観察系と反応系の関係について

「臨死体験・気功・瞑想掲示板」より「武男さん」の発言。文章、多少いじってます。

私の視点では、今この瞬間と云うものは、捉える事ができないのです。
そして、今この瞬間が自分自身なのです。
よって、自分自身と云うものは、捉える事ができないのです。
つまり、自分自身を自分自身で悟っているとか、悟っていないとか、自分自身で識別しないところで楽なんですね。

> 付け加えるのなら、他者に対しても他者を限定して(良い意味でも悪い意味でも)枠にはめてしまわないように注意をしています(日々努力中ですが)。

一つアドバイスをすれば、そこに至る過程として、他者を「善人である」とか「思いやりの有る人」とか、そういう自分の遭遇する全ての現象に対して「善」と云う捕らえ方をしていくと、そこにたどり着けますよ。
出会う現象の全てを善と意味付ける

ブッダの弟子のプンナが故郷(スナーパランタ)へ布教に行く際の逸話

プンナはブッダの教えを広めるために故郷へ帰ろうと考えて、ブッダの許しを求めた。しかし、ブッダはすぐには同意しなかつた。その代わり、次のように少し風変わりな問答をした。

ブッダ
「スナーパランタには未開で野蛮な種族が住んでいる。彼らはよこしまで、獰猛(どうもう)で、乱暴で、残酷だ。また他人をののしり困らせる。もし、ののしられたり困らされたりしたら、君はどう思うか。」
プンナ
「スナーパランタの人びとは善良で、紳士的な人びとだと思います。少なくとも私をなぐったり、泥を投げたりしませんから。」
ブッダ
「しかし、もし君をなぐったり、泥を投げたりしたら、どうか。」
プンナ
「善良で紳士的な人びとだと思います。少なくとも、私を棍棒(こんぼう)や刀で襲ったりしないからです。」
ブッダ
「しかし、もし君を棍棒や刀で襲ったら、どうか。」
プンナ
「それでも善良で、紳士的な人びとだと思います。少なくとも、私の命を奪おうとしないからです。」
ブッダ
「しかし、プンナ、もし殺されたらどう思うか。」
プンナ
「それでも善良で、紳士的な人びとだと思います。というのは、この腐った屍(しかばね)のような肉体から私を解き放してくれるからです。私にしてくれたことに、感謝しなければなりません。」

ここでブッダはプンナの願いを聞き入れ、やさしい言葉で彼を送り出した。
「プンナよ、君にはこの上ないやさしさと忍耐力が備わっている。スナーパランタへ行って住みなさい。そして、君と同じように自由になるにはどうしたらいいかを、人びとに教えなさい。」
プンナは感謝して暇乞(いとまご)いをし、故郷へ帰って行った。最初の雨季が終わるまでに、そこで五百人の弟子を集めたといわれている。

……

自分自身が、目の前の現象に対して無抵抗になる事が、まず重要なのですね。

……

釈迦の教えとは、そもそも識別思考を超える方法なのですね。

識別思考を交えないで、最初から、自分の目の前の現象を捉えられるのなら良いと思いますが、多くの場合は、私が例に上げた仏教の逸話でも分かるように、自分自身に理不尽と捉えられるような事を他人にされたりして、自らの心の内面に怒りなどの暴力が起きるのですよ。

その時に、意識的に「気をつけていて」、自分でその対象を否定せずに、受け入れられる意味付けをすると云うのが、この識別世界と云う激流を超える為の一つの手段です。

善と捉えた時点で、それとは相対する悪と云う基準も同時に自分の中に有るのです。

現象を悪と捉えそうになった時、意識的に善と意味付けできれば、相対世界は片方だけでは成り立ちませんので、やがては(自分の中から現象を悪と捉える捉え方が無くなれば)善と云う捉え方もなくなるのです。

よって、私が例に上げた仏教の逸話でも、全てを善と捉える捉え方と云うのは、釈迦も否定しなかった通りで、識別世界を超える為の有効な方法なのです。

……

私は仏教に出会うよりも先に、「私は何の為にこの苦しみ渦巻く世の中に生きているのだろうか」「人間は何の為にこの苦しみ渦巻く世の中に生きているのだろうか」と云う独自の探求テーマを持ってしまったのです。

