快楽と恐怖の構造

しかし、どうやって知覚、そして反応が起こり、しかも尚、それが精神の土壌に根づかないということが起こり得るのでしょうか。
私はこのことの手がかりを見つけなければなりません。
そうでなければ私は、絶え間ない経験の増加のなかを、悲哀と苦痛とを抱えて、ひどく条件づけられて生きていかなくてはならないからです。

私は、あらゆる経験への扉を開き、跡を残さない鍵、記憶としての経験をまったく心に留めない意識の状態を見出さなければなりません。

しかし実のところ、私たちは新鮮な心を望んではいません。
なぜなら、それは自分が蓄積してきた快楽の記憶すべてを捨ててしまうことを意味するからです。
断片的にではなく、全面的に過去に対して死ぬこと。
私たちの悲しみ、苦痛、恐怖に対してだけではなく、快楽すべてに対して死ぬことを意味するからです。

それをしないで新鮮な心を持つことはできません。
私たちは、新鮮な心が必要であるということを深いところでは知っているのですが、さし迫った緊急さ、情熱でもってはそれを望まないのです。

新鮮な心を持つために必要とされるエネルギーは、過去に対して死ぬとき生じるエネルギーです。
それは不断の高められた感受性の状態のなかにいることであり、そのなかに矛盾、葛藤、エネルギーの浪費はありません。

ひとは知的には新鮮な心の必要性を見ています。
心は「新鮮な心の状態があるという。で、私はどうすればそこに到れるのだろう」と尋ねます。
しかし実のところ、それは、「私に大きな快楽を与えてくれるであろう、その新鮮な心の状態はどうすれば手に入るのだろうか」と尋ねているに過ぎないのです。

つまり、あなたは新鮮な心そのものを欲しているのではなく、あなたが逃れようとしているまさにその快楽を求めているのです。
その快楽を求める要求こそがエネルギーの浪費なのです。
その二つのものは調和させられません。

私は見出してしまいました。
新鮮な心を持つためには、快楽原則自体を理解し、それを終わらせてしまわなければならないことを。
それに対して死ななければならないことを。

なぜなら、そうしないなら私は、「どうすれば新鮮な心、最高の快楽を手に入れられるのだろうか」と尋ね続けるからです。
私たちの大部分は、私たちが味わってきた快楽、蓄積してきた数多くの物事、憎しみ、虚栄心に対して死ぬことを本当には望んでいないのです。
私たちはそれらを大切に掴んでおき、なおかつ新鮮な心を持つことを望むのです。

では、私はどうやって過去に死んだらいいのでしょうか。
私はその質問をするでしょうか。
いいえ、しないでしょう。
なぜなら私は本当は過去を手放したくないからです。

私は本を書いてきました。
演台に座り、多くの講話をしてきました。
名声を持つ、世に知られた何者かでした。
私はそのすべてに死にたくはありません。
なぜなら、私が死ぬなら、私は何者でもあれないからです。
私は空虚の、空っぽの状態に耐えなければならないからです。

私が死ぬなら、名声、他の人が何と言っているかについて本当にまったく気にしていないなら、からっぽ、完全なからっぽの状態があります。
その空っぽの状態のなかに途方もないエネルギーがあるのです。
それは途方もない感受性と英知が詰まった空っぽです。
そのエネルギー、その英知、その感受性は、知識、経験、記憶の蓄積によってはどうしようとも引き出すことができません。
その空っぽが、「私はあらゆるもの―友達、名声、自分の快楽のための聴衆との語り合い、それへの要求を失ってしまった」と感じます。

あなたが快楽原則、快楽の継続を求める要求を理解してしまったとき、記憶としての経験の蓄積はありません。
それが心地良いので、私は記憶に執着する。
そしてそれが心地悪いので、苦痛は望まない。
―快楽が苦痛を引き起こすのです。

私は新鮮な心の必要性を見ています。
そして常に新鮮である心の状態にいるためには、それが心地良いからというのではなく、快楽としての、イメージとしての思考が意味を持たない全くのからっぽがなければならないということを理解しています。
心は英知、理性、論理、正気さによって、その地点に到達してしまいました―快楽を望んでではなく。

