知の必要性と不要性

つまり人間は、蓄積された過去のある高さから存在し始める。
これこそ人間の、唯一の宝、特権、そして印である。
そうしたなかで適切と思われるもの、保持するに値すると思われるものは、実は、その宝のほんの一部にすぎない。

重要なのは、いつも同じ間違いを犯さないことを可能にしてくれる記憶、つまり間違いについての記憶なのだ。
人間の真の宝は、間違いについての記憶、何千年もの間、一滴一滴上澄みを醸成してきた長い生の体験にある。

それゆえ、ニーチェは、超人を「最も長い記憶を持つ」存在と定義したのである。

オルテガ『大衆の反逆』岩波文庫、P53


ここから始まる実践的探求において、これまで(過去に)学んできた知識、積みあげてきた経験は、行程を進める役に立つだろうか(進展の助けとなるだろうか)?

多くの場合、それら知識や経験は、マイナスに作用すると考えておいて欲しい。

新たなるものの理解を妨げるのは、大抵、「知らない」ことではなくて「知っていること」― 知識が不足していることではなく、要らない知識(先入観)を持ってしまっていることにあり、既有の知識と経験が、触れつつある未知のできごとの理解と体験を阻害してしまうこと― 既にインストールされている認識と理解の枠組みが、新たなシステムと競合してしまうこと― にある。

つまり、知識や能力がないが故に実践が進まないのではなく、間違ったモデル(先入観)を持ち、それに無自覚なままで実践に臨むが故にうまくいかない場合が多い、ということである。

多くの場合、当人は、自分のなかに既に何かがインストールされていること、それが(常駐プログラムとして)常に/既に起動していることの自覚は無い。
故に、それを抜く(アンインストールの)作業は、多くの場合、困難で苦しいものとなる。

知らないことは幸いである。

本当に、真実に、なんの知識も経験(のストック)も持たない人の実践は、大抵、スムーズに進む。
それは、何も書かれていないまっさらの紙に地図を書き込んでいくようなものである。

一度染めた布地の色を抜くことは難しい。

知ってるが故の大きなマイナス― それを心して、実践に取り組む必要がある。


下手に色々な本を読み、情報を仕入れて心を惑わすよりも、厳選し絞り込んだ最小限の知識の理解と技法の実践に使える時間とエネルギーのすべてを注ぎ込んでいった方が、得られるものは多いし、問題解決も速い。

瞑想宗教・精神世界のウインドウショッピングを何処まで続けてみたところで、物知りの批評家になれるだけで、現実の自分の苦しみは、さほど軽減されていなかったりする。

人間が、苦しみを生み出す自らの心の仕組みそのものを変えるには、半端でない専念努力が必要となる。

その情熱を伴った実践に踏み込むためには、あれこれ目移りしている段階は速やかに通過しておきたい。

現代は、ある意味不幸な時代であり、ネットでも本でも、次々と新しい覚者、新しい技法、新しい教えが登場し、話題になり、それがスピリチュアルビジネスとして市場を持つ。

「もっとすごいグル、もっとすごい体験、もっと強烈で、もっと簡単な覚醒法」と云う、「もっともっと病」「つぎつぎループ」に巻き込まれ翻弄されて、実質的な、それこそが本当に身になる自己直面の修行が、なかなかできない。

真に私たちの助けとなる、どの技法をとっても、その中身を血肉化し、本当に自分のものとして頷くためには、相当の時間と取り組みを必要とする。

しかし私たちは実際にはそれをすることなく、常に、次の本・次の話題へと眼を移し、新しい技法・新しい覚者を探しながら情報世界のなかを泳いでゆく。

実のところ私たちは、既に必要充分な知識も技法も手にしている(持っており、知っている)。

にも関わらず、それら(既に持っている)資源を生かすことなく、いつか、どこかで「この満たされることのない心を満たしてくれる何か」に出会うことを夢見て、さまよい歩く。


