『森信三 一日一語』 寺田 一清 編 よりの抜粋です。
「人生二度なし」― これ人生における最大最深の真理なり。
つねに腰骨をシャンと立てること― これ人間に性根の入る極秘伝なり。
天下第一等の師につきてこそ、人間も真に生甲斐ありというべし。
逆境は、神の恩寵的試練なり。
絶対不可避なる事は絶対必然にして、これ「天意」と心得べし。
求道とは、この二度とない人生を如何に生きるか― という根本問題と取り組んで、つねにその回答を希求する人生態度と言ってよい。
これの世の再び無しといふことを 命に透(とほ)り知る人すくな
これの世に幽(かそ)けきいのち賜(た)びたまひし 大きみいのちをつねに仰ぐなり
幸福とは求めるものでなくて、与えられるもの。
自己の為すべきことをした人に対し、天からこの世において与えられるものである。
一切の悩みは比較より生じる。
人は比較を絶した世界へ躍入するとき、始めて真に卓立し、所謂「天上天下唯我独尊」の境に立つ。
悟ったと思う瞬間、即刻迷いに堕す。
自分はつねに迷い通しの身と知るとき、そのまま悟りに与(あず)かるなり。
すべて手持ちのものを最善に生かすことが、人間的叡智の出発といえる。
教育も、もとより例外でない。
人間は一生のうち、何処かで一度は徹底して「名利の念」を断ち切る修業をさせられるが良い。
信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである。
金の苦労を知らない人は、その人柄がいかに良くても、どこかに喰い足りぬところがある。
人の苦しみの察しがつかぬからである。
いかなる人に対しても、少なくとも一点は、自分の及びがたき長所を見出すべし。
上役の苦心が分かりかけたら、たとえ若くても、他日いっかどの人間となると見てよい。
「一日は一生の縮図なり」― かく悟って粛然たる念いのするとき、初めて人生の真実の一端に触れむ。
「人生二度なし」― この根本認識に徹するところ、そこにはじめて叡智は脚下の現実を照らしそめると言ってよい。
世の中はすべて「受持ち」なりと知るべし。
「受け持ち」とは「分(ぶん)」の言にして、これ悟りの一内容というて可ならん。
畏友と呼びうる友をもつことは、人生の至楽の一つといってよい。
生身の師をもつことが、求道の真の出発点。
苦しみや悲しみの多い人が、自分は神に愛されていると分かった時、すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい。
自分に対して、心から理解し、分かってくれる人が数人あれば、一応この世の至楽というに値しよう。
金の苦労によって人間は鍛えられる。
名・利というものは如何に虚しいものか。
しかも人間は、この肉の体の存するかぎり、その完全な根切りは不可能といってよい。
一切の人間関係の内、夫婦ほど、たがいに我慢の必要な間柄はないと云ってよい。
信とは、いかに苦しい境遇でも、これで己れの業が果たせるゆえんだと、甘受できる心的態度をいう。
観念だけでは、心と躰(からだ)の真の統一は不可能である。
されば、身・心の統一は、肉体に座を持つことによって初めて可能である。
人間として最も意義深い生活は、各自がそれぞれ分に応じて報恩と奉仕の生活に入ることによって開かれる。
偉れた先賢に学ぶということは、結局それらのひとびとの精神を、たとえ極微の一端なりともわが身に体して、日々の実践に生かすことです。
師の偉さが分かり出すのは
(一)距離的に隔絶していて、年に一回くらいしか逢えない場合
(二)さらにその生身を相見るに由なくなった場合であろう。
一人の卓れた思想家を真に読み抜く事によって、一個の見識はできるものなり。
同時に、真にその人を選ばば、事すでに半ばは成りしというも可ならん。
人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬も早過ぎず、一瞬遅すぎない時に―。
縁は求めざるには生ぜず。
内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついには縁を生ずるに到らずと知るべし。
書物に書かれた真理を平面的とすれば、「師」を通して学びえた真理は立体的である。
満身に総身に、縦横無尽に受けた人生の切り創を通してつかまれた真理でなければ、真の力とはなり難い。
教育とは人生の生き方のタネ蒔きをすることなり。
教育とは流水に文字を書くような果かない業(わざ)である。