……

私たちは皆、より広く、より深い経験、もっと強烈で、もっと生き生きした経験を望んでいます。
そこで私たちは、麻薬を通じ、瞑想を通じて、あるいは感覚を研ぎ澄ますことを通じて、それらを捜し求めます。
ドラッグは、さしあたり並外れて敏感になることを助けます。
組織体の全体が高められ、日常生活の取るに足らなさから解放されます。
それは強烈なる体験をもたらします。
その強烈さの状態のなかで、経験者と経験対象との分離感のない、ある精神状態があるのです。
―花を見る人はおらず、その花のみがあるというような。
種々の形のこれら麻薬は、頭脳に強烈さ、並外れた敏感さを与えます。

私はどんな麻薬も取ったことがありません。
なぜなら、私にはどんな形の刺激も―飲酒、セックス、ミサに出席して、ある情緒的な状態になることも、あるいは話し手に聞き入り、そして刺激されることも―まったく有害だからです。
なぜなら、どんな形のどんな刺激も、どんなにかすかであれ、心を鈍感にするからです。
心はその刺激に依存するからです。
刺激はある習慣を確立し、心を鈍感にするのです。
私たちのたいていは麻薬を使ってはいませんが、より広く、より深い経験を望んでいることにおいては同類です。
したがって、瞑想するのです。
瞑想、思考の制御、訓練によって「経験」を持つことを、ある並外れた状態に到ることを望みます。
何らかの体験に至るための手段として瞑想をしているなら、そのとき瞑想はもう一つの麻薬となることでしょう。
それは習慣を作り出します。
鋭敏さ、感受性、自由な心の質を破壊してしまいます。

私たちはたいてい、従うことのできるシステムを好みます。
アジアには数多くのシステムがあります。
誰もがそれらシステムの罠にかかります。
しかし、真の瞑想はまったく違った何かです。
それを理解するためには、ある特定の沈黙の状態―それは本当は淀みなのですが―に達するための反復的訓練を含め、麻薬をやめ、あらゆる方法を捨てなければなりません。
更なる経験を求めるあらゆる形の欲望を捨てなければなりません。
これは非常に難しいことです。
なぜなら、私たちは間違いなく、もっと多くの何かを望んでいるからです。
内的な、より深い、よりすばらしい経験を求めているからです。
しかし、ひとはこれら全てを終わらさなくてはなりません。
そのときにのみ自由があるからです。
これらのものごとをやめるやり方が非常に重要です。
私はこれやあれを望むのをやめることができます。
私は、キリストや仏陀のヴィジョンを見ることを望むのをやめるかもしれません。
なぜなら、それは明らかに馬鹿げているからです。
しかし、内面的に、私はなお「経験」を望んでいるのです。
過去によって汚されていない経験を望んでいるのです。
しかし、あらゆる経験が過去によって汚染されています。
過去の重さ、深さ、その意味、その質を理解しなければなりません。
その理解のなかで、私はそれに対して死んでいきます。
心はそれに対して死んでいきます。

心こそが過去なのです。
その連想のすべてと共に、頭脳の構造の全体が過去の結果なのです。
それは時間、二百万年の時間によって作りあげられてきました。
単なるジェスチャーで、そのすべてを止めることはできません。
すべての反応が起こっている今、それを理解しなくてはなりません。
それに気づいていなくてはなりません。

気づいているということは、非難したり、正当化したりすることなく、それを見守っていること、それに聞き入っていることを意味します。
心はそのとき、それ自身の反応、応答、欲求を見出し始めます。
それを決して非難してはなりません。
非難があるかぎり理解はないのです。
私たちは非難し、そして理解したと思うのですが、理解してなどいないのです。

私たちがなぜ非難するのかを理解しなければなりません。
なぜ非難するのでしょうか。
なぜ、もっともらしい説明をつけ、分析し、正当化するのでしょうか。
非難、正当化、分析、説明づけは、事実から目を逸らすやり方の一つです。
事実はそこにあります。
あるがままのもの、それはそこにあります。
私がそれをするとき、エネルギーを浪費しています。
事実、現に存在するものを理解するためには、心と事実との間に少しの距離も発生させることなしに、完全にそれと共に生きなければなりません。
なぜなら、心が事実だからです。

