実践前の理解

目次

  1. 修行とは脳の筋トレである
  2. 統合的実践の重要性
  3. 集中的な修行の意義と必要性

修行とは、脳の筋トレである

修行とは、つまり「脳の筋トレ」であり、そこに「身体の筋トレ」との違いは本質的に存在しません。

うまくデザインされた訓練によって、脳に(突貫作業で)新しい溝を刻む、気づきの運河を掘る。
その(開通した)運河に、(気づきの)水を流す。
流せば流すだけ、新しい溝(シナプス結合)は深くなり、強くなり、意識はそちらに流れやすくなる。

そのための(呼び水としての)反復練習― それが実践でおこなうことのすべてです。

「筋肉は裏切らない」のと同じく、気づきの訓練も修行者を裏切りません。

そこは神秘的な要素のまったく存在しない、おそろしく現実的な訓練の世界であるからです。

情熱を持って、ストイックに、持続的に取り組むなら、やっただけの変化・結果は確実に生じます。


「肉体の筋トレ」における原理・原則は、瞑想の訓練においても共通します。

原理1 漸進性・過負荷の原理
原理2 特異性の原理
原理3 可逆性の原理

原則1 意識性の原則
原則2 全面性の原則
原則3 専門性の原則
原則4 個別性の原則
原則5 漸進性の原則
原則6 反復性・周期性の原則

筋トレを語る上で欠かせない「3原理&6原則」より

* 「可逆性の原理」に関しては、修行と筋トレには違う部分もあります。

修行で身につく技術は、作業記憶として、身体的なコツを覚えるのと似たかたちで習得されますので、何年、間を置いても、再開したときには、即、思い出せます。

それは自転車の乗り方を一旦覚えてしまえば、その後、何年乗らなかったとしても決して失われない(乗れなくならない)のと似ています。

筋トレの場合、どれだけ増強しムキムキになっても、運動を止めたら時間とともに失われ、元に戻ります。そこに大きな違いがあります。

ただし、肉体の筋トレの場合にも、幾らかの再訓練の際の「戻りやすさ」は筋肉の記憶として残るそうです。


あるいは、その原理・原則を、さらに三つにまとめることもできます。

1.訓練の反復回数・持続時間
2.訓練中の意識の集中度・気づきの強度
3.訓練法の合理性・能率性・具体性


脱-馴化のための方法論

三つの登攀道と、その統合

実践は、瞑想、内観、ボディワークと云う、三つの技法(方法論)を柱とします。

それは、麓に登山口が三つある山(三角錐)に似ています。

各人の抱える問題に応じて登り口は選ばれる。

が、登り進めるにつれて、それらは徐々に近づき、頂上で一つになる。

そのように、三つの技法は、習熟に応じて相互に浸透を深め、最終的に一つ場所へと流れ込みます。

そのとき、瞑想・内観・ボディワークの区別はなく、それを見分けることもできません。

ひとつが全てを含み、全てがひとつとなって、三位一体で働きます。


三つの技法(方法論)は、赤・緑・青の三原色に相当します。

原色(げんしょく: primary colors)とは、混合することであらゆる種類の色を生み出せる、互いに独立な色の組み合わせのこと。互いに独立な色とは、たとえば原色が三つの場合、二つを混ぜても残る三つ目の色を作ることができないという意味である。


瞑想=今― 認知・知覚― 自己対宇宙(単独性・独在性)
内観=過去― 情緒・感情― 自己対他者(社会性・関係性・間主観性)

* 独我論/他者論という視点で見た場合には、瞑想は垂直的、内観は水平的
外在的アプローチ

瞑想=共時的(知覚的)な自己観察-認識の訓練
内観=通時的(歴史的)な自己観察-認識の訓練

共時的な認識と通時的な認識

(知覚された)環境(生命圏)としての自己=瞑想的な認識
(堆積した)地層(歴史)としての自己=内観的な認識

瞑想とボディワークは、身体性/精神性(カラダ/ココロ)の目盛り(配分)の問題であり、連続的なものとして実践できる。

瞑想

現在の瞬間における自己(の心身の)観察

観察対象: 現在の瞬間の(みずからの)心身の状態(動き)

対象領域: 単独性(自分対宇宙、他者の存在しない世界)

解明分野: 認知(知覚)の解明― 我々は、如何に世界を認知(覚知)しているのか、そのどこに錯誤が生じているのかの解明。

自らのカラダとココロが、無自覚的な認識できていない部分で、どのように働き、何をしているのか― その見難い動きを知ることによって、問題を生み出す構造そのものに変化をもたらすこと。

内観

過去の関係性を通しての自己(の来歴と正体の)観察

観察対象: 過去の経験(記憶)の想起・再現

対象領域: 社会性(自分対他人・社会、他者性・関係性)