そこで、探究していった時に、自分の思い通りに制御できない、外部の現象に振り回されまくる、自分自身の心の内面の暴走に気づいたのですね。

しかも、この外部の現象に振り回されまくる心の内面の暴走は、私が就寝中以外の意識が有るときは、常に私自身に付きまとい、これから逃れる事ができないのです。

その時、ふと出会った釈迦の伝記本に、えらく心休まるものを感じたのです。

私がほんのわずかな仏教聖典や新約聖書を取り入れたのは、高い超えた基準に触れたいことが目的でした。

書籍なり人物なり、低い思想に触れていたら、そのレベルから脱出する事など決してできません。

ルカの福音書6-40
弟子は師以上には出られません。
しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

……

私から見た仏教の真髄とは、自分の内面に認識できるものを手放す事の一言に尽きますが、
釈迦の教えとは、識別思考を超える方法なんですよ。
基本となるものは、釈迦の場合は対象に対して「正しい」と云う基準(識別)を使う事なんです。
識別世界を超えるためには、越えるための識別を利用することになります。
よって、最終的には、「正しい」と云う基準そのものが、手放されるのです。
正しい教え等と云う絶対的なものなど無いのですよ。
釈迦も最終的には信仰を手放せといっているんです。

釈迦の説く法でさえも絶対的なものではないので、法をいかだに譬えて、渡り終わったら手放せと言っているのです。
多くの人の中には、「正しい」と「正しくない」と云う、その人にとっての絶対的な基準が有るのですからね。
実践していくと分かりますよ。「正しい」ものなど何も無いと云う事がね。

……

識別世界を超えるためには、超える為の識別、釈迦の場合は「正しい」と云う識別方法を使ったのです。
よって、識別世界を超えたなら、「正しい」ものなど何もなくなるのですよ。
つまり、「正しい」と云う基準を使った教えなど絶対的なものではないので、識別世界を超えてしまえば「正しい」と云う識別を利用した教えなど存在できないのですよ。

……

自分の遭遇する現象にたいして、受け入れやすい肯定的な意味(捉え方)を付ける事がポイントなのです。

重要な点は、否定せずに受け容れると云うこと。
それぞれ独自の受け容れやすい意味を付ければ良いと思います。

本来現象に対しての意味付け(捉え方)は、ネガティブにもポジティブにも自由に付けられる。
今この瞬間に至れた時に、意味が消失する。

……

内面での対立を防ぐ事はなかなか難しい。
自分が遭遇する現象にたいして、思い(思考)の無条件降伏こそが、内面の対立を超える為の方法なのです。
釈迦も修行中は、人にいたずらで、耳に木型を差し込まれたりしても、何もせずにじっとして居たとか言いますね。

結局、次の事を実践する意外に超えられないのですよ。
たとえ自分が話している相手が、刑務所にいる極悪犯罪人であろうとね。
どうしても、思考(思い)は現象に反応して動こうとしますから。
自分の思考による判断を手放す事が、識別世界を超える為の方法なのです。
そのためには、策として、前に私が逸話で話した、プンナと云う釈迦の弟子の話のように、全ての人を善と捉えるとか、自分より優れている人と捉えるとか、と云う手段が有効だったりするのです。
否定したいときは、意識的に、否定せずに保留など。

……

自分の出合う現象はカルマですので、その現象に対して心の内面で対立しないと云う事は、カルマを超えるためにとても有意義なことだと思います。

……

思い(思考)の判断は、カルマの堂々巡りを繰り返す方向で動こうとするのです。
意識的になれば(常に気をつけていれば)、カルマを超える方向で取り組めます。

……

反応は、思いが識別を超えるまでは起きます。
なぜなら、それまでは自分の中に「正しい」「正しくない」「善」「悪」等の「識別作用」が有るのですから。

ただし、仏教でも聖書でも、あと色々な賢者と思われる方でも、有効な方法として「(心の)内面観察」を勧めているわけです。

内面観察とは、常に「気をつけていて」、現象によって動き回る、自分の心の内面を見つめ、そのまま手放す事なのです。
もし、怒りが起こったら、怒りを自分の行為に表さず、じっと内面を観察したまま手放すのです。

もし、誰かと対立したいと云う思いが起こったら、そのまま行為に表さず、内面の対立を観察し手放すのです。

行為に表さずに、内面を観察したまま手放す事が重要なのです。

この時に、内面に起こっている怒り等の反応を、「私はこの内面の反応を喜ばない」と唱えながら観察すると、私は効果的でした。

……

内面観察のポイントは、何も自分自身の内面が反応しないような所で内面観察などやっても意味のないことであり、よって、今、自分自身が置かれている環境が自分の内面が反応し、不満に満ちたものであったとしても、自分の内面が反応しないような場所に逃避していくのではなく、今自分の居るこのままの不満に満ちた環境の中で実践する事が一番良いと言われています。

