せったんさんの辻説法 -しいどうぶなん

元々、mixiにあった記事です。不便なので、こちらに置かせていただきました。もし問題あれば教えてください。(霊基)

至道無難禅師

慶長八年一六0三年美濃の国関ヶ原に生まれ、延宝八年一六七六年江戸の小石川戸崎村の至道庵に没す、享年七十四歳。
関ヶ原の宿場本陣の長子に生まれ、母方は豪商白木屋初代の女である、幼少の頃に草書をよくし、仮名書き童子と呼ばれた。十五歳の折に父親に連れられて京都大阪に遊び、生まれる三年前は天下分け目の関ヶ原、十二年後に大阪夏の陣、徳川の世となって二代秀忠四代家綱に至る間です。予は美濃国関原の番太郎なりと、自らに云う、美濃から京都へ渡る大仙愚堂国師の常宿となって、親しく師事する。本来無一物の公案を授かって、寝食を忘れる程に参じて、ついに見性す。劫外の号を受ける、国師の偈がある、造化何曾論功用、無根樹上著花新、非紅非白呈祥瑞、未必人間有此春。これより国師悪辣の手段を尽くして、いたく向上の鉗鎚を施すと、五十二歳稼業ことごとく譲り渡して、師に従い江戸へ上って出家す。至道無難となる。至道無難に参ずることもっともたりとす。至道無難唯嫌楝択ただ憎愛無ければ洞然として明白なり、予は明白裏に非ず、汝等比丘却って護惜すやまた無しやという、大趙州の公案があります、もっとも解き難いものです。

多少の初関を透過したぐらいで、おれは悟ったなどもってのほかのことです、問題はようやく始まったばかりです、捨てるべきおのれが見つかった段階です、不惜身命の修行が待っています、数少ない本来人、至道無難禅師にどうか見習ってください、至道=正受=白陰と継ぎます。

師の記す即心記より。

 三国の人、かたちは同じて、詞は別也。心ヲ一ニするは、仏の御教によれば也。死をいとふは、死をしらぬ故也。人は直に仏なれともしらず。若しれば仏意に背、しらさればまよひなり、作偈いはく。

 識得於根元
 離別於万法
 誰知言句外
 仏祖不伝処

 生死をしる人あらば、心のたねとやならむ。いやしき詞をまきおくも、かつは身のとかをかへりみぬなるへし。つくはねの木葉の雫もみなの川の淵となれば、わらはへのたすけにもやとおもふ故也。

 延宝乙卯孟春書之
  至道庵主 無難の印

 至道無難禅師のエピソードに、懇意な商家に赴いて、お金が紛失してどうも禅師のほかには思い当たらぬというので、禅師に問い質したところ、そのお金を返してよこした、まあそんなものかと思っておったが、後に紛失したお金が出てきた、申し訳なかったといって詫びると、にこにこしてただお金を受け取ったという。またある老人庵を提供して禅師を住まわせたところ、姪かだれか懐妊した、禅師が相手だという、責め立てると忍び忍びてそういうことになったというた、老人は怒って禅師を追い出した、のち娘が白状して、男は別にいて禅師は見も知らぬ人であったという、老人が詫びるとやっぱりにこにこ笑っただけであった。
これをどう思いますか、白陰禅師に逸話がだぶっている、聖人というものはかくあるべしか、いいや時代が違う云々というような人が多いんでしょう。自分に引き比べてください、なぜにこう我慢というかすなおというか、うっふ我慢という、これわがままと読むんです、いつか必ず現れるからという期待の辺に行なう、まったくそうではないんです。よくよく鑑がみてください、禅師はただニールバーナ涅槃寂静であっただけです、如来もってなすのに方便力の故に涅槃を示す、ことはまったくほかにはなかったんです。ただただ頭の下がるのはこれです、仏の生活、仏であるということはまさに四面楚歌です、至道無難禅師がかつかつ正受老人に伝えるほかに、あるいはまったくこれを知るものはなかったです。これをまっとうする、ただただ怨罵の毒を歓喜しと云われるごとくに、誤解噂ものはこうあるべきの、残虐陰惨な世の中に放り出されるだけです。たとい仏教を知る狐狸の類です、舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相完具するが如しと、なんの武器も取り柄もなしの、仏という陰日向なしなんです、裏を見せ表を見せて散る落葉かな、良寛さんのような無一物の暮らしがかつかつ成り立つ。世間体お寺のあとつぎなど、こりゃもってのほかの余計ごと、身から出た錆を今にして痛切に思うわけです、しかも一柱身心脱落、ちらとも屈託あれば不可です。わしは七十過ぎて代を譲って、ようやく一人暮らしを始める、ほんにまあ始めからずいぶん方向違いでしたか。

