科学的アプローチ

ヒトが他の動物よりも頭がいいのはなぜか。
その理由は、文化的な面と遺伝的な面の両方からいくつか挙げられる。

しかし、究極の要因は、ルビコン川を渡る橋を見つけたこと、そして累積的文化進化の力に牽引されながらついに対岸にたどりついたことにあるのだ。

たしかに、私たちは賢い。

しかしそれは、巨人の肩の上に乗ってるからでもなければ、自らが巨人だからでもない。

私たちは、多数の小人たちが寄り集まってできた巨大なピラミッドの上に乗っているのである。

ビラミッドが高くなると、小人たちの背丈も少しは伸びるが、 私たちが彼方を見渡せるのは、やはり、小人たちの数の力なのであって、待定の小人が長身であるからではない。

世界という謎

私たちの置かれている状況を喩えれば、

ハッと眼が覚めると、何処とも知らぬ大洋の真ん中で、ずぶ濡れで木材に掴まって漂流している…

ここが何処で、ここで何をしているのか、どうしてこんな所に居るのか、自分は誰なのか… それ以前の記憶も無く、皆目検討がつかない。

そんな、映画の出だしにありそうな場面に投げ出されて在る(現実がある)が故に、

いったい、いまは何時で、ここは何処で、そして自分は何者なのか、

どこから来て、どこへ行こうとしているのか、

との「世界(の意味)に対する問い」が、必然的に生まれた。

世界理論という防壁

歴史上、多くの民族・文化・社会が存在し、それぞれが「創世神話」と言われるものを保有してきた。

それは、

この世界(宇宙)は如何にして生じ、今に至ったのか。
それは、どのような構造(なりたち)をしているのか。

そこに生きている我々は、いかなる存在なのか。

そして、我々の生きている意味、理想的な生き方とは、どのようなものなのか。

死んだ後、どうなるのか。

それらの答えがセットとなった「世界全体の説明」であり、すべてを説き明かす「世界理論」であった。

伝統的な宗教も又、それぞれ、その時代・文化の最新の科学的知見を取り入れつつ、「この謎に満ちた世界」を理解可能なものにするため思惟を進め、(見えない背後世界に至るまで)包括的な説明を作り上げた。

それを現在、私たちは見ることができる。

それら― 多くの説明、世界モデル― を前にして、わたしたちは、どう感じるだろう。


もし、どんな「世界理論(この世界全体の説明)」も持たないで生きていくことが(真実に)できるのであれば、それも素晴らしいだろう。

しかし、(人間の、心の性質上)それができないのであれば、現代という時代が持つ最新の世界の説明(もっとも整合性が高く、信憑性のある世界の捉え方)を学び、その知識のもと、新たな「世界の見方」を築き上げることが賢明だろう。