解明分野: 感情・情緒的(トラウマティックな)問題の解決― 感情的苦しみの発生機序の解明と解消。

自分視点で物事を見、経験し、それが記憶として堆積し既成事実化していく、誰もが持つ世界認識と感情形成の仕組みから一旦離れて自身と過去を見つめ、再体験、再構成していく作業。

ボディワーク

身体感覚を主とした自己(の身体/運動イメージの)観察

観察対象: 運動感覚・身体意識

対象領域: 身体性(心身の関連性・身体的記憶・習癖)

解明分野: 感覚・身体(運動)イメージの認識・修正・上書き

身体に対する感覚の鈍さと、誤った理論(知識・思い込み)のかけ合わせによって起こる誤使用と、そこから生じる不調や不具合(ノイズ)に気づき、より構造に適った身の使い方を見い出し、運動パターンとして定着させていく試み。


それら各々の実践を、瞑想、内観、ボディワークと(仮に)呼びます。

瞑想とは現在の瞬間における自己観察であり、内観とは過去の関係性を通しての自己観察であり、ボディワークとは身体の運動感覚を主とした自己観察です。

それらを行った結果、それぞれの領域における認識の深まりと転換が起こり、各人の抱える身体/心理的問題が解決する可能性が出てきます。

それは、自らの心身における事実・現実を、正しく認識し、理解したことによるものです。

実践における分化と統合

存在そのものは分解できない「ひとつもの」として存在しています。

が、全体を全体として取り扱うことは難しく、実践に際しては、ココロとカラダ― 瞑想(Meditation)とボディワーク(Movements)に分けることから狙いを定めます。

瞑想には、現在の瞬間の自己の心身を見つめる「気づき系の技法(ヴィパッサナーを主とする)」と、過去・関係性を見つめる「反応系の技法(内観を主とする)」の二つがあります。

修行の進展に従って、それら分化した技法は徐々に再統合され、最終的に、すべてが渾然と溶け合った、分化できない「ひとつのもの」に再帰し、技法としての完成を見ます。

内観(第一ステージ)は、三学で言えば、戒の修行であり、その実践によって初めて、「清らかになりたい、まっとうな人間になりたい、もうこれ以上、戒を破りたいくない」と云う主体的な心の動き(うめき・叫び)が生まれ、それが、その後の実践修行の原動力にも、戒を保って生きることの原動力にもなります。そこからはじめて本格的な修行が始まります。

その上で、瞑想の修行に取り組めます。

瞑想(定)の修行がある程度進んだところで再び、内観(第ニステージ)に取り組むことによって、自身の進境をはかることができます。

内観と瞑想は、左右の足、あるいは車の両輪の如きもので、双習するのが望ましい。

時間と共に、瞑想のなかに内観は浸透し、内観のなかに瞑想は流れ込み、どちらとも言えない独特のものとなって意識に定着していきます。

「気づき系(純粋観察系)」「反応系」「身体系(ボディワーク)」など、大まかに三つに分化した技法は、実践のなかで合流してゆき、再統合され一つとなる。

最終的に、心身統合体としての存在そのものへの気づきへと結晶化する。

気づきが身体と云う回路へ向かえば舞踏となる。
気づきが思考と云う回路に流れれば哲学・思想となる。
気づきが存在することそのものの充足へ向かえば(いわゆる)瞑想になる、
あるいは、ただの日向ぼっこになるのかも知れない。

そこでは、真と善と美、科学と宗教と芸術が、未だ分かれない全体として存在する。

それは、科学と芸術をつなぐもの― 自己の心身に催されるあらゆる出来事を瞬間毎に花開かせ、解きほぐしつつ進む内観認知科学の臨床(観察・実験)の現場でありつつ、同時に、即興の詩、踊り、治療、懺悔であり、神への奉納物であるような何かである。

すべてのなかで、そのものをそのものたらしめているのは「気づき」であり、気づきの実践(つまり、受容的な気づきの状態として在ること)とは、その、瞬間瞬間、生まれ続け、そして壊れ続ける不断の作品の唯一の鑑賞者として在ることである。

気づきは本源へ遡行する。
そして、再び流れ出ます。
あらゆるものへ。

統合的/全人的な実践の重要性について

なぜ、ヴィパッサナー瞑想、内観、ボディワークの統合的実践(双習)がそれほど重要なのでしょうか。

まず根源の側から語るなら、

気づきそれ自体が、そもそも(元々)全体的/統合的なものとして存在しているからです。

それは、心/身体、瞑想/ボディワーク、認知/情動系、知/情/意などと分離していない、分化する以前の、ひとかたまりの世界から流れ出ているものであるからです。

それが根本としてあります。

次に、分離した側から語るなら、

ココロの領域の開発訓練(瞑想・内観)と、カラダの領域の開発訓練(ボディワーク)、知覚・認知系の技法― この宇宙の創造者・独在者としての私へ向かうワーク(ヴィパッサナー瞑想、禅)と、認識・情動系の技法― 社会的関係性・他者の存在に眼を向けたワーク(内観)と云う、異なった領域を扱う、異質な(矛盾した)構造を持つ技法同士の双習・組み合わせ・掛け合わせは、より深い、より強烈で根源的な自己(世界)認識を与え、より先の風光を見させてくれるからです。(左右の足の歩みの如く、車の両輪の如く)