だがそれを岸壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。
真の教育は、何よりも先ず教師自身が、自らの「心願」を立てることから始まる。
人間も、金についての親の苦労が分りかけて初めて稚気(ちき)を脱する。
随ってそれまでは結局、幼稚園の延長に過ぎぬともいえる。
節約は物を大切にするという以上に、わが心を引き締めるために有力だと分かって人間もはじめてホンモノとなる。
性欲の萎なえた人間に偉大な仕事はできない。
― それと共に、みだりに性欲を漏らす者にも大きな仕事はできぬ。
すべて人間には、天から授けられた受けもち(分)がある。
随って、もしこの一事に徹したら、人間には本来優劣の言えないことが分かる。
読書は実践への最深の原動力。
人に長たる者は、孤独寂寥に耐えねばならぬ。
部下の真価を真に見抜ける人物は極めて少ない。
部下のうちに、自分より素質的に卓れたる人間のいることを知っている校長は絶無というに近い。
いざという時、肚のない人間は、人に長たる器とはいえぬ。
お酒は利(きき)酒の飲み方にかぎる。
同時にそこには、すべて物事の味を噛みしめる秘訣がこもる。
人は退職後の生き方こそ、その人の真価だといってよい。
退職後は、在職中の三倍ないし五倍の緊張をもって、晩年の人生と取り組まねばならぬ。
筆はちびる直前が一番使い良く、肉は腐る寸前が一番うまい。
同様に今後恵まれるわずかな残生を、衷心より懼(おそ)れ慎んで、「天命」に随順して生きたいと念う。
人はすべからく、終生の師をもつべし。
真に卓越せる師をもつ人は、終生道を求めつづける。
その状あたかも、北斗星を望んで航行する船の如し。
心願をもって貫かねば、いかに才能ありとも
その人の「一生」は真の結晶に到らぬ。
人間は、進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。
現状維持と思うのは、じつは退歩している証拠である。
人間は自己に与えられた条件をギリギリ生かすという事が、人生の生き方の最大最深の秘訣。
物事はすべておっくうがってはいかぬ。
その為には、まず体を動かすことを俊敏に―。
釈尊の説かれた「無常」の真理とは、「この世ではいつ何が起こるか分からぬ」―ということです。
それ故われわれは、常にこの「無常」の大法を心して、いつ何が起ころうと驚かぬように心しなければならぬ。
古来傑出せる人ほど、コトバの慎しみは特に重視せしものなり。
良寛には「戒語」が四通りもあり、その内最大なるものは、八十箇条にものぼれるほど、そのすべてが言葉に関する戒めなり。
また葛城の慈雲尊者は、「十善法語」の十戒中、言葉の戒めが、四箇条を占める。以って古人の言葉に対する慎しみのいかに深きかを知るに足らん。
道元も曰く「愛語よく回天の力あるを知るべきなり」と。
(註 四箇条とは(一)不妄語、(二)不綺語、(三)不悪語、(四)不両舌
上位者にタテつくことを以って、快とする程度の人間は、とうてい「大器」には成れない。
暗室に入ったように、周囲の様子が見え出すまで、じっとして動かない。
― これが新たな環境に移った場合の私の流儀です。
すべて物事の長短を冷厳に見て、しかも固定化せぬこと。
しかも流動を流動のままにとらえつつ、ながされないように―
日常の雑事雑用を、いかに巧みに、要領よくさばいてゆくか―
そうした処にも、人間の生き方のかくれた呼吸があるといえよう。
人間というものは、自分が他人様(ひとさま)のお世話になっている間はそれに気づかぬが、やがて多少とも他人様のお世話をさせてもらう様になって、初めてそれが如何に大へんな事かということが分かるものです。
人間、下坐の経験のない者は、まだ試験済みの人間とは言えない。
キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。
けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。
人間が謙虚になるための、手近な、そして着実な道は、まず紙屑をひろうことからでしょう。
友情とは、年齢がほぼ等しい人間関係において、たがいに相手に対して、親愛の情を抱くことである。
友情ほどこの世の人間関係の内で味わいふかいものはない。
そして友情において大事な事は、常に相手に対して、「その信頼を裏切らない」という一事に尽きる。
すべて宙ぶらりではダメです。
多くの人が宙ぶらりんだからフラつくのです。