あなたは麻薬と経験を求める衝動とを捨ててしまいました。
なぜなら、この醜く奇怪な世界から並外れた何かに至ろうとするとき、あなたは経験を招いており、そしてそれが再び事実からの逃避になると云うことをあなたは見るからです。
心と頭脳全体が過去の結果です。
それゆえ、あなたは意識そのものを理解しなくてはなりません。
分析することによってではなく、それを即座に理解しなければなりません。
どうやって注意深く見るのかを知るなら、その全体を、即座に、一瞥で理解できるのです。
そこで私たちは、どうやって見るのかを知らなくてはなりません。

見ているものについて、何らかの非難の感覚、何らかの正当化の感覚があるなら、注意深く見ていることはできません。
そのことが、まず完全に明らかでなければなりません。
私たちは今、見るやり方、方法について話してるのではありません。
そうではなく、一瞥で、内面的な注視で、全体の構造を理解し、そしてそれから自由であることができるかどうかを知ろうとしているのです。
それが瞑想の意味するものなのであって、他の何ものでもありません。

心はこの地点に到達してしまいました。
なぜなら心は、麻薬、経験、権威の信奉・受け入れ・追従、反復的な訓練、心の制御、それらすべてをやめてしまったからです。
心はそれらを注意深く見、調べ、学び、観察してきました― それが正しいとか間違っているとか言わずに。
何が起こっているのでしょうか。
麻薬によってではなく、どんな形の刺激によってでもなく、心はいまや自然に油断がなく、敏感に、とても敏感になってきました。

……

すべての努力を止めることができるでしょうか。
意志にはそれをすることができません。
私がそれを止めるために意志を訓練するなら、ふたたび戦いがあるでしょう。
―その訓練そのものが葛藤を引き起こすが故に。

努力を伴わない生が、唯一創造的な生なのです。
そのような生を生きるためには、欲望の構造を理解しなければなりません。
なぜなら欲望は、反対物のあいだの葛藤、二重性、欲求と回避、快と不快との葛藤を引き起こすからです。

どのように欲望が生じるのかを、まさにその始まりから見なければなりません。
欲望を抑圧するのでも、制御するのでも、変化させるのでもなく、欲望の基盤、その全構造を理解しなければなりません。

思考が欲望に、形態、継続性、活力を与えているのが分かります。
なぜ思考はこんな風に欲望に干渉するのでしょうか。

私は何か美しいもの― 女性、車、家などを見ます。
欲望が始まり、そして思考がそれに持続性を与えます。
もしも思考が欲望に干渉しないなら、欲望の終わりがあるでしょうに。

私たちが恐れているのは何かの終わりではないでしょうか。
もしも欲望が終わり、それに対する継続がないとしたら何が起こるのでしょうか。
そこには時間が含まれています。
私たちは何でも皆、終わることを恐れているので、時間を、心理的な時間を持ち込むのですが、それは事実ではなく、心によって作り出されたものに過ぎないのです。

私たちにとって時間は途方もなく重要なものになってしまいました。
もし、ひとが「心理的には明日はない」という事実に本当に直面するなら、ぞっとすることでしょう。

……

何が快楽なのでしょうか。
あなたは昨日の日没の光景がそれだと言いました。
ですが、それを知覚した瞬間には快楽も苦痛もなかったはずです。
そこにはただ事実との瞬時の接触があっただけなのです。
ですが数分後には、あなたはそれについて考え始めます。
それについて考えることが、あなたに快楽をもたらします。
同様に、その快楽の喪失について考えることが、あなたの内に恐怖を生じさせるのです。
その思考の中身が何であれ、この「~について考える」という心理的運動そのものに、快楽と恐怖の根源があるのです。

……

より大きな快楽という動機なしに快楽を放棄すること、つまり、その快楽に完全に死ぬためには、英知である気づきを必要とします。

それは、今日繰り返される昨日一日ではなく、新鮮な朝がなければならないということの理解があるときに生じます。
そのことが絶対的に明確であるとき、すべてはたやすく後について来るのです。

あらゆる形の快楽を― したがって苦痛と悲しみを― 拒絶してしまうとき、ひとは跡を残すことなしに経験を持つことができるのです。
なぜなら、その拒絶は快楽と苦痛の構造全体への気づきによるからです。
その気づきのなかからエネルギーが生じます。
そのエネルギーが英知なのです。