それは弁証法的な拮抗のプロセスとして存在します。

身体系の技法(ボディワーク)に関しては、もし、その方が、一週間以上のリトリートを行なっても、特に腰も肩も凝ることなく、痛みやコリ、不快感を覚えない「恵まれたカラダ」を持っておられる方であれば、必須ではないかも知れません。

ただ言えることは、気づき-洞察モードの意識状態を存在に定着させるには、自分の身体自体が、それの受け皿となれる気づきのレベルに居なくてはならず、それができていない限り、気づき-洞察モードの意識は常に不安定で、一時的なものであり、存在(身)に定着しません。

身体の気づき-覚醒を伴わずに、安定した気づき-洞察意識は無いからです。

また、ボディワークの良いところ(存在価値の大きな一つ)は、瞑想や内観で分かったと思っていることが本当に存在に定着しているか、本当に身体で証明できるか、頭でっかちの観念優位になっていないかを、実際のカラダの動きによって、あるいは他人との手合わせによって、誤魔化しようもなく確実に点検できるところにあります。

「グラウンディング」「センタリング」など精神世界ではありふれた言葉を、本当に自分の体で実証できているのかどうか。
これは、ともすれば観念的な理解・了解・独りよがりに陥りがちな私たちにとって、大きな安全装置・自己チェック機構となります。

よって、この三つは、「これ以上絞れない三位一体、最低限の三脚である」と言えます。

統合的な実践に関する参考書として、『実践 インテグラル・ライフ-自己成長の設計図』を挙げておきます。
訳者の方の後書きから一部抜粋します。 (カッコ内は引用者による補足です)

この作品で著者たちが言おうとしていることは非常にシンプルなものです。

すなわち、人間の中には「ボディ(身体)」「マインド(理性・知性)」「スピリット(精神性・魂)」「シャドー(潜在意識・自我の影の部分)」と云う主要な4つの部分が存在しており、私たちが真に包括的・永続的な治癒と成長を実現するためには、そられ全ての領域の実践に同時並列的に取り組むことが必須となる―と云うことです。

…現在の市場には、即効的な能力開発(問題解決)を約束する無数の関連書籍や研修が存在しています。ただ、一瞥すると明らかなように、それらの大多数は、ある特定の技法や方法を紹介しながら、それこそが真の成功や成長を実現するための方法であると主張するものです。

しかし、人間とは非常に多面的・重層的な存在であり、そうした少数の方法だけを実践することだけでは、そこに真の治癒と成長を実現することは到底できません。

…そこでは、自己を完全に指導者や伝統に明け渡すのではなく、自身の欲求と状態を的確に把握しながら、多様な資源(リソース)を創造的に融合し活用していく必要があるのです。

…ただし、自らの判断に基づいて実践のあり方を構想しようとするとき、そこには往々にして、既存の権威を否定して、あらゆる「型」を拒絶しようとする安易な発想に陥る危険があります。

そうした危険を回避し、世界に存在する豊穣な伝統の恩恵を統合的に活用できるためには、多様な「型」の共存を可能とする包括的な枠組みが必要となります。(この本は)、そうした枠組みを提示するものなのです。

1.

「瞑想(禅、ヴィパッサナー)」は、取り組む価値がある技法だということ。

私の場合、その前提として、クリシュナムルティの教えが絶対的に存在してはいます。

2.

「内観」は、これもまた、一度は経験する価値のある強烈な心理的技法だということ。

瞑想と内観は、組み合わせて実践する(双習・併宗)ことによって、バランスが取れ、その真の効果を発揮します。それは、右足と左足のようなもの。片足ではうまく歩くことができないように。

ただし、一週間以上の日数をかけて行う「集中内観」に関しては、単発で、一発勝負・短期決戦的に結果を出せる面もある。結果を出せるとは、「具体的な問題解決を期待できる」と云う意味である。

3.