三国の人、インド天竺中国日本の人です、仏教伝来の道筋をもってこれに代表する、仏教が伝わっている国、仏教の噂ではなく本来本当です、学者のもてあそびではなく無為の真人です、坊主まるもうけの宗教ではなく、ただこれ本来人です。詞は別なり、言葉はそれぞれにあるということです、心を一つにするは仏の御教えによる、ほかの諸宗思想哲学あるいは歴史あるいは文学他によっては心は一つを知らないんです、個性といい詩歌といい、趣味色の道ですか。人間個々別々を受け入れる器、だれあって帰りつくべき、人間自然の差異のない、色即是空を知るたった一つの教えです、みおしえと云うものもっともこれ。死をいとうとは、人間のいとうべきもっともなりとする、死を知らぬがためなりと、実に端的です、さすがに至道無難禅師です、まさに死を知らぬが故にです、よくよくおのれが辺に落着してください。死ぬとはなに、生きるとはなに、答えまったくに明白を知ってください。仏とは生死の問題、もし知れば仏意に背く、若し知らざれば迷いなりと、どうですか、我らが求めるべきすべての答えがここにあります。理屈で納得すればよしとする、今様人間には無縁の問題ですか、今の人はたして人間と云えるのか、字面だけの心意識をもって足れりとする、はたして生と云えるか死と云えるか。

偈に云く、

根源を識得す、おおもとを知るとは大安心です、もとに帰るんです、まったくにほかなしを知る、自分というよこしま仮住まいがない、すなわち文句のつけようがないんです、つける我もなし、つけるべき我もなし。

万法に別離す、物差しが自分というよこしまなしのほかにまったくなくなる、自分が自分に物差しをあてがって、是非善悪しないんです、自由無礙とはこれ、すなわち本来人です。

誰か知る言句の外、すべてものみな言句の外です、人間の取り決め複雑怪奇の先細りにはまったくよらない、ものみなものみなとしてこうあるんです、それを知るすなわち知らないもっとも親切、花のようにおのれを知らない、雲のように水のように行方を知らない、ようやくにしてこれ真。

仏祖不伝の処、すなわちこれが仏の教えです、仏教らしいものなどなんにもないんです、わしが仏説らしいことを云えばとりつく、とんとむかしいや歌にはそっぽ向く、うっふっふ未だらしいものの噂の人、何回も書き直して、人に対する、よりよくよりわたくしなしという、これ仏。仏らしいことを云ってすます、狐狸の類にあらず、首くくる縄もなし年の暮れ、日々また新たにす、昨日のおのれはまったく今日に非ず、強いて云うならばまったくたった今悟ったと、これ仏の実際です、でなけりゃ嘘とはったりです、よくよく省みてください。

生死を知る人あらば、心のたねとやならむ、生死を知るという、仏家一大事因縁生を明きらめ死を明きらむという、しかも知れば言い訳の種にしかならない、だからおのれはの虎の威を借る狐です。現つを抜かすんです。いいですかこれが仏教なんです、むずかしい大人を作るこっちゃないんです、仏は仏です、申し訳や言い草、てめえ自堕落の弁護のためにあるんじゃないんです、よくよく弁えてください。かつは身の科を省みぬなるべし、仏になった大法を得たという余計ごとは一切いらんのです、ただの人取り付く島もなし。つくばね筑波山ですか、大山の子の木の葉の雫もみな集まりて川の淵になる、一雫も身を潤せばなんらかの足しになる、邪魔になるにしても童心の者これを受けるに足る、わらわべの心こそ頼り甲斐です。その故に即心記です、まっすぐに入る一言。

