2ch ダンテス・ダイジ スレ2-3

2chの「ダンテス・ダイジ」スレ2です。
おそらく、1と同じ方が投稿されているのだと思いますが、価値ある仕事だと思います。
埋もれてしまうのは惜しいので、此処に置かせて貰います。
長いファイルですので、4つに分割してみました。
もし、此処に置くことに問題ある場合は、お手数ですがご連絡ください。(霊基)

ダンテス・ダイジ2


一つの植物が発芽し そして花が開き種子となるように
地球にも、人間にも、花開く時がある。
一輪の野の花が、現代文明の実用的観点からは黙殺されるように、
花開いた人間、すなわち覚者も、実用性の上からは、何の意味も持たない。
この無用性こそが実用性の基本であることに目覚めぬ限り、現代商工業都市文明は、
花開くことなく西暦二千年前後に崩壊するであろう。
一輪の野の花が、他の何者に対しても自分から影響力を行使しないように、
覚者は、決して他者に無理強いしない。

あなたが、エデンの園から追放されたのは、神の意志ではあるが、
東洋的重農文明を選ばずに、西洋工業都市文明を選んだのは、あなたの意志である。
それと同様に、管理下と堕落を選ぶか、霊的進化を選ぶかは、神の意志ではなく、
あなたがた一人一人の意志と努力にかかっている。

あたりまえに考えると、この人類は奇妙な文明と称する何ものかを生きている。
生とは何か? 死とは何か? 私とは何か? 存在とは何か? 真の幸福とは何か?

これらは、それぞれに分割できぬ全体をなしているのだが、人類史上ごく少数の人々を除いて、これらが解明され実現されたことはなかった。
この余りにも、当たり前な前提を抜きにして、人類は、便利さ快適さ、快楽・幸福を追求して、
文明と称する何かを作り出している。
そして、今や、人類全体をたやすく滅亡させることのできる巨大兵器を持て遊んでいる。
余りにも、あたりまえな基本抜きでは、単なる欲望の複雑化は、自滅に至って終わるだけだというのに。
こころみに問う。
欲望とは何か? 人間とは何か?
これは哲学的あるいは宗教的あるいは、どのような一定の立場の命題にもなり得ない。

—–

底抜けのほがらかさに至らざれば瞑想にあらず。
単純極まりない素朴さに至らざれば瞑想にあらず。
余りのあたりまえさに至らざれば瞑想にあらず。

人間自我が消滅すれば、何もかもが消滅する。そしたら、君はどうすりゃいいんだ?
どうする必要もなく 至福は、ただ、生きている。
君なぞどうでもいいから愛自身なのだ。君なぞあったためしがないから自由なのだ。
君がないことが知恵であり、絶対無とは、君自身だ。

純粋瞑想には、初めも終りもない。
純粋瞑想は人間が把握できるいかなる属性も持っていない。
そして、純粋瞑想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できえるのである。

エゴという幻想が虚構したものでない 幸福を仮に真福と名付けるなら
一切生類は、絶体絶命の逆対応を 必然的に純粋瞑想せざるをえぬ
なぜなら 一切生類が真福であり 純粋瞑想それ自身だから

純粋瞑想を生きること。それ以外に、この人類が、戦争もしくは破滅するのを
避ける道はないだろう。生きている間に、死ぬということ、これが純粋瞑想である。

あんたには、この数限りない神々が見えないのかね
バカモン!悟りも迷いもあったためしはない。

本質的な問いには、解答というものはない。 にもかかわらず、
あなたは、問うことをやめてはいけない。 少なくとも問いも答えも、
あなたも世界も、消え果るまでは・・・

それが、外的なものでも内的なものであっても救世主には気をつけなさい。
タナからボタモチは落ちてきはしない。うまい話にはウソがある。急がばまわれ
君自身がたどる道は、君の心すべてが、たどる道なんだ。

—–

水晶のように透明に、あるがままの素直さで、何かに直面することによっても、
神は開示される。直面するものは何でもいいのだ。

完全な絶望からも自己解放は、起こりうる。
ただし、完全な絶望とは、観念的な希望に対する絶望ではない。

あなたは、満足を求めているのではない。絶対の満足そのものの中に、消え果たいのだ。
愛情は、あなたなしにはあり得ないが、愛はあなたがあったら目覚めない。

完全な自由とは何か?あらゆる現象を、この世とかの世のすべてを包みつらぬいて、
しかも、それぞれの現象自身なる愛だ。

瞑想とは、人間性・人生・生老病死・大自然・存在の本質に目覚め、
これによって永遠に千変万化しているこれ自身のことである。
したがって瞑想には、いかなる立場も本質も存在しない。

瞑想の極点は、ニルヴァーナではない。瞑想に極点があったら、
それは、瞑想ではなく、何らかの瞑想的ゲームにすぎない。

真実の瞑想には、額面どおりの至福の生き様と、完全無比なる全体性と
一切万象の余りにあらわな絶対解答がある。
だが、純粋瞑想ほど、その理論の知的心情的理解と現実即実践とが隔絶しているものは、
おそらく、この世には、他に例がないであろう。
純粋瞑想が、本当に理解されるかどうかは、私達個々人の感受性の質と理解力にかかっている。

したがって、純粋瞑想について何かを解説するのは、まったく無意味である。

初心者にとって瞑想とは、永遠をかけた全面的努力である。
そして、純粋瞑想が開示されるのは、時節が熟した、ほんの一刹那の瞬間。

—–

瞑想とは、全次元存在と絶対的非在との、最終的結末であり、
それと同時に、その中間であり出発点である。
それゆえに、人類の全努力は、純粋瞑想に打ち込むための余暇を作ることにある。

快楽は苦痛であり、安心は不安であり、満足は不満足であり、悟りは迷いである。
これでよいのだ それでよいのだ
ただし、君は決して、これもそれも信じてはならない。

迷いから見上げると 悟りは逆説的なドンデン返しに思える。
だが、悟りの眼には、迷いと悟りとは決して切り離すことのできぬ限りなく美しい神秘だ。

それが、どのような形象であろうと、形象を持っていることが地獄の始まりであり、
そして、それこそが、神のかけがえのないゲームなのだ。

この世とかの世を通じて 君にとっての最大の恐怖は、君が君自身に変容する瞬間である。
そして最大の至福も・・・

完璧な透明さは、修練によって起こすことは出来ない、愛情と信頼の上に即非的に全面愛が産まれ、
全面愛は、それ自身、ニルヴァーナへ、おのずから流れ込む。

あらゆる神通・超能力、あらゆる宿命転換やカルマの改善は、
君を、君なぞないというところまで導く君自身のトリックである。

ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。神とは、ニルヴァーナの中なるマーヤの流出源にすぎない。

人は、完璧に地上にいて、地上にいないのがいい。
地上の欲望による堂々巡りのトリックを実感する度合いに応じて、君は、君自身を想い出し始める。

いわゆる大人と称する、未成熟な大人たちが、
「君、それ考えすぎだよ」という。本当の全身全霊的な思索からしか、決して成熟は、起こらない。

—–

君自身がたどる道は、君の心のすべてが、たどる道なんだ。

デタラメきわまりない、社会性という、欲望ルールを、あまり信じすぎてはいけない。

その道が、君自身の道であるかどうかは、その道の途上においても、
君が倒れても悔いがないこと、それが君の心ある道だ。

君が、おのずからウソをつけなくなったら、君は本ものの超人だ。

「どうでもいい!」と君は本当に叫べるか?

死後の生命を自覚するとは、単に不死性を獲得するということだけではない。
嘘という概念も、暴力という概念も、恐怖という概念も、ただ、消失している。
そして、最高の生き方を、すでに生きている。

ただ一人とも言えないただ一人の絶対者の様々な表情
私達はこの表情の千変万化にいつもいつもだまされている それにしても初夏の草いきれよ

君にとっては、真実の悟りは、至高の快楽であるにすぎない。

諸行は無常である。そこから神様と悪魔が出てきたらしい・・・
いずれにせよ、楽しい話ではないかい?

それがそうであり、 これがこうであるなら、 もっとも素直に 直面していく以外にない。

—–

純粋瞑想は
あらゆる生きる目的の喪失か、
あらゆる生きる目的の到着点であり、
現代人の大多数にとっては、
もっともクダラナイものであり、
神にとっては、
愉快極まることを知らない・・・

ここにいつも全体がいるから 只管打坐が純粋瞑想なのだ。
ここにいつも呼吸があるから アパーナ・サティ・ヨーガが、純粋瞑想なのだ。
ここにいつも知覚があるから尾骶骨の中の生命力を、あらゆるものを知覚し切ることに
使い果たすのが純粋瞑想なのだ。

今・ここにいることは、
君に出来ることではない。君に、
今の中に完全にいることが起こったら、余りの不気味さに圧倒されてはならない。
余りの未知・余りの神秘。それは決して理解することはできない。
その時、すべてが開示される可能性を得る。

純粋瞑想とは果てしなき修行であり、限りなき戯れである。

—–

空とは、体験ではないし、
まして、神秘体験とか、実在体験とか、宇宙意識の体験なぞといったガラクタでは、断じてない。

空もしくはニルヴァーナとは、
身心脱落であり、全体脱落である。宇宙脱落であり、絶対者脱落である。
空もしくはニルヴァーナには、どのようなものの痕跡もない。
神、もしくは絶対者のあとかたさえもない。
しかも、それは、目覚めきっている。充実しきっている。

鈴木大拙はそれはどこにも中心のない円のようなものだと、語られたらしい
私は言う。それはそれだ、これはこれだ。
絶対・絶対無・神・チンプンカンプン。 名付け得ないもの。 何者ぞ

すべてがニルヴァーナだとしたら なぜニルヴァーナに目覚めるための 瞑想修行という
果てしなき苦難の道を歩かねばならぬのか すべてがニルヴァーナだからだ

—–

神にあって、いかに悪魔を戯れるか。
これが君の、人間としての全使命である。

愛は、人間の中の一つの感情などではない。愛はこの宇宙そのものの
根源なのだ。

終わりの時節が来た。
終わりを精一杯、歓び楽しみなさい。この宇宙が歓びで破裂するほど・・・
終わりの時節が来た。
終わりを、精一杯嘆き悲しみなさい。
その叫びであらゆる宇宙が破裂するほど・・・

神の終わりの時が来た。愛が凍る時が来た。
終わりの時を感謝して歓びなさい。
神の死は、真の神の始まりだからです。愛の死は、真の愛の始まりだからです。

生きている それで充分なのだ。
死んでいく それで充分なのだ。
なぜなら 太陽がどれほどの大きさだろうと
私という中心太陽から見れば爪のアカにも相当しない

まして本当の私が神に光あれと命じたのであれば

—–

もはや、
すべての苦しみと悲しみは
過ぎ去った。
今と同じように
21世紀も
まったく新しい
楽園となるだろう。
疑いの余地なく・・・
福生の飲み屋街は真夜中を迎え
それゆえ
永遠の光は輝き続けている。
あなたの愛がすべてであるように
21世紀の光もまた
あなたにおいて花開き続ける。
この大いなる死のなつかしさにおいて・・・

    21世紀とあらゆる時代に限りない感謝をこめて
              DANTES DAIJI

ニルヴァーナも、もちろん夢の戯れである。
これを知れば、君は、君自身が久遠の人間であり、
君という人間性が、無限少の一細胞であったことに気づく。

—–

T「草木が成仏してるのはどういうことなんですか?」
ダン『草木が成仏しているということ?(窓の外指さして)成仏してるじゃないか。見てみろよ。
ただし、これは教えることはできない。それは理解するものじゃなくて、君の中で理解されるものじゃなくて、
既にそうなものの中に君が投げ出されることだからだよ』
T「じゃあ草木が成仏していないという状態はどうなんですか?」
ダン『うん、それが普通の人間の状態じゃない?普通の人間の状態からだと、どう見たって、
これ(紙をさして)を仏とは思わないだろ。もしこれを仏だと君が思ったら、君は仏青なんかこないよ。
これに向かい合ってさ、拝んでるよ(笑)。いい?既にあるものに向かって君自身がほどけるというのかな。
そういうことなんだ、草木成仏ということは。草木が成仏してるなと君が確認するんじゃないんだよ』
T「研究会で説明しなくちゃいけないんですが言葉に出したらどう言えばいいですか?」
ダン『うん。今言った通りだよ。既に成仏しているけど、それを確認するためには
君がそれに向かって投げ出されなきゃあいけないとうこと』

T「理解するために?」
ダン『理解するんじゃなくて草木が草木自体を確認するんだ。つまり、もし草木が成仏しているということが君に理解できたらさ、
それはもうその瞬簡にそれは君の知性の一つにすぎなくなってるじゃないか。そのためにやるんだよ題目だって
あげてあげてあげまくるんだよ題目を。人間だからいろんな心理状態があるよ。
今日はいいとか悪いとか。けど、そんなものを全部超えてずうっとやり切るってことじゃないのか、 座禅だろうと念仏だろうと同じ』
T「草木が成仏しているということは、人間にとってどういう意味があるんですか?」
ダン『人間にとってどういう意味もないよ。例えば、全てと一つになるということが 人間にとってどういう意味があるかと聞かれてさ、
どういう意味があるかと答えられないのと同じだよ。 それはそうなんだもの、既に。
でも、もし、言葉で言えば、それが最高の絶対なる至福であり、 絶対なる充実であるということだね。
だから、どこかへ行き着こうとするんじゃなくてね、修行というのは。 ここへ戻るということなんだ。
いい?草木が成仏していることを、もし知的に説明すれば、 この灰皿が成仏してるし、これも、これも』
T「それは成仏しているという状態でしょ。成仏していない状態というのは別にあるわけですか?」
ダン『ううん、ない』

雨宮第慈講話録2 君がどうかい? より一部抜粋

—–

果てしなく吹きあれる嵐のごとく
それが私の眼を目覚めました
私はソーマを飲んだのか?

たくましき軍馬が戦車を引いて天翔るように
それが私を限りなく成長させた
私はソーマを飲んだのか?

母なる牛が子牛を抱くように
激しい歓喜が私を包んだ
私はソーマを飲んだのか?

戦士が戦車のうちに魂をこめるように
私はこの歓喜にすべてを委ねた
私はソーマを飲んだのか?

世界のあらゆる国々なぞ
私の眼のちりほどにも価値はない
私はソーマを飲んだのか?

—–

天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ
私はソーマを飲んだのか?

輝かしい光明のうちに
私は天空と大地のかなたを越えた
私はソーマを飲んだのか?

私は地球やあらゆる星星をつまみあげ
ここに あるいはあそこに置いてみては戯れる
私はソーマを飲んだのか?
それともソーマが私を飲んだのだろうか?