ストーンと底に落ちて、はじめて大地に立つことができて、安泰この上なしです。
「極陰は陽に転じる」―これ易の真理にして、宇宙の「大法」である。
けだしこの大宇宙は、つねに動的バランスを保ちながら、無窮に進展しているが故である。
最深の愛情とは、ある意味では人生の無常を知らせることかも知れません。
そしてそれには、教える者自身が、日々無常に徹して生きていなければできることではないでしょう。
この地上には、真に絶対なものは一つもない。在るはみな相対有限なもののみ。
だが、如上の実相を照破する寂光のみは絶対的といえよう。
それ故この地上では、絶対の光はつねに否定を通してのみ閃ひらめくといえる。
極陰は陽に転ずることわりを ただにし思もへば心動ぜず
われわれ人間は「生」をこの世にうけた以上、それぞれ分に応じて、一つの「心願」を抱き、最後のひと呼吸(いき)までそれを貫きたいものです。
多少能力は劣っていても、真剣な人間の方が勝利者となるようです。
毀誉褒貶を越えなければ、一すじの道は貫けない。
一、一度思い立ったら石にしがみついてもやりとげよう
二、ホンのわずかな事でもよいから、他人のためにつくす人間になろう。
高すぎない目標をきめて必ず実行する。
ここに「必ず」とは、唯の一度も例外を作らぬ― という心構えをいうのである。
「義務を先にして、娯楽を後にする」― たったこの一事だけでも真に守り通せたら、一かどの人間になれよう。
睡眠は必要に応じて伸縮自在たるべし。
「何時間寝なければならぬ」というような固定観念をすて、必要に応じては五時間・三時間はもとより、時には徹夜も辞せぬほどの覚悟が必要。
目覚むれば力身内(みうち)に湧きいづる この不思議さよ何といふべき
食事をするごとに心中ふかく謝念を抱くは、真人の一特徴というべし。
それだけに、かかる人は意外に少ないようである。
朝起きてから夜寝るまで、自分の仕事と人々への奉仕が無上のたのしみで、それ以外別に娯楽の必要を感じない― というのが、われわれ日本のまともな庶民の生き方ではあるまいか。
「下学して上達す」― 下学とは日常の雑事を尽くすの意。
それゆえ日常の雑事雑用を軽んじては、真の哲学や宗教の世界には入りえないというほどの意味。
「五十にして天命を知る」― というが、知という限り、まだ観念的なものが残っている。
それ故「六十にして耳順う」の境に到って、はじめて真理の肉体化がはじまるともいえよう。
世間的に広くは知られていないけれど、卓(すぐ)れた人の書をひろく世に拡める― 世にこれにまさる貢献なけむ。
芸術品の場合、倦きがこないということが良否の基準となる。
つまり倦きがこないとは、作品に人為の計らいがないせいで、それだけ天に通じる趣があるといえよう。
同時にこれは、ひとり芸術品だけでなく、人間一般にも通じることでしょう。
わたしは何もできませんが、ただ人さまの偉さと及び難さを感じる点では、あえて人後におちないつもりです。
すべて物事は、その事の真髄への認識と洞察が根本で、真に認識に徹したら、動き出さずにはいられぬはず。ところで認識への手引きはヤハリ生きた書物でしょうね。
世の中の事はすべてが一長一短で、両方良いことはない。
哲学の最終的帰結も、すべて絶大なる動的平衡(調和)によって保たれている― という一事だといってよい。
真理は現実の只中にあって書物の中にはない。
書物は真理への索引(インデックス)ないしは「しおり」に過ぎない。
「世の中は正直」とは、神は至公至平― というに近い。
わが身にふりかかる事はすべてこれ「天意」― そしてその天意が何であるかは、すぐには分からぬにしても、噛みしめていれば次第に分かってくるものです。
この世における辛酸・不如意・苦労等を、すべて前世における負い目の返済だと思えたら、やがては消えてゆく。だが、これがむつかしい。
哲人といえども迷う時はあろう。
だが迷う時間が短かろう。
悟った人でも迷うことはある。
しかし迷う時間が短い。
金銭は自分の欲望のためには、できるだけ使わぬように。
そしてたとえわずかでもよいから、人のために捧げること。
そこにこの世の真の浄福境が開けてくる。
如何にささやかな事でもよい。
とにかく人間は他人のために尽すことによって、はじめて自他共に幸せとなる。
これだけは確かです。
天性資質にめぐまれた者は、二割五分前後を割(さ)いて他に奉仕すべし。
これは本来東洋の伝統思想たる「恩」の思想に基づくものであるが、
それをマルクスの搾取観を媒介として、現代的に甦よみかえらせた真理ともいえよう。