なにかほとけの実なるらん

 此歌の心明ならば、大道あらはるべし。

一 仏眼ひらき見るに、日本の衆生は仏にちかし。悪気といふは、身を思ふなり。迷ひの根本なり。しかも我身にあらず。それをわがものと思ふは、至りてあさましくかなしき事なり。誰も知る事なれども、死するなり、病むなり。貧苦をうくるなり、これ我物にあらさるしるしなり。かかるうき世に生をうけて、苦みおほきをわきまへず、命なかからん事を願ふ。大方人を見るに齢七十に及ぶは稀なり。

知れば迷い知らねば迷う法の道何か仏の実なるらん

そうです、参禅とはまさにこうなんです、知る分が迷い、知らねばまさに知ろうとする、奇妙なものです、もと仏の大海にありながら渇と求める工夫、だからといって求めずとも足りるということはないです、それはごまかしです、おれは仏を得たといい、あるいは得ずともいいといい、なんとなれば仏の大海にあるからと、そんなお題目何百回唱えてもなんにもならんです。自然に満ち足りる、満ち足りるをさえ知らぬ自己を証拠するんです、それなくばただの能書の世界です、実のないうるさったいばかりです。この歌の心明きらかならば、大道現われるべしと、まさにおのずからに現われるんです。

一、仏眼開き見るに、仏となって見そなわす、必ずそういうことがあります、人のありようたったこれ一つ。開き直る踏ん反り返るという学者物持ちじゃない、ただの人です。すると日本人は仏に近しと知る、一神教の我田引水、神さまを信じてさえいればという、なにかしらどうにもならんもの。悪気という、身を思う我を、我ら同じ羽根を思う、迷いの根本が少ないんです。自然と人間がじかに向き合う社会です、その間に余計な意味合いをおかない、そうして自然と人間の一つことを知るんです。我れと有情と同時成道、生まれほんらいこうであったと知る、我がものもとから一つもなし、色即是空空即是色です、それをわがものと思うは、至りてあさましく悲しきことなりと。なにより証拠には、死ぬなり病むなり、貧苦に苦しむなりと、至道無難禅師の本来面目これ、わがものにあらざるしるしと示すこれ。このような浮き世に生まれて、苦しみばかり多いというのに、長生きを願うこと、あさましくおろかしきと、しかもおおかたの人七十に及ぶは稀なりと、八十九十までも悟りを得ずの七転八倒、世の中の不幸これに過ぎたるはなし。世界一の長寿国は、世界一の自殺国。

一、ある老人の物かたりをきくに、あはれのおほきを書ととむるもをこがましけれと、むかしの友は先立、今の人にまじはらんとすれはきたなまれ、若きはさって座になし、秋の夜なかきに、眠る事なく、かへらぬむかしを思ひ、しらぬ行末をねがふ。じごく、がき、ちくしゃう、しゅらをすみかとしてめくる事のかなしさよ。今はひたすら仏道を学はんと思ふとて、予にむかひ、なみたをなかしてたつぬるを、いとあはれに思ひ、宗旨をとへは、禅と答ふ。若年より此道こころさし深しといふ。予、大道をとへは、中々念仏唱へ数珠つまくりいとあやしくて、いかやうの人に法をたつねたまふといへは、古は法門なとならひしが、十五年此方は、いやいや法門いひても、只今身まかり行末しらぬは大きなあやまりと思ひ、ある僧にあひたてまつれり、死して行末をたつねしに、悟って知ることなり、悟らんと思はは、身の業つくすへし、業つくさんと思はば、経よみ念仏となへよと、仰にまかせてつとむるといふ。予云、只今死して何方へ行、いかやうにならんと思ひたまふととへは、極楽へ行ほとけにならんと答ふ。ごくらくはいずこそととへは、業つきてあらはれんとをしへにまかせ、かやふかやふと答ふ。予またとふ、業つきぬさきに死しては何となるへきととへは、こたへなくして、なみたながし、手をあはせ、教へたまへと云ふ。あはれにおもひて、うちむかひ、万事はみな心のなす事なり。かれ、さなむと云ふ。心のもとはなにかあるととへは、なにもなし、と答ふ。予云、それこそ直に極楽世界、それこそ直に仏、それこそ我宗の悟なり。常に守りたまへといへは、さすがつねつね心かけししるしにや、生もなし死もなし、万物一もなし、なしと思ふ事もなしと悦ひ、手を合せておかむ。禅は第一悟をさきにして、悟にまかせ修行すれは、日々夜夜安楽なり。うたがふ事なかれ。身の業つきはてさとるは、尤もにしていたりがたし。さとりをさきにして身の業をつくすは、安して安し。かるがゆえに日本は身を思ふ事かるし。さて仏にちかし。身なけれは直に仏なる故也。

