抜隊禅師法語

輪廻の苦をまぬかれんと思わば、直に成仏の道を知るべし。
成仏の道とは、自心を悟る是れなり。
自心と云うは、父母もいまだ生まれず、我が身もいまだなかりしさきよりして、今日に至るまで、うつりかわることなくして、一切衆生の本性なる故に、是れを本来の面目といえり。
この心もとより清浄にして、此の身生るる時も生るる相もなく、此の身は滅すれども死する相もなし。
又男女の相にもあらず、善悪の色もなし、
たとえも及ばざるゆへに是れを仏性といえり。
しかも万(よろず)の念、此の自性のうちより起こること、大海より波のたつが如し、鏡に影のうるつに似たり。
此の故に自心を悟らんと思わば、先ず念の起こる源を見るべし。

ただ寝てもさめても立ち居につけても、自心是れ何物ぞと深く疑いて悟りたき望みの深きを、修行とも工夫とも志とも道心とも名づけたり。
又、かように自心を疑いて居たるを坐禅とは云えり。

一日に千巻万巻の経陀羅尼を読みて、千年万年怠らざらんよりも一念自心を見るにしかず。
左様の有相の行は、ただ一旦福徳の因縁となりて、其の福つきぬれば又三悪道の苦を受く。
一念の工夫は、終には悟りとなる故に成仏の因縁なり。
たとい十悪五逆の罪を造りたる者も、一念ひるがえして悟れば即ち仏なり。
さればとて悟るべきをたのみに罪を造るべきにはあらず。
自ら迷ひて悪道に落つるをば仏も祖もたすくべきこともあらず。
たとえば、おさなきものの父のそばに寝て夢の中に打擲(ちょうちゃく 人に打ちはられる)されて、或いは病におかされて、苦を受くる時、父母我れを助けよとよばわれども夢みる心の中へ行くことなければ父母も助けえざるが如し。
たとい是れに薬をあたえんとするとも、おどろかずんば受くべからず。
自ら驚き得ば、夢の中の苦しみを遁るること他人の力をからず。
自心則ち仏なりと悟りぬれば、たちまちに輪廻を免がるる事も又かくの如し。
若し仏の助くべきことならば、いずれの衆生をか一人も地獄に堕とすべきや。
此の理(ことわり)の真なること、自ら悟らずんば知るべからず。

そもそも只今目に色を見、耳に声を聞き、手をあげ足を働かす主は是れ何物ぞと見るに、是は皆自心のわざとは心得たれども、正しくは何の道理とも知らず。
是れを無しといわんとすれば用いるに従って自在なること明らかなり。
有りといわんとすれば其の形更に見えず、ただ不思議なるばかりにて兎も角も心得やらるるかたのなきままに了見更にたえはてて、如何ともせられざる是れよき工夫なり。
かようの時、退屈の心なくして、いよいよ志深くなり極まる時、深き疑の念、底に通りて破るる時自心の仏なること疑なくして、生死を厭うべきもなく、法の求むべきもなし。虚空世界只我が一心なり。

たとえば夢の中に外に迷い出て、我が故郷へ帰るべき道を失いて、或いは人に問い、或いは神に祈り、仏に祈れども、未だ帰り得ざるものの、其の夢うち覚めぬれば、ただ我がもとのねやの中に有り。
此の時自ら夢の中の旅より帰ることは、さむるより外に別の道なかりけりと知るが如し。
これを本に還るとも云い、安楽世界に生まるるとも云えり。
是れはすこし修行の力を得たる会かたなり。
坐禅をたしなみ工夫をなす人は、在家を出家も皆これ程のしるしは有ることなり。
是れもはや工夫をなさざる人の知るべきにあらず。
是れははや真の悟りなり、我が法において疑いなしと思わば大いなる誤りなり。
ただ銅(あかがね)を見つけて金(こがね)の望みをやめんが如し。
若しかようのおもむきのあらん時は、いさみをなしていよいよ深く工夫をなすべきようは、我が身を見るに幻の如く、水の泡、影の如し。自ら心を見るに虚空の如し、形もなし。
此のうちに耳に声をきき響きを知る主は、さて是れ何物ぞと少しもゆるさずして、深く疑うばかりにして、更に知らるる理(ことわり)一つもなくなりはてて、我が身の有ることを忘れはつる時、先の見解は断えはてて、疑十分になりぬれば、悟りの十分なること、桶の底の出ずる時、入りたる水の残らざるが如し。朽ちたる木に忽ちに花のひらけるが如し。
若しかくの如くならば、法において自在を得て大解脱の人なるべし。
たといかようの悟りあるとも、ただ幾たびも悟らるる悟りをばうちすてて、悟る主に還り、根本に帰りてかたく守らば、情識の尽きるに随いて自性のほがらかになること、玉の磨くに随いて光をますが如くにして、終には必ず十方世界を照らすべし。これを疑うべからず。
若し志し深からずんば、今生にかように悟ること無くとも、工夫の中にて臨終したらん人は、来生には必ず安く悟らんこと、昨日企てたることの今日はたやすく道行くが如し。

工夫坐禅の時、念の起こるをば厭うべからず、愛すべからず。
只其の念の源の自心を見きわむべきなり。
心に浮かび目に見ゆることをば、皆是れ幻にして真にあらずと知りて恐るべからず、貴ぶべからず、愛すべからず、厭うべからず。
心ものに染むこと無くして虚空の如くならば、臨終の時も天魔におかさるることあるべからず。

また工夫の時は、かようの事、かようの道理をば、一つも心中におくこと無くして、只自心是れ何ぞとばかりなるべし。

また只今一切の声を聞く主は、何物ぞと是れを悟らば、此の心諸仏衆生の本源なり。
観音は声に付いて悟り玉うが故に観世音と号せり。
只此の声を聞く底の者、何物ぞと立ち居につけても是れを見、坐しても是れを見ん時、聞く物も知られず、工夫も更に断えはてて忙忙となる時、此の中にも声を聞かるることは断えざる間、いよいよ深く是れを見る時、忙忙としたる相も尽きはてて、晴れたるそらに一片の雲無きが如し。
此の中には我と云うべき物無し、聞く底の主も見えず、此の心十方の虚空とひとしくして、しかも虚空と名づくべき処も無し。
是れ底の時、是れを悟りと思うなり。
此の時また大きに疑うべし。
此の中には誰か此の音をば聞くぞと。
一念不生にしてきわめもて行けば、虚空の如くして一物も無しと知らるる処も断えはてて、更に味わい無くして闇夜になる処について退屈の心無くして、さて此の音を聞く底の物、是れ何物ぞと、力を尽くして疑い十分になりぬれば、うたがい大きに破れて、死にはてたる者のよみがえるが如くなる時、則ち是れ悟りなり。

此の時初めて十方の諸仏、歴代の祖師に一時に相看すべし。
若しかくの如くならん時、是れを挙げて見るべし。
僧、趙州に問う。如何なるか是れ祖師西来意。
答えて曰く、庭前の柏樹子(はくじゅし)。
是の底の公案に少しも疑いあらば、打ち還って元の如く、音を聞く底の物何ものぞとみるべし。
今生に明らめずんば、いつの時ぞや。
一たび人身を失いては、三悪道の苦しみ永く免れんことあるべからず。
誰がかくしたる悟りぞや。
只自ら無道心なる故と思いしりて、たけく精彩を付くべし。