それ以外は、釈迦の弟子のプンナの例で分かるように、現象を否定的な捉え方をしそうになったら、肯定的な捉え方に変えてやれば良いのです。悪と思わずに、善と思うこと。

自分の持っている内面の規準で、現象を「悪」と捉えそうになった時、意識して肯定的に理由づけして「善」と捉えれば、自分の中から「悪」と云う捉える基準が徐々に消えてくるのです。
自分の中から「悪」と云う捉え方が無くなると、全てが「善」になるのではなく、二元からなる相対世界では、片方の「悪」が無くなれば、「善」の捉え方も自分の中から無くなるのです。
つまり、自分の中の「善」「悪」の判断の基準がなくなるので、識別世界を超えられると云う事になります。

自分自身で全ての「悪」と云う捉え方を無くして「善」と云う捉え方に変えてやろうと思って実践して行けば、やがて、不思議なほどに「善」と云う捉え方もできなくなって、識別世界を超えている事が分かるでしょう。

……

> 瞑想を始める以前の自分であったら、多分、自分の心の中にある「嫌悪」や「怒り」といった醜さに気づかなかっただろうと思います。
> 「自分はいい人だ」と思いこんで、あるいは強引に自分に思い込ませていたでしょう。心のどこかにネガティブな反応があっても、抑圧したり、無視したりしていたと思います。そうして、心の奥底でギュッと掴んで、手放せないでいたことでしょう。

> こういったことに気づかせてくれるのが、私にとってのヴィパッサナー瞑想であり、修行なのです。

一番の問題点は、ここなのです。
自分の内面にある対立(争い)に気が付くこと。
私は、アストラル体験などが豊富にできたので、人一倍自分の内面と云うものは、最も良く観察できたのですが、自分の内面が良く観察できる人は、人の内面の動きもある程度よく観察できますよね。

でも、私が人に「あなたの心の内面には、今対立(争い)がありますよ」と言っても、やっぱりその人には分からないものなのですよね。
内面の動きは観察された時点で、客体化され、自分から切り離せたと同じ事ですので、内面を観察できない事にはどうにもならないのです。

「無思考」を基準にすると、意外と良く自分の内面を観察できるようになるかもしれません。
その為には、瞑想がやはり重要な役割が有るのでは。

よく、人が間違うのが(私も何年も長い間、この間違いに気がつかずに右往左往したのですが)正しいと云う基準は、自分の為す行為に対して、「これは正しい行為なのか」「これは正しくない行為なのか」と云うものなのですが、他人の為す行為、発言について、「あなたは正しいか」「正しくないか」と云う識別判断をしてしまうのですよね。

仏弟子プンナが、殴られても、殺されてもその人を善良な人と捉える、の例で分かるように、他人の為す行為等の外部の現象は全て、自分にとってのカルマの実現であり、心の内面で抵抗してはならないのです。
たとえ、刑務所の極悪犯罪人に自分が罵倒されたとしても。

他人が自分に為す行為は、自分にとってはカルマの実現ですので、抵抗しては超えられないのですよね。

……

他人の行為を「あなたは正しい」「あなたは正しくない」と云う識別をしないで、全ては「善」と捉える捉え方。
私は新約聖書も参考にしましたので、この点は新約聖書では良く説明されていました。

新約聖書の言い回しでは、この他者に対しては「正しくない」とかの識別行為(捉え方)をするな、と云う事を「裁いてはならない」と云う言い回しで説いています。
これは、仏教流の言い回しでは「他者を正しくないと識別してはならない」と云う事になりますね。

私もこれが長い間分からなくて、自分では善人ぶって色々とやったんですけど、識別作用を超えられなかったのですよね。
精一杯やって、八方塞になり、行き詰って探求の末に、この点に気が付いたのです。

マタイの福音書7―1~5
裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなた方が裁く通りに、あなた方も裁かれ、あなた方が量るとおりに、あなた方も量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中の塵に目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向って、「あなたの目のちりを取らせてください」などと、どうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、塵を取り除くことができます。

※ この聖書の「梁」と云う部分を「識別作用」に置き換えて読んでみられると、仏教アプローチの人にも良く分かると思います。

スタッタニパータ 893
自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」「不浄の教えである」と説くならば、彼は自ら確執をもたらすであろう。