ある老人の物語る、哀れなことの多きを書きとめるは、おこがまし、あほらしいけれど、むかしの友は先立ち、今の人に交わろうとすれば 汚いと嫌われ、若い人は座を立ってしまう。秋の夜長を眠ることなく、返らぬむかしを思い、知らぬ行く末を願う。地獄餓鬼畜生修羅を住処として巡りめぐることの悲しさよ、今はひたすら仏道を学ばんとして、予にむかい涙を流して尋ねる、いと哀れに思い、宗旨を問えば禅と答える。若くよりこの道に志しの深きと云う。予大道を問えば、なかなか念仏を唱え数珠を揉む、あやしいふうで、どんな人に法を尋ねなさったかと聞けば、かつては法門を習ったが、十五年このかた、たった今みまかるのに行く末知らぬは、大いなるあやまちと思い、ある僧に会いたてまつる、死んだのちの行く末を尋ねると、悟ったらわかるという、悟ろうと思ったら、身の業を尽くすことだ、業を滅尽するには、お経を読み念仏を唱えなさいと。仰せにしたがい勤めると云う。予、只今死んだらどこへ行って、どのようになるかと問えば、極楽へ行き仏になると思うと答える。極楽はどこにあると聞くと、業が尽きたら現れるはずという教えに任せて、かようかようと答える。予また問う、業尽きぬ先に死んだらどうなるんですかと、答えなくして、涙を流し、手をあわせ、どうか教てくれと云う。哀れに思って向かい合い、万事はみな心のなせる事だと云った、彼はそうでしょうと云う。心のもとは何かあるのかと問えば、なんにもないと答える。予云く、なんにもない、それこそ直に極楽世界、それこそ直に仏、それこそ我が宗旨なり、常に守りたまえと云えば、さすがに常常心がけししるしに、生もなし死もなし、万物一もなし、なしと思うこともなしと悦び、手をあわせて拝む。どうですかこれ、まことに人を救う実際です、ただこれを知ればそれでいいです。

禅は第一悟を先にして、悟に任せて修行すれば、日々夜夜安楽なり、まさにこれが修行の実体です、身の業を滅尽させて悟るは、もっとも至り難し、悟りを先にして、身の業を尽くすは、安して安し、これ安楽の法門です、仏に任せきって行く、どうか楽しみながらやってください、かるがゆえに日本は身を思うことかるし、身を鴻毛の軽きに置けと、古来日本人の教えです、身心のある分が苦しく辛いんです、仏に近いとは捨てて捨てて捨てきって行く、あるいは身心の外に参じてください。身なければ直に仏です。

今様もまるっきりこれを知らぬ師家禅師、狐狸の類ばかりです、とんでもないめに会って、一生を棒に振らぬことですよ。

一 ある法師の弟子、夜ひる坐禅して、人我のへたてなし、生死もなしといふ。さとりをとへは、中々をそれて、われこときの及ふ所にあらずといふ。かりにも師は大事なり。ことに仏道、師なくしてなりかたし。坐禅と常とちかふ事をくるしむ。只今目前に何のへだてかあるといへとも、愚なり。みそのみそくさきは食にいむなり。