その際、使える候補として、現代宇宙論(物理学)と進化生物学(遺伝学)が、まず挙げられる。

現代科学の二つの探求

物質の探究

マクロ(望遠世界)の側では、現代宇宙論、惑星科学、地球科学となり、
ミクロ(微小世界)の側では、現代物理学となった探究。

物質とはなにか。宇宙とはなにか。
我々が住む宇宙は如何にして発生し、現在まで進んだのか、との探求。

『宇宙創成』

『生命の惑星: ビッグバンから人類までの地球の進化』

『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』HONZのレビュー

『「地球のからくり」に挑む』

生命の探究

進化生物学、遺伝学、人類学

生命とは何か。生物とは何か。
それは、如何にして始まり、現在見られるものまで展開したのか。
それは、いかなる現象なのか、との探求。

『進化―生命のたどる道』

『NHKスペシャル 地球大進化 46億年・人類への旅 DVD-BOX 1・2』

『病気はなぜ、あるのか—進化医学による新しい理解』

『遺伝子‐親密なる人類史』

『脳のなかの幽霊』

そもそも私たちは、私たちの事実をもっと知らねばならない。
実用的な科学知識だけではなく、自分自身を知りたいから知るための科学知識が必要なのだ。

ヒトは、どう進化してきたのか、またヒトの性質はどう決まり、形づくられるのか。

私たちは、もっと私たち自身をつくる仕組みやその進化のことを知らなければならない。


真理に近づくという目的で進化学は輝く。
ただし真理に接近したからといって幸福に近づくわけではない。
幸福か不幸かは、また別の話だ。
それでも真理には力がある


進化の科学は光と闇が表裏をなす。
天使のような悪魔ほど危険な存在はないように、
やさしくて役立つ科学、わかりやすくて役立つ科学を装う説明は危険である。

「ダーウィンがそう言っている」は、最もシンプルでわかりやすく、科学を装う危険な説明の一つである。


人間の精神活動は目が眩むほど複雑だ。
世界は八十億の心で溢れているのに、同じ心は一つとしてない。
人の心は、ときに首尾一貫しているが、ときに合理性を欠き、二面性を持ち、ときにダブルバインド的であり、矛盾に満ちていてとりとめがない。

『ダーウィンの呪い』 千葉 聡より

瞑想宗教の自然主義的転回

現代宇宙論と進化生物学の成果により、この百余年、私たちの世界観(宇宙観)は大きな変動を受けた。

宗教的な世界認識も、それに無関係ではいられなかった。

例えば、『神は妄想である ― 宗教との決別』 など。

この時代において、いかに世界の存在意義や自己の生の意味を問うことができるのか。

この神なき時代に、いかに、神秘主義的(宗教的)実践が可能であるのか。

私の宇宙は意味がない – 東京永久観光
ニュートンとダーウィンの革命 – 東京永久観光

瞑想宗教の自然主義化が行われるしかない、というのが私の答えである。

伝統宗教から歴史的・文化的な夾雑物を除き、エッセンスの抽出と精製を行う作業―

これまで前提とされてきた「世界理論(背後世界論)」なしに、新たなる実践理論と技法を構築できるかの試みである。

ダーウィン理論の可能性

『知のトップランナー 149人の美しいセオリー』書評 – shorebird

「What is your favorite deep, elegant, or beautiful explanation?(あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?)」と学者に尋ね、それに短い文章で答えてもらう、という企画本から。

「自然淘汰による進化」 スーザン・ブラックモア

もちろん、それはダーウィンであるべきだ。
それ以外の何ものも、ダーウィンには及びもつかない。
自然淘汰による進化は(実際のところ、自然にせよ自然以外にせよ、どんな種類の淘汰も)、すべての科学において最も美しくエレガントな説明を提供するものだ。
この単純な、三段階のアルゴリズムは、一つの簡素な理屈によって、なぜ私たちがデザインに満ちた宇宙に住んでいるのかを説明してる。
それは、なぜ私たちが此処に居るのかを説明するだけではなく、樹木や子猫や言語や銀行やサッカーチームやiphoneが、なぜ存在するのかも説明する。
これが、そんなに簡単で強力なのであれば、ダーウィンとアルフレッド・ウォレスがこれを思いつく前に、なぜ誰も思いつかなかったのか、そして、現在でもなお、多くの人々がその意味を理解できないのはなぜか、と不思議に思われるかもしれない。
私が思うに、その理由は、この考えの核心部分にトートロジー(同語反復)があるように見えるからだろう。
「生き残るものは生き残る」「うまく行く考えは、うまく行く」と言っても何も言ったことにもならないように見えるのだ。
このような同語反復らしきものを力のある理論に変えるには、すべてのものが生き残るわけではない、競争が激しくて有限な世界と云う文脈を付け加えねばならず、更に、競争のルール自体が変わり続ける、常に変化する世界だと云うことを理解せねばならない。
そのような文脈では、うまくいくと言ってもつかの間のことであり、そうなると、三段階のアルゴリズムは、同語反復ではなく、意味深くてエレガントな説明へと変わる。
生き残ったものに、少しだけ変異を持たせてコピーを沢山作り、この、常に移り変わる世界に放してやれば、新たな条件に適合したものだけが存続していくだろう。
世界は、生き物や考えや、制度、言語、物語、ソフトウェア、機械などに満ちているが、これらはみな、このような競争のストレスのもとでデザインされてきたのである。
この美しい考えは、確かに理解するのが難しく、私は、学校で進化を教えられ、理解したと思ってはいるものの、本当のところはまったく理解していない大学生を何人も知っている。
私にとって、教えることの喜びの一つは、学生たちが本質を突如として理解したときに見せる驚きの表情を見ることだ。
しかし、私は、この考えを心温まるものとも呼べる。
なぜなら、私がコンピュータの画面から目を離して窓の外を眺め、川にかかった橋の向こうの遠くの木々や牛を見るとき、宗教心の強い連中とは違って、これらすべての存在をもたらした簡素でエレガントな競争的プロセスに歓喜し、それらすべてのなかで私なりのささやかな場所を占めていることに歓喜するからである。