一冊の人を恐れよ。一冊の本しか知らない、一冊の本しか読まない人を。

人生の途上で出会った、ただ一冊の本だけを心に抱き、その中身を真に血肉化した人を。

知るための読書と、捨てるための読書

「積み重ねるための知識/経験」と「捨てるための知識/経験」

もし、私たちが何も知らないなら(真に更地の木綿であるならば)話は単純だが、実際のところ、そうでない。

知識により経験により、その感性や判断、生理的な好悪の反応までも深く色づけられている。

手持ちの間違った地図を信じて、いま目にしている現地を否定する。
狂った水準器を使って、世界を(他者の言葉を)測り、否定する。

こんな小噺を聞いたことがある。

幼児が、生まれて初めて連れて行ってもらった動物園で、これまで愛読してきた動物図鑑を開き持ち、母親にこう叫んでいる。

「おかあさん! このキリン間違ってるよ!」

同様なことが、実践の現場では随所で起こりえる。

その、既に持ってしまっている知識(世界の見方)を自覚認識し、相対化するために、「別の」「外の」知識と、それによる経験が必要となる。(他者、外部性)

それは、更に知識を増やし、蓄積するためではなく、既に持ってしまっている知識(先入観)を自覚し、相対化するための読書(知)と経験(行)である。

必要とされるのは、自身の「自明とすら思っていないほど自明な前提(原-信憑)」を揺るがせ、無自覚的な思い込みに異化作用を起こし、相対化させ、不安定にするための、外部性を伴った刺激としての読書(知)と経験(行)である。


知れば迷い知らねば迷う法(のり)の道
何(いずれ)が仏の実(まこと)なるらん

知って(知識があるが故に)迷い、知らなく(知識がないが故に)迷う修行の道、
いったい何が真実なのだろうか

知識へ触れる三段階

1 外部のどこかに、自分を救ってくれる知識・技法・人・場所があると思い、手当たり次第に探しまわる時期・段階(求道期・準備期)

2 真理は外には無いと知って、自分自身の内を見る時期(実践期)

門より入るは家珍にあらず

3 その「見たもの」を確認するため、更にハッキリさせ、磨くため、古典に触れる段階(熟成期・点検期)

師日、祖録を看るに時飾あり。
経録の理を頼む時看れば、自眼をつぶす。
理を見下す時見れば、証拠になる。

子曰、「学而不思則罔 思而不学則殆」 『論語 為政第二』

子曰く、「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」

学 … 人から教わること。誰かに教えてもらうこと。
思 … ひとりで思索すること。自分で考えること
罔 … 道理に通じていない。無知なさま。
殆 … 危うい。危険である。「危」に同じ。

知識をあれこれ広く学ぶだけで、自分でよくよく咀嚼し考えることをしなければ、本当の意味で、それは深まらず、本質を理解することはできない。

しかし逆に、自分の乏しい知識だけで思い巡らし思索を進めたところで、客観的な知識や情報、古典や先人の教え、歴史的知識などに学び、それを使って自分の体験を検証することをしなければ、いつのまにか独断的になり考えが凝り固まってしまい、自分の感じ方・考え方だけが正しいのだと思い込んでしまって、危ういことになる。

論語解説「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし」

「科学的な宗教」と「宗教的な科学」

私がお気に入りとする現実の定義は、フィリップ・K・ディックが与えたもので、彼によれば「現実とはすなわち、あなたがそれを信じるのをやめたときにも、消え去らないもののこと」なのである。

何が真実で、何が思い込みに過ぎないものなのか。

何が「事実存在している」もので、何が歴史的・文化的・理論的・個人的に構成された「実在しないもの」であるのか。

それを、どう判別し、見分けることができるのか。

その探究に、現代科学も現代哲学も、そして宗教も長いこと取り組んできました。

それは、普遍的な世界の説明(世界理論)を見つけ出す(創り出す)壮大な試みでした。

そして現在、「それは、そんな簡単に答えが出るような問題ではない」という同意が得られる段階まではきています。


多くの宗教が、自らの教義(理論と実践技法)の合理性/論理性/客観性を主張します。

曰く、「ウチの教義は科学的である。つまり妄信的でなく、実証可能な客観性も持っている」云々…

しかし、「科学的」と「宗教的(ここでは、いわゆる“非科学的”の意味)」の線引きは何によって行われるのでしょうか。

いわゆる線引き問題― 科学と非科学(ないし疑似科学)の間の線をどこに引くかという問題― は、科学哲学の中心的な関心の一つであり続けてきました。

そして現在では、線引き問題という問題設定そのものの妥当性が問われる所まできています。

どれほど多くの宗教が、予言によって権威を示そうとしたことだろう。
どれほど多くの人が、当たりもしないあいまいな予言を信仰の支えにしていることだろう。
だが、科学ほど正確で信頼性の高い予言のできる宗教が、かつて存在したことがあっただろうか?