あろ法師の弟子、昼夜に坐禅して、人と我の隔てなし、なんじこれかれにあらずと、向こうから来る人が自分になってこっちを見ているんです、そういうことがあります。なるほどと納得するんですが、次にはまたこれかれなんです、別段のことはない、ただそういうことです、手に持ったお椀の中にころっと入っていたり、ぱちっと一音通身破れほうけるんです、生死まったくなし、生きるも死ぬも同じです、坐禅の功徳ただちにこれを知る。実際にこうあり、現実他にはなしを、悟りを問えば、我ごときの及ぶ所にはあらずという、別に何かあると思う、悟りという特別誂えを思う、そりゃ師匠が悪いんです。悟っていないから悟ったという特別を云う、久しく模象と習って真龍を怪しむこと勿れ、あっはっはそんな手合いばっかり、ごろごろですか。弟子はいくら悟ったって、悟りという特別を願う、これだよとたとい示したとて、師匠に首ったけですか、いや仏教という、仏という特別なければ納得しないんですか、現実は手つかずのただこれ。面白くもなんともないんです。あるとき満足しようがあるとき満足しないんです、千変万化そのものです、しかも生活という現実という、他にはないことを知る、悟った人はこうこうという標準物差しにはまったくよらないんです、呼吸して見事に生きている、あるいはすなわち自覚症状がないんです。毎日新しくまったく悟るがごとくですか、味噌の味噌臭きは上味噌にあらじ、いえ食うわけにゃいかん、食えんていうんです。今の人ちらともなにかあれば悟ったという、仏教はかくかくしかじかとやる、とんでもまあ荒っぽいんですか、ただもうやりきれない我田引水です、それから見れば、この人却ってつつましく、しかも同じ我田引水ですか、自分をもてあましているんです。なんにもないに落着できないなぜですか。

一 予、弟子にむかひて、かならず修行とげがたくは、還俗せよ。其罪は少なし。法師の身としていやしき心あらは、ちくしゃうと成る事うたかひなし。此世はわつかのうちなり。とてもかくても光陰をくるにはやし。俗はむくひありとも、出家のむくひにくらへんや。

一 無といふに二つあり。悪をしてとがなしと見るはあしし。善悪邪正よりつかぬは釈迦の法也。

弟子に云うには、必ず修行遂げ難くは、修行してもついに得られずと思うには、還俗せよと、坊主止めろというんです。その罪少なし。法師という、法を説く身として、いやしい心あれば畜生となること疑いなし。ほんとうに仏になる、悟りの道筋に至ることなければ、いやしい心です、我欲我妄の延長です、どこまで行っても、おれがというてめえ勘定です、人を救うどころじゃないんです、必ず自我の目論見です、畜生のほうがよっぽどましです。今の坊主ども、お寺に生まれたから説法という、お釈迦さまの子という、もっての外です、仏罰が当たって、およそ人間の形してないです、心理学病理学の対象ですか。坊主ほどろくでもないものないです、こんなものと付き合ってはいかんです、この世はわずかのうちなり、光陰矢の如し、生きた覚えのある人生を送ってください。悪因悪果俗人はたとい報いありとも軽し、出家の報いに比べるべきにあらず、人を導いて取り返しのつかぬ、どうしようもなさです。世の師家法師の類、仏から見ればまったくのでたらめ迷妄事です、なんという悪ふざけですか。オウムのごとく、あるいは生き埋めにして竹の鋸に挽いても、犠牲者は救われないんです、よくよく肝に銘じてください。

無というに二つあり、悪をしてとがなしと見る、どうしようもこうしようもない無ですか、虚無というんです、今生来世にも浮かばれんです。善悪邪正よりつかぬ、たといなにをどうあったとて不染汗、不染汗だからというんではない、不染汗なんです、これをお釈迦さまの法と云う。間違いなきなり。