物質の探究「冗長性の削減とパターン認識」 リチャード・ドーキンス

深遠で、エレガントで、美しいだって?
ある理論をエレガントにする要素の一つは、なるべく少ない仮定のもとで多くのことを説明する力にある。
この点で、ダーウィンの自然淘汰の理論が圧勝だ。
それが説明するおびただしい量の事柄(生命に関するすべて:その複雑性、多様性、巧妙にデザインされたように見えること)を、それが依拠する数少ない仮定(ランダムに変化する遺伝子が、地質学的時間のなかで、ランダムでなく存続すること)で割った比は、ともかくも巨大だ。
人間がこれまで理解してきた諸分野において、これほど少ない数の仮定のもとに、これほど多くの事実が説明されたことは、他にない。
エレガントはその通りだが、深遠さは、と云うと、19世紀になるまで誰からも隠されてきた。
一方で、自然淘汰は、美しいと云うにはあまりにも破壊的で、無駄が多すぎて残酷だ、と見る向きもある。
いずれにせよ、私以外の誰かがダーウィンを選んでくれるに違いない、と見てよいだろう。


『進化は万能である― 人類・テクノロジー・宇宙の未来』 マット・リドレー

ダーウィンに発する進化論(進化生物学)― 特殊進化理論と、その拡張としての「進化の理論」― 一般進化理論。

進化生物学的なものの見方

かつて、ダニエル・デネットの本をパラパラとめくっていて、「現代の人文科学(人間科学)にとって、フロイトの無意識の発見などよりも、ダーウィンの進化論と云うアイデアの破壊力の方が深いし、大きい」と云う著述に出会い、「ふ~ん、、、そんなものかなぁ…」くらいの感慨しか受けなかった私ですが、ここのところ(いまさら、なのですが)自分のなかで「進化論的転換」とでも言うべきモノの見方の変換が起こっており、いまでは、「現代において、瞑想とか人間の意識の問題を考えようとするなら、進化論(進化生物学、進化心理学、そして惑星科学)の知識は欠かせない」と考えるようになっています。

これは、進化生物学の知見を、宗教的な事象― 輪廻や天国という観念、自然現象の後ろに意味や意思を見出してしまう人間の傾向性など― に当てはめて考えてみる態度を意味し、「なぜ、人間は、霊的進化とか生まれ変わりとか、明確な根拠や証拠の無い話を通文化的に信じるのだろうか? その観念を持つことの生存上の優位性(価値・役割・意味)は何なのだろうか?」と問うことから始まります。