人は真に孤独に徹することによって、初めて心眼がひらけてくる。
けだしそれによって相対観を脱するからである。
幸福とは、縁ある人々との人間関係を噛みしめて、それを深く味わうところに生ずる感謝の念に他なるまい。
人間は何人も自伝を書くべきである。
それは二度とないこの世の「生」を恵まれた以上、自分が生涯たどった歩みのあらましを、血を伝えた子孫に書きのこす義務があるからである。
人間の生き方には何処かすさまじい趣がなくてはならぬ。
一点に凝縮して、まるで目つぶしでも喰わすような趣がなくてはならぬ。
人を教育するよりも、まず自分自身が、この二度とない人生を如何に生きるかが先決問題で、教育というのは、いわばそのおこぼれに過ぎない。
人間はおっくうがる心を刻々に切り捨てねばならぬ。
そして齢をとるほどそれが凄まじくならねばなるまい。
「一剣を持して起つ」という境涯に到って、人は初めて真に卓立して、絶対の主体が立つ。
甘え心やもたれ心のある限り、とうていそこには到り得ない。
往相はやがて還相に転ぜねばならぬ。
そして還相の極は施であり奉仕である。
世界史は表から見れば「神曲」の展開― そして之を裏がえせば、人類の「業」の無限流転といえよう。
されば之に対して何人が、絶対的正邪善悪をいう資格があろう。
この地上には、一切偶然というべきものはない。
外側から見れば偶然と見えるものも、ひと度その内面にたち入って見れば、ことごとく絶対必然ということが分かる。
いかに痛苦な人生であろうとも、「生」を与えられたということほど大なる恩恵はこの地上にはない。
そしてこの点をハッキリと知らすのが、真の宗教というものであろう。
人はその一心だに決定すれば、如何なる環境に置かれようとも、何時かは必ず、道が開けてくるものである。
人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を、生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。
自己の力を過信する者は、自らの力の限界を知らぬ。
そして力の限界が見えないとは、端的には、自己の死後が見えぬということでもあろう。
かにかくにひと世(よ)つらぬき生きて来し そのいや果てぞいのち賭けなむ
道元の高さにも到り得ず、親鸞の深さにも到り得ぬ身には、道元のように「仏になれ」とも言わず、また親鸞のように「地獄一定の身」ともいわず、たゞ「人間に生まれた以上は人らしき人になれよ」と教えられた葛城の慈雲尊者の、まどかな大慈悲心の前に、心から頭が下がるのです。
足もとの紙クズ一つ拾えぬ程度の人間に何ができよう。
畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられものである。
もし見つからぬとしたら、それはその人の人生の生き方が、まだ生温かくて傲慢な証拠という他あるまい。
肉体的な距離が近すぎると、真の偉大さが分かりにくい。
それ故、その人の真の偉さがわかるには、ある程度の距離と期間を置いて接するがよい。
肉体的苦痛や精神的苦悩は、なるべく人に洩らさぬこと―
人に病苦や不幸を洩らして慰めてもらおうという根性は、甘くて女々しいことを知らねばならぬ。
人間は退職して初めて肩書きの有難さがわかる。
だが、この点を卒直に言う人はほとんどない。
それというのも、それが言えるということは、すでに肩書を越えた世界に生きていなければできぬことだからである。
言葉の響きは偉大である。
一語一音の差に天地を分かつほどの相違がある。
それゆえ真に言葉の味わいに徹するのは、そのままいのちに徹するの言いといってよい。
すべて物事は、リズムを感得することが大切である。
リズムは、根本的には宇宙生命に根ざすものゆえ、リズムが分かりかけてはじめて事物の真相も解り出すわけである。
なかんずく書物のリズムの如きは、著者の生命の最端的といってよい。
批評眼は大いに持つべし。されど批評的態度は厳に慎しむべし。
善悪・優劣・美醜などは、すべて相対的で、何も絶対的なものではない。
何となれば、いずれも「比較」によって生まれるものであり、随って尺度のいかんによっては、逆にもなりかねないからである。
心の通う人とのいのちの呼応こそ、この世における真の浄福であり、人間にとって真の生甲斐といってよかろう。
