柳田鶴声の内観の世界

以下の文章は、『内観法―実践の仕組みと理論』長山 恵一 清水 康弘 (著) 日本評論社のP.475~478に載せられているものです。

1 柳田鶴声の生い立ち

1930年、秋田県仙北郡仙北町に、七男三女の四男として生まれる。
11歳のときに母親が、16歳のときに父親が死亡。兄弟も次々と亡くなり、40歳を過ぎた頃には、生き残っていた長兄、次いで妹も死亡する。柳田自身も身体的に虚弱な子供であった。小学校を卒業する頃には、父親は脳溢血で、すでに寝たきりで、長兄も兵隊に行っていたので、病弱な柳田が、幼い妹と年老いた祖母を抱えて一家の生計を支えると云う極貧の暮らしであった。
その後、三十近い職業を転々とするが、いずれも長続きせず、胃・十二指腸・すい臓炎・肝機能障害などの疾病と共に、全身倦怠などの心気的病状を繰り返していた。
独学10年目にて大学入学資格試験に合格し、1957年3月、新聞配達をしながら富士短期大学を卒業する。結婚して、2男1女をもうける。サラリーマンを経て、ヘッドハンティングによる転職を繰り返し、株式会社小林洋行(現在、東証一部上場の商品先物取引企業)の専務取締役になり、会社経営にあたる。
その間、ヨーガや断食など、考えられる様々な健康法・修養法を体験し、健康を追求するなかで、1976年8月、吉本伊信の内観研修所で、はじめて内観を経験する。その後、集中内観、日常内観を積み重ねる。
1979年、専務取締役から代表取締役社長となり、1981年、柳田51歳の年に社長の座を退いて、栃木県喜連川に瞑想の森・内観研修所を設立する。医療・教育・マスコミ・矯正各分野に働きかけ、精力的に内観の普及に尽力する。
1985年に北陸内観研修所で行った7回目の集中内観は、特に大きな心的転換を柳田にもたらした(次項の体験報告は、その時のものである)。
面接した内観者は、延べ8000人を超える。1997年4月に研修所所長を清水康弘に譲り、瞑想の森・内観研修所会長に就任。2000年1月、69歳にて死去する。

2 内観の体験の「気づき」(7回目の集中内観後の体験)

「二つの気づき、一つの真理・無限の論理」

1985年4月27日午後4時30分、北陸内観研修所の朝は小雨で明けた。一週間の内観研修最後の日である。
目が涼しいという感じである。
こみあげてくるような喜びもなく悩みや憂いもなく
しとしとと春の雨の音
遠くから聞こえてくるうぐいすの声
木の葉に遊ぶ空気のささやき
生命の時を静かに刻む心臓の鼓動
静々、寂々、穏々、
他に何もない、ただ生きている実感
不思議な充実感である。

27日午後2時40分頃、長島先生(北陸内観研修所所長)、お母様、池田さんのお見送りを背に、列車に乗る。握手をしていただいた右の手から全身に、しびれるような愛のエネルギーを感じる。ありがとう。人に生まれ、生きていてありがとう。
富山駅を出てから、あたたかい涙が、とめどなく流れて車窓をぬらした。
特急を乗り継ぎ大宮駅に着いたときは、もう夕方だった。
父・母・兄・弟・妹・祖母・兄嫁・妻・子・女ともだちに対しての罪のありさまが走馬燈のように次から次へと思い出されて、まったく時間を感じず、目にはタオルを当てたままでした。
大宮駅を発車した頃から、知らず知らずのうちに、お世話になった人、迷惑をかけた人々の名前を名刺の裏に、次々と書き連ねていた。宇都宮の駅についた時には、私がこれから内観をしなければならないと書き記した人は、百名を越えていた。
新幹線で宇都宮駅のホームに降りたとたん、全く不思議なイメージの世界に迷いこんだ。
そこで見たのは私の心の奥にひそむ罪の山でした。
生まれてから55年間、用心深く、巧妙に、丹念に育くみ踏みつぶしてきた罪の山、地獄の谷が、響音とともに大噴火したのである。
その山は血を流し、汚泥に満ち、悪臭を放ち、殺人・略奪・詐欺・横領・賭博、うそ偽り・ごまかし盗み等々、無量の罪である。
その様相は悪質であり、知能的である等々、その手口は千変万化である。
その大きさは、私の今回、内観してざんげした事柄が、耳かき一杯程度とするならば、それに比べて山が累々として次々に押しせまってくるのです。
それは、恐怖というより、自分の正体のすべてが見えたという安堵感にも似た不思議な心身の脱落感でした。
そして、その瞬間、全身に得体の知れない巨大な衝撃が起こったのです。
◎ 腹わたがよじれる
◎ 全ての筋肉が踊る
◎ 血が湧きさわぎ血がたぎる
◎ 胸がこみあげてくる
次々とエネルギーが下から上につき上げてくる
身体が宇宙の果てまではじき飛ばされそう
◎ そして、絶叫したいような大興奮が…

次の瞬間、私の脳裏に人生の哲理とでも言おうか、無限の論理が次々と精巧に精密に構築されていったのです。
一瞬の気づきが、原稿にしたら500枚(20万字)にも及ぶと思われる論理が整然と秩序だって形成されたのです。
その膨大な論理の中核をなす、二つの気づき。
一つは、生まれてからいままで犯した無量の罪全受容であり、一つは、生まれてから今までの無量の体験いわば全生涯の全容認である。己が命の栄養であり、体験は自分史を刻む時間と空間である。罪を観じ、体験を感じ、この二つを全許容した時、はじめて本当の自分が判り、宇宙と自分との一体感が得られて宇宙の真理が判ったのである。この真理は無限の論理性を持ち、宇宙的に広がっていくのです。
真理が判ったその瞬間、今度は全身を揺るがす笑いが次々とこみ上げてくるのです。今まで感じたことのない、形容することもできない喜びであり、うれしさであり、おかしさでもある。(1985年4月27日、午後7時30分から約30分間、宇都宮の駅ホーム及び宇都宮駅から氏家駅までの車中のできごとである。)

それから一週間ほどは、1日24時間、ほとんど覚醒の状態で、1日、1,2時間まどろむ程度でした。昼は、少ない時で17名、多い時で24名の内観者の面接をし、夜は終夜、大の字にあおむけになり、次々と浮かんでくる論理を、さながらマンダラ絵図が宇宙的にパノラマのごとく広がって行くのを見ているという感じでした。それでも殆ど疲れをおぼえず、活力溢るる生活でした。
興奮の余韻は半月近くも続きました。そのとき浮かんだのが、「体験・内観マンダラ絵図12巻」です。
今回の体験で、身体的に得たものは、根強く残っていた左腸の不快感と右背部のしこり感が完全にとれたことと、老眼鏡の要らない目になったことです。
この間、立教大学心理学教授・村瀬孝雄先生には、4月27日から5月10日まで、毎日のように介護をしていただきましたことを、心から深く御礼申し上げます。

昭和51年8月、吉本伊信先生のもとで内観をさせていただいてから、継続的な日常内観と集中内観7回、内観を知ってから9年目で、ようやく内観の入り口をくぐって、今、内観三昧への糸口が見えたという実感がします。

◎ いま胸がときめいています。

1985年5月20日 午後5時

瞑想の森にて 記 柳田鶴声55歳