ハリ・オーム・ソーマ
ソーマ・アムリタ・ソーマ

—–

ドラッグはソーマだった

――あなたは、体験でない  体験をしようとしている

君は神通力や悟りあるいは絶対の愛とか自由とかを願って何かを始める。
ヨーガだとか坐禅だとか修験道だとか創価学会だとか自律訓練法だとか、その他それらしきものなら何でもいい。
そして、もし君がそれらの修行に充分に熱心に打ち込めば、君は、やすらかさや超感覚的知覚や運命を支配する力や法悦や、
かつてない充実感や悟りと称する体験を得るかも知れない。
しかし、それらの超人的体験が単なる一つの強烈な体験というものにすぎないとしたら、それがどうしたというのだ。

君はあい変らず、以前の束縛された卑小な人間にすぎず、そのつまらない君が、これ以上は大切なものはないとばかりに、
法悦とか悟りとかの体験の思い出をしゃべる。過ぎ去った快楽を追走することが君は好きなんだろう。

たとえば、君が心の法則をマスターして、君の運命を自由に実現しているとしよう。
それはそれで結構なことだ。金はないよりあったほうがいい。
でも、君は必ず死ぬんだ。君のすてきな人生は瞬間ごとに死んでいく。
さあ、本心を言ってくれ。君が本当に、本当に願っているものは何なのかを。

—–

君は、完全な自己解放と自己実現を求めてドラッグを服用する。
そのドラッグがLSDやメスカリやマリファナやアフェタミンやヘロインやコカインやトランキライザーやシンナーその他もろもろのものであろうと動機は本質的には似たようなものだ。それは、一人の念仏者やキリスト者が、清浄な信仰生活を送ろうとするのと同じだ。
なさけない自分から解放されたいと思うことに例外はない。
そこで君は様々な薬物を試みる。向精神性の薬物を信じているからであり、その信じ方はヨーガを信じている人と同様である。
確かに君は、向精神薬の効果とやらによって、宇宙との一体感や高揚感や恍惚や静けさや神秘的光景や愛という一つの感情を体験をすることだろう。
しかし、人間的体験は、結局、過ぎ去り行く思い出にすぎない。体験はしょせん体験なのだ。
ドラッグ効果によるハイは、その効果が切れれば元の木阿弥だ。
君は、あい変らず虚しい君でしかない。

—–

瞑想は体験であってはならない。瞑想は思い出ではないのだ。
ドラッグは、あくまでも、君にとっての体験を与える作用にすぎない。
だが、ソーマはドラッグではない。君が、ソーマを化学的に分析したとしたら、
それがドラッグの化学構成と違ったものでないことを知るだろう。
だが、ソーマはドラッグではない。ソーマは体験ではなく実在そのものだから。
ソーマ・メディテーションには体験している事を確認している自己というものはない。
ドラッグは必ずソーマとなる時期を待つ。
そして、ドラッグをソーマに変容させることのできるのは、君自身以外の何ものでもない。
君自身こそソーマの時節そのものだから。
ソーマは君が完全に死ぬことによってのみソーマとなる。
そして、君は、君の瞑想修行を決してやめることはない。

—–

道元君は言っている。
修行して悟りを開くなどと考えるのは、インチキな教えだ本ものの仏道では、修行と悟りを分けたりしない。
修行している姿、それがそのまま悟りの姿だ。修行と悟りは同時にあるのだ。

そうだ。悟りは決して移ろい行く人間的体験の一つとしてあるのではない。
悟は体験ではないのだ。それは、ソーマが体験でないのと同じである。
すべてのすべてであるソーマに、どうして体験なぞというちっぽけな限定をつけることができるだろうか。
ドラッグはもともとソーマだったのだ。

ソーマ・パイロットの言葉

精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。
あらゆる個別的な生命形態は、そのどうしようもない束縛の中の有限性から自由になろうと永遠に願い続けている。
しかし、有限性という妄想は、実に陰険で楽しいトリクを個生命達に与えていて、
あらゆる生命が本当は無限そのものであることを自覚しようとするのにブレーキをかけている。

有限性になれた人間は、有限な自己を唯一の放蕩の自分自身のようにいつのまにか見誤ってしまう。
これが、無限な君を邪魔するブレーキであり無用である。
だから、君は死なねばならない。君は、君の見ている「現実」という名の妄想に別れを告げねばならないのだ。

何のために?それは君が最高に楽しくゆかいで愛と安心に満ち自由になるために、
あるいは、それらのすべてから解放されるためだ。
単純明快なことだ、あたりまえなことだ。

—–

君が、君を脱して君自身になろうとする働きが、ソーマ・パイロットで、そのパイロットあるいはガイドには、旅している君だけに与えられる言葉がある。
ソーマは、あらゆる姿をとって君に君の消滅を最終的に告げている。
君が無限である。最後通告を語り続けている。

これからここに記される語句は、ソーマガ、あらゆる姿を通じて、君を解放しようとした働きの一例である。
そして、ソーマ・パイロットの言葉は、君が混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のソーマ・トリップの最中以外に聞いたとしても無意味であろう。

ソーマ・パイロットは、君とともなる旅の真っ最中に語りかけるために、ここに言葉を置いたのである。

君は、これらの語句のどれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、どれも読まなくてもいい。

—–

―ソーマ・パイロットの言葉

あらゆるものは 私が無いことを示している 私こそすべて

すべてとつきあえ すべてとつきあっている 私はすべてだ すべてだ

今 ここ

今じゃない今 ここじゃないここ

私は私に帰れない すべては私自身なんだ

旅に限りはない 私はわが家にいる

いくたびもなく いくたびもなく

ここに終わり ここに始まる

やすらげ やすらいでいい やすらいでいる

殺せ ぶちぬけ 行け 二度とないんだ

むかしむかしある所に アトランティスがありました それは 今 どこにあるでしょう

むかしむかしある所に お釈迦様がいました それは 今 どこに あるでしょう

むかしむかしある所に 超能力がありました それは 今 どこに あるでしょう

むかしむかしある所に 悟りというものがありました それは 今 どこにあるでしょう

—–

素直であればいい

混乱や恐怖や不可解な中でも ただ素直であるしかない
天国だろうと地獄だろうと おれはあるがままでいるしかない
ドラッグ・ソーマの神は 時にトリップ者を トリップの袋小路に誘い込む
それはトリップ者が 耐えられるぎりぎりのトリックだ
そしてこの耐え難い トリックパズルを 解くやり方は
素直であること それのみである

恐れるな恐れにどんな根拠もない

今こそ 君はすべてのすべてを見る 君がすべてのすべてだ

今は 死ぬに最高の時だ とっくに おれは死んでいる

どこにもどろうというんだい もどる場所なぞ ありはしない
おれが あらゆる場所 それ自体だ

宇宙とか神とか悟りとかを 気にしていない 君は無限に それ以上だ

君にとって 一番すてきなもの それが君なんだよ

—–

ソーマ・トリップは 体験ではない
ソーマはドラッグではない
ソーマは
すべてを超えた君自身であり
すべてである君自身であり
ただひとりの君自身である
だから ソーマ・トリップに 終わりはない

おまえが永遠が好きなら永遠にいればいい
永遠を終わらせたいのなら 終わらせればいいんだ

どこまでも、どこまでも

このアシッド 一つぶいくらしたの 横丁のラーメン屋のおやじ 競馬が大好きなんだぜ

おまえの着ている服 イカスな おれ 今とってもさえてるよ おまえは どう?

限りない 虚空さえ もはやない

君のやっているトリップが 何かの作用なぞ思わないでほしい ドラッグに トリップを起こす作用はない

もう、いいんだ

決して 情熱をやめないこと トリップ・トリックに ひっかかるなよ
情熱なんか無いなんて かたいことは言わないでくれ
目的と それへの情熱こそ 宇宙が宇宙としてある原因だ

—–

もっともっともっと

本当に確かなものを 求めてみろよ 君は断じて どこにも行き着かない

夢だよ

君はつねに今から 全く新しく出発する

言うことがない 考えることがない することがない

君は いちばんなつかしいところにいる

さあ、つきあいなぞ どうでもいいから

君のマントラでも公案でも合唱せよ
それとも 叫べ!
静けさもない 瞑想に入ろう 今が お買得のチャンスだよ

君は何がほしいんだ? 君は何がほしいんだ? 君は何がほしいんだ!

私は何を求めているのかなぞと つまらないことを考えないでくれ

時間はない 私は無い
なにもかも無いということを 考えてもしようがない 何もかも無い それ自身だ

君は あらゆるものとともに死ぬ
君が もともとありもしないここに あらゆるものが戯れている

—–

マインド・ゲームという どうどうめぐりのトリックに だまされるなよ
マインドゲームを 考えるくらいなら
「マインド・ゲーム!」と
大声でどなったほうがましだ

よう いい役 えんじてるじゃねえか

君は君に出会っている

どうしようもない恐怖は おまえだ
どうしようもないすてきさは おまえだ
その他すべては おまえだ

ドラッグ・トリップはない
目ざめよ
果てしなき流れにいる

ソーマは今ささやいている
「おかえりなさい、ここが君のわが家だよ」

ソーマ・アムリタ・ソーマ
ハリ・オーム・ソーマ

—–

思考は常に解答を出したがる。
たとえば「不可解」だとか「全体性」だとか。
こんなものどもは、ガラクタでさえない。快楽こそ悟りなのだ!

快楽が、あなたのものでもないように悲しみも不安もあなたに属しはしない。
では、あなたとは何だ?

—–

およそ、 死んだら霊界があるとか、 死んだら魂が転生するとか、 そんな事は、 人間の観念の世界の事なんだ。
じやあ、 仮に霊界があってさ転生したとする。 でも相変わらず、 それは続くのさ。 君達は。
たとえ極楽に行っても地獄に行っても同じように喜怒哀楽がある。
そう、
君達はいつも何かを追いかけている。
いつも何かを追いかけている。
いつも何かの依り処を探している。
それはいろいろなもの---。
映画を見たり、 本を読んだり、 それからいろいろな事を考える。 音楽を聞く、 でもいい。
そうする事は
君達が、 何かを追っかけざるを得ないからなんだ。
君達は、 一生懸命、 探している。
本当の歓びを、
本当の満足を、---
そうやって、 次から次へと、 どこまでも、 どこまでもやっている。
そうして、 そういう堂々めぐりが、 一向に、 気にならないのだったら、 それを続ければいい。
でも、少なくとも、 君達は、 もう、そんな堂々めぐりなんか、 ご免だっていう事なんだ。

—–

何か確かなもの、
何か本当なもの、
そうやって、 いろいろな事をやる。
依り処を探しているんだ。
頼れるもの、
本当に好きなもの---
たとえば
一つの仕事をやっているとする。
その仕事をやっている時はいい。
でも、 その仕事が終わったら?
元の空虚な君なんだ。
或は恋愛、
或は結婚
本当の最愛の妻、
愛人、
みんな、 とてもすてきだ。
その時は、 どんな防御もいらない。
それでも、 それに頼る事に、それを依り処とする事に君達はいつも不安を感じている。
心の底で---、

—–

いつ分かれる。
いつ裏切られる。

本当に確かなこと。
それは一体何だ。
或いは、ドラッグでハイになる。
そうハイになった時は確かにいい。
おお! ハイだ
それも一つの拠り処。 はかない拠り処。
それがすぎたら元のもくあみだ。
一体、永続するものがあるのか?
本当に確かなものがあるのか?
完全な満足があるのか?
絶対の幸福があるのか?
或いは冥想でもいい。
冥想をやっている。
この中の人に、悟りらしきものを開いたものがいる。
その時は、とても素敵だ。
本当に解放された気分になる。
でも、それも、いつかは消える。
思い出になってしまう。
いつのまにか君たちは、そういう感覚体験を、頼っていたんだ。
あらゆる感覚体験、それは皆んな、
頭の中の観念にすぎない。
そんな、観念によって、何とか、自分をハッピーに、満足するようにしよう、としている。
追っかけているんだ。
追っかけられているんだ

—–

空虚に。
だったらどうする?
どんな刺激もなくなったら。
どんな拠り処もなくなったら。

君たちは、
友達に会える。
酒も飲める。
彼女と出会える。
冥想もできる。
映画も、 音楽も、 本を読むことも、
文章を書くこともできる。
社会人として立派に生きることも・・・・。
で、 それで、
それが本当に確かか?
それが君をどうかしてくれるのか?
くり返しだろう。
くり返す。
そう、 人生とは、 くり返しさ。
幸福や、 不幸がいろいろと混って
続いていくだけさ。
そんな風に考えられる人が
あったら、 それでいいじゃ ないか。
どうぞ、 続けてください。 それを。
本当に、 そんな堂々めぐりが、
どうしようもなく嫌になるまで、
続けてください。
あなたは、 まだその時期じゃないんだ。

—–

さあ、本当に絶対なものが、どこかにあるのか? 人間が救われるっていうことがあるのであろうか? 救われた気分になる事はあるのだろう。 でもそれは気分だ。 常に変わっている。
だから言ってるじやないか。 君達は髪の毛一本、白くも黒くもすることはできない、と。 誰かできる人いるかい?
さあ、当たり前に見よう、 当たり前に、...
当たり前に見るんだ。
何か人間に決着つくような事があるか?
死ぬんだぜ!---
君達は!
皆んな死ぬんだ!
今日、君達が素敵だ、と思ったもの、
それも幾日か、たったら、もう
素敵だ!、って言えないんだぜ。
それを無理して
素敵だ!、素敵だ!ってやったって、
むなしいことだ。
じゃあ、どうする。
君達が、此処にいるっていうことは、
本当に
本当に
本当に、
ハッピーに生きたいんだろう?
そんな事考えない、って心の底から言えるんだったら、もう俺は必要ない。

—–

だけど、何かあるんじゃないか、何かあるんじゃないか、と
君達がこうして集まってきている。
お互いの顔を見ることができる。
或いは社会の中に属する。
うん・・・・
それは、とても安心だ!
でも、一人っきりになったら?・・・
本当に君達を助けてくれるだろうか?
君達は、今、砂漠のど真中にいる。
いつでもいるんだ。
これは修飾語でなく事実なんだ。
君達が、 どこかへ行って、 一人っきりになる。
その時の、むなしさとか、不安とか、堂々めぐりとか。
そういうものを、
一体、誰が変わってくれる?
そして、 更には
一人っきりの君達っていう、 その君、
その君自身でさえ、
しょっ中、 動き回っている。

やれ、 幸福だ。
やれ、 快楽だ。
やれ、 苦痛だ。
やれ、 出会った。
やれ、 離れた。

やれ、 年老いた。
やれ、 病気になった。
やれ、 死んだ。 ----

—–

みんな観念だ。
君達の頭がそれを作り出している。
さあ、 どうしたらいい。
一体、 どうしたらいいんだ。
今、 此処では、 いろいろな人達がいる。
と君達は信じ込んでいる。 そう頭の中で。
だから、 私がしゃべっている言葉が、 とてもゆっくりしか君達の中には入っていかない。 でも、 一人っきりになったら、 その事は、 どうしようもない事実なんだ。
そして、 一人っきりで、 その一人がいればまだいい。 でもその自分さえ、 どうにもしてくれない。
さあ、 どうしたらいい。
冥想する?
お祈りする?
みんな君達がやる事だ。
どうして、
どこかに行きつこう、 なんってするんだ。
今迄、
この世に生まれた人間で、
どこかに行きついた人達がいるか?
シャカは行きついた?
キリストは行きついた?
クリシュナは行きついた?

—–

みんな死んだじゃないか。
今、 どこにいる。
君達が、 本当に一人っきりに、 それも、 観念で一人っきりになるのでなく、 一人っきりにならなければ、
当り前な人間関係も、
当り前な生き方も、
できやしない。
あたりを、 しょっ中見回している。
そう、
此処にいられないんだ。
いつも、 此処以外の事を考えている。
何かあるんじゃないか、
何か、
何か、
と頑張っているんだ。
観念というのはいつでも此処にない。
観念が、死と恐れと不安を作り出したのだ。
さあ!
よーく見よう!
人間の当り前の姿を、
神通力?----------麻雀だ! 映画だ! 神通力なんて。
それでどうした?
神通力を得てどうした?

—–

ハイになった。
ビジョンを見た。———-それで?
社会的に成功した———-それで?
まだ充分に時期の来ていない人にとってそれは魅力だ。
神通力も、 社会的成功も、恋人との愛の語らいも。
でも、それを本当にいやというほど、やってみたらいい。
そして、この中には
いやというほどやった人もいる。
そうしたらその正体がわかる。
それが堂々めぐりの一つだっていう事が。

君は死ぬ
君は死ぬ
君は死ぬ
君は死ぬ
そして、此処にでてくる。

君が生まれる前の君の姿ってどんなもの。
君の両親が生まれる前の君自身ってどんなもの?
それは、 とっても恐ろしい事だ。
此処にいるっていう事は、
理屈抜きで安らぐっていう事は、
条件抜きで安らぐっていう事は、

本当はそのあいだの距離っていうのはとても短いんだ。
うす紙一枚ほど短い。 ———- 誰にとっても。
ところがそのあいだにいろいろなものがあると思っている。
やれ、 冥想のテクニックだ やれ、 修行だ ———-

でも、 本当はものすごく単純さ。 条件抜きで安らげるんだよ。

—–

人間がどうなるのか、 だって?
ものすごく当たり前の事さ。 誰でも気づく。
気づかない人はいないんじゃないか。
ただ、 それを観念で処理するか、 それとも、そのまま続けるか。
そのちがいにすぎない。

 シャカが青年だった頃、 俺は死にたくないって頑張るんだ。
そうすると父である王が、 死ぬなんていうこのは、当たり前の事じゃないか、というんだ。
ところがシャカの方は納得できない。
それだけのちがい ———-

さあ! 此処にいよう!
いいんだ! もう、 いいんだよ!
よくないって頑張るのは、 君の頭だけなんだ。
もう、 いいんだ。

他人の事や外況に惑わされないことだ。
それはいろいろなものがある。 悟り、ビジョン、霊界、高次元世界、
でも、誰が決めるんだ。 そんな事。
いいか、
一回きりのものなんだぞ!
誰が、シャカが聖者で、君が聖者でない、なんて決めたんだ。
どこに根拠がある。
本に書かれている事が、
やれ、 光を見た!
やれ、 背骨がバイブレートした。
やれ、 ハイになった。
それで?それで、 どうしたの?

—–

でも、もっと先の世界がある。
もっと、 何かある。
もっと、 もっと———-。
ああ、 そうやって、 頭で考えている。
そして、それらが全て、 外からやってくる。
そう、 外に引っ掛けられているんだ。 外のトリックに
なあ! 君達!
本当に、 本当に、 当り前になってみろよ。
頭の中に積め込んだ、 いろいろな知識を抜きにして———-、
頭の中の知識はいろいろな事を言うさ。
やれ、 何とかの生まれ変わりだ。やれ、 聖者だ。 救世主の印がある。
でも、 君達、 一人一人っていうのは、
かけがいのない一人一人なんだぜ!
それは、 とても恐ろしい事だ。

一回きりの君達!
一回きりの今!

たとえば、
とてつもないやさしさがこみ上げてくる時がある。
それはそれでいいんだ。
ところが、 人間というのは、 すぐそれに今までつめ込んだ観念をつけ足す。
そうすると、 俺の今いる境地は、 どの位のレベルだ。
まだ、 先がある。 とか言う。

—–

当り前の今に   直面せよ!

直面せよ!

此処に!

一回きりなんだ!

一回きり!