『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』

病気はなぜ、あるのか

進化医学 – Wikipedia

『病気はなぜ,あるのか?』 – 本を愛する医者のブログ

病気はなぜ、あるのか – めざせ、ブータン

病気はなぜ、あるのか(進化医学による新しい理解): 治験おすすめ書

『人間行動に潜むジレンマ― 自分勝手はやめられない?』

「神」の再定義

アメーバ(体表面の接触感覚のみ)からはじまり、五感を手に入れた人間。

宇宙とは、得体の知れない一匹の巨大な生き物の身体なのではないのか。

神=唯一者の身体。

ミクロの方向にもマクロの方向へも、無限の入れ子構造。


  1. 宇宙は神の身体、一者(得体の知れない何者か、唯一の生命体)の身体である。
  2. 我々は、神の細胞である(私のお腹の中の細胞・細菌が、私と云うシステムの一部であるように)。
  3. それが、時間の流れのなかで進化している。それは進歩とも言えぬ、人間的枠組みでは良いとも悪いとも言えぬ変化であるが、ただ、より複雑に構造化され、結びつきつつある、とは言える。
  4. それは、研究室のなかでの先の見えない実験に似ている。あらかじめの意味も目的も終着点も無しの、設計者も無しでの実験であり、身を提供している全体である神自身も、その展開を知らない。(あるいは、神自身が知りたがっているのかもしれない)
  5. 限りなく微細な点でしかない私の意識は、同時に、神・一者の意識であり、いま宇宙を成立させている。

スピノザ的な、宇宙=神。
無機質で、思考も個性も持たない創造者。

かって人間は未知なる宇宙に創造者である神を認め、自然現象に神々の意志を見た。
しかし現在、それらは意志を持たない宇宙と呼び直されてある。

あるものが神と呼ぶものを、別のものは物理法則と呼ぶ。

ニコラ・テスラ

『祖先の物語 ドーキンスの生命史 下』

ミクソトリカの物語

シロアリの腸に存在するミクソトリカがさらに複数の個体の結合でできていることから、複数種が組み合わさって多細胞生物を構成する一例について。
ミクソトリカは鞭毛と繊毛を両方持っており、それらは元は別々の生物であったことが推測されている。P207

シロアリの腸内に住む微生物の数は、シロアリ塚のなかに住むシロアリそのものの数と同じほど、そして草原に分布するシロアリ塚と同じほど豊かである。

もしシロアリ塚がシロアリの町だとすると、それぞれのシロアリの腸は微生物の町である。ここには二つのレベルの共同体があるのだ。

しかし、もう一つ、第三のレベルがあり、その詳細は全く驚くべきものである。ミクソトリカ(腸内の微生物)自身が一つの町なのである。P301

『世界でいちばん美しい物語』より

エピロ-グ 人類の未来

ドミニク・シモネ― 150億年の進化、そしてわずか数千年の文明の果てに、私たちは今こうして存在しています。ビッグバン以来の進化によって、たえずより複雑な構造体が生み出され、私たち自身が、いわばその白眉でもあるわけですが、進化の過程というのは今なお続いているのでしょうか。

ジョエル・ド・ロネー 素粒子、原子、分子、高分子、細胞、原始多細胞生物、個体群、生態系、そして、いまやその身体諸機能を外在化しつつある人類。
もちろん進化は続いています。
しかし、今では、それはとりわけ技術的社会的進化です。
文化が生物学的進化に取って代わったのです。

― 私たちは今、生命の出現時にも比すべき転換期、大きな歴史の曲がり角に立っているわけですね。

そうです。
宇宙的、化学的、生物的段階の後、第4幕の幕が開いて、これからの人類がそれを演じていくわけです。
私たちは集団的な自己意識に到達したのです。

― 第4幕は、どのようなものになるのでしょうか。

私たちは今、新たな生命形態、全地球規模のマクロ有機体を生み出しつつあると言えます。
この有機体は、生物の世界と人間の生産活動とを包括し、それ自体進化していくもので、私たちはそれを構成する個々の細胞に過ぎません。
それは、インターネットを萌芽とする神経系を持ち、物のリサイクルという代謝機能を備えています。
さまざまな相互依存システムから成る、この全地球規模の脳が、人々を電子の速度で結合させ、物や情報の交換形式を一変させつつあるのです。