たいていの宗教は、科学に匹敵するほどの力で未来を予言したいものだと思っている。
正確な予言、筋金入りの懐疑主義者の前で、何度でもやってみせられるような予言だ。
しかし人間の作ったもののなかには、科学ほどの予言ができるものはほかにない。
(中略)
重ねて言うが、科学がうまくゆくのは、エラー修正機能が組み込まれているからだ。
科学には問うてはいけないことなど何もない。
聞くのがはばかられるような微妙な問題もなければ、冒すべからざる神聖な真実もない。

カール・セーガン『科学と悪霊を語る』(新潮社)より

体験主義の危険と、教義への理論的自閉

実践修行には、二つのレベルの危険性が存在します。

1 感性、直感、実践優位の持つ危険性

知性(理性)よりも感性(直感) 直感的意思決定・判断 システム1
知識・理論よりも実践(体験)
客観的なデータよりも主観的・体験的な事実経験を重んじる瞑想宗教自体が持っている傾向性、修行者自身の資質による危険性。

二重過程理論 – Wikipedia

2つの思考モード(システム1・システム2)

直感(またはシステム1)は、連想的推論と似ているが、速くて自動的で、推論プロセスには強い感情的結びつきが伴う。この種の推論は習慣に基づいており、変えたり操ったりするのは非常に難しい。

推論(またはシステム2)は、遅くてもっと不安定で、意識的な判断と態度の対象である。

2 技法・理論そのものが持つ危険性

私たちが触れることのできる思想・理論・技法・方法論のすべては、それぞれの伝統・文化・党派・個人による条件づけ・偏りを背負った限定的で色づけられたものであり、常に必ず、党派性・排他性・独善性・技法依存性という毒を、見えないかたちであれ含んでいます。

それらに対する感受性、舌の良さを持っていないと、気がつかないうちにその教義・その理論の言うとおりに世界が見えてきて、その「不可視の檻、透明な色眼鏡」にまったく気づけないと云う事態に陥ります。

「眼からウロコが落ちたのと、眼にウロコが飛び込んだのと、どう見分けられるのか?」

― この問いは瞑想宗教の現場に於いては、深刻な、笑えない現実として存在しています。
その危険性に対する注意深さ、あらかじめの用心が必要です。

瞑想宗教・精神世界と云う危険なジャングルに足を踏み入れるなら(そして、そうする必然性があるのなら)、まずやるべきことは道中予想される危険から身を守る装備(知識と道具)、コンパスを手に入れておくことです。

怪しげな体験主義― 私はそれを体験した。故に、それは真実・事実であるに違いない!― や、教義への理論的自閉― うちの教義はスゴイ! それで世界のすべて(すべての現象)を説明することができる― などにはまり込むことのないよう、予防薬(ワクチン)として。

世界理論と陰謀論

「世界理論」とは、この世界が、どのように成立し、どのように存在しているのか、どのような構造を持ち、どのようなルールで運用されているのか、その目的は何か、そのなかで私たちは、どのように生きるべきなのか、など、「世界全体の構造・成り立ちと意味・目的」を説明する言説です。

それが、かって各伝統宗教が(歴史・文化を通じて)私たちに与えてくれたものであり、世界全体の説明、生きることそのものの意味と最終的な答えでありました。

陰謀論とは、現代社会において、情報の高速化と増大化によってデフォルメされた、宗教的世界観(世界理論)の最新版であり、かって宗教的教義が与えてきた世界と自分に関する「大きな物語」が失われた「神なき時代」における現代的な代替品としての役割を果たしています。

それは、不安と怒り(腹立ち)を引き起こす情報として心に侵入し、感染する(情報としての)ウィルスであり、意識のセキュリティが甘ければ(つまり情報リテラシーが低ければ)容易に心に侵入し感染を引き起こします。

