『瞑想』より


元々、こちらにあった記事です。
http://kuboakoru.web.fc2.com/tadasiimeisou.html

あまりに心惹かれる抜粋でしたので、自分の為に読みやすく編集してみました。


瞑想とは、あるがままにものを観ることであり、それを超えていくことです。

……

より広い、より深い超越的な体験を絶えず求めていくのは、あるがままの実際の現実から逃避していく、ひとつの姿に過ぎません。

あるがままの現実とは、わたしたち自身のことです。
わたしたちの条件づけられた心のことです。

心がめざめていて、叡智があり、自由であるなら、いったいなぜ体験と云うようなものを必要とするのでしょう。
どうして、それを得ようとするのでしょう。

光は光です。
それは、もっと多くの光を求めたりしません。

……

正しい生活とは、社会の道徳に従うことではありません。
ねたみや貪欲さや権力の渇望などから自由になることです。
それらすべては憎しみを産み出します。
しかし意志の働きによって、それらから自由になれるのではありません。
自分を知ることを通して、それらに気づくことによって、自由になれるのです。

自分が何をしているのかに気がつくことがなければ、瞑想は感覚の高揚をもたらすだけの、殆ど意味のないものになってしまいます。

……

あなたが心を静かにさせることはできません。
なぜなら、あなたこそが引き裂くものであり、あなたそのものが、かき乱され不安で混乱しているからです。
しかし、あなたが静けさというものを理解し、混乱というものを理解するとき、哀しみというものを理解し、哀しみに終わりがあるかどうかを理解するとき、そして快楽を理解するとき、そうした理解のなかから、途方も無い静まった心が生まれてきます。
静寂を追い求める必要はありません。
あなたは最初のところから始めなくてはいけません。
最初の一歩が最後の一歩です。
これが瞑想というものです。

……

瞑想は生のなかで、もっとも偉大な芸術のひとつです。
おそらく最高に偉大なものでしょう。
それは他の誰かから学べるものではありません。
それが、瞑想の美しさです。
瞑想にはどんな技法もありません。
それゆえ瞑想には権威者などいないのです。

あなたが自分自身について知るとき、つまりあなたを見つめ、どのように歩き、どのように食べ、何を話しているかを見守り、お喋りや憎しみや嫉妬を見つめ、あなた自身の中で、これら全てのことに思考を差し挟むことなく気がついているとき、それは既に瞑想になっています。

……

瞑想が起こっているかどうかは、頭が完全に静まっているかどうかで分かります。
そのとき頭は一切の活動をやめ、どんな体験も生まなくなります。

しかしそれは、力づくで引き起こせるものではありません。
力づくで頭を鎮めようとするその瞬間に、あなたは二つに分裂してしまうからです。

わたしは素晴らしい体験をしたい、だからなんとしても頭を鎮めなくては…
このようなことを口にするひとは決して頭を鎮めることはできません。

しかしあなたが思考のあらゆる動き―つまり、それがどのように条件づけられ、なにを追い求め、なにを恐れ、何を楽しみにしているかということを、見守るようになると、頭が驚くほど静かになっていくことに気づくでしょう。
その静まりは眠りではありません。
途方もなく活発で、だからこそ静まっているのです。
頭は発電機のように摩擦があると騒音を出しますが、完璧に動いているときは殆ど音を立てず、静かになります。

……

静けさは、空間のひろがりをともなって起こります。
静けさの無限のひろがり、それは、心の無限さに他なりません。
そのなかに、中心となるようなものは何も存在していません。

……

瞑想とは、日常生活とは別の何かではありません。
部屋の隅にいって十分間瞑想をし、そこから出てきて肉屋に戻る、と云うようなものではありません。

これは比喩として言っているのではなく、実際にそうなのです。

瞑想は、もっとも重大なことのひとつです。
あなたはそれを一日中できます。
仕事場にいるときでも、家族と一緒にいるときでも、誰かに「愛しているよ」と言っているときでも、
子ども達のことを考えているときでも…
しかし、その一方で、あなたは人々に、兵士になり、人を殺し、愛国者になり、国旗に敬礼するようにと教えています。
現代社会のこのような罠にはまるように人々を教育しています。

それをことごとく見守り、あなたがそのなかで果たしている役割を理解すること。
そのすべてが瞑想に含まれます。
このように瞑想しているとき、あなたはそのなかに、たとえようもない美しさを見い出すでしょう。

そしてあなたは、どんな瞬間にも正しく行動するようになるはずです。

たとえ、いっとき正しく行動をしないことがあったとしても、問題ではありません。

ふたたびそれを取り戻せばいいのです。
悔やんで時間を無駄にすることはありません。
瞑想は生活の一部です。
生活とは別の何かではありません。

……

瞑想とは、概念や固定観念が何一つ無い状態です。
心が完全に自由になった状態です。
そのような心にだけ至福が訪れます。
探し求められてもいないし、招きよせられてもいないのに。

ひとたび至福が訪れると、喧噪や快楽や暴虐に満ちた世界に生きていようと、それらが心に触れることはありません。

ひとたび至福が訪れると葛藤はなくなります。
ただし葛藤がないというだけで、完全に自由になっているという訳ではありません。

瞑想とは完全な自由のなかで心がはたらくことです。
至福が炸裂する中で、瞳は無垢になります。
そのとき、愛は祝福になります。

……

あなた方は、果たして分かっているでしょうか。

あなたが全てに注意を払えば、完全な静けさが訪れるのです。
その注意の中には、どんな境界もありません。
中心となるものもありません。
気づいているわたしとか、注意を払っているわたしのようなものはありません。

この注意、この静けさ、それが瞑想の状態です。

……

あなたが瞑想するために、わざわざ何らかの心構えをし、瞑想のポーズをとるなら、それは心にとって、ひとつの遊び道具になります。心のおもちゃになってしまいます。

あなたが人生の混乱やみじめさから自分を救い出す決心をするとしましょう。

そうした決意に基づく瞑想は、一種の想念の体験にはなりますが、瞑想ではありません。

意識的な心であろうと無意識的な心であろうと、瞑想の中では心が一かけらも働いてはならないのです。
心が瞑想の広がりや美しさに気がつくことすら、あってはなりません。
もしそうなる位なら、空想小説でも買いに行った方がましです。

……

瞑想の完全な注意深さの中では、知るということも、認識するということも、何かが記憶に残ることもありません。

時間と思考は、すっかりなくなってしまいます。
というのも、時間と思考は視野を限定する中心にあるものだからです。

……

光明が訪れる瞬間に思考は消えてなくなります。
したがって、光明を体験しようと意識的に努力することも、それを憶えておくことも、言葉の世界に属しているに過ぎません。
言葉はすべて過去のものです。
それは現実にあるものと決して同じではありません。

光明が訪れる瞬間は時間に属していません。
その瞬間には、究極のものが現前しているのです。

究極のものには、それを象徴できるものはなにひとつありません。
それは人格を持ったものではありません。

……

瞑想とは、すでに知られているものによってまだ汚されていない領域があるかどうかを見つけ出すことです。