今日の一言(反応系)私的抜粋

グリーンヒル瞑想研究所の「今日の一言バック・ナンバー」からの私的抜粋です。


怒ってもかまいませんが、その瞬間、確実に悪いカルマを作っているのだと、覚悟するようにしましょう。未来にドゥッカ(苦)の現象が生起しても、自分がまいた種だと自覚できれば、耐えやすいのではないでしょうか。

理不尽な悪口を言われたり、罵られたりしたときには、反応しないで、その相手を観察する意識モードに切り換えてみましょう。悪いカルマを作りつつある、可哀相な人が目の前にいるのです。「悲(karuna:憐れみ)」の心が起動するまで。

もし反応しそうになったら、『ああ、私もこうして、ギャーギャーがなり立てる鳥のように、悪口をわめき散らしていたんだな、過去世のどこかで・・・』と考えてみてはいかがですか。
こちらから怒りの反応が出なければ、取りあえずマルなのです。

「証拠もなしに勝手なことを考えるのは、妄想じゃないですか。ヴィパッサナーてのは、妄想を止めていく修行と聞いてますが・・・」
「妄想を止める目的は、煩悩をなくし、心をきれいにすることです。サティができないなら、発想を変えて、怒りが出ないようにするのです」

怒りは、すべてを破壊します。
大切な人間関係も、自分の将来も、健康も、尊敬も愛情も信頼も、物も心も何もかも・・・、怒りが、破壊してしまうのです。

うまくいかないときの方が収穫があります。
うまくいかない原因をよく観ましょう。
真の姿が明らかになります。

もう取り返しのつかないことなら、仕方がありません。
それ以上自分を責めないで、いつもの2倍の真剣さで慈悲の瞑想をさせて頂きましょう。

始まったのもには、必ず終りがあります。そう思えば、ドゥッカ(苦)に耐えやすいでしょう。
順風満帆の幸福も、なのですが・・・。

下らない話や説教を聞かされる羽目になった時には『早く終んないかなぁ・・・』ではなく、
なぜこの人の話はこんなにつまらないのだろう、と研究しながら耐えましょう。
ふだんから物事を分析的にとらえる訓練をしておくと、智慧が出る下地ができます。

どんなに気が合い、互いに心を向上させていける親友や家族でも、一人になって瞑想する時間がなければ、自分を見失っていくでしょう。

依存せずに自己完結している同士が、静かに仲よく暮らしていく方がよいのです。
サティの修行は、愛ではなく、慈悲の心を育てていきます。

きれいに生きていないと、瞑想はうまくいきません。
心にも体にも悪いことをせず、クリーンな状態に環境設定するのがコツです。
細胞の一つ一つにまで沈々たる静けさがひろがると、サマーディが起ち上がってくるでしょう・・・。

もうよい、と心から離欲した瞬間に、なぜか崇高なパワーが入ってくるのです。

残念ながら、人は何度でも同じ過ちを繰り返してしまう。分かっちゃいるけど止められないのだ。
「ああ。こんなことをしていたのでは、本当に自分はダメだ」と心底から思えたときに、初めて自己変革ができる。
真実に決意すれば変われるのだ。
この世は可変的であり、不可能は、ない。

同じレベルの者同士がケンカする法則です。
人間的器量が違いすぎれば、嫌悪もムカつきも起きないのです。
どうしても嫌いな人が赦せないなら、残念ながら、自分も同じ程度なのです。

痛い思いをしたほうが、人間は磨かれます。失敗しなければ他人の挫折感も解らないし、病んでみて初めて病人の苦しみが理解できます。不快な現象に出会ったときこそ、多くの学びがあり、人は成長するものです。
本当は<イヤなことは好いことだ、の法則>があるのです。

嫌な自分に気づいた瞬間、怒りの心で激しく自己否定する方が多いですね。
他人のイヤな面を見ても、それほどまでに強くは非難しないのに、自分に対してはやってしまうのです。
<可哀そうな私>にも慈悲の瞑想をしてあげましょう。

どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。
人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。『ウダーナヴァルガ25-11』岩波文庫