「ボディワーク(身体系の技法)」については、指導者なしに実践するなら「フェルデンクライス・メソッド」、習いに行くことが可能ならば「刀禅」、そして「胴体力」は、即効性と奥深さを備えた素晴らしい体系である。

私は、「刀禅」に(武術である以前に)ボディワークとしての有効性を見出しており、それはつまり、身体の歪みの調整、ブロックの解除・開放を行うための整体法としての治療的な効果を実感していると云うことです。
フェルデンクライス・メソッドの健康法・治療法としての有効性に関しては言うまでもないです。

そして、その先に、瞑想的な身体意識の深化と云うレベルがあります。

これらの技法においては、「強さ(年齢、体力、体格に関わらない本質的な力強さ)」と「正しさ(身体に良い)」と「美しさ(無駄が無い、機能的な美しさ)」が一致しており、真・善・美の三つが溶け合っているのを錬功のなかで実感できる所に魅力を感じます。

4.

それら、瞑想・内観・ボディワークを、バラバラなものとしてではなく、統合した視座のもとに組み合わせて実践することで、更なる深み・高みを目指すことができる。(単なる「足し算」ではなく、強力な「掛け算」になる)

瞑想・内観・ボディワークは、最低限必要な組み合わせで、三角錐の三つの底辺、三位一体的なものとしての実践が望ましい。

統合的なバランスの取れた実践なしには、腕だけが肥大化したボディビルダー(シオマネキの右腕)のようになる可能性がある。

インテンシブ・リトリートの意義と必要性

intensive;集中的、徹底的な、内包的、集約的な、強く激しい、

リトリート (retreat)とは、徹底的・集中的に自己と向き合うため、一定の期間を設け、世間から離れてお篭りし、自己直面と観察の行に専念する行為を云う。
通常、睡眠中を除いたすべての時間、修行の厳密な継続が求められる。

・意識に不可逆的な変化を引き起きすため「脳の突貫工事」=リトリート
・それによってしか(一気呵成でしか)できない作業がある。
・脳・意識の改造、脳に気づきの新しい運河を掘る。
・水道の(昼夜兼業の)突貫工事(水が流れながらの作業)
・ゆで卵、質的変容
・薬罐道心
・登山のベースキャンプ
・泥水の水槽のたとえ

日常とリトリートの往復運動

私たちが生きている現実という荒海において、現に(リアルタイムで)苦しみの真っ只中で溺れ喘いでおりながら、そこから脱出する方法(泳ぎ方)と方向(ルート)を見いだすというのは、実際、容易なことではありません。

そこには、「いま現に、どことも知れない海で溺れておりながら、片手に地図と教本を持ち、必死で泳ぎを覚えようとしている」に似た難かしさがあります。

そこに、いったん(期間限定で)陸にあがり、温水プールのような制御された環境のなかで基本から泳ぎ方を学ぶ、集中訓練期間(リトリート)を持つことの意義や価値が存在するのです。

それは、「畳の上の水練」に似た予行演習ではありますが、小さくはない効果を持ちます。

それが(疑似環境である)プールの中であったとしても、一旦泳げるようになりさえすれば、再び現実の荒海に戻ってからの身の処し方― 楽に浮かび流れるコツ― を学ぶことができるのです。

年に一度の(あるいは、理想的には二度の)リトリート期間を持てたなら幸いです。

リトリートと日常との往還は互いを深め合い、最終的に、生きることそのものの質を変えていきます。

十日間の心の手術

それが、内観であれ、ヴィパッサナーであれ、ボディワークであれ、リトリートとは、つまり大掛かりな心の手術であり、その手術によって、積年抱えていた病・痛み・不具合などの宿痾が解消されます。

それだけの大手術に臨むのですから、それなりの覚悟は当然必要で、まず入院前の先生の注意(体調管理など)をキチンと守ることに始まり、手術が始まってしまったら、痛いからといって途中で止めることはできないことの理解も要ります。
開腹した状態で、「想像してたより痛いから、このままウチに帰らせてください」と言われて、「ああ、そうですか」と言って帰らせてくれるお医者さんは居ません。
やり始めたら、痛くて苦しくても最後まやり切る、と云う決意は必要です。

内観、ボディワーク、瞑想は、病院に喩えれば、それぞれ、科の違いに似ています。内科、皮膚科、歯科など。

しかし、その方の抱える問題を総合的に解決しようとする点では同じです。

そして、気づきの手術は、ただ一つの道具、「気づき」というレーザーメスを使って行ないます。
その道具を自分の心のなかに作り上げる作業から始まります。

「この心の痛み・苦しみから、どうにか解放されたい、楽になりたい。そのためには、自分にできる限りでの努力は厭わない」と云う気持ちが定かであれば、研修はうまくいきます。

テクニック(技法)が人を変えるのではありません。

求心のみが、極限まで高まった「どうにかしたい、どうにかなりたい」と云う心のみが、それ自体を変容させます。

そのためのエネルギーの流れ道として、技法・技術があります。


修行の動機と、その純化

実践を成り立たせる環境設定(セット・セッテイング)