不安と怒りは感染力が強く、また拡散しやすい。
社会と人間関係の分断を強め、深刻化させる。

が、マイナスばかりではありません。

それは感染者に、確固たる世界理論(世界の見方)が与えられたことによる、迷いの無さ(安心感、安定感)と生きる方向性の明確さ(意味)を与えます。

そのインフォデミック(情報の感染)と呼ばれる事態は、歴史上、常に存在しました。
かって、それらは布教や折伏と呼ばれました。

それを悪と切り捨てて終わりにすることはできないでしょう。

なぜなら、真実(fact・truth・reality)と妄想・妄説を見分ける確乎とした基準など存在していないからです。

そこに、フェイクとリアルの、虚偽と真実の、事実と観念(妄想)の、明確な区切り目(境界線)は存在していない。

私たちは、持てる知性と感性と経験値のすべてを使って、何を真実とするのかを決めなくてはならない。

選びとった真実が、とんでもない誤謬であり、透明な牢獄のなかで一生を終える可能性は常に存在する。

There aren’t always right answers, but some answers are clearly wrong.
(常に正しい答えがあるわけではないが、明らかに間違っている答えもある)

なぜ人は「陰謀論」にハマるのか。

オウム真理教の信者やQアノンの信奉者を見て、わたしたちは「なぜあんな陰謀論にハマるのか」と疑問に思う。
だがこれは、そもそも問いの立て方が間違っている。

人類が数百万年のあいだ生きてきたのは「近代化以前」の世界で、頼るものは経験と単純な因果論しかなかった。
科学的な世界観が確立したのはせいぜい400年ほどで、人類史の0.01%程度にしかならない。
わたしたちの祖先は、日食や月食が地動説で説明できることも、感染症が病原菌やウイルスによって引き起こされることも知らなかった。

世界がまったくの暗闇だとしたら、(なにがどうなっているかわからないまま物事が次々と起きるのだから)ものすごい恐怖だろう。
この根源的・実存的な不安から逃れるためには、あらゆる出來事は「説明」され「意味」を与えられなければならない。

こうして神話や宗教が生まれたが、科学的な知識がないのだから、それらは神秘的・呪術的なものになるしかない。
ヒトの脳はもともと陰謀論的に思考するよう「設計」されているのだ。

その後、近代の啓蒙主義とともにわたしたちの世界観は大きく変わったが、これは「陰謀論」が「科学」に置き換えられたわけではない。
近年の脳科学は、意識という中央管制室が全体を統制しているのではなく、脳内では進化の過程のなかでつくられたいくつかの異なるネットワーク(モジュール)が独立に活動しているとする。

赤い染みのついたセーターを「殺人事件の遺品だ」と説明すると、手に取ろうとするひとはほとんどいない。
そこになにか不吉なもの(被害者の霊や怨念)が取りついていると感じるのだ。
「目力」というのは、物理法則に反して、目からなんらかの光線が出ていると感じることだ。

こうした例はいくらでもあり、わたしたち(無意識)はいまだに呪術的世界を生きている。
意識(理性)は地動説でも、無意識は天動説のままなのだ。

そのように考えれば、問うべきは「なぜ陰謀論にハマるのか」ではなく、「陰謀論を信じるひとがなぜこれほど少ないのか」だろう。
ひとびとが陰謀論的に思考しているにもかかわらず、近代社会が科学や理性をもとに運営されているのは驚くべきことなのだ。

脳のOS(基本システム)が呪術的なのだから、陰謀論にふりまわされるのはごく一部のひとたちだけではない。

「リベラル」は右翼・保守派の陰謀論を嘲笑するが、そんな彼ら/彼女たちにしても理性より直感を信頼し、ワクチンや肉食を「自然に反する」として否定する非科学的な「自然崇拝(スピリチュアリズム)」にハマっている。

Qアノンが「新型コロナのワクチンにはマイクロチップが入っていて、5G電波で操られる」などと言い出したことで、いまでは右と左の陰謀論は区別がつかなくなってしまった。

「公正」な世界を取り戻す闘い

わたしたちはみな、世界を「公正であるべきだ」と思っている。
そして「不公正」を感じると、それをなんとかして「公正」なものにしようとする。
社会心理学ではこれを「公正世界信念」と呼ぶ。