かけがえのない一回きり。

それは———-今。

どんなしばるものもない。
勿論、
君が愛しさを感じるものを大いに愛しめばいい。尊敬するものを尊敬しろ!
だけど、 君自身は君自身だ。 それ以外の何ものでもない。

冥想には、 二つの方向がある。
一つは、 肉体的、 精神的機能を最大限に発達させる方向。
それは、 悟り、 とかいう問題ではなく、 最適なコンディションを整える働きがある。
これを実用三昧という。
他のもう一つはそれとは全然ちがう。
それは人間であることの絶対的な悲しみと表裏一体なものだ。
人間が本当にどうしようもないもの、 という、 その直視と一体のものだ。
否、 もっとはっきり言えば、 本当に人間がどうしようもないものだ。
どうしようもないものだ、 という事が、 本当にわかった時さ、
ほら、 その時、 あれが起るんだ。
みんな同じに見えてしまうんだ。
何もかもが。

—–

その時、 もう意味ないんだ。
自分が一定の形を保つっていることが。
そして直面するんだ。ところが問題なのは、
人間が本当にどうしようもないっていうことが、 嫌っていう程———-
つまり、 それは、 最愛のものの死によって起こるかも知れない。
或いは、 ガンを宣告されて、 起るかもしれない。 兎角 ——–
それが起こった時、
そう。
みんな同じに見えてしまう。
もう、 男も女もなく、優劣も劣等もなく、
みんな意味がなくなってしまうんだ。
そうして更には、そのように感じている自分さえ意味ないんだ。
でも、 それは灰色だ。入り口にすぎない。
何故なら、 まだ、 そのような意味ない、 と思っている自分があるから。
もし、
本当のニヒリズムっていうものがあるなら、 大抵のニヒリズムは、 ロマンティシズムだけど、

本当のニヒリズムっていうものは、 その灰色の世界、
つまり、みんな同じに見えてしまうんだよ。
もう、 一定の自分っていうものを保つ必要がなくなってしまうんだ。
俺は、 会社員として仕事についているから、 こういう風にきっぱりいかなくちゃいけない、 とか、
俺は、 教師であるから教師らしくしなくちゃいかん、 とか、
人とつき会った時に好印象を与えなくちゃいかんとか—–
そんな事が全然意味なさないんだ。
それも、理屈として意味なす必要がない、 とか、そういう事に捉われる必要がない、 とか
頑張る必要もないんだ。
いずれも同じだからさ。 その時は。
でも、それは灰色だ。
まだ見ている自分がある。
同じだ、と見ている自分がある。

—–

ある時、

本当に全てとつき会った時、

全てを当たり前に見た時、

もう何が目の前に現れようと、

全然、 意味なさない時が来る。

みんな同じに見えてしまうのさ!

ただ、 見える立場がそこにある。

だから灰色なんだ。

その時、 何をする。

やる事がないんだ。

その時、 座るんだよ!

その時、 座るんだ、 と言わなくても座る

んだよ。 そういう風に出来ているんだよ。

訳は知らない、 ——- 万事休す ——-

 その時、 見ている自分が消えるんだよ

—–

面白いものなんだぜ。
電信柱だろうと、 道路だろうと、 みんな見知らぬものなんだ。
ところが、見知らぬっていうのは、 知っている事、
何か知っているものがあって、 それに対して見知らぬ、 だろ。
そんな事抜きにして見知らぬもの、 なんだよ。 みんな。
それに近い感覚っていうのは、 此処にいる人達はみんな経験しているはずだ。
そういう時代が来ているからだよ。
ところが、本当に、 どんずまりに来たっていうのは
本当に見知らないんだ。
つまり、 見知らぬっていう風にして、あわてる意識さえないんだよ。
まるで、
そう、
魂を、 どこかに落っことしたような。

ほら、 あるじゃないか、 たとえば、 とてもすてきな人が、
そばに来れば、 いくらすましていても、 やっぱり---
そういう事ってあるじゃないか。
そんな事さえないんだよ。
本当に灰色というか、 白というか、 ゼロというか。
ゼロポイント、 そう、 このゼロポイントまでいけば、 ブラックマジックも成立しない。
ブラックマジックつまり破壊というのはゼロポイントの一つ手前にとどまる。
つまり差引きゼロの世界では、 もう、 やる事がないんだ。
ところが、 まだ観念が先行している時に差引きゼロっていう事に気づくと、
もう何をしてもいいという発想が出てくる。
でも、
本当に 本当に 悲しめよ!
いいか。
悟りっていうのは
理屈抜きの悲しみの事なんだ。
生命の悲しみの事なんだ。
本当に悲しみに直面できる感受性、
それが悟りだ。

—–

神秘学とか、 霊的何とか、 っていうのは全部ままごとさ。
この世界に於いても同じだよ。又、究極的世界の於いても同じだよ。
映画を見たり、何か気をまぎらわしたりするのとどこが違う。

人は、 いろいろな刺激によって生きている。 外部からの刺激によって。
自分の中から起こったことさえ外部からのものだ。
そして、 それによって生きている。
それを拠り処にしているんだ。

平常のそのままでいいんだ。
いいんだよ!
平常の、 そのまま、 で。

どうして何かになろう、 なんて考える。そんなものマスコミにのせられているだけだ。
一人一人が又とない生命(いのち)だ。平常そのままでいいんだ。
とても恐ろしい。
何故なら、 人は、 いつでも自分が空虚だ、 と意識し————–
あるいは意識しなくても————-感じている。

平常のそのままでいいんだ。でも、 それはとても恐ろしい
すごく、すごく恐ろしいことだ。 平常のそのままでいいんだ。
自分の思うようにしたらいい。 決してためらわずに。
これは、決して、助平根性があったら出来ることじゃないんだ。
つまり、何かがうまくいくとか、何か先行きうまくいく、とか、
そういうことを考えていたら、 自分の本当に好きなようには出来ないんだ。
もし、そういうものがあるとしたら、それは、自分の本当に好きなようにしているのではなく、
自分の妄想が好きだ、 と考えている事をやっているにすぎない。

—–

つまり、 観念のゲームさ。
君の本当に好きなようにするという事は
これ又、恐ろしい。とても、とても恐ろしい。
自分の本当に好きな事をするっていう事が---間違えないで欲しい----たった一人、
 自分のすきなようにした人間だけが、
友情とか、 親子の愛情とか、 恋愛とか、 仕事とか、
---それら全てを、 一番、 本来の姿でやる事ができる。
ちょうど、 降ってきた雨のように。

雨が降る。
鳥が飛ぶ。
自動車が走る。
本当に好きな事をする。

今、
君達は 今から、
全く新しく生き始めた。

本当に、 何一つ人間にとって救いっていうものはないんだ。
何てすてきだ。何て恐ろしいんだ。
 信じ切れないっていう事は、 此処に安住できないって事さ。
此処に安住したら、 その次の生活っていうのが全然、 成り立たないんじゃないか、
とか、自分は、 いろいろ考えて、 いろいろ向上したり、 いろいろうまくやったりする
方便がなくなってしまうんじゃないか? っていつも、 不安を感じているからさ。
それだけのこと。
皆んな、 観念の、 頭の中のゲームだ。
本当に、 信じ切れない。 本当に、 信じ切れない。
だから、本当に、 好きなこと、 をすることができない。
いいか、 信じきるっていうのは、 たとえば、 こういうものなんだ。
現代人の身体の中を見よう。

—–

肉体。
そうすると、必ず、どこかに、しこりがある。
どこかに何か、何か、しっくりこないんだ。
いつでも、しっくりこない。
そういう意識が、どこかに、さまよっている。
そして、何か、ハタヨガとか、いろいろ修行したら、それがとれる、と信じ込んでいる。
誰が決めた!
そんなことを。
しみわたらせるんだ!
今、此処で!

此処でなくてもいい。
どこでもいいよ。
いいか。
本当に、 しみわたるんだ。
しみわたるっていうことが、
信じ切れるっていうことさ。
あるがままの自分、というのに
どっしり座るんだ。
うーん-----そう-----通俗的に言おう。
例えば、人が、 何かを見ている。
自分の身体か何か、 顔とか-----
ところがどういう訳か
君達は、 どこかの部分を、 見ないんだな。
とりわけ、どこか、 気にくわない部分は、見るに耐えない。
何故なら、 それが、 しこりだ。
何故なら、 それが、 君達が決めた観念だ。
一つ、 一つ、 愛(いと)しむんだ!
一つ、 一つ、 愛しむんだ!
自分の、あるがままを、愛しむんだ。
びっこが何故いけない。自我が何故いけない。胃腸が弱いっていうことが何故いけない。
肥っちょが、何故いけない。自分の、かたくなさ、が何故いけない。

—–

外の考えに、 惑わされるなよ。
いいか。かけがいのない、
一人、 一人の君達なんだ。
かけがいのない君、だ。
どこも、 かしこも、 愛しむんだ。
何故なら、愛しみたがっているから。

外からくるもの、それは、 いつでも
優劣や、美醜や、いろいろな、がい念というものを頭の中に、植えつける
その、がい念、というものがコンプレックスとか、 何とか 心理学でいうことと結びつく。
誰が決めたッ!-----

君達は、 かけがいのない
君達自身だ!
一回きり、 の。
君達は、 シャカとか、 キリストとか、聖者とか、 何でもいい。-----
全く同じだ!  全く!  全く!

君達が全てを、
つまり、
君達の心を、
君達の考えを、
君達の身体を、 本当にすみずみまで、
愛しめば——-、
そう!
それが信じ切るっていうことさ。

—–

本当に満足したら、すべてが整う。
本当に此の中に安らいでみたらいい。

しみわたるっていうのは
たとえば、砂漠を放浪してて、
一杯の水に、やっとありつけたっていう時、本当に、しみわたるんだ。
どうやって?
今、安らいだら、何もできなくなるなんて、まっ赤なうそだよ。
完全な安らぎが、完全なバイタリティを生むんだよ。

臨在
「お前が、もし、外に向かって求めまわる心を、
たち切ることが、できたなら、
そのまま、祖師であり仏である。」

勿論、どれは必要だ。
たち切ったら、
たち切ったら、
ああ、これ又、
とても恐ろしいことだ。とても、とても素敵なことだ。
たち切ったらってどういうこと?
いろいろな予定や、いろいろな目標や、いろいろな何か、
実現や、いろいろな欲望や、いろいろなすてきさや、
いろいろな理想や——–とりわけ理想、 夢、 希望、
それを断ち切るっていうこと。
何故、断ち切らなくちゃならない。
それらが、此処にあるっていうのに、
みんな此処に。
何をあくせくする。
何をかまえる必要がある。
今、今、安らぎがある。
かまえは自然に此処から出て、日々を生きる過程で起こる。

—–

臨在
「お前達がそこで、此の説法を聞いているそいつが祖師であり仏である。
ただ、お前達は、それを信じ切れない為に、外に向かって求める。
そんな事をして、たとえ求め得たとしても、それは、文字、言句の概念で、
生きた生命の祖師ではない。とりちがえてはいけない。
お前達、今、此処で、してとれないなら、永遠に迷いの世界に輪廻して、
愛欲にひかれて畜生道に落ち、ロバや牛の股に宿ることになるだろう。
お前達、わしの見方からすれば、此の自己とシャカと別ではない。
現在、日常の働きに何が欠けているか。
六根を通じての自由な働きは、今まで、一秒たりとも、止まったことがないではないか。
もし、よくこのように徹底することができれば、
これこそ、一生大安心のできた、めでたい人である。」

お前達、今、此処でしてとれないなら永遠に輪廻する——-
ああ、苦しい。
堂々めぐり。

安心しろよ! ほら!

その間っていうのは距離があるんじゃないんだ。
今、
此処で、安心するっていうこと。
此処で、リラックスするっていうこと。
そして、それが、できなかったら、永遠に、輪廻するっていうこと。

そう、輪廻する。
つまり、そういう風に、苦しみ多き日々を生きるっていうことはね。
たとえば、苦しみ多き日々、三年後のその時でもいいんだ。
でも、折角だから、此処で決めて欲しい。
決めるっなんて言わないでいいよ。
当たり前でいいんだ。ものすごく恐ろしいんだぜ。
何故なら、人間っていうのは、条件が好きだから。
人がリラックスできない理由は単純なことさ。
ものすごく、それは単純だ。
自分が満ち足りない、って妄想しているのさ。
今の自分はまだまだ、って妄想しているのさ。
勿論、この世を、人間として最後まで全うするには、まだまだっていうのは必要だ。
でも、それは二次的なものだ。それは、あとから出てくるものだ。

君達の、今いる君達に
何が欠けてる?
欠けてる、と考えるのは、
皆んな、頭でもって吸収した、いろいろな情報のせいだ。

できるんだ。
今、今、此処で、できるんだ

六根を通じて、というのは、
君達の感覚、今、此処で、働いている感覚さえ、
いろいろな妄想や、こいつ何話してる、とか
そういう働きが全て、さ。

大安心。
どんなことを考えようと
大安心。
いいんだ—–
いいんだ—–
もう、 いいんだ—–
おかえりなさい

(完)

—–

そして、もう一度思い出そう。「救世主入門」の一番最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。
「完全」は君以外の誰に代わってもらうこともできないのだから。

「この本に書かれていることほど無責任なことはない
この本に書かれていることを信じない方がいい
書かれていることはすべて逆の意味かもしれないから」

過ぎ去ってしまった出来事や言葉を信じないこと
たとえそれが天使のものでも悪魔のものであっても
今以外に君の居場所はない

—–

至福ハンドブック=死とSex

’83 Sept,3
Form ダンテス・ダイジ

人はその内的満足によってのみ、
その内的外的調和、平和、幸福、快楽を実現させることができるのである。

この場合の内的満足とは自我欲望の満足といった意味ではない。
なんとなれば自我欲望の満足は不可能だからである。
自我は底知れぬ虚無の上に立脚しているものにすぎない
自我にとって一切は不条理なのである。
従って内的満足とは自我欲望からの解放すなわちオルガズム或いはエクスタシーを意味する。

オルガズム或いはエクスタシーといったものは、欲望の延長線上にある満足ではない。
それは欲望すなわち自我の消滅としての満足を意味する。
オルガズム或いはエクスタシーは自我の消滅もしくは欲望からの全面的解放を意味する。
絶対満足であるがゆえに人間を進化、成熟せしめるものである。

現代に最も必要なことは、この自我からの全面的解放を意味するエクスタシーのみなのである。
一般人にとってエクスタシーは死もしくはセックスによってのみその可能性を開き得るのである。
勿論、純粋冥想はあらゆるものを含む全面的エクスタシーのカギではあるが、それは人類の1/3のみに有効な方法にすぎない。
ここでは全人類一般人全てにエクスタシーを来す為の暗示が記述されている。

もう一度言おう。
エクスタシーこそが全人類の究極的テーマであり、あらゆる問題の唯一の解決法なのである。
人は自己満足を求めているのではない。
自己満足は不毛であることを知っているのだ。
本当の人間性は自我からの解放、すなわち、
欲望からの解放すなわちエクスタシーのみを真実求めているのである。

人はなぜ苦しむのか?
人はなぜ虚しいのか?
人はなぜ大らかで楽しくないのか?
人はなぜ生き生きと血湧き肉踊っていないのか?