自分の遭遇する外部の現象を感受した時に起こる心の反応パターンを修正するこの修行こそ、識別作用の消滅、つまり名称を超える事ですので、これはこれで一つの解脱が達成できると考えれば良いと思いますよ。

カルマについて言えば、生きていればカルマの実現で理不尽な事に出会います。
人によっては、理不尽な事に出会うと、それに背を向けて逃げ回る生き方を繰り返している人を見かけます。
いくら逃げても、またその先で理不尽に出会うのです。
そのように一旦理不尽に背を向けて逃げてしまうと、こっちに逃げたり、あっちに逃げたりして、次々と理不尽が起こるたびに、その理不尽に背を向けて、その場から逃げ回るのです。

どこかで、自分の両足でふんばって、逃げる事無く理不尽に真正面から向かい合って超える事をしなければ、理不尽から逃げ回る人生では心の平安は得られません。

理不尽こそカルマなのですから、自分で清算するまでは付きまとうのです。

理不尽に背を向けて逃げ回る人は、結果このようになりますので、どこかで逃げないで自分の両足で踏ん張って、理不尽に正面から向かい合い、乗り越えて欲しいと思います。

……

ここで上手くないのは、どちらにしても「正しい」と云う識別作用を自分の中に持つ段階の人が、他者の方法に対して「正しくない」と識別してしまうと、識別作用を手放せないことです。
分からない時は「保留」が一番良いです。

……

もともと、「正しい」にしろ「正しくない」にしろ、識別作用そのものが苦しみを生むものなのですが、識別作用から抜けるためには、「正しい」と云う識別であれば、支障は無いといったので、自分の信仰や道を「正しい」と信じて信仰する事は、識別作用から抜けるための障害にはならないと説明した訳です。

ただし、他者の信仰や道が自分と違うからといって、「正しくない」と識別してしまうと、識別作用を手放せなくなると言ったのです。

……

重要な点は、対象を越えること。対象を越えるとは、認識を越えること。認識を超えるとは、識別(私は分離と云う言い回しもします)しないこと。
識別とは目の前の現象を二つに分ける事。
相対する二元論で「善」「悪」、「正しい」「正しく無い」、「好き」「嫌い」と云うようなものですね。

……

つまり、超えた人にとって「正しい」「正しくない」などの基準など無いのです。
対象感を超えれば、「正しい」等と云う自分の基準に従った思考による識別(分別)そのものが消滅してしまうのですから。二元からなる相対世界を超えるのです。

……

他の人のやる方向を信じることです。
目の前の現象を疑わない(疑心)ことです。
目の前の現象に対しての疑心は既に心の内面に対立を生んでいるのです。
意外と自分では、この微細な心の対立に気づけないものです。
それを気づきやすくする手段として、ヴィパッサナー(心随観)が有効と思われる訳です。

……

> 「観」は目の前のすべてのことを佛の示顕として認め、受けとってゆくことです。

参考までに、私はこれに似た事を、内面が無くなる(滅びる)まで取り入れていました。
これはとても効果的な手段でした。

この世界には私一人しか居ない、全ては神(仏)が私を愛して現象化しているに過ぎないのだから、神(仏)の私への愛である全ての現象に感謝すると云う捉え方で実践したのです。

やがて内面が無くなって(滅びて)来ると、必然的にこれができなってしまう訳ですが。

私が、「以前は常時神仏を念じて生きていた」と言ったのはこういう意味なんです。

今になってみれば、自分の遭遇する全ての現象に対して、単なる意味を付けたと云うことに他なりませんが、自分のカルマの実現である遭遇する全ての現象に対して、感謝しながら絶対に逆らわないと云う意味では、もっとも絶妙な意味づけなんですよ。
信仰と云う、強いものに支えられているし、神(仏)の愛(慈悲でも良いですが)を常に感じて生きているのですからね。

実践がうまく行けば、やがてこの捉え方そのものが滅びますから、その点は、実践できる限りは実践すると云う捉え方で良い訳です。

……

よく、ニューエイジ系で、全てを受け容れると云う手段がありますが、全ての現象にはポジティブにもネガティブにも意味づけ(妄想)できます。
先にお話しした、釈迦の弟子のプンナの例でも分かるように。殴られても殺されても、その人を善良な人だと捉える(妄想する)。
釈迦もそのプンナの方法について否定しなかったので、効果的な方法で有る事には違いありません。