ここでいう「公正」は、「ルール(道徳)によって秩序が保たれている」ことだ。
「不公正」な世界は無秩序(カオス)だから、ものすごく恐ろしい。
人間は誰もが無意識のうちに秩序と安全、すなわち公正さを強く求めている。
「不公正な世界を公正なものに変える」のはよいことに思えるが、それは「他者の不道徳な行為を道徳的なものに矯正する」ことでもある。
公正世界信念を強くもつひとは、事実婚や中絶、同性愛などを「不道徳」と見なしてきびしい態度をとる。

誰もが知っているように世界には不公正なことがたくさんあり、その多く(あるいはほとんど)は個人の努力では変えられない。
しかしそれを放置しておくと、無秩序な世界からの脅威につねにさらされることになる。

だったらどうすればいいのか。現実が変えられないのなら、自分の認知を変えればいいのだ。

性暴力の被害を受けた女性に対して、「自分から挑発した」「下心があった」などと炎上することがあるが、この現象は「犠牲者非難」と呼ばれる。
キャンプ場から小学校1年の娘がいなくなった事件で、情報提供を求める母親に対し、「親が怪しい」「殺したのは母」などの誹謗中傷がSNSで相次いだのも同じだろう。
なんの落ち度もない被害者が救済されないのは公正世界信念に反するため、強い不安を引き起こす。
そこから逃れるのには、「じつは被害者に責任がある」と認知を変えて「公正世界」を回復すればいいのだ。

理不尽な世界を「陰謀」によって説明するのもこれと同じだ。
ディープステイトであれグローバル資本主義であれ、なんらかの「悪」によって公正な世界が蝕むしばまれていて、自分は「善の戦士」としてそれと闘っているのなら、不気味で不可解な世界は「意味」によって満たされ実存的な不安は消えるだろう。

陰謀論のもうひとつの効果は、「自我への脅威」を軽減してくれることだ。

自尊心についての多くの心理実験は、「ひとは誰もが自尊心をすこしでも高めようとし、それができない場合でも自尊心が傷つくことをなんとしてでも避けようとする」ことを示している。
自尊心というのは、自分が社会(共同体)のなかでどれほど受け入れられているかを示す計測装置(ソシオメーター)のようなもので、評判や名声を獲得して自尊心の針が上がると幸福と安心を感じるが、逆にソシオメーターの針が下がると、無意識はとてつもない恐怖に圧倒されてしまう。
人類が進化の過程の大半を過ごした旧石器時代では、共同体(部族)から放逐されることはただちに死を意味したのだ。

そのためわたしたちは、自尊心を引き下げるような事態に死に物狂いで抵抗する。
ささいな批判に傷ついたり、激昂して攻撃的になることは誰でも身に覚えがあるはずだ。

『無理ゲー社会』 橘玲より

陰謀論は反証に抵抗し、循環論法によって強化される。
陰謀論と相反する証拠があったり、陰謀論の証拠となるものがなかったりしても、どちらも真実の証拠として再解釈されるため、陰謀論は証明されたり反証されたりするものではなく、信仰する事柄になる。
陰謀論の認識論的戦略は「カスケード・ロジック」(英: Cascade logic)と呼ばれている。
新しい証拠が現れる度に、更に多くの人々が隠蔽工作に加担しているに違いないと主張してそれらを退ける。
陰謀論と矛盾する情報はすべて陰謀による偽情報とされる。
同様に、陰謀論者の主張を直接的に裏付ける証拠の欠如が継続していることは、沈黙の陰謀が存在するものとして描かれる。
他の人々が陰謀を発見したり暴露したりしていないという事実は、陰謀が存在しないのではなく、それらの人々が陰謀の一部であるという証拠として捉えられる。
この戦略により、陰謀論者は証拠の中立的分析から自分自身を隔離し、疑問や修正に対して抵抗力を持つようになる。
これは「認識論的自己隔離」(英: Epistemic self-insulation)と呼ばれている。 陰謀論 – Wikipedia

クリティカル・シンキング(吟味思考)

クリティカル・シンキング関連の読書・思索が、その危険な旅の装備品(備え)としておすすめできる。

それは、自己内省的で、科学的根拠と統計的反省(確率判断)に基づいた、論理的・熟慮的な思考のための訓練であり、
自分の思考を、より鋭く、より明晰に、正確に、より防衛力のあるものにするための、思考についての思考の技術(メタ思考)である。