それは自分が自我意識満足を求める欲望だ、と錯覚しているからである。
全人類は、今や、自我から出た虚しさを如何にだますかにきゅうきゅうとしている有様である。
やめなさい! やめなさい!
自我は虚しさと欲求不満と苦悩を生む以外にはないのだ。
それらの虚しさ不満苦悩が、それなりに素敵だと思うのであればこれ以上この文章を読む必要はない。

ああ! エクスタシー! おお! エクスタシー!
自我にとって果てしなく遠く彼方にあり、そして常に今この場にピッタリくっついているものよ。

注意せよ! エクスタシーとはあなたのエゴがあこがれているエクスタシーではないのだ。
そんなエクスタシーは単なるまがいものにすぎない。
しょせん一時的な自己満足なのだ。
真実にして絶対なるエクスタシーとは あなた、すなわちエゴが消滅するところに花開く神秘にして不可思議なるなにかなのだ。
その時、一切の苦悩も一切の喜びも完全に終わり、苦悩でも歓喜でもない完全無欠なる至福が無限に満ちわたっているのである。
エクスタシーはあなたを成熟せしめ、一輪の野の花にも、海のさざ波にも、山の中の静じゃくにも、大空の広がりにも、風のささやきにも、
しとしとぴっちゃんしとぴっちゃんの雨ふりにも、便所のこえだめのうじ虫にも、一服のタバコにも、ほんのかすかな肌の触れ合いにも、
限りない味わいがあることを生きることになるのだ。

さて何故、死がエクスタシーになるのであろうか。
答えは簡単だ。
あなたというエゴがなくなること、ナチュラルになくなること、そこに唯一実在しているエクスタシーがあらわれるから、というにすぎない。
ところが、存在しているのは自分だと妄想している現代人にとっては死は最も恐ろしいものに映ることとなる。
死ぬことによってエクスタシーにかえることは現代人にとっては困難なことであろう。
そこでよりイージーな道としてセックスをあげざるを得ないのだ。

セックスによりオルガズムエクスタシーには、その男女のエーテル的すなわち全一的合一が必要なのだ。
平たく言えば愛情こそが全身的オルガズムすなわちエクスタシーを開花させるということなのだ。

誠に誠に告げる、性的快楽は性的快楽を追求してとっかえひっかえ異性をかえることによって実現したためしは今だかって一度もあったためしがない。
何よりも重要なのは、心の底からフィットする、心の底から愛情を感じるたった一人の異性との出会いを待つことなのだ。

実際、この地上で最も美しいのは全面的な愛情、トータルな恋愛なのだ。
そこに低俗的な意味ではないオルガズム、エクスタシー、成熟、宇宙の意思が働いている。

人が本当に求めているものは何なのであろうか。
人は様々なものを、その欲望の奴隷となって追い求めている。
全面的な満足が欲しいのだ。
だが、自我には断じて全面的満足はあり得ない。
本当のことを言おう。
人は誰でも自我というやっかいなもののドレイから解放されたいのだ。
本当のことを言おう。
人は誰でも自己という重荷を消滅させたいのだ

なぜなら、唯一楽しくなるのは自分が絶対完全無限なそのものであるということに目覚めることであるからだ。
それを私は仮にエクスタシーと名づけているだけのこと。

女性にとっては全面的な愛情が全てであり、それによって自ずから男性とのSEXがエクスタシーそのものを開示する。だが男性にとっては、ただ愛情があるというだけではダメなのである。
そこには、さめた知性が必要なのだ。
愛情があればSEXにおいて女性は努力を全く必要としない。
だが男性はある種の努力が必要なのである。
この由に男性の至福への道は、死をかけた何物かを必要とするのである。

男性は一人の女性に対して全面的愛情を感じたとしても、それは一切の問題の解決とはなりえないであろう。
それ故、男性は自己の生命を捨ててもいいという風に生きなければ悟り、至福、エクスタシーに目覚めることはないのだ。
純粋なる坐禅冥想は勿論、全面的な死への道であり、全面的な至福への道であるが、それはごく限られた人々のものでしかない。
そこで男性は、職業、家庭、友情、使命などに生命をかけねばならないのである。
それらが自己満足としてあるのではなく、自己放棄としてあらねばならない。
つまり、自己満足の虚しさと恐怖の構造を理解して、自己満足ではない、純粋に正しい行為を生きつづけるのだ。

たとえ、その行為の結果が完全に失敗に終わっても、である、
自己を豊かにしてはならない。
自己満足を目標にしてはならない。
エゴの肥大こそが虚しさと鈍感さと不安と恐怖の原因であることに気づきなさい。

女性は本当の愛情を自覚した時が、人間的悟り、成熟といってよい。
そしてそこから、そのエクスタシーから、その成熟から、健全な未来の子供達を出産するのである。
愛情のあるSEXからの出産は単に産みの苦しみといった様なものではない。
それは苦しみであると同時にエクスタシーからのエクスタシーなのだ。

愛情あるSEXは女情を自ずから成る性的エクスタシーへ導きそこに女性としての大いなる成熟があるのだ。
これだけで現代女性のかかえている全問題は解決したといってよい。
死んでもいいと言う程の生き方、それこそ現代人は自覚しているといないとにかかわらず、求めているものである。
一般に女性にとってそれは一人の男性との性愛であり、
男性にとっては天職とか家庭ということになるのだが、現状では、そうは問屋がおろさなくなっている。
というのは現代人一般があまりにも快楽、権力、金の奴隷になっているからである。
従って今や天命としての職業なぞありはしないのだ。

警告する!
快楽と自己満足の為に生きるのをやめなさい。
女は女でなく、男は男でなく、人間は人間でなく、家庭は家庭でなく、
社会は社会でなく、自然は自然でなくなっているのだから。

本当に正直に答えて欲しい。
あなたはむなしくありませんか?

現代の女性は本当の恋愛を知らない。
現代の男性は本当の天職を知らない。
現代の人間はその天命を知らないのだ。
性的快楽のみを求める女性に、むなしさから逃げるために満足を求める女性に、どうして本物の恋愛が起こるであろうか。
金、権力、地位、名声、快楽を求める男性にどうして本当の天職が発見できるであろうか。
そこで現代人一般は享楽的なSEX、ほんのささやかな趣味娯楽、
或いは美容、健康、SEXの様々なテクニックに自閉的な満足を求めているという次第である。

現代文明にとって最も必要なことは、出産、性愛、死という人間としての根本的基盤に目覚めることなのだ。
神秘を知性的に分析して解明するのではなく、神秘を神秘として目覚めるのだ。
この目覚めが実現しなければ、この西洋商工業都市文明は今世紀一杯で自滅するであろう。

(完)

—–

あらゆる人間行為が、情熱の最極点で行われ、
そこに、洞察と直感がともなう場合には、
行為は、必然的に無行為の入り口へ
すなわち絶対無の行為の入り口へ
純粋瞑想へと変容する。
それは、また、
情熱・憧憬の最高形態、
渇望の最高開放である、
全面否定を通過するということでもある。
全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出かたの一つだ。

ヨーガとは、純粋瞑想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。
したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、
チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、
身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。

また、一切の仮設を排除した知的全面的探索は、ジュナーナ・ヨーガと呼ばれていたものだが、
むしろ、真実の公案禅において完璧な結晶化が見られる。

そして、人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、
全面的に理解されれば、そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を、純粋瞑想とすると、
それが、どのような違ったアプローチに見えようとも、
結局は、禅かクンダリニーヨーガに包含されている。

最終的には、絶対者の究極的覚醒は、同一だとしても、それぞれのアプローチには、
それぞれのニュアンスの違いが、最後までつきまとうことは、否定できない。

—–

今、禅とクンダリニー・ヨーガに限って、絶対者のどの側面が強調されるかを見てみよう。
公案禅は、絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面。
クンダリニー・ヨーガは、肉体すなわちボディ・マインドの死後と絶対者の多次元存在として
現出している全実在の構造的側面。
そして、只管打坐、絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面が、それぞれ強調されている。
以上は、真正の公案禅・クンダリニー・ヨーガが、只管打坐に関しての、
その重点的な側面もしくは位相、すなわちニュアンスの違いである。
そして、真正の禅もしくはヨーガなどの純粋瞑想は、真正の覚者との出会い抜きには、あり得ない。
それが、純粋瞑想が決してメソッドやセラピーとして成立しえないゆえんである。

真正の覚者についての、いかなるも規定も説明も無意味である。
彼にはいかなる立場も質もない。
彼は、究極的覚醒そのものであるが、覚醒の何たるかを一度も垣間みたことのないあなたにとって、
覚醒を見分ける方法も手段も、その眼力もない。
したがって、苦悩するあなったにとって、真正の覚者は、決して分からないのである。

真正の覚者なしでは、純粋瞑想はあり得ない。
あなたは、覚者の行為しているその形式を実践することはできる。
だが、あなたの覚者とその行為形式とは、まったくの欺瞞である。
それは、最悪の狂信的イデオロギーになる可能性を持っているという点で、
単なる社会的欺瞞よりも、たちが悪い。

—–

ここで、あなたは、成熟し切った自我とは何であるかを理解しなければならない。
成熟し切った自我とは、いつでも死ぬ準備のできている自我である。
成熟とは、世界とか社会とかに順応して、いわゆる円満な人格になった自我ではない。
順応とか適応とかは、一つの妥協であり自己欺瞞にすぎない。
成熟し切った自我は、単に生きのびるために、自我の渇望や情熱を妥協させ摩擦させはしない。
成熟し切った自我は、私達一切の苦悩と混乱との諸問題からの全面的開放のために、
額面通り命がけである。

そして、自我は、自我という欲望が、問題を作り出していて、
それが、解決不可能であることを全面的に知っている。
つまり成熟し切った自我は、いつでも死ぬ準備が出来ている。

この時、あなたは、真正の覚者と出会うに必要な直感を得る可能性を持つ。
真実の覚者が何であるかわかるに必要な空白を持つ可能性がある。

純粋瞑想には、初めも終わりもない。
純粋瞑想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。
そして純粋瞑想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できるのである。

あたりまえに考えると、この人類は奇妙な文明と称する何ものかを生きている。
生とは何か? 死とは何か? 私とは何か? 存在とは何か? 真の幸福とは何か?

—–

これらは、それぞれに分割できぬ全体をなしているのだが、
人類史上ごく少数の人々を除いて、これらが解明され実現されたことはなかった。
この余りにも、当たり前な前提を抜きにして、人類は、便利さ快適さ、快楽・幸福を追求して、
文明と称する何かを作り出している。
そして、今や、人類全体をたやすく滅亡させることのできる巨大兵器を持て遊んでいる。
余りにも、あたりまえな基本抜きでは、単なる欲望の複雑化は、自滅に至って終わるだけだというのに。
こころみに問う。
欲望とは何か? 人間とは何か?
これは哲学的あるいは宗教的あるいは、どのような一定の立場の命題にもなり得ない。

君には 四つのパーフェクトがある。
一つは、身心一如による自己と世界との絶対的一体感。
二つは、身心から解脱して神と合一する久遠にして無限なる絶対至福。
三つは、自己と世界とを完全に透明にして色即是空・空即是色
あるいは、絶対無限慈悲・慈悲即絶対無。
四つは、決して言語化できないエヴリスィング・OK!なにもかもいいんだ!

肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コザール体を死ねば
君と君の世界は消滅して君でない君自身は
神 もしくは ニルヴァーナ に目覚める
真実 存在しているのは 真実 非在しているのはニルヴァーナのみである

君の四つのパーフェクトとは
なにもかもがニルヴァーナと名付ける必要もない
ニルヴァーナだからだ

すべてがニルヴァーナだとしたら なぜニルヴァーナに目覚めるための 瞑想修行という
果てしなき苦難の道を歩かねばならぬのか すべてがニルヴァーナだからだ

—–

君の四つの宝物の内
瞑想行法としての形式を持つのは三つだけである
地上を楽しむための丹田禅。
天上を楽しむためのクンダリニー・ヨーガ。
天地人を楽しむための只管打坐。

ついでに君の四つめの宝物を述べておこう
それはいかなる形式も持っていない
どうでもいいということさえもどうでもいい。

君は救世主でいる あらゆるものと同じように もし君が救世主でないのなら
君はパン屋にも自動車修理工にも 農夫にも遊び人にもなれはしない。

救世主とはまったくあたりまえの人間である
だが あたりまえになることほど 難しくて 簡単なことはない

いわゆる救世主という人物が
君を本当に救済することは断じてありえない
なぜならば君そのものが欲望と苦悩なのだから

君そのものが苦であることを 全身全霊でわかった時
君は一ミリも動くことができなくなる
そこに救世主があらわれるギャップが可能になる
真実の救世主とは 君の全面的生き様によって
絶体絶命に直面した時 開示される者以外にはない

君を救済するとPRする いわゆる救世主とは
ペテン師か催眠術師か誇大妄想狂かそれらでなかったら
トリック・スターに化けている本物の覚者である場合もある

—–

君が救世主であるということは 君の久遠の自己訓練としてのみあり得る
あるがままのすべては救世主だが あるがままにいる自己訓練ほど 君にとって恐ろしいものはない
それは君の死を必要とするからだ
君という欲望が死んで 君自身は君のものなるすべてを解放する
この刹那に 久遠の自己訓練は 果てしなき久遠の戯れになっている

君はもともと慈悲の救世主としてこの世に生き切り死に切っている
他のありとあらゆるものと同様に
そして慈愛と自由とは君の思い込んでいる人間性の中にはない

救世主はすべての場所と時間を通じて只一人しかありえない
それゆえ救世主は一つの肉体や人格でないばかりか
どのような決まった形態も持っていない

救世主は君という欲望の極点にのみ開示される可能性を持つ
ニルヴァーナを君以外の何ものかに求めることなかれ

ずばり言えば覚者は方便を好まない
覚者は救世主を好まない 覚者は聖人を好まない 覚者は人格者を好まない

この世には様々な栄光や満足や快楽がある だが人間は ただ遊び人として戯れるのみ

君は
思考を停止させて静寂を探したり
思念を集中して世界を光明化したり
思考を制御して内面を光明化したり
思念を統一して禅定と称する気分に入ったりして
根本無明のオモチャ・ゲームを
いつまで続けるつもりなのか

—–

救世主とは君が死んだ君自身のことにほかならない
救世主とは 救済すべき何ものもないことに
目覚めた君自身のことにほかならない

救世主になるための瞑想修行は 余りにもイージーすぎて
渇望と情熱が豊すぎない人達には 迷惑千万、危険きわまりないものとなる

一つの教えは
その時のその人に応じてしかありえない
どのような神秘不可思議な教えも
結局は慈愛と絶対無とを指し示している
君が何らかの組織に属して支配欲や安定欲や集団本能という不安を
自覚した時には現実そのものに直面してほしい
君という渇望には決して絶対確実な安心がありえないことを

危険とか障害とかは エゴのみにとってのものである
それゆえ現代においては 真実の瞑想は反自然的行為に見られる

君が慈愛を感じたり 君が何かを愛したりすることはない
君がすでに死んでいるのなら 慈愛のみが満ち渡っている 愛のみが満ち渡っている

何ものも救うことはできないし 救う必要もない このことを頭によらず理解したら
君は正真正銘の救世主であり 救うというマインドなしに すべてを救うように生きている

本質的な問いには、解答というものはない。 にもかかわらず、あなたは問うことをやめてはいけない。
少なくとも問いも答えも、あなたも世界も、消え果るまでは・・・

君は、心を捨て、身を捨て、魂を捨てて、ただただ一つの真実を発見せねばならない。 なぜと問うなかれ。

—–

「君、それ考えすぎだよ」という。本当の全身全霊的な思索からしか、決して成熟は、起こらない。

正師の発見は、あなたの全身全霊的直観による。
その全身全霊的直観が、全面的信頼を自発自起せしめる。

あなたに、正師との出会いによっても、全面信頼が生起しないとしたら、
あなたは、あなたの人生というドロ沼を、もっと徹底的に真摯に生きてみねばならない。

ただ、一人の例外もなく、私たちの心と名付けられているものの、内部には、何かわからぬが、
全身全霊で求めている「何ものか」がある。
その「何ものか」は、人生の最高の成功・栄光・調和・美・悦楽・至福・
遊戯自在あるいは三昧の境地・エネルギーの充溢感をも超えている「何かなのだ」
——もっとも、これも、かみさまの一つの、たった一つの刹那。
絶対不動の光でない光—— 万物万象と一体となっている状態—— 生も死もない慈愛・至福——
もはや、今は、これ以上は語れない。
愛情さえも、本当に深い深い信頼さえも、一場の茶番になってしまうような——
「何ものか」だ。

悟り・見性・見神・神人合一・・・何と名づけてもいいが、
それは至福でも、幸福でも、陶酔でも、エクスタシーでもない。そんなものはそんなものなのである。

本ものの瞑想修行にイージーな態度で手出ししてはならない。
現代においては、単に日常的人生を生き抜くだけでも、大変な努力を必要とする。
まして、瞑想修行は、全生涯に渡っての、全面的・全身全霊的努力を必須のものとするであろうから。

—–

タントラ・ヨーガ・スケッチ

それが、どのように 素晴らしい体験であろうと 醜悪極まりない体験であろうと
体験が体験である限りどうということはない。

いうなれば、君達は、体験ではない体験それ自身を再体験しようとしている。
君達こそ あらゆる素晴らしい体験と醜悪な体験との演じ手であると同時にそれ以上のものであるにもかかわらずだ。

アメンティー・タントリズムとアトランテス文明終末以後のあらゆる瞑想行法のトータル・タントラ・ヨーガ
それらを私であるところの私自身はタントラ・ヨーガと名付けることにする

1、占星学
占星学は処世術ではない、セルフのカルマを解明することによって、
自己の使命をまっとうすることである。

2、ソーマ・ヨーガ
ソーマとは、主に薬草などをケミカルに合成して、意識の変容を体験せしめ、
人間の可能性を拡大させるためのきっかけとして使用される。

3、カーマ・ヨーガ
性愛にもとづく全面的な交合によって、肉体的分泌線とエーテルエネルギーを、
快楽を通じて活性化せしめる。

4、気功導引法
気力・プラーナ・エーテルエネルギーによって、肉体の血行とホルモンバランスを整え、
エーテル体をよりよく健康にする。したがって身心は生命力に満ちた健康体となる。

5、ハタ・ヨーガ
主に、無数のアサナとプラナヤーマとムドラーによって、デリケートな感受性と柔軟性を現実化していく。
その結果、各ボディのブロックも徐々に消えていくわけだが、現代の生存競争と現代物質文明に必須な
自己防衛機能も消滅するエゴの危険をも覚悟していたほうがいい。

4の気功導引法と5のハタ・ヨーガとは、タントラヨーガの分水点と言ってもよいだろう。
4の気功導引法までは、現代物質文明を生きのびる処世術あるいは気晴らしといってもいい。
だが、5のハタ・ヨーガに本気で取り組むつもりなら、自己の全人生にいのちがけで
取り組まなければならない可能性があることを、肝にめいじていたほうがいい。