例えば私は、情況次第で次のものも取り入れました。

「この世界は空である」
「物は空である」とか。
「目の前の現象は空である」

現象に対してネガティブな捉え方をしそうになった時に、空と云う思い(妄想)を使うのですね。
実際は空と云う思いそのものが妄想なんですが。
最終的にはそれも無くなりますので。

現象を否定しなければ、現象に対しての対立(自分と現象との分離感)は抜けられます。
ですので、重要な点はあらゆる想像(妄想)を駆使してでも、現象との対立など否定する事を徹底的に排除していけば、自分の中から現象との分離感が減っていって、現象(対象)と自分が分離していない、つまり対象感(対象との分離)が超えられるのです。

私も結果的に分かったに過ぎませんが、
プンナの現象に対してのポジティプな捉え方(妄想)や、現象を空と捉える妄想、これら現象を否定しないための妄想は、対象を超えるためには効果的なものですね。

「対象を自分から分離しなければ良い」と云う発想で、対象を超えられるのです。

つまり、「妄想」の世界から抜け出るためには、抜け出るための「妄想」の使い方が有ると云うこと。

> ただ、ギャップを感じる者が居ないから感じないのですが、客観的な現実は無くなることは無い訳でして、この世的には理不尽なことなどはあり得るとは思います、しかし、その人のカルマの消滅と共に、そのような世界も徐々に消えていくのだと思います。

そうですね、そもそも主客の関係の客観的と云う捉え方そのものが消えますので、理不尽と捉える事も無くなるのですよね。

自分の内面が修行により滅びて無くなると云う事は、何も無くなるんですよ。

「理不尽だ」「理不尽でない」と云う判断も、識別作用ですから無くなるのです。
これを私は「今この瞬間」と云う訳です。

……

「恐れ」自身は観察(客体化)して手放す事で抜ける事ができます。
私はあえて、以前は4階建ての3棟からなる職場の建物の中を、夜、人が居なくなってから、手元に明かり無く回ったりして、内面の恐怖を観察(客体化)して手放す事さえしていました。
真冬に、水をかぶるのが怖いと云う恐怖を、水をかぶって観察(客体化)して手放したり、色々と私はしましたよ。

何も無い所で、内面観察などやっても意味の無いことなんです。
自分の内面が反応するような現象に置かれた時にこそ、自らの内面に潜むものを表面まで引き出してきて手放せる訳です。

私は自らの内面の反応に正直に行動したのです。
私は例えば暗やみで自らの内面が反応(恐怖、逃避したい)したので、それを手放して暗やみに向かわざるをえなかったのですね。

……

> 武雄さんは良く「対象」が無い、「ただやるだけ」と言われていますけども、それは「独りでに起きていること」とか「無為にして為す」などとも言える事でしょうか。

できるだけ誰にでも分かりやすい説明を心掛けたいと思います。
私の仲の良い人に、ピアノの得意な人がいますので、知ったかぶると後で叱られるかもしれませんが。
例えば、ピアノを習いたての人は、一々どの指でどの鍵盤を叩くのだと考えながらやる事でしょう。
しかし、熟練者ともなると、譜面を見ただけで、どの指で、どの鍵盤を叩くなどと云う事は、あまり考えずに演奏できるのでは無いでしょうか。
熟練者の方は、演奏するのに鍵盤やそれを叩く指の「対象感」や「思考」があまり入らないわけです。
さらに、演奏する曲になりきれば、その演奏を聴く客も、自分自身も無くなる(意識しなくなる)のではないでしょうか。
以前テレビを見ていたら、ある有名そうな演奏家がそんな事を言っていたような気がします。

「対象」が無い、「ただやるだけ」と云うのは、生活全体がこのような状態だと云うと近いかもしれません。

……

> 私は何かが起こったときに、それは、何かの学びの為に起こっていたり、自分の負の思いが現実化したと思いますから、理不尽とは思わないのです。原因が自分にあると思うからです。それだけです。

現象を受け容れて入れている訳ですね。
現象を受け容れると云う事は、理不尽と云う捉えかたが実はまだその人の中に有るのですが、それは自覚できていない部分だと思いますので置いておきます。

> > ただし、今世で作った原因については、今世ではともかく、次あたりで帰ってきたりしますので、多くの場合恵まれた環境の人ほど、精神性が無く道を踏み外す傾向が強くなると思います。

> こういう言葉は悟っていない人間には、呪詛の様な物です。

この私の言葉も、なっぱさんにとっては遭遇した目の前の一現象です。
これ(なっぱさんの遭遇した目の前の一現象)を呪詛の様な物(自分には受け容れられない分離したい物)と捉えなくなれれば、もっと楽に生きられますよ。