……

あなたは快なる経験、心地よい経験についての記憶を保持します。
そして、それらについて思い巡らせます。
それはセックス、その他の経験であるかも知れません。
快楽のひとときをもたらしたその経験について考え、それを繰り返し味わいたく思うのです。

それゆえ、思考は恐怖への応答であるだけでなく、快楽への応答でもある訳です。
思考が快楽を維持し、同時に恐怖をも育てる。
この二者は分離しているものではありません。

快楽の追求があるところ、恐怖もまたあるに違いない。
一方があるところ、もう一方もあるに違いないということ― これは避けようもない事実です。

なぜなら、その両者とも思考の産物だからです。
そして、すべての社会的な道徳もまた、この快楽と恐怖、報いと刑罰の原理に基づいているのです。

あなたは昨日、夕焼けを眺めました。
丘は夕映えのなかで驚異的な光を放ち、そこには計り知れない美と喜びがありました。

どなたか、それをすっかり終わらせてしまえるほど、それゆえ思考がそれを明日に持ち越してしまうことがないほど、完全にそれを楽しむことができた方はおありでしょうか。

そして、もし恐怖がその夕映えのようにそこにあるなら、その恐怖にも同じく完全に直面できるでしょうか。
思考の干渉なしに、それに完全に気づいていられるでしょうか。
そして、そのとき、そこに恐怖があるでしょうか。

……

心は記憶でいっぱいです。
それは記憶で構成されています。
あなたは記憶なしの心を持っていません。
あなたが過去に学び、経験し、生き、苦しんできたものごとすべての記憶以外、何も持っていません。

心は、意識的、無意識的な記憶です。
記憶のなかには愉快なものと不愉快なものがあります。
そして私たちは不愉快なものを拒絶したい。
望ましいものをずっと持ち続け、望ましくないものを取り除きたい。
それで常に続いている葛藤があるのです。

私たちが理解しなければならないのは、「どうやって愉快な記憶を持ち続け、不快な記憶から自由になるか」ではなくて、むしろ「ある記憶を持ち続け、他のものを拒絶したいという欲望を、どうやって取り除くか」ということです。
その欲望自体が葛藤を引き起こしているのです。

重要なことは、この葛藤に気づいていること、そしてなぜ心は記憶を集め、それらにしがみつくのかを理解することです。

なぜ心は、一つのものに執着し、もう一つのものを拒絶するのでしょうか。
どうか、これについて来てください。

あなたが愉快な記憶にがっちりとしがみついていないなら、あなたは一体、何なのでしょうか。
もしも、あなたが愉快な、望ましい、楽しいものごとの記憶を持たないなら、あなたは当惑し、取るに足りない人間だと感じるのです。
心はそれゆえ愉快な記憶に執着します。
なぜなら、それなしには心細く、絶望するだろうからです。

そこで問題は「どうやって不愉快な記憶を取り除くか」ではありません。
それは比較的やさしい。
あなたが故意に過去を拭き消すことに取りかかるなら、それは比較的簡単になされるでしょう。

しかし、もっとずっと複雑で、もっとずっと深い思考と調査を必要とするものは、意識的な記憶だけでなく、私たちの生を導く、より深い、下に横たわっている記憶の全体の意味を調べることなのです。

……

反応としてではなく、時間が快楽の原理に基づいた混乱を引き起こしていることを実感し、理解したが故に時間をしりぞけてしまったとき、そのとき事実に直面するエネルギーを持っています。
そのとき歪みはありません。
幻想と歪みを作り出している快楽が終わってしまったのです。
したがって事実が直視され得ます。

……

理解するのが困難なことの一つは、快楽の全体の力学、あるいは構造です。
あなたが高度に鋭敏であるとき、あなたの全存在が敏感です。
あなたの体、神経、目、耳― あなたの持ち合わせるすべてが鋭敏です。

非常に美しい、あるいは非常に醜い何かを見ることは快楽の瞬間なのですが、しかしそれは継続性を持つべきではありません。
継続性を持つや否や、ひとは鈍感になります。
そして鈍感のあるところには混乱があります。