一 念仏はりけんなり。身の業去るによし。かならず仏になると思ふべからず。仏にはならぬが仏なり。
 身の業のつきはてぬれは何もなし
 かりに仏といふはかりなり

一 八万四千の悪業あるは身也。水火のせめにあふなり。これを思ふはおそろしき也。

一 つみのをもきかるきあり。
虫より魚はをもし。魚より鳥はをもし。鳥よりけたものはをもし。けたものより人はをもし。

念仏は利剣なり鋭い剣である。慙は鉄鋼よりも強しと遺教にある、なんで念仏が利剣であるのか、鈍剣ではないのかという。その切れ味たとえば兼行法師のつれずれ草に似て、なんにもまして圧倒的な鋭さと、ちょっと違うんですか、念仏百万回というのがむかしあった、こぶし大の数珠を連ねて、一座が念仏を唱える、法悦の末ついには忘我に至るまで。念仏をありがたいという、有為の色心を超えるんです、なんまんだぶつありがたやという、念仏によって悟ったという人をつい最近知る、わしは信用しなかった。必ず言い訳申し訳です、角を生やした妙好人という、なんていううるさったいと払拭するなしや、どこかにもう一つ人為です、雪月花の中にあってどこかにお釣りが来る、なぜかというんです。身の業去るによし、まさに去るによし、必ずやそういうことがあります、しかも去ることを知る、よくなったという自分を知るには、さっぱりよくないんです。必ず仏になると思ふべからず、仏にはならぬが仏なり、まさにもって銘すべき、禅門からの若しくは贈り物といって、禅門なんてないんです、たといてんから云うなし。

身の業のつきはてぬれば何もなし仮りに仏といふは仮りなり

仏というものがもとないんです、業つきはてるという、なんにもないとき実になんにもないんです、しかも日々新たなり、昨日の我はまったく今日の我にあらず、たった今仏を知った、では昨日までは嘘とはったりか、いえそんなことまったく知らんのです。

八万四千の合疆、骨や肉やの合体ですか、あるいは八万四千の毛穴という、なんせ語呂がいいんですか、八万四千の経巻という、すなわち人間の出来合い八万四千の悪業です、あるものは必ず水火の責めに会う、これを思うは恐ろしきなりと、実にまさにそういうことです。身に科あるを地獄という、科なきを極楽というと、身心ともになしを仏というと、しかり死体と同じ、これわが宗旨なりと。また禅師の語です。

罪の重い軽いありと、虫よりは魚、魚よりは鳥、鳥よりはけもの、けものよりは人が重いと、まさにしかり、他云うことなし。いったいなんでこの世に生まれ、こうしてあるんですか、まさにもって悟る、悟らないとはこれです。

一 教は大きにあやまる。それを習ふは猶あやまる。只直に見、直にきけ。直に見るはみるものなし。直にきくは聞くものなし。
  見ずきかずおもはすしらぬ思ひてを
  なにとてをのかほかになすらむ

教えは大きに過る、間違いなんです、これを知る、至道無難禅師に於てのみ、よくよく知ってください、教えを習うはなを過る、間違いなをさらです、ただじかに見る。じかに聞くこれをのみ、じかに見るは見るものなし、じかに聞くは聞くものなし。

 見ず聞かず思はず知らぬ思ひてを、
 なにとてをのが他になすらむ

標準他にはなし、よこしまなければ自受用三昧これを標準となすと、これのできる人皆無、まったくただ一人いないのを知る、情けないことです。たとえばこのネタ本の解説者、どっかの学者権威ですが、こんなふうに訳す、よくよくそのでたらめを見てください。

(教へは人を大いにあやまらせる。それを習ふとなほあやまりを犯す。ただ有りのままにものを見、ありのままにものを聞け。有りのままにものを見れば、見る我は無い。ありのままにものを聞けば、聞く我は無い。)

どうですか、この人無心を知らず、仏を知らず、教えという我田引水をもってすること、かくの如し、わかりますか。こんなのにたぶらかされるようでは、そりゃ覚束ないです、じかに見、じかに聞いてください、見るものなし、聞くものなし。=ありのままなんてあるんですか。

一 伊勢の国に一代坐禅して死せり。其身のためにはたうとし。かつは其身坐して死せば可也。病苦をうけはおほつかなし。わが師は、一坐の一世のざぜんとのたまふ、ありかたし。