― 比喩を続けるなら、自然淘汰ではなく、文化的淘汰が、いまや遂行されているわけですね。

そう思います。
私たちの発明品は突然変異に相当します。
この技術的社会的進化の速度は、ダーウィン的な生物進化とは比べものになりません。
電話、テレビ、自動車、コンピュータ、人工衛星、これらはみな人間が創り出した新しい「種」なのです。

― そして、人間が淘汰も行うのですね。

そうです。
たとえば市場とは、発明品の種を選択し、排除し、増殖させる、ダーウィン的システム以外の何でしょうか。
ただ、生物学的進化と大きく異なるのは、人間は抽象の世界で新しい種を幾らでも好きなだけ作り出せると云うことです。
この新たな進化は、非物質化しつつあるのです。
人間は、現実の世界と想像の世界との間に、仮想現実という新たな世界を作り出し、その結果、人工の世界を探求することだけでなく、まだ存在していない製品や機械を作ってテストすることさえできるようになりました。
ある意味で、この文化的技術的進化は、自然の進化と同じ「論理」に従っているのです。

― では、複雑系の運動はまだ続いているのですね。

ええ。
ただ、物質の重いくびきからは少しずつ解放されていきます。
私たちは、いわばビッグバンの時点に再び戻ったのです。
150億年前のエネルギーの大爆発というのは、テイヤール・ド・シャルダンのいう「オメガ点」、つまり物質から解放された精神の爆縮を、そっくり裏返しにしたようなものです。
あいだの時間を考慮に入れなければ、この二つは区別できないほど似ています。

― とは言え、時間を忘れることは、とりわけ私たちのかくも短い人生の時を忘れることは簡単ではありません。
個々の人間が、自分を超える地球規模の有機体のなかに単なる細胞として組み込まれてしまうのであれば、個人にもなお未来があると言えるのでしょうか。

勿論です。
私は、人間は、まだまだ自らを改善していけると思います。
個々の細胞は、集合して社会を構成したときのほうが、孤立して生きるときよりも大きな個体性に到達できます。
マクロ組織化の段階は、たしかに世界全体の画一化の危険を伴いますが、多様化の萌芽も含んでいます。
地球がグローバル化するほど、内部の分化も進むのです。

― 生物学者の立場から、進化とか脳とか突然変異とかの言葉で現代の社会を説明なさっているわけですが、比喩を現実と取り違える危険はないでしょうか。

生物学から社会の解釈を導き出すことはできません。
そんなことをしたら、容認しがたいイデオロギーに帰着してしまいます。
そうではなく、生物学が私たちの思考に新たな活力を与えられると云うことです。
今世紀初頭には、歯車や時計など機械による比喩が盛んに用いられましたが、現在の状況を捉えるには、有機体の比喩がいちばん有効だと思います。
もちろん、文字通りに取らないとしての話ですが。
たとえば、いま形成されつつある地球規模の有機体は、私たちの身体機能や感覚の外在化であると言えます。
テレビは視覚の、コンピュータは記憶の、交通機関は足の延長なのです。
しかし、大きな問題は、私たちが、このマクロ有機体と上手く共生していけるのか、それとも寄生者に甘んじて、私たちを支えるこの宿主を破壊してしまうのか、と云うことです。
選択を誤れば、経済、環境、社会、いずれの面でも深刻な危機に陥りかねません。

― どちらの方向へ向かうと思われますか。

現在、私たちは、さまざまなエネルギー資源や情報や資材を自分のために消費し、そこから出る廃棄物を周囲の環境に撒き散らして、そのつど、私たちを支えてくれる生態系に打撃を与えています。
私たちは。自分自身の寄生者とも言えます。
先進国の繁栄が発展途上国の成長を阻むことによって成り立っているからです。
もし現在の道をたどり続けるなら、間違いなく私たちは地球の寄生者になってしまいます。