つくべき人はつき、去るべき人は去ります。
出会いがあれば、必ず別れもあります。
因縁の流れを正しく見て、無執着を心がけるのが仏教です。

自分から相手に向かって、常に善心所のエネルギーだけが流れていれば、それでいいのですよ。

人は自分の所有しているものに束縛されます。

縁がなければ、出会うことはなかったのです。
過去世からの因縁を解くために出会ったのだ、と考えてみてはいかがですか。

背負いきれないほどの重荷がやってくることはありません。
苦の原因が作れたのだから、その結果にも耐えられるのです。

失敗や挫折経験こそ宝物である。
見るべきことを見、学ぶべきことを学んで、人は立派になる。
…と考えて、禍福も得失も一切を等価に観ていくのです。サティが遅れた場合は。

そんなに長くはない人生だ。
自分には、あと、どのくらい時間が残されているのか…。

「それは、本当に大事な、なすべきことなのか」と自分に問いかけましょう。

どのようなことをされようとも、そうなるだけの原因があったのだから、仕方がないのだ、とは考えられませんか?
復讐という怒りの反応をすれば、それが末来の原因エネルギーになります。

人を傷つけてしまったり、自分に一方的に非のあることをやってしまったら、どうしたらよいのですか?

1. 会って、侘びを入れる。
2. それが無理なら、涙がにじむほど心の中で謝って、懺悔する。
3. 二度と同じ過ちをしないと決意する。
4. 心を集中させて、その相手に慈悲の瞑想をする。
5. 直接か間接か、必ずなんらかの償いをすると誓う。

思考モードで何が分かっても、結局人の心は変りません。

自分が正しいと思うと、人はよく怒ります。

どんなに不可能に思われることでも、決意を持続することができれば、いつか必ず成就するのがこの世の法則です。

決意(Adhitthana)には原爆に匹敵するような力があり、それは誰の心にも備わっている。

諦めた瞬間が、不可能になる瞬間です。

後味が悪いなら、間違っています。
善行為ならスッキリ爽やかな感じが後に残ります。

いったん<自我の確立>をしてから、無我を悟る仕事に入るのが順番です。

誰も滅ぼすことはできません。
ただ自滅の構造があるだけです。

因果を正しく理解する者に、悲しみはない。

嫌なこと、拒否したいことを受け容れなければならない時、悲しみが生まれる。

髪の毛一本、雀が一羽落ちるのにも因果の必然の力が働いている。
悲しい現象に遭遇する原因エネルギーは、過去の自分が作ったことを正しく理解しなければならない。

自分に自信がなく、コンプレックスの強い人の方が、高慢になるみたいですね。

思えば、多くの人たちのお世話になってきた…。
何もお返しができないまま、亡くなってしまった方々にどうしたらよいのでしょう?

受けた恩愛と同じものを誰かに与えればよいのです。
人間でも生きものでも、他者に向かって慈しみや愛念を出力すれば、それがお返しです。

不善心所だから緊張し、硬くなり、疲れるのです。
善心所の特徴は、軽くて、柔軟で、ピタリとフィットした感じで、真っ直ぐに竹を割ったような印象です。疲れません。

まことの愛なら、ただ与えるだけでもいいではないか。

どうしようもないことばかりしてきた自分を、黙って赦してくれてきた人たちがいる。

体は老いていく。
物は古くなる。
人の心は変わってしまう…。
いつだって存在は壊れていく過程ですよ。

あらゆるものが無常の真理に貫かれていると本当に解れば、人生苦の原因は、妄想に固執し渇愛を起こしているからだと諒解できるのではないでしょうか。

物事はいつ終りになっても、それでよいのだ。
つまり、…そういうことだったのだよ。

「それって、何が言いたいのでしょうか?」
「発想の転換をして執着しない、ということです。
サティの修行がやりやすくなります」

プライドが高すぎると、人はかけがえのないものを失います。

何事も、潔く引き受けていく勇気ですよ。

なぜ、だれも優しくしてくれないのか、ですか?
心の中で批判と嫌悪が多いのでは…?