あるいは、「メディア情報リテラシー」と云う言葉を選ぶこともできる。

それは、情報を適切に判断し決定を下す能力であり、情報に対する読解力・解析力・批判的な読み解きを行う能力を高める訓練である。

何が信じるに値するか、何を信じるべきかの判断、何を選び行うかの決定をおこなう際に、最後の頼りとなるのは、自らのこの判断力のみである。

これは全てのコースに共通して必要となる、ものごとを実証的・批判的に吟味できる思考能力・判断力・洞察力の基礎訓練として重要であり、気づきの修行の最初のステップは、まず何よりも「健全な懐疑精神」を養い育てておくことにあるだろう。

これらの情報に触れておくことによって、瞑想宗教に関わる際に陥りやすい問題点を理解し、今後経験するかも知れない様々な事象(罠)に対しての免疫力をつけておくことができる。

多面的・批判的に自身の体験を吟味・検討する能力は、特に瞑想宗教に関わる場合、必要なものであり、それらに目を通しておくことによって、その基礎訓練が幾らかでも為されるかも知れない。

以下、紹介する懐疑主義的な本や情報のすべてが正しい、と言いたい訳ではない。

両陣営の言い分に耳を傾けて、その上で自分はどう考えるか?

その「考える力」「論理的・批判的な思考力」を養うための練習問題としてオススメしたいのです。

それは、裁判で言えば、犯人側(弁護側)の言い分だけを聞いて答えを出すのではなく、検察側の言い分も聞いて、その上で、自分なりの判断を下す、と云う、当たり前なことなのですが、瞑想宗教の世界では、それが充分になされていないように思うのです。

特に「精神世界」「スピリチュアル系」「瞑想・修行系」と呼ばれるジャンルは、とんでもなく危険な思想や誤謬、人物や体験に満ち満ちた危ない世界です。

自分を守るための、まともな(できる限り、客観的な材料・情報を収集する)情報収集能力と、(その情報を使って)吟味的な思考・判断をする能力を訓練しておかないと、気がついたときには「いい食い物」にされ、お金や時間を食い尽くされるだけでなく人生そのものを食い尽くされ(あるいは自分から貢物にし)、最後には、ポイッと捨てられて終わり、となってしまいます。

瞑想やスピリチュアル系に興味があり、これから取り組んでみようと思われているならば、まず最初に読むべきなのは、この手の本だと私は考えます。

この「条件づけ」の問題

クリティカル・シンキング関連リスト

以下にあげたものは、私好みの一つの選択でしかなく、間違った情報も含まれているかもしれません。

しかし、どれも読んで損のない面白い資料を挙げたつもりでいます。

あとは、自身の知性と思考力を使って、更に信頼できる情報を探し出し、自分なりの暫定的結論に至っていただければ、それ自体が、クリティカル・シンキング(吟味思考)の実践であるのだと思います。

批判的思考 – Wikipedia

1. 検証主義

『不思議現象 なぜ信じるのか: こころの科学入門』
入門書として、良くまとまっており、オススメです。

『なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学』

『人はどこまで合理的か』

『認知バイアス― 心に潜むふしぎな働き』認知バイアス – Wikipedia

代替医療のトリック – Wikipedia『代替医療解剖』文庫版訳者あとがき by 青木薫 – HONZ

『人間 この信じやすきもの― 迷信・誤信はどうして生まれるか』

『超能力番組を10倍楽しむ本』

『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』

『神は妄想である― 宗教との決別』

『生と死の境界―「臨死体験」を科学する』

『輪廻体験―神話の検証』

『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』

『ほんとうの「食の安全」を考える― ゼロリスクという幻想』

『「食べもの情報」ウソ・ホント― 氾濫する情報を正しく読み取る 』

『心の潜在力― プラシーボ効果』

『人類はなぜUFOと遭遇するのか』

『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』

2. 反証主義

カール・ポパー・反証主義とは

反証可能性 – Wikipedia

『ポパー 批判的合理主義』

3. パラダイム論・ホーリズム

クーンのパラダイム論

ホーリズムの擁護

『科学の解釈学』
どれか一冊なら、まずは、これをオススメします。
論旨明晰、上質な日本語で書かれた科学哲学啓蒙書です。

『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』(講談社学術文庫)
「現代思想の冒険者たち」第24巻『クーン/パラダイム』 の文庫本化。