精薄児や身障児をもつ親は、悲観の極、必ず一度はこの子供と共に身を滅ぼしたいとの念に駆られるらしいが、しかもその果てには必ず、このお蔭で人間としての眼を開かせてもらえたという自覚に到るようである。
ある時
悲しみの極みといふもなほ足りぬ いのちの果てにみほとけに逢ふ
「救い」とは「自分のような者でも、尚ここにこの世の生が許されている」― という謝念でもあろうか。
そしてその見捨てない最後の絶対無限な力に対して、人びとはこれを神と呼び仏と名づける。
人はこの世の虚しさに目覚めねばならぬが、しかしそれだけではまだ足りない。
人生の虚しさを踏まえながら、各自応分の「奉仕」に生きてこそ、人生の真の味わいは分かり初める。
われわれ、人間はそれぞれ自分の宗教的人生観― 真の人間観― をもつべきである。
そしてそれは極微的には、そてぞれその趣を異にし、最終的には、一人一宗ともいえよう。
英知とは、その人の全知識、全体験が発火して、一瞬ひらめく不可視の閃光といってよい。
一眼はつねに、個としての自己の将来の展望を怠らぬと同時に、他の一眼は、刻々に変化してゆく世界史の動向を見失わぬことです。
こうした異質的両極を、つねにわが身上に切り結ばせつつ、日々を生き抜くことが大切でしょう。
秋になって実のなるような果樹で、春、美しい花の咲く樹はない。
すべて物事には基礎蓄積が大切である。
そしてそれは、ひとり金銭上の事柄のみでなく、信用に関しても同じことが言えます。
このほうがはるかに重大です。
才無きを憂えず、才の恐しさを知れ
「すべて最上となるものは、一歩を誤ると中間には留まり得ないで最下に転落する」とは、げに至深の真理というべし。
夫婦の仲というものは、良きにつけ、悪しきにつけ、お互いに「業」を果たすために結ばれたといえよう。
そしてこの点に心の腰がすわるまでは、夫婦間の動揺は止まぬと見てよい。
一粒のけし粒だにもこもらへる 命貴(た)ふと思ふこのごろ
人間の生命が、たがいに相呼応し共感し得るということは、何たる至幸というべきであろうか。
世にこれに勝るいかなる物があるであろうか。
人間はいくつになっても名と利の誘惑が恐ろしい。
有名になったり、お金ができると、よほどの人でも、ともすれば心にゆるみが生じる。
人間は才能が進むほど、善・悪両面への可能性が多くなる。
故に才あるものは才を殺して、徳に転ずる努力が大切である。
他人の学説の模写的紹介をしたり、あるいは部分的批評をする事をもって、哲学であるかに考えている人が少なくないが、真の哲学とは、この現実の天地人生をつらぬく不可視の理法を徹見して、それを一つの体系として表現する努力といってよい。
世の中には、いかに多くのすぐれた人がいることか― それが分かりかけて、その人の学問もようやく現実に根ざし初めたと云えよう。
われわれ人間は、ただ一人の例外もなく、すべて自分の意志ないし力によって、この地上に生まれてきたのではない。
そしてこの点に対する認識こそ、おそらくは最高最深の叡智といってよい。
されば我われ人間がそれぞれ自分がこの世に派遣せられた使命を突き止めねばなるまい。
一切万有は神の大愛の顕現であり、その無量種の段階における発現というべきである。
真実というものは、一点に焦点をしぼってピッチを上げなければ、発火しにくいものである。
人間関係― 与えられた人と人との縁― をよく噛みしめたら、必ずやそこには謝念がわいてくる。
これこの世を幸せに生きる最大の秘訣といってよい。
親鸞は「歎異抄」の冒頭において、「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて」と言う。
その不思議さを、親鸞と共に驚きうる人が、今日果たして如何ほどあると言えるであろうか。
人間はこの肉体をもっている限り、煩悩の徹底的な根切りは不可能である。
そしてこの一事が身根に徹して分かることこそ、真の救いといってよかろう。
今日は義人田中正造翁が、同士庭田清四郎の家で最後の呼吸を引き取った日。
枕頭に残された遺品としては、頭陀袋一つ。
中にあったのは聖書と日記帳、及びチリ紙と小石数個のみだったと。
九十九人が、川の向う岸で騒いでいようとも、自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、わき眼もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。
自己の道は自己にとっては唯一にして絶対必至の一道なれど、他から見ればワン・オブ・ゼムたるに過ぎない― との自覚こそ大事なれ。