欲しいものを、先ず自分が与えるのがコツです。
与えれば、与えられます。
b嫌悪も、優しさも…。

嘘を言うぐらいなら、沈黙すべきです。

「優しい人」や「怒りマン」が存在しているのではなく、縁に触れて優しさがこぼれ、怒りがほとばしるのです。
そういう<現象>が必然の力で生滅している…。

どうにも嫌でイヤでならないことは、腹をくくって本気で受け容れる覚悟をすると、終りになるみたいですよ。「受け容れる心」になれるのを待っていたかのように。

自分の死期が分かっていたら…、生き方が変わるんだけどね。

老少不定(人の寿命は年齢の順番通りではない)は浮世の常。
人生の幕の引き方を考えておこう。

量り知れない徳を積んだ結果、存分に修行のできる環境に恵まれたのに、だらだらと暮らしてしまう。
人の心とはそんなものです。

去っていく人は去っていくままに任せた方がよい。
得がたい人であっても、愛執を起こせばドゥッカ(苦)になります。

「…でも、私の人生に、あれだけの人はもう2度と現れないと思います(涙)」
「そう考えるのではなく、それほどの方とつき合いができたことを誇りに思いなさいよ。あなたの人生を美しく飾ってくれたではないか。出会えてよかったのです」

どのような物も、人も、状態も、この世の事象というものはすべて、一時的であり、壊れていくものです…。

真相が解れば、離欲するでしょう。
無常を目の当たりにして、なおかつ執着する。
…それは、ないですよ。

だって、一瞬、一瞬、変滅していく事象を、どうやって掴むんですか…。
渇愛を起こし、しがみつくことができるのは、頭の中のコンセプト(概念)だけです。

因縁の流れを見れば、優劣があるのは当たり前ではないか。

辛い悲しい出来事に遭遇した時には、
ああ、こうして人の痛みが解って上げられるようになるのだと考えて、悲(karuna^:カルナー)の瞑想をしてあげましょう、苦しんでいる<自分>に。

人は所有しているものに束縛される法則です。財産も、愛も、才能も、夢も、プライドも、思い出も…。

言い訳が多いと、つまらぬプライドに固執しているのが丸見えになるよ。

もう、赦してあげなさい。
すべてが旧態依然でもいいではないか。
赦せば、自分の心が解放されますよ。

こちらの心が変れば、その瞬間に相手も変るものです。
鏡の原理と言います。

厭な現象が起きたときには、潔く受け止めて、こう考えましょう。
「よかった。これで一つ負債返しができた」

ラッキーな嬉しいことが起きたときは、サティを入れ、こう呟きましょう。
「あ。徳を使ってしまった。また貯めないと…」

火を止めればまだ間に合う時もあったのに、熱湯の中である時間が経過してしまうと、もうゆで卵以外には戻れなくなってしまう。…悲しい人生がある。

惜しみなく全力を振るって、なすべきことをなしたならば、静かに去っていくのです。
人からも、この世からも…。

曲がりなりにも普通の人間になれただけで、ただかたじけなさに涙こぼるるの想いです。

なぜ、自分のような者を愛してくれた人がいて、支えてくれた人がいたのか…。
何をどのようにやろうともお返ししようもない、無量無辺のものを享けてきました。

果てしない輪廻の中で享けてきた途方もないものに報いようと、慈悲の瞑想に集中する…。

「17年間1日もかかさず水をかぶっていたって、本当の話ですか?」
「厳密には2日抜けました。朝、旅先の浴場に鍵がかけられていて入れなかったのです。
夜中や昼間もやりましたが、毎朝必ず起きしなに洗面器20~30杯の冷水で禊(みそぎ)をしていました。…大寒の頃は皮膚がつん裂けるようでしたね」

「なんで、そんなこと、やっていたんですか?」
「理由は、4つありました。
1. 自分は汚れきった者だと思っていましたので、水垢離(みずごり)をとって穢れを洗い清めたかった。
2. 当時は梵我思想を信奉していたので、水をかぶりながら水の原素と融合するイメージに心を統一させていました。水を通して万物の究極原理と合一しようという動的瞑想でしょうか。
3. は意識のチャンネルを切り換えるためです。欲や怒りのつまらぬ煩悩がうずいた時、裸になって水をかぶると最初の1杯目で吹き飛びましたね。瞬時にして、我れに返りました。妄想で暴れ回る心をコントロールするのに、荒行には荒行の即効性がありました。
4. は、自らを律するためです。私は、どこにも帰属せず、孤独な修行者をやっていた時期が長かったですからね。身を引き締め、厳しく自分を律し続けるために、水行や断食など荒行の仕掛けが必要でした」

「今はなぜ、お止めになったんですか?」
「死ぬ日が来るまで、水をかぶるつもりでいたのですが、17年経ったある日、突然、ハッキリと、もうよい、と感じたのです。もうこの行は終ったのだ…と」

