身を一番害しているのです。
どんなに自然食品を食べてゴミ拾いしても、芝居をしているうちは、私自身が地球にとってゴミなのです。それが今回の内観を通して分かったことです。

自分が、これほどにも他人に迷惑をかけてしまっており、周りの人に数限りない悪言動を取ってしまっており、それにも関わらず今まで生きてこられ、好きなこともさせて貰え、その上、内観までさせて貰い、感謝と云う言葉で収まるでしょうか。

なぜ人は芝居をするのか。コンプレックスがあるからです。
「劣等感」などと云うものは、「感」と付いてるだけに、もともと、この世には存在していない妄想です。自分が作り出しているものです。
「ここを隠したい」と思った瞬間に、思ったと同時に出現してくるもので、これは人にとって最大の嘘であり、他人や世界を騙し、また自分自身を最大に粗末に扱う行為であるのだと感じました。

そして、その自分を粗末に扱うクセを身につけると、当然、他人との関係も粗末に扱い、自分自身に対する嘘が他人へも向かい、自分も他人も本当には信じれなく、結局、自分を含む全ての人を、私は信頼していないのだ(信じていない、疑っている)、と云うことに気がついたのです。

~(中略)~

「嘘をつかないこと」 ― 小学校で習う一番最初のことが、何百冊の本を読んでも分からなかったなんて。

自分の作り上げた「物語」を脱いで、嘘・偽りのない素の自分であること。
日々正直な食事を取り、自分を貴重に扱い、同時に甘やかさず、自分の対する相手も同様に扱うこと。
それは、「私である」と云うことです。
そうすれば、私から発するゴミは少しは減るかも知れません。
自分を貴重なものとして扱う第一歩が、全てのものや人に対して「ありがとうございます」と頭を下げる行為と同じなのだと感じました。

とても優雅な一時を過ごさせていただきました。
食事もとても美味しく、霊基さんは、内観面接者というか、内観ガイドというか、森のホストというか、「送りびと」ならぬ「迎えびと」だな、と感じました。