そしてこの理を知ることを真の「自覚」とはいうなり。
人間何事もまず十年の辛抱が肝要。
そしてその間抜くべからず、奪うべからざるは基礎工事なり。
されば黙々十年の努力によりて、一おう事は成るというべし。
相手と場所の如何に拘らず、言うべからざることは絶対に口外せぬ。
この一事だけでも、真に守り得れば、まずは一かどの人間というを得む。
蔭でライバルの悪口をいうことが、如何に自己を傷つけるはしたない所業かということの分からぬ程度の人間に、大した事などできようはずがない。
自分より遥かに下位の者にも、敬意を失わざるにいたって、初めて人間も一人前となる。
尊敬する人が無くなった時、その人の進歩は止まる。
尊敬する対象が、年と共にはっきりして来るようでなければ、真の大成は期し難い。
人は自己に与えられた境遇の唯中に、つねに一小宇宙を拓かねばならぬ。
されば夜店の片隅にいる老爺でも、その心がけ次第では、一小天地の中に生きているといえよう。
人間の真価と現世的果報とは、短い眼で見れば合致せずとも見ゆべし。
されど時を長くして見れば、福徳一致は古今の鉄則なり。
正直という徳は、われわれ人間が、世の中で生きてゆく上では、一番大切な徳目です。
それ故、「正直の徳」を身につけるためには、非常な勇気がいる訳ですが、同時に他の一面からは、相手の気持ちを察して、それを傷つけないような深い心遣いがいる訳です。
(一)我々のこの人生は、二度と繰り返し得ないものだということ。
(二)我々は、いつ何時死なねばならぬかも知れぬということ。
この二重の真理が切り結ぶことによって、はじめて多少は性根の入った人間になれると言ってよかろう。
真に個性的な人の根底は「誠実」である。
それというのも、一切の野心、さらには「我見」を焼き尽さねば、真に個性的な人間にはなれないからである。
徳化とは理屈によって化するにあらず。
心の表現としてのリズムによって化するなり。
かくしてリズムの味は言葉には言い難いけれど、予想以上に深く人心を化するものなり。
道の継承には、少なくとも三代の努力を要せむ。
従って継承者は師に劣らぬだけの気魄と精進を要せむ。
われわれ有限者にとっては、絶対者は幻を通してしか接しられない。
それはちょうど、晴れた日の太陽は直視できないように、雲間を透してのみ、その姿を垣間見ることができるようなものです。
死の覚悟とはーいつ「死」に見舞われても、「マア仕方ない」と諦あきらめのつくように、死に到るまでの一日一日を、自分としてできるだけ充実した「生」を生きる他あるまい。
因果というものは厳然たる真理です。
それゆえ如何にしてかかる因果の繋縛を超えるか。
結局はその理を体認透察することであるが、現実には後手ごてに廻らぬこと。
つまり常に先手、先手と打つてゆくことである。
この世の事はすべて借金の返済であって、つまるところ、天のバランスです。
すべてが「宇宙の大法」の現われだということが解かったら、一切の悩みは消えるはずです。
真の形而上学は、古来孤独寂寥に生きた魂の表現以外の何ものでもない。― 一例 スピノザ―
読書は単に知的な楽しみだけであってはならぬ。
直接間接に、わが生き方のプラスになるものを選びたい。
それには単に才能だけで生きた人より、自殺寸前という様なギリギリの逆境を突破して、見事に生き抜いた人のものの方が、はるかに深く心を打つ。
「笑顔は天の花」
笑顔によって、相手の心の扉が開けたら―。
母親は単に家族の一員でなくて、まさに家庭の太陽である。
これだけの俸給を得るために、主人がどれほど下げたくない頭を下げ、言いたくないお世辞を言っているか―ということの分かる奥さんにして、初めて真に聡明な母親となるわけです。
夫婦のうち人間としてエライほうが、相手をコトバによって直そうとしないで、相手の不完全さをそのまま黙って背負ってゆく。
夫婦関係というものは、結局どちらかが、こうした心の態度を確立する外ないようですね。
裏切られた恨みは、これを他人に語るな。
その悔しさを噛みしめてゆく処から、はじめて人生の智慧が生まれる。
男として大事なことは、見通しがよく利いて、しかも肚がすわっているということ―
この両者はもちろん関連は深いが、しかし常に一致するとは限らない。
地上における人間の生活は、時あっては血飛沫しぶきを浴びつつ前進しなければならぬ場合もある。
随って砂塵や烈風を恐れるものには、真の前進はあり得ない。
善人意識にせよ、潔白さ意識にもせよ、もしそれを気取ったとしたら、ただにイヤ味という程度を超えて、必ずや深刻な報復を越えて、必ずや深刻な報復を免まぬかれぬであろう。