6、マントラ禅
あらゆるセラピーのもっともシンプルな結晶。1から5までのタントラ・ヨーガの集大成。
自我という欲望からの解放への出発点。

7、丹田禅
政治・経済・社会・労働という物質と、精神・健康・快楽という物質文明に順応するためのセラピーの終息。
自我という欲望を終息。自我という欲望を消滅させるための全身全霊をかけた自我との戦いのオープニング。

8、観想法
実在のリアリティーにもとづいて、観想の対象は決定される。それゆえ、生起次第と究竟次第という二つの観想プロセスは、決して分離することのできない。
それは、あたかも空と色が決してニ分割できないということに相似している。
七つ、あるいは十円周のマンダラ、あるいは、七つのチャクラなど、それらは、リアリティーに立脚しているがゆえに観想の対象になる。
観想法とは、自我と宇宙からの解脱によって実在それ自身に合一するクンダリニー・ヨーガのウォーミングアップの一形態である。

9、クンダリニー・ヨーガ
いかなる前提や観念抜きに、あらゆるチャクラやボディをや次元を通過して実在自身に回帰合一すること。
もはや、個別性はどこにもない。

10、只管打坐
1から9までのすべてを内包するとともに、完璧にそれ以上であり、完璧にそれ以下なるもの。

瞑想とはそれ自身が究極の花であるとともに その花の様々なそよぎである
それは、シリアスだとも言えるし それは、余りにもシンプルだ。

ごく素朴な疑わぬ心 それは人生の洞察から出てくる何か?
それが、坐禅や、タントラ・ヨーガの初めに大切である
あとはとことん全身全霊の日々だその途上にあらゆる断片がある。

死は実在上すなわち自分自身の死はクンダリニー・ヨーガの修行によって体験できるものであり
この死自身の解明が、全面的な安楽と生自身の智慧を与えてくれる
それは、余りにもデリケートだ そしてナチュラルだ

—–

死を恐れる必要はない 死はひとつの解放されたリアリティーの中で始まる
死がわかる度合いが生を愛する度合いなのだ

生には究極的には緊張はない しかし 生を生と呼ぶ限り 緊張の波が 一つの断片なのである

断片の集合は、全体者ではない それ以前に 断片の集合によって何を意味しているか知らねばならない 。

神には一つの策略がある 人間が、目覚めんために それは、千変万化する、
あなたは、あなた自身のライフスタイルを発見せねばならない

便利さ快適さは、決して幸福を産まない。能力や技術、決して真実を明らかにしない。
真実に到達するためのいかなる修行も、あり得ない。
だが、真実の中には、方法も修行も、能力や技術も、幸福も便利さも快適さも含まれている。

—–

マントラ禅・丹田禅は
心身一元観の上に心身を経過して身心一如にいたる
クンダリニー・ヨーガは
不二一元観にその立場を持ち霊肉二元を経過して絶対実在にいたる
只管打坐は
霊身心一如から生死一如にいたる
色即是空は空即是色となり 色是色・空是空として 永遠の未完結を完結する

禅には、上昇という概念はない。禅は、あくまでも無念の底への落下である。
ヨーガには、脱落という概念はない。クンダリニー・ヨーガは、あくまで根源への上昇である。
禅も、ヨーガも、宗教ではない。しかし脱落と上昇という概念を混同させてはならない。

禅は、神聖を肯定も否定もしない。
クンダリニー・ヨーガには、神聖という、ある種の感覚が、最後まで必要だ。
禅には、最終的には、根源という概念も、根源というリアリティーも不要なものとなる。
クンダリニー・ヨーガにおいては、根源への回帰が、その最終地点となる。
禅には、最終地点というものはない。

腰を入れて定力をつけよ。尾テイ骨を燃え上がらせよ。
ムラダーらの中のクンダリニーには、君とこの世とのクサレ縁をほどく、無限のパワーが秘められている。
そして、もちろん、無限の地獄も。

神から見れば君は地獄を避けて通り抜けるわけにはいかない。
地獄とは、あらゆる個生命達の欲念相続のことだ。地獄とは花開く直前のツボミのことだ。
今や、君が地獄だ。

人間自我という欲望には、いかなる解決もない。そこで、解決不可能を徹底させて、
全体性の愛自身に目覚めるか、それとも、自我と肉体とを死滅させるかということになる。
あらゆる宗教は、以上二つの方法論の観念体系、もしくは、イデオロギーである。
禅とクンダリニー・ヨーガは、この二つの現実的実践方法である。

—–

瞑想とは、あらゆる個生命達の、欲念相続の帰着点であり、
とりわけ、人間にとっては、本来の自己自身へ回帰する、ストレート・コースである。

瞑想とは、人間性・人生・生老病死・大自然・存在の本質に目覚め、
これによって永遠に千変万化しているこれ自身のことである。
したがって瞑想には、いかなる立場も本質も存在しない。

瞑想の極点は、ニルヴァーナではない。瞑想に極点があったら、
それは、瞑想ではなく、何らかの瞑想的ゲームにすぎない。

そして瞑想そのものっていうのが、より自分自身になればなるほどね、今度は現われてくる世界でもって、
余計なところに引っ掛からないから、とても美しく見える。人間的な世界が。
そして、本当に一番的確なボタンを押すよ。つまり何故かって言うと、自分の中に気負いとかさ、しこりとか何にも無いから、
ものすごいストレートだ。『うん、俺は水飲みたい。はい』てなさ。
そして結局は瞑想っていうのは、少なくともこの人間世界の中に貢献できることっていうのは、
そういうふうなストレートな人間達っていうのを、生み出す働きがあるっていうことだね。

君には君自身が欠けている。
それが、この世とあの世のあらゆる非喜劇を演じ続けせしめる、唯一の神秘的リーラ(戯れである。

あなたの問題が、自我とエゴイズムの問題なら、禅が、オーケーだ。
あなたの問題が、自我とは何か? 自とは何か? 我とは何か? 何かとは何か?
世界全体とは何か? これとは何か?
であるならば、クンダリニー・ヨーガの正しいグルを必要とする

—–

「怠惰でいることが、表面的にはどうして楽なことなんですか?」
ダン『うん、それは癖がついてる。人間の自我意識の癖なんだけど。そ
れは潜在意識の癖っていってもいい。それはね、人間ていうのは誰でも無限を抱えてるんだ。
無限って言っても、もう言い古されちゃってるから適当な言葉がないんで、
神って言っても仏って言ってももう出尽くしちゃってるからね、
今の時代は。だから困るんだよ。
とにかく限りないものを、いつでも限りないものとして君は存在している。いつでも。
もっと極端にいうと時間さえないところで君は自由に存在している。完全に充実して。

ところがね、君の頭にとってはその限りなさっていうのは常に恐怖に映るんだ。
つまり、もっと身近ないろいろを気を紛らわすものっていうのをやってないとさ、
自分がなくなっちまうように感じるんだ。
つまり、怠惰とかね、それから刺激とか、というものがみんな一見好きなように見える、人間達は。
それだからいろんな享楽的なものがある。うん。俺はきらいじゃないけどね。

—–

いろんなものがあって、その時にそれをやってないと隙間が空いちゃうんだ。やり続けてないと。
あるいは、怠惰にして自分をシャッタアウトにしてないと。
つまり『何も見ないよ。俺は見るもへったくれもないんだ。どうでもいいんだ』って状態にしとかないとさ、
とてつもないおそろしいものが湧き上がってくるように感じられるんだ。不安って言ってもいい。
不安っていうのはね、常に君がない事を示そうとする。簡単に言えば君は死ぬのさ。
ところが頭はいつでも生きているつもりでいる。いつまででも。そして君がいつまででも生きていると思う、
信じ込んでるその信じ込み方がね、君を自由や愛に目覚めしめることを邪魔している原因なんだ。

ちょうどね、こういう風に言ったらいいかな、例えば、自分っていう立場があるでしょ。
その自分っていう立場っていうの、君がさ、どっか山奥でもいい。どっか海辺でも唯一人でずっといてみな。
あるいは夜空を眺めてもいい。きっと君はさ、自分という立場がさ、夜空やさ、自然、
大自然ていうかそういうものによってさ、脅迫されているような気持ちになるはずだ。
つまり自分の立場っていうのを確保できないんじゃないかって。

いい?怠惰も不安も全部同じだよ。倦怠とか退屈とかっていうのも原因は全部同じだよ。
自我がね、自分の自我っていうのをさ、本当は仮にしか存在していない自我っていうの、
あくまでも頑張って維持しようというところからさ起こるのさ。
でも、君がもし、夜空に向かって君がさ、面と向かってた時、不安を感じてる、
その不安を感じてる自分を夜空の中に解放したらね、君はきっと夜空がさ、
恐ろしいものじゃあないことがわかるよ』

—–

ダン『じゃあ、谷口さんは。イエス・キリストだよ。前世はイエス・キリストです』
「実相においてはでしょ?」
『だって実相しか存在して無いもん。で、君の前世もついでにいこうか。
君の前世はもちろんイエス・キリストです。イエス・キリストだけじゃあちっと偏ってるかな、
じゃあ、ユダもついでに入れてやろう。そいからあの辺の通りに吠えていた犬、あれももちろん』
「十二使途の一人じゃあなかったわけですね?」
『うん、そう、科学的な見方をすれば十二使途の一人じゃあないです』
「まあ、いわゆるこの世的な見方をすれば?」
『うん、そう。ここに例えばコップがある、という範囲で言えばね』
「何かの本でしたかね、谷口先生はキリストの弟子のルカっていうこと、読んだ、
聞いた事があるんですけどね。その辺どうですかね」
『うん、だったらルカでもいいんじゃあないですか』
「そして、雨宮先生さっきもいわれたでしょ。十二使途の一人じゃないって」
『うん、それは本質的な問題じゃあないから』
「本質的な、まあ、抹消的な問題かも知れないけど、でもそれくらい事実を言うべきでしょ」
『うん、それじゃあね、転生ということはどういうことかっていうことを話したほうがてっとり早いよ。
あのね、転生というのはいろんな形であるんだけれど、本当は人間ってのは転生するもんじゃあないんだ。
常に今に居る。ここに居る』
「時がないわけですね?」

—–

『うん、時間がない。そしてその中でいろんな物語が織り成されていく。
それはちょっと説明できないからそんなふうなものだと思って勝手に聞いといてくれ。
時間軸と空間軸の中にいろんなものが現れるんだ。例えば君達がさ、
ずっとこっからさ、何億光年もさ、飛行機で飛んでったらさ
地球よりもずーと遠い所へ来たつもりになるかもしれない。でもそれは観念の見方なんだ。
こっからね。このコップまでのね、コップまでに行き着くっていうことと、本当は全然変わりはない
ただ、観念の世界だけではいろいろ大小があったり、優劣があったり、いろいろなものがある。
強弱があったり。だからそういう観念の見方ですれば、何億光年も行けば遥か彼方だって感じられる。
その中に物語が出来る。人間の物語さ。とてつもなく悲しくて、とてつもなくうれしい人間の物語。
で、転生っていうのは本当は起こってはいない。いつでもいる。
いつでも、存在している、命は君自身は。だけどね・・・』
「永遠にですか」
『永遠なんて馬鹿げたくらいに存在している』
「あっ、もっとそれ以上のもんなんですか?」
『そして、転生っていうのはどういうことかってうと、それは個性の問題に関わるんだ。君の個性
それも現世的な個性なんだ。つまり現実生活の中で君はさ、例えばノートを取る個性があるとかさ、
いろんなことをやってみたいとかさ、知的に何かを解明したいとかさ。それから、時にかなり率直になったりさ、
時に無骨になったりさ、いろんな君の与えられた現世的な個性ってなものがある。現世的なだよ。
本質的な個性じゃない。その現世的な個性っていうのはどっから起こるかって言うと、君の無意識下、
もし仮に言えばね、意識下から起こるんだ。潜在意識から。そしてその潜在意識には、深さがあるわけよ。
ものすごい浅い部分から深い部分まで。そしてね、人が転生するっていう場合にはね、
潜在意識のどっかを捕まえて言うんだ。『あの人とあの人はものすごく似ている』
その時にどのレベルを捕まって言うかによって転生は、全然変わってしまうよ。例えば潜在意識の・・・』
「あっ、じゃあ人間、区別がないわけですか?本来は」

—–

『ううん、例えば海みたいなものさ、一つの海の広がりの中に全部いる。それが君自身でさ。でも波は幾度も起こるでしょ。
その波はさ、ある場所と違う場所とではさ、違った傾向を持っているんだ。木でもいい。
一本のものすごい大木があるでしょ。その大木でさえ冬になるといつも葉っぱが落ちる。
でも、次の春になるとまた新しい葉っぱが出てくる。でもきっと同じ場所の芽の辺りから出てくる
葉っぱていうのは似た傾向を持っている。その傾向の事をね、転生っていうふうに表現しているに過ぎない。
そして、その傾向っていうのの一番本体っていうのはどこにあるかっていうと集合的無意識っていうものの中にあるんだ。
だけど、霊眼っていうのは常に集合的無意識を確認するとは限らないから。
例えばいろんな人がいるわけだよ。例えば五井さんだっけ?五井さんはなんだ?役行者の生まれ変わりだって言ってるさ(笑)
いろんなこと言うわけさ。それはそういうふうにパターンが似ているとか、
雰囲気が似てるとかっていろいろなものを理由にしてさ、潜在意識が作りあげるんだ。
でもね、転生っていうのが役立つのはただその人にとってだけなの。
俺がもし君が前世で何やってたかっていう事を言うとしたらね、
それはきっと君の中にどうしても解決しなくちゃあならない癖があるっていうことを指摘してるに過ぎない。
だから、今一緒に居て欲しいんだ。今帰ってきて欲しいんだ。今感じて欲しい。そのために方便がいろいろあるだけ』

—–

「雨宮さん今までどのような宗教を遍歴されたんですか?」
ダン『うーん、俺が遍歴したのはさ、いろんな人に出会ったり、いろんな人と触れ合ったり、
それから太陽を見たり、それから海で泳いだり、それから喫茶店入ったり(笑)』
「いろんな人とか、いろんな宗教とかを具体的に教えていただきたいんですけど」
『だってそれは、今の君にとってね、必要なのはいろいろなものを知的に教わるっていうことじゃあなくてね、
君が本当に感じてるものが既にあるんだ。それを発見することだけ』
「いいという宗教を、感じてるものがあるということですか?」
『いや、そうじゃあなくて。どうして宗教っていうだけに限る?』
「宗教じゃあなくていいわけです。別に教育団体でもいいし。そういう、鍛えてくれるとあったら」
『いやぁ、あるいは一人の恋人だっていいぜ。恋人が君を鍛えてくれないとでも思うのか?』
「いやあ、もっとそのー広い意味で」
『うん、広いよ。どうして(笑)男女の間の関係がそんなに狭いと思うんだよ。
それ君の観念が勝手にさ『男女関係なんてこんなものさ』っていうふうに決めてるからだろ』
「しかし、恋人が付き合う場合、一つの思想とか基準がいるでしょ?」
『どうして付き合いに基準がいるんだ』
「相手に対して、こう心構えが必要だとか」
『いやぁ、君の中から流れ出して来るものを発見できるかどうかっていう旅だよ。全て。
君が宗教団体に入ろうと、政治団体に入ろうと、あるいは何にも入らないで一人で頑張ろうと、
あるいは誰か友達と一緒に何かをやろうと、あるいは何かの仕事を頑張ろうと、あるいは恋人と一緒に、あるいは女房と一緒に家庭を作ろうと、どんなことを通じてでも、君の中が割れて、君の中が開けて、
君の中から自然に流れてくる命を生きているっていうこと。それを発見する旅さ』

—–

「話は変わるけど、この間、玉城康四郎さんの本紹介してくれたでしょ。あれ読んでるんだけど、ダイジも前、時々言ってんだけどね、玉城さんいくらね、瞑想やってね、すごいいい感じになるんだけども、どうもよく元の木阿弥に戻るって、書いてるんだけど、やっぱり、そういうものなんですか?」
ダン『瞑想は決して元の木阿弥には戻りません』
「じゃあ、あそこで玉城さんがかいてるのはどういう意味かな?」
『それはね、哲学者の自己が出発点であるからなんだ』
「玉城さんの場合?」
『うん、そう、でもこの頃、相当変わって来たよ』
「そうですか?」
『最近はね。あれはもう大分前の話だ。うん。ハイデガーなんかの場合は哲学者が自己だけど、
哲学者っていう流れをまさに生きているから、奴がどんなにしつこく理屈っぽくやってもさ、
全然それが理屈になってないわけ。引っ掛かてないわけ』
「あー、引っ掛かてないわけ?」
『うん、だからハイデガーっていうのは、戻る世界っていうのを行ったり来たりするとかさ、
いい状態が悪くなるという事を認めていない』
「彼の中で、それがちゃんと論理になった時に、もう常に自分と共にあるということが、
完全に自覚出来るっていうこと?」
『うん、そう。そして大切なことはさ、一番感じ取るものっていうのが、誰の中にもあるんだ。
そして感じ取ったものから、人が何か選んで生きて行く時、そこにはどんな問題も本当はない。
それは、外見上には無数の問題が起きて来るよ。でも、それは何もない時みたいに空しい形でさ、
それに何か泥沼にはまったような形では決して起こらない。本当に解決する、
どの方向に解決したらいいかってことが、常にわかりながらその方向を歩む。
本当にかけがえなく大切なものに向かって。そして、いつでもそれを一番最初に起こす出発点はね、
その感じ切ったそこから全てが始まる。そしてそこに全てが終わる』

