玉城康四郎 『冥想と経験』より

青年は、冥想の形に入らなくとも、ある意味では冥想の持続である。
つねに自分の問題に専心できるからである。
考えることに、悶えることに、そして冥想に、一つになっている。
その一つになり得ている状態が、冥想の趣旨に適っているといえよう。
実存の根本問題が問われている限り、どのような生活の形態であっても、
全体としては、心身一如的、禅定的、冥想的であるといえよう。

わたしは、未解決の実存をかかえたまま、悶え、苦しみ、冥想したが、
一語でいえば、悶えの混沌であった。
寝ても覚めてもそうであった。
眠っていても無意識のままで混沌が続いていた。
それがある日(二月七日)ある時刻(午後五時頃)に、それは突如として起こった。
場所は東大図書館の閲覧室である。
わたしは混沌をかかえたまま、十地経の初歓喜地のあたりを読んでいた。
その混沌の袋が突然に爆発したのである。
同時に悶えも苦しみも虚空にけし飛んで、自己も世界も万物も一つになってしまった。
驚くべき忽然の大転換。
ことばでは云い表せない、カーッとなった全体感、一如感、実感。
世界も我も、一切が吹き抜けていた。
「天地、我と一体」という語はあるが、天地もなく我もなく、ただ素ッ裸の虚空が踊り出ている。
大生命の露堂々たる一如界。
瞬間であると同時に生々しいほどの永遠。
それがどれだけの時間続いたか分からない。
しばらくして、求めに求めてきた究極の目的が今ここに完結したと思ったとき、
歓喜がもくもくとして腹の底からこみ上げてきて、
全身、歓喜の渦に貫かれた。
わたしはどのように家に帰りついたか知らない。

全体と根源の充足、身も心も障うるもののない表裏鏡のような日常、
それは十日ばかり続いたであろうか。
その吹き抜けるような実感は、やがてさめ始めて、ついには元の木阿弥になってしまった。
煩悩も起こり、障碍もある。以前となに一つ変わっていないではないか。
あの驚くべき大転換はどうしたのであろうか。
一場の夢にすぎなかったのか。
しばしの興奮状態であったのか。
わたしは、また悶えに悶えた。
そこには、折角の金の玉を失ったといういい知れぬ悲哀感が伴われていた。
このような行き詰まりが続いたあと、また突如として吹き抜けが起こる。
それは最初のように、天地を吹き飛ばすほどの激しいものではなかったが、
ともかく換骨奪胎、心の古桶の底が落ちて、障碍の芥が放水門のようにほとばしり出た。
それはたびたび起こり、また、たびたび行き詰まった。

あるときは、デカルトの方法叙説に読み耽っていた。
たまたま、コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)まで読み進んだとき、
この時もまた突如として、心の底から大笑した。
デカルトとわたしとが、吹き通しになったからである。
コギトがそのままスムであった。
実存のままが意識の輝きであった。