時間をしりぞけるとき、快楽とその継続をしりぞけるとき、起こることは、心、頭脳が完全に静かであるということです。
そしてこの静けさ、この安らかさ、この強烈さは、ひとが見てきたことの結果なのです。
これは努力の結果ではまったくありません。

快楽があるとき努力があります。
このことを本当に見てしまったなら、心は時間― 快楽原理の型― から外に踏み出てしまっており、したがってもはや、進歩の、何かから免れるための、達成するための手段として時間を当てにしてはいません。

誰かの死があるとき、心はその挑戦、そのできごとに、いかなる動きもなしに直面するのです。
このことは同情心に欠けていることを意味しません、残酷さを意味しません。

死は広大なものであり、あまりに莫大なので、ちっぽけで狭量な心によって理解されるものではないのです。
心が静かなときにのみ、広大な何かに直面できるのです。

……

恐怖とは何でしょうか。
どのようにしてそれは生じるのでしょうか。

恐怖は常に何かと関係しています。
それ自体では存在しません。

昨日、苦痛がありました。
その記憶があり、私はもう二度と苦しみたくありません。
昨日の苦痛について考えること、昨日の苦痛の記憶を伴う思考が、明日再び苦しむという恐怖を投影します。

それゆえ、恐怖を引き起こすのは思考です。
思考が恐怖を作り出します。
思考はまた、快楽を育成します。

恐怖を理解するためには、快楽もまた理解しなければなりません。
それらは互いに関係しています。
一方を理解することなしに他方を理解することはできません。
恐怖は快楽と呼ばれるコインのもう一つの側面(裏側)なのです。

昨日の快楽の記憶を伴って考え、その快楽が明日はないかもしれない、と思考は想像します。
そこで思考は恐怖を引き起こします。
思考は快楽を持続させようとし、それによって恐怖を育てます。
思考はそれ自身を、思考者思考されたものとして分離してしまっています。
それらは両者とも、それ自身にトリックを仕掛けている思考の一部なのです。

……

私たちは、恐怖を全体として調べることができるでしょうか。
さまざまな心理的恐怖だけではなく、恐怖そのものを。

さまざまな反応や影響を通して引き起こされた種々の恐怖があるかも知れませんが、実際にはただ一つの恐怖があるだけです。

恐怖はそれ自体では存在しません。
それは何かに対する関係のなかに存在します。
それはかなり単純で明白なことです。

人は何かを―未来のもの、過去のものを、達成できないことを―恐れます。
愛されないことを、淋しい惨めな生を送ることを、老年と死を恐れます。
そのように認識できるものと隠れたものの両方の恐怖があります。
私たちが調べているのは、どの特定の形の恐怖でもなく、その全体です。
それはどうやって起こるのでしょうか。

その質問をするなかで、あなたはまたこのことをも尋ねなければなりません。
―快楽とは何でしょうか。

……

なぜなら恐怖と快楽は相伴うからです。
快楽を理解することなしに恐怖をなくすことはできません。
それらは一つのコインの表裏です。

それゆえ恐怖についての真実を理解するなかで、あなたは快楽についての真実をも理解します。
快楽のみを残し、恐怖を持たないことを望むのは不可能なことです。
ところが、もしその両方を理解したなら、それらについてまったく異なる評価、異なる理解を持つことでしょう。
そのことは、快楽だけでなく、恐怖の構造と性質についても学ばなければならないことを意味します。
一つのものからは自由であり、もう一つのものは手離さないということはできません。

そこで、恐怖とは何であり、快楽とは何でしょうか。
あなた自身のなかに見て取れるように、あなたは恐怖を免れたいと望んでいます。
人生のすべては恐怖からの逃避です。
あなたの神、あなたの教会、あなたの道徳は恐怖に基づいています。
そして、そのことを理解するためには、この恐怖がどうやって生じるのかを理解しなければなりません。

あなたは過去に何かをしてしまいました。
そしてそれを誰かに知られたくありません。
それは恐怖の一つの形です。

仕事がないので、あなたは未来を恐れます。
あるいは、他の何かを恐れます。

それゆえ、あなたは過去を恐れています。
そして未来をも恐れています。

思考が、過去に起きたこと、将来起きるかも知れないことについて考えるとき、恐怖は生じます。
あなたは死について考えることを非常に慎重に避けています。
しかし死は常にそこにあります。
それについて考えたくはありません。
なぜなら、考えるや否や恐れが生じるからです。
そして恐いので、それについて理論を持ちます。
復活を、輪廻を信じます。
何十もの信念を持ちます。
すべて恐れるからであり、そのすべては思考から起こります。
思考は昨日と明日についての恐怖を作り出し、保持します。
そして思考はまた快楽を保持します。