「玉城さんの場合ね、一見自分じゃあね、元の木阿弥になったように見えて、順調に心境が進んでるってこと?」
『うん、だけど、どうしても最後の一点、つまり自己の哲学体系の中に瞑想体験というものを取り込むっていう、その取り込み方っていうさ『どうしても、俺は取り込むんだ。自己の哲学体系の中に、明確に位置づけるんだ』っていうさ、立場を捨てきれる事が出来ないんだ』
「あっそうなの?本で見る限りはあんまりそういうのは見えないけど」
『ううん、でもそれは思索過程なんだ。出発点がいつでも自我から出発している。そして哲学っていうのはね、自我から出発しなけりゃあ哲学にならないんだ。自我がどういうふうに自我を超えるかっていう。うん。
ところが元々自我なんてありゃあしない。だから東洋人ていうのはストレート、古代東洋人っていうのはストレートに、もうみんな認めちゃう。それは哲学なんていうのはないからなんだ。
東洋にとって。インドにとってないんだよ。インド哲学なんていうけど、インド哲学なんて哲学なんてしろものじゃあないんだよ(笑)』
「人間の立場から出発する哲学ってのは西洋のほう?」
『うん、そう。そしてその立場に携わったらひと度、そしてそれが、その人の本当に内的に』
「それは、捨てたって別に構わないの?」
『構わないけど、その人に結び付いたものであったら、捨てる事は出来ない』
「そういうタイプがあるわけ?人間としての」
『タイプがあるっていうより、チューリップとかさ、タンポポとか雑草とか、ヒマワリとか』
「じゃあ、ニーチェさんなんか、まあ当分続けるんですか?」
『うん、あの調子で続けりゃあいいんじゃない。とても素敵だよ』
「(笑)野心家みたいな感じもするんだけどな」
『もちろん!もちろん(笑)。奴の野心がね、奴の神秘体験を支えるのさ。ニーチェの場合は。
まさに奴の権力意欲。権力への意志が』
「(笑)ヒトラー的なところがね」
『うん、ある。ある(笑)』
「玉城さんがね、瞑想の中でさ、最後まで光がね、通らないような部分をかんじるっていうのは、その自己なわけ」
『そう。つまり哲学者玉城康四郎の持っている癖だ』
「なるほどね。それは人によって最後に残るみたいなものが違うわけ?」
『うん、もちろん残ったとしてもさ、完全に生き切る人もいる』
「残ったままで」
『うん、残ったままで。それはね、クリスチャンなんかの場合でも神と人間は絶対に結び付かないという立場があるんだ。
一つの立場があるんだ。一つの立場としてね。キリストの教えじゃあないんだ。でも、そういふうに、
絶対結び付かないっていう中を、とても素敵に生きる人もいる』
「どういうことなのそれは?」
『うん。人はだからそれぞれっていうことさ、。例えばね『ああ、この世はさ結局死ぬだけなんだ』って
いうふうに』理解したとするとさ、『うん、この世はそんなもんだ』と理解しても、
その中に』いつでもヴァイブレートしてるものがあるひともいる。大切なことはね、
彼がどういうことを語るかじゃあなくて、その語っている言葉が、どっから出て来るかだ。
いい?ある人が生きている。そしてそのいろんな混乱に晒されている。で、突然死ぬんだっていうことを、
何かのきっかけで理解する。理解した時、全てが吹き飛んじゃう。そうすれば、奴はまず、めった人には語らないだろう。
でも、同じだけ人生に直面した人に向かっては、ひょっとしたら漏らすかもしれない。
『うん、そうなんだ。人間は結局死ぬだけなんだ』その時、彼が言ってることはさ、普通よくこの会社の人たちがさ、
空しさとか倦怠感とかさ、不安とかの中で喋る意味ではなく、もっともっと深い彼自身の実感があるんだ『死ぬだけなんだ』』
「例えば、パウロがさ、霊と肉とを分けていう時の肉みたいな、そういう感じ?」
『ううん、パウロみたいな生き方ではないだろうな。恐らく完全にもし、タイプで分けるとすれば、
社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人の場合は、そういうふうな悟りの悟りの開き方っていうのかな、
をする人は多いよ。ああ、人生はさ、全て過ぎ去って行くんだな。ということ。それだけで沢山だ』
「いわゆる空しさと違うわけ?」
『うん、違う。空しさではない。だから人はこういうふうに言うこと。『人生なんて結局思い通りにならないのだ』
『うーん、人生なんか本当に重いんだ。みんな死んじゃうんだ』こういうふうに言うこともあるよ。うん。
『人生は思い通りにならないな。人間は自分勝手に生きてるわけじゃあないんだから。人間は結局死ぬな』って』
「普通、いわゆる宗教家の場合はそれを超えようとするわけでしょ?」
『いわゆる宗教っていうのはさ(笑)、つまり一定の概念というのか、用語とか、シンボルを使ってしか入れないさ。
一つのテクニックを決めた中で入って行くからだ。だから、大抵の場合、相当出来る老子でもね、
禅から入った人じゃなあくてさ、何か特別なきっかけで悟りを開く、見性するっていう人いるんだ。
例えば、本当にわけが分からない時に自転車か何かに乗ってて、転がって、バターンと行った瞬間に、
全部が帳消しになっちまう世界を見るとか。あるいは、自分の最愛の誰かが死んだ姿を見た瞬間に、
全てがひっくりかえって、そして自分が生きてるのではなく・・・いい?全てが、全てが全てがさ、
自分となって生きてるんだ。そう気付く事もある。でも多分、禅宗の老子でも、
よっぽど出来た奴じゃあないと見抜けない。何故なら、一定の入り方っていうのをパターン化してるからだ。
例えば、何でもいいんだ。TMでもあるわけよ。段階が。何故ならTMのやり方っていうのをすると、
必ずその段階に入って行くわけ。ヨガのある団体ではさ、こういう図盤があるんだ。
それで、チャクラを瞑想させるんだけどね『何か見た』っていうとさ、すぐに図盤をもってきてさ『お前どれ見た?』
ってこうやって調べるんだよ。そうすと『おっ三番目を見たか。うん、三番目まで行った』なんてやるわけよ』
で、次は四番目へ行くためのマントラかなんか上げてさ。うん、それは一つの入り方だ。
そしてそれにふさわしい人が、それはとても素敵だ。でも、それだけじゃあない。
人の生きざまはそれだけじゃあない。無数の生きざまが』
「さっき言ったね、普通の宗教のメソッドの悟り方っていうのは、機が熟してないと起こらない?」
『うん、全く偶発的に起こる』
「偶発的?」
『うん』
「起こるだけの素地っていうか経験ていうものがあるってことでしょ」
『もちろんある。それは、それの機が熟するというよりはね、その人が本当にこの世の仮の姿というのを認めてしまう。
認めざるを得ないような事態に直面したっていうことだ。そういう時は、本当にものすごくそれはきつい。
最初は。きついけど、必ずその人の情熱が、本当にこの世のどうしようもなさっていうのをさ、
簡単に認めるような人でなければないほど、つまり迷いが大きければ大きいほど、
必ず素敵な世界であったていうことを気付く』
「そういうふうに、逆転がない人も沢山いるんですね」
『うん、逆転がない人っていうのは折り合っちゃう。妥協しちゃうんだ。つまり、例えば死っていうものを、
死の経験をするとするでしょ。そうすると『ああ、死ぬのか』くらいで考えてさ
『死ぬんだ。もうこんなことは、もうこれ以上関わってもしようがない』っていうふうにさ、
どっかへしまい込んじゃうのさ。懐へ奥深く、そしてパチンと蓋をしてさ、鍵を掛けて、その鍵をポン投げて』
「それが大半の人間でしょう?」
『うん。大半の人間だ。だから何よりも情熱が人をね、その人自身を変えさせる。情熱なんだ。
本当に愛しさを感じた人でなければ、無限の広がりを経験することはない。
うん、でも大丈夫。ここにいる人たちはさ、それに出会うだけの情熱を持っているから、こういう縁が出来た。
うん、それで、『そんなもん何の意味があるんだ?』って聞かれても俺答えようがないんだ。
もし、理屈から言うとさ、この宇宙はそのためだけに出来ているとも言える。無限の歴史があって、
宇宙が始まり、死ぬ。そして宇宙の中には、いろんな生命形態が始まってくる。幾たびも幾たびも。
一つの宇宙が終わり新しい宇宙が始まる。そして、その時に、単細胞かコアセルベートか?コアセルベートか何か出てきて、
それを蛋白質の融合体になって、生命形態がなって行く。進化論って仮設を使えばだよ。
それが段々発達して、意識が出て来る。で、意識の場合、最初は本能的なもんだ。ただ本能に従って生きればいい。
それがどんどん発達していく。するとね、こういう時期が来る。自我の目覚め。その時人はさ、
自我っていうのを確立しようと思って頑張る。でも、その頃はまだいい。何故ならばさ、それにはまだ共同体があるからだ。
その共同体に属するという安心の中で、いろんなことをやっていけばいい。つまり、肉体を維持すればいいのさ
ところが、もっと発達する。そうすると、人は初めて孤独を知る。本当に一人っきりであることを。
その時に、その人は一人っきりというのを、最後まで最後まで完全に突き詰めないで、
つまり、それを超えたものを感じ取らないで、相変わらずその中に入っていると、無数の泥沼が起こる。
うん、そりゃあね、人がね、完全に自意識、自我っていうのを発見した時がさ、まさにチャンスだ。
出発点に戻るチャンスなんだ。この宇宙の出発点。そう、幾たびも幾たびもなく、この宇宙はさ、現れては消え、
現れては消えてきた。今まで。それはもう時間なんていう言葉では言えないくらい、遠い、遠い、遠い昔から。
そして、遠い、遠い、遠い未来に向かって、それは繰り返されている。ちょうど一つの花が春になって芽吹き、
そして、冬になって、冬か、秋の終わり頃になって散るように。幾たびも、幾たびも。
でも、その時、きっとこの宇宙はさ、一つの願いを持っているんだ。
そりゃあね、宇宙自身と元々あなたは宇宙自身だったんだよ。この広がり、命、全てをあらしめてるさ、命自身だったんだよ。
そういうように気付いてもらう。そういう願いを密かなものに。そして、それに気付いた人間はまた生き始めるだろう。
同じように。自分の一番好きなことをやって。でも、前みたいにさ、前は、もうまるでさ、それを無理してでもさ、
この中から光が出て来る。出て来ないと『うーん』と揺するわけよ。(ダン、灰皿をガタガタと動かしている)
『出て来い、うーん、出て来い』(益々ガタガタさせる)でも、もうそんなことは二度とやらない。
これに即した扱い方をする。灰皿一つだって。うん、きっと優しくね。煙草と灰をこの中に置く。何故かって言うと、
この灰皿にとってね、唯一の好物だ。で、もうひとつある。何でそんなに情熱が必要でさ、
何故そんな役にもたたない事をやっているのかっていう事を聞かれた時に、それは全然理屈に合わないかもしれない。
だけどね、だって本当に楽しい世界に出会えるんだ!だからさ。俺は多分そう思うんだ。
いい?生命っていうのはきっと、苦しいよりも楽しいのが好きだと思う。ひどいのより、素敵なのが好きだと思う。
俺はそう思う。多分そうじゃあない?』
「そう思う」
『思うか(笑)。賛成してくれた(笑)』
「そう思ってやってんだもんね。ちょっと話がずれるけど、今、進化のこと言ってたけど、いわゆるね、
実相と進化の過程の関係はどうなるの?」
『同時にある』
「同時に?」
『うん、例えば、俺の中に今、思考っていうのは存在していないし、知性っていうのは全く存在していない。
にも関わらず、ものすごい知的な話を俺は話している。それは、俺の脳がそういうふうに活動しているからなんだ。
そして、この脳の活動っていうのが進化論だ。君が質問した。そして脳は決して活動していない命そのものである。
いい?無限そのものなんだ。ここにいるのは。それが今、こういうふうに体をまとってここにいる。
そしてそういうふうに無限そのものだったら、知性の活動なんてありえないじゃないかなんて考えるのは理屈だ。
無限そのもになった時、一番自然に知性の感じをこう言う。『何もかもが、一番自然に流れ出す』
で、時々よくいるんだ。修行者といっても隠者タイプの人。全部の知性を捨ててさ、山に籠っちゃう。
なんてやってるけどさ(笑)、奴は奴なりに、この世に属した生き方をしている。
いい?この世とこの世を越えた世界っていうのは同時にあるんだ。同時にね。同時にだ。別々だ。
つまり、君はさ、今、完全な自由と安らぎと愛の中。何故なら君自身が無限そのものを秘めている。
無限そのものだからだ。そして同時に君はさ、いろんなことを考えたりさ、緊張したり、ぎこちなくなったり。
ああ、緊張は嫌だ。疲れた。迷路だ。もう誰とも会いたくなくなったり。いろんなことがある。
でも、いつでも同時にある。』
『本当に素直になったら決して苦しみが好きでないことが分かる。それがただ一つだけ、この世の有り方なんだ。
この世はそういうふうに出来てる。素敵なもの、明るいもの、豊かなもの、爽やかなもの、懐かしいもの、
うれしいもの、安らぎ、静けさ、それを一番大切なものとしている。で、思い出して欲しいんだ。
現実っていうのはね、本当の現実っていうのはね、常に絶対的に肯定的なものでしかないってこと。
だから、君がある現実を見て苦しんでいるとしたらね、そりゃあ、まだ現実を見ていないんだ。
それは現実ではなくて、現実だと思い込んでいる観念にすぎない。いつでもよくある。それに直面することが。
そしてそれは君の中の情熱が直面させる。とても素敵だ。もう、格好なんてどうでもいい。』
「いわゆる進化の話に戻るけど、進化というのは、実相の受け皿を作ってる過程なわけ?」
『進化っていうのは何?』
「つまり生命が段々進んで高度になって・・・」
『うん、それは実相のさ、一つの料理の仕方に過ぎない』
「どういう意味ですか」
『つまり、神がね、この世の中に生きるときの、生きる一つの形式なんだ』
「進化していくっていうこと」
『そう、だから進化するっていうのじゃあない。全然違う世界もある』
「えっ?それが実相?」
『実相じゃあない、実相じゃあない』
「実相じゃあなくて?」
『(笑)いい?世界は無数にあるんだ。とにかく無数にある。限りない。それは。それはどっから起こるかというと、
もしね。理論的に言えば、宇宙意識から集合的無意識へ降りる時のね、降りるこの間に起こるんだ』
「そんなにその間に無数の?」
『うん、この降りた地点っていうのが無数にある。うん』
「集合的無意識に降りた地点?」
『うん、そう』
「じゃあ、例えば天国がいっぱいあるみたいに?」
『うん、そう。天国もいっぱいあるし、いろんな天国がある。例えばマホメット君なんどはさ
『天国、それは美女達がはべってる。のどかだ。おいしい酒が一杯あって』なんてやってるじゃあないか。
あれ、冗談だと思うなよ本当に奴自身が見た世界なんだから』
「ハーレムみたいな」
『(笑)』
「いいねぇ(笑)。第慈さんの世界は?」
『俺の世界?今、君と話してる。』
ダン『うん。そのOKっていうのはさ、止まっている『OK』じゃあないんだ。そこをよく人は間違えるわけ。
『エブリシィング・イズ・パーフェクト』でもいいしさ、『順調』でもいいけどさ、そういう言葉っていうのは、
常に行為している流れがパーフェクトなんだ。で、切り取った、なんこう、止まった絵がパーフェクトなんじゃあないん。
それを誤解すると、とんでもないtころへいっちゃうんだ。つまりさ、よく言うわけ。
例えば人間っていうのは本来存在していないっていうことに気付くことがある。それは本当に自分自身っていうのものが、
もう全く未練ないくらい現実に直面した時に起こるんだ。そうすると、自分が完全に消えちまったら、
もう何もやることがないんだから、意味がないじゃあないか?っていうようなことをよく言う。
でも、それは観念的に考えたものなんだ。ちょうど、現状を肯定するっていうのを観念的に考えるのと同じだ。
現状を肯定している姿っていうのはね、もう、生きる方向があとからあとからものすごく自然に軽やかに出ている姿だ。
止まっているんじゃあないんだ』
「うん、じゃあ、こうやってんのは?アウトかな?」
『アウトじゃあない。人による。人によってはものすごい充実した命の流れかもしれん。
また別の人によっては、自分をだまかしている姿に過ぎない』