― では、そういう事態を回避するには、どうすれば良いのでしょう。地球環境の保護ですか。

大切なのは、ノスタルジックな環境保護論者が主張するように、保護区を作って、その囲い地に生物種を閉じ込めておくと云うようなことではありません。
そうではなく、地球とテクノロジー、生態環境と経済とのあいだに上手く調和を見出せるかどうかです。
危機を回避するためには、これまで語ってきたような複雑性の進化に関する知識から教訓を引き出すことが必要になるでしょう。
私たちがたどってきた歴史を知ることによって、現実に対して必要な距離をとり、自分たちのしていることに一定の方向、意味づけを与え、これまで以上の叡智を獲得することができるようになると思うのです。
私個人は、集団的知性の発展、科学技術におけるヒューマニズムと云うものを信じています。
その気になりさえすれば、私たちは人類の新たな段階に冷静に対処していけるだろうと思います。

『世界でいちばん美しい物語』 p.210-214

『ポスト・ヒューマン誕生』より

【未来派のバクテリアの友 紀元前20億年】

もう一度、将来についての君の考えを聞かせてくれないか?

【未来派のバクテリア 紀元前20億年】

そうだねえ、バクテリアはひとまとまりになって社会を作っていると思う。
単細胞のバクテリアの集まりが、大幅に能力を増強された、複雑で巨大な単独有機体のように作用するんだ。

【未来派のバクテリアの友】

なんで、また、そんなことを?

【未来派のバクテリア】

仲間のダプトバクターのなかには、すでに他の大型バクテリアの中に入り込んで、ちょっとしたコンビを組んでいるものがいる。
それぞれの細胞が自分の機能を特化できるよう、我々の細胞仲間がひとつにまとまるのは必然なんだ。
だが今のところは、何でも自分でこなさなければならない。食物を見つけ、消化し、副生物を排出して、といった具合に。

【未来派のバクテリアの友】

それで、どうなるの?

【未来派のバクテリア】

全ての細胞が、君と僕がやっているような、ただの化学勾配による交換を超越して、お互いにコミュニケートする方法を考え出すんだ。

【未来派のバクテリアの友】

ふうん。将来、10兆もの細胞が巨大集合体になるくだりを、もう一度聞かせてくれよ。

【未来派のバクテリア】

僕のモデルによると、あと20億年くらい経てば、10兆の細胞でできた巨大社会が単独の有機体を構成する。
そのうち、極めて複雑なパターンで、互いにコミュニケートできる特殊な細胞も何百億とあるんだ。

(中略)

【未来派のバクテリア】

こういう風に考えてみよう。
このスーパー細胞の社会は、自分たちの組織が理解できるくらい複雑だ。
自分の設計を、より良いものへ、より速いものへ改善できる。
そして、周囲の世界をイメージ通りに再形成する。

【未来派のバクテリアの友】

ちょっと待った。それじゃ、いまのバクテリア社会は無くなる、ってことみたいだが…

(中略)

【未来派のバクテリア】

大きな一歩を踏み出すことになる。
それがバクテリアとしての僕たちの運命だ。
それに、僕たちのように、ふらふら漂う小型バクテリアも、まだ居るだろう。

テクノロジーを創造する種へと進化するのはバクテリアの宿命だった。
今度は、巨大な知能を持つ特異点へと進化するのが私たちの運命なんだ。

p378

進化の流れは、複雑性、優雅さ、知識、知性、美、創造性、それに愛といった微妙な属性、その全てを一層深める方向に進んでいく。
ありとあらゆる一神教の伝統において、神はその全てを有し、しかもいっさいが無限である。
-無限の知識、無限の知性、無限の美、無限の創造性、無限の愛をもつ- と説かれてきた。
もちろん加速しながら進んでいく進化でさえ、無限のレベルに達することはとうていできない。
しかし指数関数的に急激な進歩をとげながら、進化は確実にその方向へ進んでいる。
進化は神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。
したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業であるとも言える。