……

あなたは美しい日没を見ました。
その瞬間、大きな喜びがあります。
すると思考がやってきて言います― 「ぜひ、もう一度それを味わいたいものだ」。
あなたはそれについて考え始め、翌日、またその場所に行きます。
しかし、それは二度とは体験できません。

あなたは性的快楽を持ち、それについて考え、それを噛みしめます。
イメージ、記憶像を作り、思考がそれを保持します。

快楽を保持している思考と、恐怖を保持している思考があります。
これはあなたが理解すべき現実です。
したがって同意や不同意はありません。

そこで、思考とは何でしょう。

思考は明らかに記憶の反応です。
もしも記憶を持っていないなら思考はないでしょう。
思考は、恐怖と快楽を育て保持するだけでなく、効果的に機能し、行動するためにも必要です。
あなたが技術的に機能するとき、思考は完全に客観的に使われなければなりません。
そして思考はまた、恐怖と快楽、苦痛を育てるのです。

そこで人は自分自身に問います―思考はどんな居場所を持っているのだろうか。
思考が完全に機能し使われなければならない場面と、美しい日没を見、今それを生き、そしてそれをその瞬間忘れ去るときのように、思考が干渉してはならない場面との間の、どこに境界線があるのだろうか。

それゆえ私たちは非常に微妙な問題を持っています。

人は恐怖を引き起こす思考の危険を見ます。
恐怖は破壊し、誤らせ、心を暗黒のなかに惨めに生きさせます。
しかも尚、思考は感情なしに、効果的に、客観的に機能しなければならないのです。

このことを非常に明確に理解することが重要です。
なぜなら、多くの言葉を聞きながらあなたがそこに座っていたところで、その終わりにあなたがなお恐れているなら何の意味もないからです。
あなたが実際に、心理的に、恐怖の全構造を理解することによって、ここを立ち去るとき何の恐怖もなくなっているのでないならば。
そのことが、学ぶこと、見ることが非常に重要な理由です。

私たちが今やろうとしていることは、どのように恐怖が生じるかを非常に綿密に観察することです。
あなたが死や失業することについて考えるとき、過去であれ未来であれ、多くの物事を考えるとき、恐怖の必然性があります。

思考は機能しなければならないという事実を心が見、そしてまた思考の危険を見るとき、このことを見ている心の性質はどんなものですか。
私があなたに告げるのを待つのではなく、あなたが今、見出さなければなりません。

どうか注意深く聞いてください。
それは本当にとても単純です。

私たちは分析は役に立たないと言いました。
そしてその理由を説明しました。
そのことの真実を見たのであれば、あなたはそれを理解したのです。

以前あなたは、あなたの条件づけの一部として分析を受け入れていました。
今、分析の無益さ、間違いを見ることによってそれはなくなってしまいました。
そこで分析を捨ててしまった心の状態はどのようでしょうか。
より自由ではないでしょうか。
したがって、それはより生き生きとし、より活動的であり、それゆえもっとずっと英知があり、より鋭く、より敏感です。

そしてあなたが、どうやって恐怖が生じるかについての事実を見てしまい、それについて学び、また快楽の過程をも見てしまったとき、
そのとき、あなたの心の状態はどうでしょうか。
それはよりずっと鋭く、より明晰に、したがって驚くほど聡明なのではないでしょうか。

この英知は、知識や経験とはまったく何の関係もありません。
あなたが分析の全構造とそのなかに含まれているもの―包含されている時間と、一つの断片が他の過程全体を解決しようとする思考の愚かさを非常に綿密に観察してしまったとき、そしてあなたが恐怖の性質を見てしまい、快楽が何かを理解してしまったとき、この英知が生じます。