……

私は、激流時代、自分自身が理不尽と捉える現象を分離せずに受け容れるために、カルマ論を持ち出す事は有効なツールでした。

ただし、重要なことは、カルマ論では無くて、理不尽と捉える現象を分離せずに肯定的に受け容れる事なのですが。

私も善因善果と云うことには無頓着でしたが、それとは別に善行はせざるを得なかったですね。

> 実際自分の心の奥底と対面したとき、それは言葉では言い表せられないものであるわけですし、
> もしも逃げ出したい恐怖に駆られたとしても、実際逃げるところなんてあるわけないわけですから、
> そこでどうするかなんですよね。

その人は恐怖した時点で、すでに心の内面で(アストラルの行為として)は逃げ出しています。
何事も肉体上の行為では無く、心の内面での行為なのです。
よって逃げる行為である恐怖を拭い去るしかないですね。
恐怖に背を向けているうちは、いつまでもご苦労な事に、その人はその恐怖の対象に追いかけられると云う形で実現して行くのですから。これも原因と結果のカルマの実現ですね。

……

> 先ほども良く理解できなかったのですが・・・「その他、無意識下の諸々の固定観念を取り外していくのです」どうやって?と聞いてはいけないのかもしれませんが、<どうやって?>取り外していくのでしょうか。

取り外す作業など簡単なことです。
それは単純に言えばサティ(気づき)です。
つまり辿りつけた意識の所で、まだ持っている固定観念を見つければ良いのです。
固定観念は見つけられた時点で、自分では無いものとして分離されます。
見つけられたと云う事は、即ちその固定観念は客体化され取り外されたと云う事なのです。
つまり、常にまだ持っているものが何なのか探し続けていくだけで良いのです。
これが、辿りつけた意識の状態(段階)から、次の意識の状態への基本的な脱出法です。

……

結果的には、自分の遭遇するカルマの実現である目の前の現象を裁かなければ(分離しなければ)良い訳です。

……

ただし、あなたがそれを指摘したら、あなたは現象を裁いています。
あなたがそう思ったら、人を指図せずに自分で実践していれば良いのです。
人(自分を取り巻く現象)をどうこう指図したがるのが我々の課題です。

……

> 人間はみな、退屈しているのだと思いますね。

その通りです。
私自身、思考を手放すのに、ものずごい孤独を味わいました。
なぜかと云うと、多くの人たちもそうなのですが、それは思考することによって楽しみを得ていたからなんです。
その慢性化した、思考する事により得られる楽しみの根底である思考を、根こそぎ絶つ事にしたのですから、それは大変なことなんですよ。
まさしく、激流でした。
でも、これが(この狂気がごとく生き方が)絶てたら、お陰で楽になれましたが。

……

戦争がなくなるかどうかも先に属する事ですので、余り囚われないほうが良いとは思いますが、
戦争を無くす運動をしたいと思えば、反戦運動も良いかもしれませんね。
もちろん、超えるための手段としてです。
この場合のポイントは、自分と反する事をやっている人を見ても、裁かないこと、批判しない事です。

> 内面が平和でない限り、意識や感覚にのぼる全てのものを正しく判断することはできません。

自分の基準で正しく判断すれば良いんですよ。
絶対的な正しさなど無いのですから。
ただし、注意する点は、外部の現象と心の内面で対立しないこと。

> 正しい結果は、正しい考えと行動に基づいて始めて得られるもの。

結果は全てが正しいのですよ。
そう信じて、結果を気にしないこと。
人事を尽くして天命を待つと云うではないですか。
現在の正しい判断だけがあれば良いのです。

過去を追うな、未来を願うな。
過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ至っていない。
現在の情況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。
今まさに為すべきことを、努力して為せ。
誰か明日に死あり、死魔の軍と会わぬと知り得よう。
昼夜に怠るな。
中部経典4-131

……

釈迦も分からなかったから苦労して、師を変えたり苦行したりしたのです。

釈迦でさえそうなのですから、ましてや修行途上の人が始めから超えられる道に出会えるとは限りませんが、今「正しい」と信じる教えがあるのなら、それを精一杯やれば早く結論が出ます。

釈迦も師を変えるときも、結論が出るまでは実践しましたよね。
その上で、まだこれでは無いと判断して、次の師についたのです。

精一杯やれば、決して無駄にはなりません。
過去は否定されるものでは有りません。
過去は自分にとって絶対的なものであり、その意味では神にも等しいものなのです