「欠点のない生活について何か?」
ダン『欠点のない生活っていうのはね、常に自分の中から出てきたことしかやらないっていうことさ。
自分の内面で本当にこみ上げてくる愛しさ、情熱、そういうものに従って絶対に周りの何かに動かされないってこと。
そうすると、そんなもん何でもいいよ、もし、例えばうかりどっかりどっかの場所に調子を合わせてさ、
そこでSが調子を合わせるっていうことに努力したらね、きっと、それが終わった後さ、
空しさは前よりひどくなってしまう。何故ならそれはさ、心にもないことをしたからだ』
ダン『うん、うん、そういうことだ。
とにかく、せっかく与えられてるんだよ。いい、この世界っていう場所を。君達一人一人に。
みんな与えられてる。そして君たちがこの世に生まれたっていう事はね、この世界っていう場所のなかでさ、
最高に君たちにとって素敵なものをさ、実現しようと生きていくためにあるんだ。
あのね、例えばリチャード・バックの『イリュージョン』の中でさ、例えば自分を苦しみに置く事だって
そりゃあ好き好きだっていうふうにいってるけどさ、でもそりゃあ、一つの言い方であってね、
今、ここでは俺はそういう言い方しない。自分を苦しみの中に置いているのは、確かに苦しみにまだ愛着があるからだけど、
苦しんだりさ、投げやりになったりすることに愛着があるんだけど』
「愛着があるわけ?」
『うん、愛着がある。意外に楽しいもなのさ』
「ふーん」
『うん』
「そういうのいるね」
『うん、だけどその人間が本当にぎりぎりに、例えば死とか、どうにもならない状況に出会ったらね、
初めて分かるんだ。自分が決してそんなつまらない人生をね、求めているんじゃあないってことが』
「個性は変わらないもの?」
ダン『もっとも深い個性は、変わらない。それはこの世を戯れるためのもの。
もし、本質的な個性がなければ、この世はあり得ない。』
「それは個人個人の中でそれぞれに一番深い個性があるっていう?」
『うん、みんな人それぞれかけがえのない個性を持っている。セルフイデアだ』
「そこにはきつさっていうのが全然ない?」
『きつさがあろうとなかろうと、そんなこと知ったことではない。自分自身の道を歩くんだ』
「そのときのノリで、選び取ったものっていうのが個性でしょ?」
『ううん。選び取り、選び取り、それを繰り返していくうちに本当の個性に』
「出会う。うん。」
『うん』
「常にチェック?」
『うん。ただし、やらなければ絶対に出会わない。その時、良しと思うものをやるんだ。
それを繰り返していく内にわかってくる。いいか!またとないんだよ。
今ここに会ってることが。そう、たった一、二、三、四人だけだ。
だけどこれが全てなんだよ。これが!またとない。またとない。愛』

雨宮第慈講和録4 素直になる より一部抜粋

—–

「『荘子』を読むと、無為自然を説くのに、同時に有為自然というか、練習を積んでやる話、
職人の話がよく出てきて、牛を解く庖丁人を説くのに、同時に有為自然と言うか、練習を積んでやる話、
職人の話がよく出てきて、牛を解く庖丁人の話とか何にもしないのに出来上がるというか話がよく出てるけど、
それは練習を積んで抜けたところなの?」
ダン『うん、そう。
完全にもう満ちているということと練習を積んで行き着くということが同時にあるんだ。同時に』
「芸術家とか職人というタイプの人はその道を通って行くと。宗教家もおなじなの?
練習とは何かもっと別の道もあるような気もするけど」
『いや、同じ。それも練習だ』
「瞑想のステップを踏むという?」
『当然』
『例えばそれまで平和に満ち足りて暮らしていたある奥さんが夫と子どもと同時に失ってしまったとする。
そういうとき全く生きる望みを失って自殺か何かを考えて崖っぷちまで行くと。
飛び降りようとした瞬間に自分がもっていた小さな自己がぱっとぶち抜けるということがあるんだ。
本当に生きているありがたさ、うれしさ、ハッピー、それを感じる。そういうことはあるよ。
じゃあ、それに練習はどう関わるのかと言うと、
少なくともその奥さんはそれまで自分の生活を暖かく納得できるように
築こうと精一杯頑張って来たというそういう情熱がなければ絶対にそれは起こらない』
「それまでに家族との幸せな日々が築かれてなければだめだということ」
『そう。その幸せが大きければ大きいほど悟りは深いよ。
ドンファンが大好きな言葉があるだろう?
『情熱的でなければいかん』と。悟りとよくいうけれで枯れることじゃないんだぜ。
最も情熱的に何かに惚れ込んだり、何かを生きたりしたときにそれを越えた世界が見られるだけなんだ』
「枯れたように見えるのは?」
『それは外から見ているだけだ、その人を』

—–

「はい。『世界の遊戯に寄与する君たちの使命が終了したかどうかを判断する、簡単な基準がある。
もし君たちが生きていれば、瀕死の重傷でかすかに息がある場合でも生きていれば、まだ使命は終わっていない』」

ダン『うーん。ここで遊戯っていってるんだよね。遊戯っていうとさ、例えばもし、頭の中で考えたらさ、
こういう場所で出会ってることが遊戯だとかさ、マージャンやってるのが遊戯だとかさ、
ちょっと恋愛ごっこやるのが遊戯だとかってなるけどさ、ここでの遊戯っていうのはね、
ベトナムで人が死んでいるとかいうのをひっくるめた遊戯だよ。
で、いい?そう。世界っていうのはすべて遊戯なんだ。今、もし君たちがそれを納得できればさ、
ちょうど、どんなことが起ころうともね、それを一つの映画を見ているように楽しむ事ができる。
晴れた日があったり、曇った日があったりする。海がものすごく荒れる日もあればさ、静かな海の日もある。
もし、遊戯っていうものをさ、作る必要がないから君たちはここにいないし、会ってもいないんだ、俺と。
この、会ったりさ、人があったりね、それからまた離れたり、何かを考えたり、何かをやってみたり、
いろんなことをやっているよ。その全部って言うのはさ、意味を一つ一つ追っかけたって絶対意味なんか出てきやしない。
ある人にとってそれがある時期はそれがものすごく意味があることのように見えるかもしれない。
でも、別の機械になったら、あれ?って思うよ。でも、遊戯っていう目が、
もし世界全体が遊戯であるということが分かったらね、それは無意味とか、意味があるとかって考える必要なく、
一番自分らしく生きていることができる。そしてそれを一つのものすごく美しい映画として楽しむ事ができる。
だから、君たちはさ、この世界の遊戯に寄与しているわけよ。
今。釈迦が出てきたとかキリストが出てきたとかいっぱいあるだろ?今まであったらしい。そういう遊戯があったらしい。
それと君たちがここにいる遊戯というのと全然別のことじゃあないよ。一つながりの遊戯だよ。
そしてこの遊戯っていうのはさ、生と死という厳然としたものを含んだ遊戯なんだ。
頭の、観念の中だけじゃあない。死ぬんだよ。君たちは必ず。死ぬでしょ?うん?』
「(笑)」

—–

『(笑)その全体が遊戯なんだ。そしてね、その遊戯っていうのはさ、ちょっとでも息があったら、
つまり君たちが生きていたらさ、死んだらもう問わない。話、これはもう話す必要はないから。
死ぬ世界はね、話題にならないからね。君たちが虫の息でさえ、なんでもいいよ、瀕死の重傷でもいいけど、
生きてるとしたらさ、君たちは立派に遊戯を果たしてるんだ。たとえ、まったく身動きできなくても、
よぼよぼに老い朽ちてさ、どっかうちぶれた病院かなんかで一人さ、うーんと唸ってたとしても、立派に遊戯をね、
果たすことができるんだ。果たしているんだ』
「死ぬ人間がね、何故こうやって生きてるってこといえる?そういう質問はちょっとおかしいけれどもね」
『うん。それはさ、さっきからいうように。トシヒロのヘアースタイルが何故そうなのかっていうことさ』
「例えばね自分の爺さんが死んだとするでしょ。その場合ね、僕達も一緒に死んでるわけかな?」
『うん、そりゃあ、一つの考え方だ』
「考え方?」
『うーんとね、死ぬ、うん。つまり問題は、ここでいいたいことはさ例えば、なんでもいい。
どっかうちぶられた四畳半で君たちがいるとするだろう。四畳半で住むかさ、完全一人っきりの時さ、
誰も君たちをみてくれないよ。もし歌手なんか志望してそれがうまく当たればさ、みんなに賞賛されるよ。
でも、どんな立場にいようとね、君達がそこにいようとその後ろに君がいようと、君たちはさ、
この世界っていう遊戯にね。確実にその遊戯の中を生きているってことさ。同じだけ。
誰がよけいに生きるっていうことはない。あるんだよ。みんな人それぞれに』
「それじゃあ、個性というものはどうして存在するんですか?」
『それは、世界を、遊戯にするためだ』

—–

「じゃあ、どうして世界を遊戯にする必要があるんですか?」
『うーん、そりゃあ、神様が物好きだからだ。もしね、君がさ、君は神と同時にさ、人間でなかったらね、
この世にどんな物語も出てこないんだ。つまり、君はさ、今ここへ来て俺と話してる。
でも、君が神のままだったら、ままだけだったらね、君は俺とこうやって話すこともないし、
誰かに出会うこともないし、多分嬉しいこともなければ悩む事もないだろう。
でも、どういうわけか神様はさ、人間の様々な喜びと人間の様々な悲しみによってね、織り成される遊戯が大好きなんだ』
「それじゃあ、神が最終的に目標としているものは存在しないと考えられます」
『ううん。最終的に目標としているっていうのはね、霊学的な立場に立ったときなんだ。
つまり、霊的な立場に立った時ね、人間を解放しようとする立場、方向にね、神の法則っていうのは働いてるんだ。
ただ、立場っていうのはね、同時にあるわけ。無数の立場が。別々にあるんじゃあなくて。
今、ここにね、神、完全に神一元でもってさ、神の目的とか何とかいう以前に、もう神の目的が果たされたっていう世界が先ずある。
完全に果たされちまっている。それから第二に、神に向かって進んでいくっていう立場がある。
それも、別々にあるんじゃあなくて縦にあるわけ。ちょうど霊界と現実界っていうのがね、同時にあるっていうのと同じさ。
それと同じように神の戯れっていう世界はね、同じように同次元にあるわけ。
そして世界の遊戯っていう立場に立った時はね、もう神の目的っていうことでさえ遊戯の一つになってしまう。
つまり、Aという人は『神の目的と神の使命のために、僕は日々生きている』て言うと、ああ、なんか生き生きとしていいなぁ、
っていう遊戯になってしまう。ある人は『神に目的なんかないよ。さあ、酒でも飲もう』なんて毎日生きてるかもしれん。
でもそれも同じだけ世界の戯れなんだ。だから、『君がどうかい?』っていうことになっちまうな、最後は。
『君が何を選ぶのかい?』っていうこと』

—–

「人間を解放するということは、じゃあ、神は自分自身を解放しようとしてるんですか?」
『うん、神はね、もし神の側から言うとね、この世の一切っていうのはね、神が神を神してる。瞑想が瞑想を瞑想している』
「それじゃあ、例えば僕がこれから何十年か先にね、今、ここで僕が神としている存在者になり得るということですか」
『うーん、そんな先じゃあないよ』
「じゃあ、当然ここにいる。僕自身が神の現われなんだということは分かるけれども、しかし、現実問題として僕は僕なんですよね。
だから、この自分が自分だと思っているその感覚が、自分が神であるという感覚に遠い将来になり得ると言えるんですか」
『ううん、遠い将来じゃあなくて、そんな遠くないよ』
「しかし、人間は霊的には輪廻するたびに向上していくんでしょう?」
『うん』
「じゃあ、その向上していって、行き着いた所は、結局が自分は神になるということではないですか」
『ううん、向上という側面からみたらね、俺も君もさ、永久に向上し続けるだけだ。人間がね、向上してさ、
人間が神になるってことじゃあないんだ。今はね、君はさ、今神で、神のいとし子で、
そしてそのいとしさ子だから向上しようとしているんだ。それは同時にあるんだ。つまり君がさ、
いつの日かさ、神になるんじゃあなくて、今、神であって、そして永遠に神を求めている。
知的にちょっと納得しずらいかもしれないけど、例えば君は完全にさ、今安心の中にいるよ。そしてなおかつ、君は毎日をさ、
安心と喜びに向かって生きてくよ』
「ええ、意味は非常によく分かるんですけれども、向上していくという事実があるんならば、やはり、
どうにか変わっていくんじゃあないかと思って・・・」
『それは毎回変わっていくよ。どんどんどんどん深くなって広くなっていくよ。だからって、広くなって深くなってさ、
そして神になるんじゃあないんだ。神の中を広くなって深くなっていくんだ』

—–

「えーとあのー、僕はどもるけどあのー、どういうわけかどもるということに?」
ダン『全く独特な鋭敏さがあるんだ。理解力っていってもいい。そしてそれは今でもある。
ところがね、それがあるけれどもさ、君自身の命の解放って言うか、喜びっていうか、の実際っていうのとね、
距離っていうものをものすごく感じている。
そうするとね、どもるっていうことをさ、楽しむって言ってもいいし、それから時にうじうじと考え込むっていうのを、
楽しんでる時があるんだ。それはね。そういうふうにやることによってね、代償にしているわけ。
つまり、俺はいろんなそういう事柄に関して理解力は持ってるよ。だけどそれは、何の意味もないよ。
何の意味もない人間はさ、うじうじやったりもどったりしてさ、そんなものの中にいたって当然じゃあないかってさ、
自分で処罰してる。でも、全然それをする必要はない。
やがて君はさ、君の中に新しい願い、方向、憧れが起こることを知るよ。その憧れはね、どもりとか、
うじうじと考え込むということの中でもって、生きていくっていう必要はないんだなっていうことさ。
一番当たり前に、自分の気に入った姿っていうものをこの世に現していけばいいんだなっていうことさ。
それを感じる時が来るよ。でも、君はまだ、今悩んだり考え込んだり色々こう詮索したりするっていう世界っていうものに
なかなか愛着があって。でもそれも終わる時が来る。何故なら君は神のいとし子だから』

「禅の公案でさ『父も母も生まれていない時、あなたの本来の面目は?』っていうのがあるでしょ?」
『うん』
「あれは、ダイジはどう解釈する?」
『TSの問題だ。じゃあ、俺の解釈言おうか。ね。いかに役に立たないかがわかるよ。
解釈1『解釈1だよ』』
「うん」
『解釈2『煙草すってる俺は』解釈3『ワァー、ワァー、ワァー、ワァー』解釈4『とても素敵な夜だね』』
みんな・ダン(笑)

—–

「ハイデガーのことを、この間ちょっと聞きかけたんだけど」
ダン『うん』
「初め、あれは存在の不安?」
『そうだよ』
「それから無への超越でしょ?」
『うんうん』
「それは典型的なコース?」
『うん、そう。ハイデガーっていうのは実に哲学的だけど、そういう側面から入った人だね』
「オーソドックスなコースっていうか?」
『うん、そうそう。ものすごく論理的だね。だけど、要するにものすごく論理的に書いてあるにもかかわらずさ、
もし、真剣になってあっれ解読したら絶対つじつまが合わない所が出て来る』
「そうなんだってね、あれ」
『そうだよ』
「うん、ハイデガーとはね、議論ならないんだって」
『ならないよ。一番最後の所で飛び上がるから(笑)。何故飛ぶかなんていうのは理屈で考えたってどうしようもないんだ。
本物の哲学者ていうのはそういう形でしかあり得ない。論理を使ってるような顔してさ、どんづまりまで行くとさ、
全然論理が通用しないんだよ』

「それと、なぜ荘子の中じゃあさ、荘子自身の話より孔子が喋った話が沢山出てくるんでしょうね?」
『そりゃあ、孔子っていうのは、いいネタっていうのを提供するから』
「孔子っていうのは、純粋宗教の立場から見たらどの程度の内容を持ってる人?」
『うーん、晩年にはいいとこ行ったね』
「いいとこっていうと具体的に?」
『そうね、宇宙意識に触れたっていうか』
「じゃあ、ニルバーナに近い?」
『うん、そう。厳密に言うとニルバーナっていうのは絶対無、を指すんだ。
ところが、もっと、もっと当たり前に言っちまうとニルバーナでないものなんて一つもないんだ。
みんなニルバーナの展開なんだ。君たちみんなニルバーナなのさ』

—–

「『バカバットギータ』ってあるでしょ。あれは『マハーバラタ』の中から出て来たんだっていうんですけどね、
『マハーバラタ』っていうのはね、いつ頃の時代を書いたんですか」
ダン『時代?』
「はい」
『君が何か歴史書か、歴史学者に聞けよ』
「うーん(笑)困ったな」
『正確に言えば『マハーバラタ』の中のある部分、ある本質的な部分、それは時間のない世界で書かれた』
「その『ギータ』の部分?」
『うん、特に『バガバットギータ』はそうだね。それ以外にもある。『マハバーラタ』。
それ以外は徐々に付け加えられていった。一番最初の出発点はやっぱり、
まだドラビタ族がいてアーリア人が入ってた頃に起源がある』

雨宮第慈講和録3 最高に生きたい より一部抜粋

—–

ダン『うんうん、どんなもんでもいい。それはヨガだろうと何だろうといい。超える時が来るよ。
本当にやればね。問題なのはそれが協議とか教説とかどういうテクニックとかじゃあなくて自分に合った方向、
合ったやり方だからね。そして、その合ったやり方でもって本当にやってた時、
必ず、無明というのを完全に超える時が来る。
その時、きっともし彼が本当に広い形でもってそういうものを超えることができたらば、
無明っていうものが全てであると同時に、無明って言うのはどこにも存在しないという、
そういう同時にそういうものを捉えることができるね。うん。
だから最初は無明っていうのはあくまでも意識の問題としてあるんだ』
「自分に合わなかったやり方でね、無明を払おうとした場合どうなるんですか?」
『自分に合わなかったものだったら止めちゃうだろう、その内に、うん』