人間は、インストールされた物語に影響されたまま人生を過ごす動物だ。
しかも、すでに取得した物語に親和的な物語ばかりを摂取したがったりする。
ポスト・ヒューマン誕生という物語に拒否感を感じるか、親和感を感じるか、その違いは自分の中のどんな既存の物語が原因になっているのか。
人間の幸不幸は、テクノロジーに関わらず、その者が取り込んだ物語しだいだ。 p.521

人類が石の道具や火、車輪などの技術を生みだすまでは、さらに数万年を要しただけです。16世紀に誕生した印刷技術は普及するのには百年ほどしかかかりませんでしたし、現代の携帯電話やミュージックプレイヤーは数年単位で普及しています。 P14

かつてのコンピュータは、大きな会議室ほどの大きさがありましたが、今ではわたしたちのポケットに入ります。それが衣服のなかに組みこまれるのは、もうすぐのことです。そして、より小さくなり、パワーを増したコンピュータは、次にわたしたちの体内に入ってきます。 P49

人間はみな非常に似た構造の脳をもっていて、すべての人類における遺伝学的な多様性は、ヒヒの一群の多様性よりも少ないのです。 P58

指数関数的成長理論

数億年前の生命の起源から、人間と機械が融合をはじめる数十年後の「特異点」をへて、究極的には「宇宙が覚醒する」という壮大なシナリオは、夢想と紙一重である。


非常に刺激的な未来予測

技術や知識は指数関数的に増大するという特性から未来技術は世の中の予想を越えて急速に進むとし、多くの読者が生きているうちにナノテクノロジーとAI技術が結びついた新しい世界を目撃するという。その予測は宇宙全体に知能が広がっていくという少々突拍子もないところまで進むが、予測には説得力があり、飽きさせない。

予測の内容は本書を読んでもらうことにして、非常に気に入った着眼点について述べたい。人間はしばしば遠い未来の予測を間違えるという。それは人間の未来予測が線形的(2倍、3倍、4倍・・・)なのに対して技術が指数関数的(2倍、4倍、8倍・・・)と進むので、実際には予測をはるかに越えて技術のほうが進むという。これは、まあ、いい。

はっとしたのは、同じように近い未来の予測も間違えるという指摘だ。なぜなら、近い未来では技術の進み具合が指数関数的に遅いからだ(1/2倍、1/4倍、1/8倍・・・)。したがって近い未来では逆に人間の期待の方が実際の技術進歩を上回ってしまう。これがときとしてバブルが発生する原因であり、また遠い未来を予測するときに間違える原因にもなっているというのは非常に鋭い。

この事象のあと何が来るのだろうか?
人間の知性を超えたものが進歩を導くのなら、その速度は格段に速くなる。
そのうえ、その進歩のなかに、さらに知能の高い存在が生み出される可能性だってないわけではない。
それも、もっと短い期間のうちに。
これとピッタリ重なり合う事例が、過去の進化の中にある。
動物には、問題に適応し、創意工夫をする能力がある。
しかし、たいていは自然淘汰の進み方の方が速い。
言うなれば、自然淘汰は世界のシミュレーションそのものであり、自然界の進化スピードは自然淘汰のスピードを超えることができない。
一方、人間には、世界を内面化して、頭の中で「こうなったら、どうなるだろう?」と考える能力がある。
つまり、自然淘汰よりも何千倍も速く、沢山の問題を解くことができる。
シミュレーションを更に高速に実行する手段を作り上げた人間は、人間と下等動物が全く違うのと同様に、われわれの過去とは根本的に異なる時代へと突入しつつある。

「ヴァーナ・ヴィンジ ― テクノロジーの特異点(1993)」