仏・魔の間(かん)、真にこれ紙一重のみ。
人間のシマリは、「性」に対するシマリをもって最深とする。
しかも異性に対する用心は、何といっても接近しないことである。
如何なる人でも近づけば過ちなきを保し難いのが、「性」というものの深さであり、その恐ろしさである。
この地上では、何らかの意味で、犠牲を払わねば、真に価値あるものは得られぬとは、永遠の真理である。
だからもしこの世において犠牲の必要なしという人があったとしたら、それは浅薄な考えという他ない。
だが犠牲は他に強要すべきものでは断じてない。
かくして犠牲において、大事な点は、自ら犠牲の重荷を負う本人自身には何ら犠牲の意識がないどころか、そこには深い喜びと感謝の念の伴うのが常である。
人間晩年になっても仕事が与えられるということは、真に辱ない極みと思わねばならぬ。
待遇の多少などもちろん問題とすべきでない。
「世の中はなるようにしかならぬ、だが必ず何とかはなる」
もし、この「何とか」というコトバの中に、「死」というコトバも入れるとしたら、これほど確かな真理はないであろう。
中にゐて中と思はぬ霞かな
娑婆即寂光浄土。
愛する前に理解がなければならぬ。
同時に愛せなければ真の理解は得難い。
それ故かかる処にも、生きた真理は、すべていのちの円環を描いていることが分明である。
人間を知ることは現実を知ることのツボである。
わたくしが人間に対して限りなき関心をもつのは、生きた人間こそ無量な「真理の束たば」だからである。
人間の一世(ひとよ)おもへばおのがじし 負ひ来(き)し「業」(ごう)を果(はた)さむとする
これの世にいのち生(あ)れにし奇(くす)しさよ おのもおのもが業果しする
* 「おのがじし」=それぞれが
「おのもおのも」=各々が
祖先の「血」は即今この吾において生きつつある。
―この理が真に解かった時、人は初めて人生の意義もわかりかけ、同時にその時天地の実相の一端にも触れむ。
親への孝養とは、単に自分を生んでくれた一人の親を大事にするだけでなく、親への奉仕を通して、実は宇宙の根本生命に帰一することにほかならない。
これ藤樹先生のいわゆる「大孝」の説であり、これを今日の言葉でいえば、まさに「孝の形而上学」というべきであろう。
たらちねの親のみいのちわが内に 生きますと思ふ畏(かしこ)きろかも
死の絶壁に向かってつよくボールを投げつけ、そのはねかえる力を根源的なエネルギーとしなが、日々を生き抜く人物は、げにも凄すさまじい。
肚をすえるという事は、裏返せばすべて神まかせという事でもある。
だが単に神まかせというだけでは、まだ観念的であって、よほどそれに徹しないとフラつきやすい。
宗教とは、ある面からは現実認識への徹到ともいえよう。
そしてその場合、現実の中心を為すのはもちろん人間である。
随って人は、宗教によって真の人間認識に達しうるともいえよう。
嫉妬は女にのみ特有のことではなく、男女に共通する最深の罪といってよい。
そしてそれは結局、自己の存立がおびやかされる事への危惧感であって、いかに卓れた人でも、事ひと度自己の専門に関する事柄ともなれば、いかに隠そうとしても妬心が兆す。
真に心深き人とは、自己に縁ある人の苦悩に対して深く共感し、心の底に「大悲」の涙をたたえつつ、人知れずそれを噛みしめ味わっている底の人であろう。
人間は真に覚悟を決めたら、そこから新しい智慧が湧いて、八方塞がりと思ったところから一道の血路が開いてくるものです。
知識の完全な模倣物より、自分が躰でつかんだ不完全知の方が、現実界でははるかに有力である。
名利の念を捨てることは容易でないが、それはとにかくとして、少なくとも名利というものが絶対的でない事を知らせて下すった方こそ、真に「開眼」の師というべきであろう。
師は居ながらにして与えられるものではない。
「求めよ、されば与へられん」というキリストの言葉は、この場合最深の真理性をもつ。
知っていて実行しないとしたら、その知はいまだ「真知」でない―との深省を要する。
無の哲学の第一歩は、実はこの一事から出発すべきであろうに―。
分を知るとは自己の限界の自覚ともいえる。
随って人間も分を自覚してから以後の歩みこそほんものになる。
だが才能ある人ほど、その関心が多角的ゆえ、「分」の自覚に入るのが困難であり、かつ遅れがちである。
分を突きとめ 分をまもる。
すべて一芸一能に身を入れるものは、その道に浸りきらねばならぬ。