『はじめての分析哲学』
分析哲学に関する最良の入門書の一つだと思います。
分析哲学が、そもそも「何を」問題としているのかの大まかな見当がつきます。

『科学論序説』
入門的な教科書として分かりやすいです。

たとえば、神の在/不在について

異-教義間での(調停不可能なレベルの)泥沼的論争が、実は、双方が依って立つ理論の基本語彙の概念規定の違い(と、そのことに対する無自覚)から生じている、と云うのは、よく見るところである。

たとえば、「神はいるか/いないか」と云う議論において、

「神とは、当然、一神教的な人格神(意志を持った主体者)のことである」と云う前提で話している人と、「汎神論的な意味で、宇宙=自然=神である」と考えている人の間では、まず最初に「神」の定義― 神という言葉で、具体的に何を思い浮かべ、何を指し示しているのかのすり合わせ― を行わない限り、その会話は不毛であるでしょう。

あるいは多くの場合、その「定義」の作業を行った時点で議論のほとんどは尽きている、と言ってもよい。(もし、その作業が成り立つレベルでの対話や相互理解が可能であるならば)

これは、同じ言葉を、それぞれが逆の意味(概念内容)として使っている場合に起こる問題である。

次に、もうひとつのパターンがある。

違う(逆の)言葉を、それぞれが(気がつかないまま)同じ意味(概念内容)として使っている場合である。

「神はいる(存在する)」と主張する人と、「神はいない(存在しない)」と主張する(ドーキンスのような)人との間では表面上の意見の一致は見られない。

しかし、「神はいる」の人が、スピノザ的な理神論/汎神論的な神、あるいは進化生物学・現代宇宙論を経由し自然主義化された神概念を持っており、この物理的な宇宙こそが神の身体である、あるいは数学は神の思考(脳内プロセス)である、と考えている場合、

あるいは、「神はいない」の人が否定している神が、伝統宗教が持つ「信者のお祈りに答えて、雨を降らしたり槍を降らしたりしてくれる、お父さん的な神様」であった場合など、互いに歩み寄る余地は大いにある。

この場合にも、「貴方が言っている神とは具体的に何であり、どのような存在なのか」の言葉による相互理解の試みと再定義の作業は必要である。

それがない限り、果てしのない「神々の闘争」は続く。。。


以上のような、議論のくい違い・かけ違いは、過去、伝統仏教各派の間で行われてきた宗論にも見てとることができる。

以下、私にとって興味深い(行き違いの二種のパターンを代表する)宗論を紹介してみたい。歴史は治療的であるが故に。

小乗仏教(部派仏教)と大乗仏教との間で行われた論争― 代表的なものとして「法の自性/無自性」を巡る議論は、「自性(実体)」という同じ言葉を、それぞれ互いの理論体系において違う意味で使っておりながら、そのことを理解していないパターンの典型で、「現象界に自性(実体)は有るか/無いか」を延々議論したが、何の生産的結論へ至ることもなかった。

中国仏教(禅)とインド・チベット仏教との間で行われた「サムイェーの宗論」の場合には― 「頓悟と漸悟」「教(知的理解)と行(実践)」「戒と定」「定と慧」など多くのトピックを巡って議論の応酬はなされたが― その多くは「相手の理論体系において、自分たちと逆の言葉で同じ事象を表現している」ことに気づかず、互いに「なぜ相手は、こんな分かりきったことにケチをつけて絡んでくるのだろうか、これでは揚げ足取りの議論のための議論ではないか」とウンザリしているように見える。

「頓悟と漸悟」という論点で言えば、これは現代的に解釈すれば「変化は瞬間的か、それとも(準備の)時間をかけての持続的なプロセスか」、あるいは「本質的な変化は一度きりか、それとも複数回あり得るのか」などの議論にあたるが、その場合、「変化」「時間」と云う概念の意味内容も位置づけも、互いの理論全体のなかでは(逆転してると言えるほど)ねじれて、異なったものとして存在しているのだが、そのことを理解せずに議論が行われている(ように見える)。

実際、この歴史上の宗論を、いま眺めるに、「実は互いに似通った結論を持っている両者が、それを違った(逆転した)言葉で主張しあい否定しあっているだけの兄弟喧嘩」のような「トホホなもの」にしか感じられない。

仏教のなかの超克されるべき歴史である。