「過去世の業が一つ尽きたような印象でした…。同時にその時はもう、ヴィパッサナー瞑想への信が揺るぎなく確立されてもいました。すべてを受容的に<あるがままに>観察していく瞑想が深まるにつれ、荒行の力業で心をコントロールするやり方は遠のいていたのでした。

古い業が尽きるとき、心はすでに変容している…。

愚かしいことではあっても、どうしてもやりたい、と内奥の声が確かに言うなら、やる他ないだろう。
高い授業料を払うことになるが、その結末をしっかり見届けることだ。

「分かっちゃいるけど、止められないのは、どうしてなのでしょうか?」
「本当は、よく分かっていないからです」

悪意がないのに、人を傷つけてしまう。
悪意があったわけではないのに、傷ついてしまう…。
なぜ私達は苦しめ合いながらしか生きられないのだろう

「本当に、どうすればいいんですか?」
「サティを強化し、正語(samma^ va^ca^ )を心がけることでしょうね」
「正語て、何ですか?」

嘘を言わない。悪口を言わない。乱暴な言葉を使わない。無意味なバカ話をしない。愛語を心がける。

正語をきっぱりと決意すれば、そもそも悪い言葉、人を傷つける言葉を言ってはならないのだと心にプログラミングされます。

さらにサティを強化すれば、いつでも気をつけようとするので、必然的に不用意な失言が減るでしょう。

放置されたままの人の心は感謝などしないものだし、恩を忘れていくものです。

本当は教えているのか、教えられているのか分かりません。

『お前は、ただ与えるだけでよい…』という声が聞こえてきたことがあったが、つまり、そういうことだったのか。

悟りに近づくほど、自分の程度の低さがはっきり見えてくる。

煩悩に負けて邪淫や盗みや飲酒をしてしまう。怒りに駆られて殺生戒を犯す。しかし、嘘をつく人の心が一番性質(たち)が悪くて、救いようがない。
たとえ微罪の嘘でも、偽るのを止めない人が悟れる見込みはない。
なぜ?
不都合な事実を認められずに偽ってしまう人が、真実を観る仕事の眩しさに堪えられるだろうか?

万策尽きて、心底絶望したときには、こう呟きましょう。
『始まりがあったものには、必ず終りがある…』

幸せで胸が一杯になったときには、
『生じたものは、滅していくだろう…』と、覚悟しておきましょう。
存在の世界のいかなる事象も、無常の法則に貫かれていないものはないのです。

全てが終ってみれば、辛い経験こそが自分の心を成長させてくれたと思いませんか?

そうであるなら、幸せな楽しい出来事よりも、悲しい辛い経験の方が価値があるかもしれないよね。
楽しいのも良いし、辛いのもまた良いのなら、この世の出来事は何が起きようとも、それでいいではないか…。
さあ、これで淡々とサティの修行がやれるだろう。

悪いことをすれば、卑しくなる。心が腐っていくのだ。
…財を失おうが、愛を失おうが、きれいな心で、裸一貫やり直せば、必ず道は開けてくる。

心を浄らかにする正しい道を歩むために、必要なものは与えられますようにと願うことに何も問題はありません。
しかし欲の心は巧妙ですから、もしこの願望が間違っているなら、かなえられませんように、と併せて祈っておくとよいでしょう。

人の心は条件次第で、善心にも不善心にもなってしまう。
心は心の法則に従って転変していく。
どのような情況に陥ろうとも、その流れに逆らって戒を守り善心を守り切れるならば、凡夫ではない。

してはならないことを、してしまったのですか?
サラリと水に流してもらえたら、どんなにありがたいことだろう。
だから、絶対に赦せないことであっても、赦してあげるんですよ。

耳にタコができるほど聞法し、何でも分かっているのに、いざ自分のお尻に火が点くとまるっきり無明そのもの…。
知的理解は虚しいものだ。

信頼を裏切られた悲しみが、私の人生の最大の深傷でした。
だから私は、絶対に同じものを人には与えないのです。

つまり、何が起きようとも、それは必然の力で起きたのだから、自分にふさわしいことだったのだ。
『このことから何を学べばよいのだろうか?』と自問すればよい。
慶事よりも嫌な出来事から多くを学んで、人の心は成長する。

