グリーンヒル瞑想研究所の「今日の一言バック・ナンバー」 からの私的抜粋です。
「眠気」とサティを入れても、全然消えない?
では、もう少し分析的に、生理的現象と心理的現象とに仕分けて、観察してください。
ボーッとした感じやトロリとした眠気も、物理的な細胞レベルでの感覚と、心理現象として心の働きそのものが鈍くなっている感覚とは違うのです。
色法の現象として捉え、名法の現象として捉える…。
色法(Ru^pa:ルーパ)とは、身体現象の変化プロセス、名法(Na^ma:ナーマ)は心の変化プロセスを差します。
変滅するプロセスとしての精神現象(ナーマ)と物理現象(ルーパ)の関係がゴッチャになって識別できない状態から、エゴ妄想や神妄想、魂妄想などが生まれてきます。
瞑想しない限り、四六時中、思考モードで生きなければならない…。
エゴのある感じが永久に続くだろうね。
完全に思考が止まれば、エゴも消える。
エゴ感覚は、非常に短い無意識の思考の編集…。
対象の特徴を識別し、その本質を洞察する対象特化型のサティ。
心に接触するいかなる対象も瞬時に手放し、ゴミの中身は点検せずに離欲の究極を目指す撤退型のサティ。
智慧は、無執着から生まれる。
どんなものも変滅し、壊れてしまう不安定さを<ドゥッカ(苦)>と言います。
みずみずしい感受性で知覚したものを、無感動に見送って捨てるのです・・・。
一瞬も止まることなく壊れていく法の世界には執着できるものが何もないではないか…。
妄想にしか渇愛の起こしようがないではないか…と、理解するのがパンニャー(智慧)です。
心が事実のみを経験している清潔さ…。
センセーション(身体実感)から思考やイメージに心が飛ぶ瞬間もあるでしょう。
が、その刹那に「思考」「イメージ」「雑念」とサティを入れればよいのです。
「センセーションを知覚した事実」→「雑念が浮上した事実」…。
何であれ一瞬一瞬、事実のみが確認されている心は清潔です。
完全に思考が止まった心からいつでも、瞬間的に、慈悲の反応が起ち上がってくる…。
仏教の瞑想修行が目指しているゴールの一つです。
外界の知覚対象は制御できても、意門の思考やイメージを相手にしないで見送るのは至難の業。
「刃物は砥がなければ鋭くならない。真鍮の食器は、磨かなければ光らない。そのように、鋭い洞察智は、マインドフルでなければ得られない」(ウ・パンディタ・サヤドウ)
瞑想中の眠気を嫌っていることに気づきましょう。
「こんなんじゃ修行になってない」という投げやり気分にも気づきましょう。
その時の現状を客観視して気づくのが、ヴィパッサナー瞑想です。
心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか?
はっきりと知っている人に、怒りは存在しない。『ウダーナヴァルガ20-17』岩波文庫
心は、因果関係と条件によって、一瞬々々生滅している現象なのです。
どのような現象も自我の思い通りにはならないので<諸法無我>と言います。
「<諸法無我>とは<もろもろのダルマはアートマンではない>という意味じゃないんですか?」
「いかなるものにも宰領する真我がなければ、存在しているのは、ただ因果関係だけでしょう。だから物事は思い通りにならないのです」
「それって、経典の裏づけがあるんですか」
「代表的な経典としては<無我相経>があります」
「でも、ちょっとは思いどおりになるのではないですか」
「ある原因を組み込めば、相応の結果が現れるシステムは働いています」
きれいな心で生きたければ、善心が生起する原因を組み込むことです。
貪・瞋・痴を出したければ、煩悩が刺戟されるような環境を選ぶとよいでしょう。
「でも、貪るのは楽しいし、怒るとスカッとするんですけど…」
「その貪りや怒りが一段落し、冷静さが戻ってきた時はどうですか…」
瞑想がうまくいくときには、欲界(眼耳鼻舌身意の情報世界)を駈け回る心が静まります。本当の瞑想の世界を垣間見れば、食べる、見る、聞く、触れる…の官能的悦楽など、つまらないことに思えるでしょう。(→②)
捨てるのでも、手放すのでもない。瞬時に変滅していくのをただ見送るだけ・・・。
私たちは皆、あるがままの自分が嫌いなようです。自分の欠点を憎んでいて、その存在を否定し、抹消したくてなりません。たいていは無意識で、自覚に上っていない場合が多いのですが・・・(【月刊サティ!】7月号巻頭言より)
淡々とした静かな心が、常に、切れ目なく続いているか・・・、と言うと、厳密には、期待感が起きた瞬間に、サティ。未来希望図が出た瞬間に、サティ。がんばる、と思った瞬間に、サティ・・・。悟るまでは、この連続です。
極微の一刹那だけ心は動揺しますが、次の瞬間には終了しているので、まったく問題にはならないのです。
人とおしゃべりをすれば、嵐のように飛び交う雑多な想念とイメージで、心はもみくちゃにされます。一人になれば、つけっぱなしのテレビから情報が乱射、乱入してきます。
テレビを消した瞬間、取り止めもない考え事が堰を切ったように始まります。瞑想しないで、おふとんに入るや否や、夢(→睡眠中の妄想)、夢、夢・・・。その夢を見たことすら覚えていないで、また同じ一日を繰り返しながら、歳を取っていくのです・・・。
ブッダの時代、最もよく修行をし、悟った人が多かったのは、クル国の人々だと云われます。井戸端で洗い物をする母が娘に問われます。
「母よ、あなたは今、何にサティを入れていますか?」
「娘よ、今、私はサティを入れていませんでした」
「それでは、あなたは、生きていなかったのと同じです・・・」
現代の私たちも、頭の中に常に妄想を充満させ、法としての事実を見ることなく、酔ったように生き、夢のように死んでいきます。
たとえ実感の伴わない、言葉だけのラベリングでもかまいません。必ず完全なサティに近づいていきます。何もしなければ、心は1ミリも成長しません。
私たちは、なんと巧妙に本当の心を隠し、見たくないものから目を背け続けていることでしょう。
自分が思っているほど、本当は美しくも立派でもない現実の姿を、ありのままに直視するので、正しく自己変革ができるのです。
人とおしゃべりばかりして、独りになる時間がないと、自分を見失います。
人の言葉と自分の言葉で、頭の中がパンパンに充満してしまう・・・。
さあ、サティのモードに入って、瞑想しましょう。
同じサティだが、意識の矢印が外側に向けられている場合と、内側を見ている場合とでは修行のレベルが異なる。
対象をよく観るために注意を注ぐか。心の認知システムそのものを理解する方向に注意を払うか・・・。
離欲の究極を完成する修行だが、本質を理解し、捨てていくのが順番である。ゴミをゴミと判別しなければ捨てられない。すべてがドゥッカ(苦)という危険物だと分ったときに、一切のものから離欲して、煩悩を捨てる修行が完成する。