それゆえ恐怖が明日あなたを襲ったとき、あなたはそれに直に向かい合い、それを延期したりしません。

そして、それとの出会いそのものがそれの終わりです。
なぜなら英知が働いているからです。
そのことは既知の恐怖だけでなく、深い隠れた恐怖の終わりをも意味します。

快楽の問題を調べるとき、人はまた本当の喜びとは何かを理解しなければなりません。
と云うのは、それは快楽とは何の関係もないからです。
快楽、欲望は愛と何か関係があるでしょうか。

この全体を理解するためには、ひとは自分自身を観察しなければなりません。
あなたは世界の結果です。
あなたは他の人間たちの一部である一人の人間です。
その人間たちはみんな同じ問題を、おそらく経済的・社会的な問題だけではなく、人間的な諸問題を持っています。
みんな、戦い、驚くべき努力をし、生の無意味さに耐えながら…

そこで人は、生きるための方式をでっちあげます。
そのすべては、あなたが自身の構造、恐怖、快楽、愛の構造、死の意味を理解するとき、まったく不要になります。
そのとき、あなたは全的存在として生きることができるのです。

……

快楽だけを楽しむことができるように、恐怖をすべて取り除くこと。
まさに世界中のあらゆる人が同じことを望んでいます。
ある人は露骨に、ある人は微妙に。
恐怖を免れ、快楽だけを味わおうと。

……

欲望と情熱は別のものだということをはっきりさせておくべきだと思います。
欲望は思考によって持続させられ、思考によって駆り立てられ、思考のなかに内容を蓄積して成長し、やがてそれは性的に―あるいは、それが権力に対する欲望であれば、達成という暴力的な形で―爆発します。
情熱はまったく別のものです。
それは思考の産物ではなく、過去の出来事の記憶でもありません。
それは達成という動機に駆り立てられたものではありません。
それは悲しみでもありません。

……

本来の情熱とは、快楽とは異なる歓び― 至福感と関係があります。
快楽においては常に、手の込んだ形をした努力― それを得、保とうと努め、戦い要求し、苦闘すること― がなされます。

情熱においては要求がないため、苦痛もありません。
情熱においては達成しようとする気持ちが微塵もないため、欲求不満も苦痛もありません。
情熱とは達成と苦痛の中心であるからの自由なのです。
情熱は何も要求しません―ただ存在するだけです。
といっても、生き生きとしていないということではありません。

情熱とは、あなたや私の存在しない自己放棄の清楚さです。
それゆえ情熱は生の本質なのです。
活動し、生きているのはこの情熱です。
けれども、思考が所有や持続といった問題を持ち込むとき、情熱は消えてしまいます。
情熱がなければ創造は不可能です。

……

欲望は常に存在する。
欲望の対象は変化し、現象や増殖を繰り返すが、欲望は常に存在している。
制御され、責め苦を負わされ、否定され、受け入れられ、抑圧され、放任され、あるいは遮断されながら、あるときは弱々しく、あるときは力強く、それは常に存在する。
欲望のどこに問題があるのだろうか?
なぜ欲望に対する絶えざる闘争があるのだろうか?
それは心をかき乱し、苦衷を招き、混乱と悲しみへと導くというのに、それはあるときは弱々しく、あるときは溢れんばかりに、絶えずそこに存在している。
認識を総動員してそれを抑圧したり統制したりすることではなく、ただそれを完全に理解することが必要性を理解するということである。
必要性と欲望は充足と欲求不満のように一体である。
高貴だったり、下劣だったりする欲望があるのではなく、ただそれ自体のなかで絶えず葛藤している欲望だけが存在する。

隠者も権力者も共に欲望で燃え立っており、たとえどんな名でそれを呼ぼうとも、それは物事の核心を喰い荒らしながら存在している。
外面や内面における必要性の全面的な理解があるとき、欲望はもはや責め苦ではない。
そしてそれは思考の内容をはるかに越えた、全く違った意味と重要性とを持ち、情緒、神話、幻想を伴った感情を超越する。
必要性の単なる要求や質の理解ではなく、その全面的な理解によって欲望は炎となり責め苦ではなくなる。
この炎なくしては生自身が見失われてしまう。
欲望の対象のささいさや、その上に投影されてきた境界、囲いなどを焼き尽くすのはこの炎なのだ。
あなたはそれを、死だとか、美だとかお望みの名前で呼ことができる。
それは尽きることなくそこにある。