苦に叩かれなければならなかった因果の消息を正しく理解し、学び得たことの真価が自覚されたとき、赦しは感謝に変容するだろう。
真の加害者は自分であったかのように、身を低め、頭を垂れて、ただ、そのことのかたじけなさに深々とお辞儀をするのだ。

そして、輝いていた瞬間の追憶と、昔と今、今と末来の比較を止めるのだよ。
妄想を離れた者に、悲しみは存在しない。

どうやって?
いつものように、記憶が浮上した瞬間、「思考」「イメージ」「妄想」「回想」…とサティを入れて、後続を断つのだ。

そのサティが遅れれば、喜怒哀楽の情動が立ち現れてしまうだろう。
そうなったら、その刹那に「悲しみ」「痛み」「落涙感」…とラベリングして対象化してしまえばよい。
純正なサティが入る瞬間、何も掴まない無執着の心がある。

順風満帆イイコトづくめ、幸せの連続状態なんですか?
宇宙銀行の徳の預金を湯水のように遣っているわけですね。
残高は、あとどのくらい残ってるの?

踏んだり蹴ったり、弱り目にタタリ眼、よくぞここまで悪いことが続くものだ、と呆然自失…?
ま、いいじゃないですか。
溜まりに溜まった不善業のツケを、一気に返してるんだから。

「苦しい、辛い」と苦受を感じる瞬間が、過去に作った悪い原因エネルギーが現象化して消えていく瞬間なのです。
「ヤレヤレ、これで負債返しができた。これからよくなる」と喜びましょう。

思いついたことを何でも口にしたくなるものだが、自分のためにも、他人のためにも、有害なことには、沈黙する。

<悲(カルナー)>の瞑想をする人の心に、強者が弱者を憐れむ要素が微塵もないなら、素晴らしい。
過去世の私に傷つけられた命が、今、目の前で苦しんでいる…。赦してください…。
そんな懺悔モードで、慈悲の瞑想をやらせて頂くのはどうですか。

環境世界を思い通りにコントロールしたがる人たちが、互いに激突するのが世間です。
自分好みに人や情況や環境を変えようと頑張っている間は、お粗末な自分の汚い心が見えません。
外界ではなく、自分の心を変える訓練が、ヴィパッサナー瞑想です。

修行を進ませたかったら、他の修行者を助けて徳を積むこと。

もうお会いすることもない一期一会の方々に、どんなお返しができるのだろう、と途方に暮れる…。
縁ある方にブッダのダンマを伝えることに、ただ心を尽し、力を尽す…。

自分を嫌悪している人は好かれません。

自惚れの強い人は、もっと好かれません。

きれいな体もお風呂に入らなければ臭くなる。自分自身の中から垢が出てくるのだ。
自ら浄らかにしない限り、身も心も汚染されていくばかり…。

耐え難い苦の現実もやがて崩れ去り、終息の時を迎える。
入れ替わるように出現した好ましい状態も、またたく間に崩折れていく。
楽しいことも嫌なこともサラサラと砂が落下するように、現象世界固有の速度で変化し崩壊していく…。

ことさらのことをしなくても、業が熟して情況は変化していく。
壊すのではなく、壊れていく。
消すのではなく、消えていく…。

無常の真実を見る者の心の中で、渇愛が壊れていく。

…ともあれ、今となっては、過ぎ去ったことではないか。
赦してやりなさい。

赦しても、赦さなくても、もう元には戻らないのだ。

本当に胸襟を開いて、誠心誠意、心底から自分の本音をぶつければ、人の心は必ず動かされるものです。

人間に生まれ、ブッダの瞑想に縁がつき、曲がりなりにも修行の態勢に入れたとは、なんと奇跡的なことだろう。

しかし、悟りを求める心を捨て去るのはいと容易きこと。

想い(チェータナー)が業を作り、その業のエネルギーが実を結んで現象化してくる…。
眼耳鼻舌身意で事象を経験する瞬間が、自分が過去に蒔いた種を刈り取る瞬間。
この構造が本当に解ると、人生観が変るんだけどね。

いかなる事象にも、無限の学びがある。

因果は読み取れないことの方が多いのだから、因果の消息は何であれ、起こるべくして起きたことはことごとく受け入れてしまえばよいのだ、という達観。

今日一日、好い人に出会えましたか? 怨憎会苦でしたか?
無意味なこと、原因のないことは起きようがありません。
縁あって出会う人の中に、自分の過去の所行が映し出されている。