躰中の全細胞が、画なら画、短歌なら短歌にむかって、同一方向に整列するほどでなければなるまい。
人は他を批判する前に、まず自分としての対策がなければならぬ。
しかも対策には何よりも先ず着手点を明示するを要する。
この程度の心の用意なきものは、他を批判する資格なしというべし。
人間は
(一)職業に対する報謝として、後進のために実践記録を残すこと。
(二)この世への報謝として「自伝」を書くこと。
随って自伝はその意味からは一種の「報恩録」ともいえよう。
(三)そして余生を奉仕に生きること。
これ人間として最低の基本線であって、お互いにこれだけはどうしてもやり抜かねばならぬ。
日本民族の使命は将来の東西文化の融合に対して、いわばその縮図的原型を提供する処にあるであろう。
一眼は遠く歴史の彼方(かなた)を、そして一眼は却下の實踐へ。
世界史は結局、巨大なる「平衡化」への展開という外なく、わたくしの歴史観は「動的平衡論」の一語につきる。
すなわち「動的平衡論」とはこの宇宙間の万象は、すべてこれ陰(マイナス)と陽(プラス)の動的バランスによって成立しているということである。
ひとたび「性」の問題となるや、相当な人物でも過ちを犯しやすい。
古来「智者も学者も踏み迷う」とは、よくも言えるもの哉。
職業とは、人間各自がその「生」を支えると共に、さらにこの地上に生を享けたことの意義を実現するために不可避の道である。
されば職業即天職観に、人々はもっと徹すべきであろう。
人間は他との比較をやめて、ひたすら自己の職務に専念すれば、おのずからそこに一小天地が開けて来るものです。
人は内に凛乎(りんこ)たるものがあってこそ、はじめてよく「清貧」を貫きうるのであって、この認識こそが根本である。
これまで親の恩が分からなかったと解かった時が、真に解かりはじめた時なり。
親恩に照らされて来たればこそ、即今自己の存在はあるなり。
人間は一人の卓越した人と取り組み、その人を徹底的に食い抜けること―
これ自己確立への恐らくは最短の捷径ならむ。
逆算的思考法とは、人生の終末への見通しと、それから逆算する考え方をいう。
だがこの思考法は、ひとり人生のみならず、さらに各種の現実的諸問題への応用も可能である。
人生を真剣に生きるためには、できるだけ一生の見通しを立てることが大切です。
いっぱしの人間になろうとしたら、少なくとも十年先の見通しはつけて生きるのでなければ、結局は平々凡々に終わると見てよい。
真に生甲斐のある人生の生き方とは、つねに自己に与えられているマイナス面をプラスに反転させて生きることである。
b人間の甘さとは、自分を実際以上に買いかぶることであり、さらには他人の真価も、正当に評価できないということであろう。
「誠実」とは、言うことと行うこととのズレがないこと。
いわゆる「言行一致」であり、随って人が見ていようがいまいがその人の行いに何らかの変化もないことの「持続」をいう。
「心願」とは、人が内奥ふかく秘められている「願い」であり、如何なる方向に向かってこの自己を捧げるべきか―と思い悩んだあげくのはて、ついに自己の献身の方向をつかんだ人の心的状態といってよい。
「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」(論語)
生きた真理というものは、真に己が全生命を賭かけるのでなければ、根本的には把握できないという無限の厳しさの前に佇立(ちょりゅう)する思いである。
神はこの大宇宙をあらしめ、かつそれを統一している無限絶大な力ともいえる。
同時にそれは他面、このわたくしという一人の愚かな人間をも見捨て給わず、日夜その全存在を支えていて下さる絶大な「大生命」である。
立腰と念仏の相即一体は宗教の極致。
即ち自他力の相即的一体境であって、いずれか一方に固定化する立場もあるが、両者の動的統一がのぞましい。
「生」の刻々の瞬間から「死」の一瞬にいたるまで、われらの心臓と呼吸は瞬時といえども留まらない。
これは「ありがたい」という程度のコトバで尽せることではない。
「もったいない」と言っても「辱ない」といってもまだ足りない。
文字通り「不可称不可説」である。
けふひと日いのち生きけるよろこびを 夜半にしおもふ独り起きゐて
我われ一人びとりの生命は、絶大なる宇宙生命の極微の一分身といってよい。
随って自己をかくあらしめる大宇宙意志によって課せられたこの地上的使命を果たすところに、人生の真意義はあるというべきだろう。
念々死を覚悟してはじめて真の生となる。