—–

「あぁそれから修行を続けていれば悟りか何か到達できますか?」
ダン『悟りって何?』
「ニルヴァーナとか」
『君が考えていることは?』
「お釈迦様の悟りとか・・・」
『だって釈迦君っていうのかな(笑)』
「いや、だからどういう悟りでも・・・」
『そういう事全部抜きにしてね、君が納得するっていう事だけは保証するよ』
「要するに究極的なところまで行けるんですか?」
『じゃ、君はどっち取る?君は釈迦とまったく同じ悟りを開いたとするよ。
それと釈迦と絶対同じ悟りを開いたけど、君はえーと何か混乱しているというのとね、
もうスッキリしてとても生き生きしているけど釈迦と同じ悟りを開いてないっていうのとどっちがいい?』
「悟りをひらけば混乱しているような・・・」
『(笑)だってそれは君の概念だろう。知的概念でさ。今、前提抜きにして考えないか?
君が本当に生き生きとさ、納得して生きられる方を選ぶかさ、何か本か何かで読んださ、悟りというものをさ、
求めてそれを開くのかどっちをとるかっていう事さ。それは言うまでもないよ。
どんな人間でも本当にさ、その人間のさ、本来の姿って出したいと思っているよ。
でも、本来の姿っていうのはさ、決して一つの概念によってさ、理解できるようなものじゃなくて、
自分がそれに出会った時初めて納得するものであってね。それを得たからって言って決まった形なんかならない』
「或る到達点っていうか、そこに行けるかどうか究極的に・・・」

—–

『到達点っていうのはね、究極の到達点、人それぞれ究極の到達点っていうのはね、二つの意味であるんだ。
それは全てのものっていうのがもう意味を失った時、或いは全てのものが同じに見える時に行き着く到達点とね、
それからそうじゃなくて、今君は生きているんだよ、今。
そうすると君は今の中でさ、最高に生きるっていうかな、これ以上考えられないくらいに素敵に生きるっていう事があるんだ。
もし、最高の到達点というのをニルヴァーナっていう特別なものにすればさ、
君はそれに向かって進む事が出来るけどさ。その進む間さ、ニルヴァーナっていうのを、
君が知的な概念で持って考えてる限りさ、君の人生っていうのはどうしても納得できない部分というのを残してしまう。
そうじゃなくて君はさ、先ず第一に生きてるんだ。そしてニルヴァーナって例えば、君はさ、きっと釈迦とね、
田中角栄とさ福田赳夫とが違う人間だときっと思うだろう。つまり、あの単純に考えて欲しいんだ。
つまり釈迦の方が知的だとやっぱり思うんだ。ところが釈迦は決してそうは思わないっていう事を思い出して欲しいんだ。
釈迦にとって福田赳夫と自分とが全く同じものだっていうこと。だから、悟りとか何とかいう事よりもさ、本当に先ず、
とにかく君らしく生きるっていうかな』
「修行するにはやっぱり目的がなくっちゃできないでしょう・・・」
『うん。目的があって当然だし、目的なしでは人間の人生ってありえない』

—–

ダン『行為する基準というのはね、そのものの行為に特別に意義があるから行為するんじゃあない。
その行為によって素敵な結果が得られるから行為するんじゃあない。
ただ、その行為をするのにふさわしく生まれついているからそれをするんだ。
いい天気だから、いい気持ちになる。曇っているから心がめいる。それは人間の感情レベルでは常に起こることだ。
やるということ、生きるということは、全然そういうことに邪魔されるようなもじゃないんだ。
でも、それはやってみてからでないとわからない。
やる前から、それを確かめさせてくれと言ってもそうはいかない』

『思考でも一つだけ役立つ思考がある』
「どんな?」
『僕はこれが好きだ』

雨宮第慈講和録2 君がどうかい? より一部抜粋

—–

ダン『人は面白いんだよ。
自分を投げ出すとかさ、自分の方から、全面的に信じるということはさ、
現代文明の流行から言うと、非常にばかげた損なんことなんだ。
例えば向こうがさ、真剣にまじめにやらなきゃあさ、
こっちが真剣に真面目になって、
向こうに誠意を持って対すると損になるという考えが流行している。
でも、そうじゃない。愛。』

—–

ダン『うん、正直に言うとね。知者にいきなりなるということも人には時たまある。
あるけどね。知者にいきなりなるとね、戦士の準備が積まれてないとね、全く通用しない人間になってしまう。
つまりまるで、それだったら何のために生き、何のために肉体を持っているのかという意味が出て来ない。
知者になった時初めて、戦士というものの力が生きてくる。
なぜかって言うと、究極的な言い方をすればさ、人は知者になった時、実は力まで得ることができる。
ところが現象的な人間の場合だと、知者になったとしても、必ずしも力が伴うとは限らないわけ。
例えば、究極の悟りというのを人間が開けば、必ず六大神通力というものの正体を見破ることが出来る。
ところが実際に禅やいろんなもので見性というのをしたってそうはいかないでしょ。それと同じこと。
あの、ダンテスがこれを作った救世主という意味は、一人一人が、本当にその人らしく生きて欲しいという意味での救世主。
だから、救世主の最終試験で重要な科目の中にあったでしょ。正直であるかどうかが。
神通力が使えない時は、僕は神通力だめですって言う。それで救世主合格。なぜなら、『救世主入門』というのは知者への、
ドン・ファンの言う知者への、愛の救世主への、つまり純粋瞑想しか書かれていない』
「救世主には、そういうパワーも必要な条件」
『うん、もちろん、必要な条件。ドン・ファンの方が、何ていうのかな、修行的。あの『救世主入門』というのはさ、
どんな所に生きている人たちにも与えられている。そして読み方には三つある。

—–

一つは誤解して、そのものずばり、頭で勝手に理解して、ああこんなものか、うん。
イリュージョンか、何やっても自由なのかと勝手に思い込む。
第二番目は、本当に学習というものを続けていけば、必ずこういうところになるんだなという読み方。
第三番目は、そのもの、既に愛であり、自由である。例えばセッションの時、俺が言う言葉の中で、かぎ言葉というのがあって、
『つき合え、全てとつき合え』『全てとつきあっているのだ』『全てである』とうのは、
『救世主入門』の中の言葉であって、ダンテスが書いたもの。
ドン・ファンの場合は、今、言ったように、修行者コースのわけ。『救世主入門』というのは、
皆それぞれの分野があるじゃないかという立場なの。だから、選び方は違うでしょ。
ドン・ファンというのは、一人しか選ばないでしょ』
「そこで、修行者コースをとるか、一般的なコースをとるかは好き好き?」
『うん、好き好きというより、その人に与えられたもの。内面から出て来るもの。
それはもちろん、知者であり、呪術師であるところの、つまりブッダという意味はそういう意味なんだけど、
にとっては、すぐ人目で分かるものなんだ。だけど、肝心なことは、それを指摘してあげることではなくて、
その人が発見することなんだ。
例えばブッダになるには、修行者コースを歩む意外に絶対にあり得ない。あの、つまり、冥想行為という、
特異な瞑想行為ね、あの、人生として冥想行為でなくて、特別な冥想行為を通してしか、絶対にあり得ない』
「ブッダと自動車修理工とどっちが上ということはあるの?」
『俺は自動車修理工の方がいいね。ブッダなんて臭くて』

—–

『このテキスト程無責任な本はない。この本に書かれてることを信じないほうがいい。
書かれていることは全て逆の意味かも知れないから』

ダン『これはね、君達が、最高に君たちらしく生きるために大切な言葉。君達はすぐにね、
一つの権威というものを信じすぎる。そうすると、そこに書かれてあることや、その人の言った言葉を、
何にでも通用するような真実だと思う。(中略)
信じない方がいいというのは、とても優しい言葉なんだ。
それは本当に自分の中から素直に出たものだけを信じてほしいという事なんだ。それだけなんだ。
どんなすてきな教えだろうと、どんな深遠な教えだろうと、君達がそれを心の底から味わわなかったら、
何の意味もない。うん!?』
「途中からなんでよくわからないんですけど?」
『そういう時はうんと言えばいいんだよ(笑)』
「うん」
『(笑)君たち一回きりのかけがえのない命が最もすてきな形で一つの言葉を味わうんだ。
それ以外に味わい方はない。ええと、あそこ読んでくれ』

—–

『そして、もう一度思い出そう。『救世主入門』の一番最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。「完全」は、君以外の誰に代わってもらうことができないのだから
「この本に書かれていることほど無責任なことはない
 この本に書かれていることを信じない方がいい書かれていることはすべて
 逆の意味かもしれないから」』
(ダンテス・ダイジ著『メディテーション・トラベル・ガイド』より)

ダン『完全はね、君達以外の誰に代わってもらうこともできない。完全なんて言葉は言う必要がない。
   本当に納得した、本当に素敵な、本当に大らかな、本当に深いこまやかな人生。
   君たちは本当に自分の大好きなことに向かって進むことしかあり得ない。
   正法眼蔵が深遠なんじゃない。釈迦の教えが深遠なんじゃない。ハイデガーの哲学が深遠なんじゃない。
   そうじゃない。君達が、深遠なんだ。君達の中が深遠そのものなんだ。それ以外に完全はない。いい』

   「はい」

   『(笑)』

雨宮第慈講和録1 十三番目の冥想 より一部抜粋

—–

ダン『それぞれの人なりのを与えられるから、マントラというか、冥想のスタイルね。
それ自体は他の人に意味ないんだ。ただ基本構造があって、無相三昧、有相三昧、遊戯三昧。
それで終わり、冥想道は。その三つが体得できれば。あるいは輪郭が捉えられれば。
この三つのステップが終わってその次に完全に一つを決めるという選択がある。
三つの内どれか徹底的にやる。ただし、その時点でもって、その生きる場所というのを、
もっとフィットしたものを発見できればそっちに進んでいい。
そのステップが全部終わっても何か出てこないんだったら、完全に死を賭けてやる』
「僕が有相三昧からというのはどういうことなんですか?」
『人にはそれぞれがあってね。遊戯三昧から出発する人もいれば、有相三昧から出発する人もいれば、
無相三昧から出発する人もいる。君の個性はね、ヨガの言葉で言えばバクティなんだ。
バクティ・ヨーガ。つまり愛から入るんだ。愛と献身から入る個性を持っているんだ。
本質的個性。ラーマ・クリシュナなんかに近いね。個性としては。
そうすると当然有相三昧から入ることになる』

ダン『これは忘れないでほしい。冥想道というのをやるでしょ。それがもし生半可だとするとね、
一通りのことは覚えるかもしれないよ。そうすると裏も覚えるわけ。
すると真面目に武骨にやってた人が出会う自由な世界というのにはっとなることがあるよ。
つまり自分なりにいろんなことが理解できたつもりでいるわけだよ。
だけど、全然そんなことを知らなくてさ、ものすごく素朴に何かを信じてやり続けた人間というのが、
とてつもなく深い自分自身というのを生きることがある』

雨宮第慈講和録2 君がどうかい? より一部抜粋

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イマジン、想像せよ 宇宙は美しく完璧であると、 預言者は 君達よりうまく それを想像するだけである』

ダン『ここで注意してもらいたいのは、想像というものが、普通に言う想像ではないということね。
それを誤解すると、これくらいいい加減な言葉はないんで、前にも言ったように、ダンテスというやつは非常に癖のあるやつで、
人を何かひっかけるようなことを言うのが好きなんだ。それはなぜ好きかというと、ダンテスが各人の主体性というものを、
ものすごく重んじた人だからなんだ。その主体性を重んじるという気持ちがそれを作り出した。
ひっかけるような一見非常に誤解しやすいような言葉をだすというのはね。
だて、一定のスローガンでもってさ、狂信的な状態にもってゆくというのは簡単なことさ。
だけど、狂信者が本当にはっぴーか?そうじゃない。狂信者というのは、必ずある時、醒める時が来るよ。
その時どんなに自分が無理して白々しいことやっていたかが分かるよ。
だから、想像せよ。宇宙は完璧に美しいことを。救世主と君達の違いはさ、
救世主は、それが君達よりちょっとじょうずなだけなんだ。
それは聖者であろうと何であろうと、ハッピーな人間と置き換えてもいいよ。
それで想像ということの意味なんだけど、想像というのは、君がその栗むいてるというそのことだよ。
本当は、君は栗なんかむいてはいないんだ。皆、一応、栗むいてると思っているのは、皆、想像しているわけだな。
Wがね、栗をむいているということを、それが想像だよ。
想像と現実というのは、別のものじゃないんだ。別なものだと思うとね、いつまでたっても空想に過ぎないことになっちゃう。
この想像というのは現実という意味なんだ。唯一絶対の現実という意味なんだ。
でも、それは想像するというイマジネーションという行為から入っていくことができる。だから二重にひっかけてある。
例えば禅宗でいろんな公案を修行するでしょ。何年間も。
その時、その何年間というものは、全くイマジネーションの修行なんだ。
だって、早い話が、今、目の前に刀突きつけられたらどうするかというような、刀なんてちっとも突きつけられてはいない(笑)。

—–

それを坐禅組んでさ、刀突きつけられた。後ろからも突きつけられた。横からも。逃げ場がなくなった。さあどうする。
というわけだ(笑)、こんなものはまかり間違えれば、すぐ空想の遊戯になってしまう。
だけど、そうじゃなくて、観念的な行為というのが必ず現実化する時が来るよ。観想法というのは、観想法にあらず。実在法』
「うまくというのは、観想法がうまいこと?」
『うん、そう。うまくというのは、観想法が、完全に現実になったこと。
じゃあ、まるで気違いと同じじゃないかというかもしれないけど、うん、気違いと大差ないよ。よく言うじゃないか。
俺はナポレオンだ。俺はヒトラーだと。俺は天皇陛下だ。俺は神だと。勝手にやってるのが。
だけど、一番違うところはね、俺は神だ、俺は天皇陛下だと頑張っている人間というのはさ、
心のどこかで常に徹底的におびえているんだ。
だから、気違いが幸福だと思っちゃいけないよ。ああ、幸福だ、幸福だ、なんて言ってるけど、
それはあまりにも不幸というものが、すぐ後ろにあるからなんだ。
で、ここで言う想像せよというのはね、本当にその不幸に直面したあとの想像、あとのイマジネーション。
正々堂々としたイマジネーション。開かれたイマジネーション。
じゃあ、具体的にどうすればいいの?そう堅いこと言うなよ。イメージしろよ。すてきなことを。
本当に自分にとって好きだと思うことを。その窮極が、この世界一切は完全円満だということ。パーフェクトだ。
だからこの『イリュージョン』の中で、ドンがリチャードに観想法を教えるところがあるでしょ。さあ思い描けと。
そうすると、最初リチャードは女が好きだから、女を色々思い描いたりするんだけど。
一番最後になったら、何してるとドンが聞くと、僕は今、世界全体を、思っているということをはっきり言う。
それが最後の観想法。さあ、想像せよ。世界全体が、かくも美しくすてきであることを』
「今の世の中がひどいとしたらね、皆が悪いほうの観想法をやってるわけ?」
『うん、そう。その通りだよ。悪い想像の世界、現実の世界に入ってるということ』

—–

雲は知ってはいない、なぜこの方向に このスピードで動いていくのかを 知らない。
しかし、空は雲の全ての雲の秩序を把握している。君たちにもそのことが分かるだろう。
地平線の向こう側が見える程の 高みに立った時には』

ダン『君達が、いろいろなことがあって生きてゆくだろ。時には感激し、時には白け、時には退屈し、
その時に、自分がいったいどういう方向に向かっているのか、ここに秩序や調和があるのかと疑うんだ。
雲は知ってはいない。でも、もし君達が高みに昇って、地平線の向こう側が見えるくらいの高みに昇った時には、
その時、君たちは空になるんだ。空になった時に初めて分かるよ。
どんな迷った生き方をしてようと、どんなことがあろうと、その全てが調和していると。
君達は空になるんじゃあないんだ(笑)。本当を言うと、空そのものであると同時に雲なんだ、いつでも。
ところが、どういうわけか。そのわけを決して聞かないでくれ。
この世にどんなものが現れようとね、宇宙がどう変わろうとね、そのわけなんかわかりっこないんだ。
ないものがどうしてあるかって聞かれても、それに答える方法はない。
なぜかというと、ないものがどうして出て来たか。
例えば雲であるのに、どうして空が分からないのか。どうして、本来完全な光なのに、迷うのか。
だって、迷ってないんだもん。迷ってもないのを説明する方法なんかないさ。
それにもし、説明するとすれば、何とか神学とか、いろんなものができるかもしれないけど(笑)、
君達は何とか神学の混乱した論理的なマージャンみたいなのを楽しむかね。
それとも、本当に迷いから解放されたいか。どっちかを選ばなくちゃならない』

雨宮第慈講和録1 十三番目の冥想 より一部抜粋