一人うちすわる、まさに他にはないんですがね。一坐の坐禅は一世の坐禅なり、はいこのように坐ってください。

一 ある人釈氏のをとろへし事をとふ。予云、中々詞にのべかたし。かしらをおろせば、われも出家の二字をけがす。をそろしき事なり。常の家を出、三衣一鉢にして樹下石上に住居するさへ、真の出家といひかたし。真の出家にのそみふかくは、我身は八万四千の悪あるものなり。其中に大将とかしつく、色欲、利欲、生死、嫉妬、名利、此五つ也。世の常にして退治しかたし。昼夜悟を以て一々に身の悪をほろほし、清浄になるへし。悟といふは本心なり。ものの是非邪正をよく知り、邪を去り、正をたもってふかく護り、常に坐道して如来をたすけ、くふうしてあくをさり、年月功つもってかならず心安くなるへし。いよいよおこたらすつとむるに及て、じごく、がき、ちくしょう、しゅらの苦をはなれ、平常を守り、其功つもり、万法にまかせてとかなし。つとめてここにいたり、世間の人をすすめ、上根機の人には、直に目前を以てをしへ、中根機の人には、方便を以て坐禅させ、下根機の人には、念仏を以て後世をねがはせ、かくのことく人をたすくるを、真の出家といふなり。愚にしてなりかたし。

釈氏のおとろえ、出家お釈迦さまの道です、この頃衰えてというと、今の世ははてどうなるのか、そりゃ問題にならんといって、仏と仏の道に変わりはないんです。いつでもまったく同じ、おとろえは人間のほうです、だらしなく便宜に流れて、不都合でありいさかいや混乱を招く、人間が困るというすなわち自業自得です。仏足石というものがあります、完全無欠の彫刻ですか、足型の上にお釈迦さまが立っておられる。なんにも見えないではないかといって、風景あり家あり人あり鳥獣ありします、雪月花これ仏です。身心なし、だれあってその上に立てばお釈迦さまです、かくのごとくに釈氏の道です。頭を剃れば我も出家の二字を汚すと、至道無難禅師の云われるは、恐ろしきことなり、わしなど逆立ちしたってもおっつかぬです。三衣という、今に曹洞宗では大衣、改良着、作務衣ですか、一鉢とは良寛さんの鉢の子です、鉄鉢応量器といって、お釈迦さまの頭蓋をかたどったものです。一つには功の多少を計り、彼の来処を知る。二つには己が徳行の、全欠を忖って供に応ず。三つには心を防ぎ過を離れることは、貪等を宗とす。四つには正に良薬を事とするは、行枯を療ぜんがためなり。五つには成道の為の故に、今この食を受く。飯台には唱える五観の偈です。このようにありこのように努めるものです、我が身八万四千の悪あり、その中に、色欲利欲生死嫉妬名利の五つまさに大将なりと、世の常退治しがたしと、まことにもってかくのごとし、なんともいわんたく、どうにもこうにもです。しかも昼夜悟っては、一々に滅ぼし、清浄になるべしと努める、悟りというは本心なり、昨日よりは今日ですか、たしかに今日の我は昨日にあらず。常に坐禅して如来を助け、如来を見る工夫、只これ、年月功つもりて心安くなるべしと、餓鬼畜生修羅地獄の苦を離れること、そのようにあることこれ、万法に任せて科なしと、なんにもなしの坐禅これ、あとさきなしこれ、つとめてここにいたり、世間の人にすすめて、上根機には、直に目前を以て示し、中根機の人には、方便を以て坐禅せしめ、下根機の人には、念仏を以て後世を願わせと、これを真の出家という、まさにもって愚にしてなりがたしです。

一 予がわかきとき、ある時のつかひし童子、われにむかひ、わが主にことはり、弟子にしてたべとたのむ。やさしくいへると思ひ、なにとてかくはおもふととへは、出家は世わたるにたのしからんといへる一言にをとろき、此童子此心にて法師にならは、かならすちくしょうとなるへし、初発心より仏法一筋に心ざしあるは、はや菩薩の行なり。かりにも世わたりに心かけしは、ちくしょうに成事、うたかひなし。

出家をただ職業を替えるだけのことと思う人は、今もけっこういます。お寺の子は、お寺に生まれれば仏子と思い込み、修行も発心もてんからない、嘘とはったりで威張りかえって、坊主は説教、ただこれ芝居に格好つけて、なにしろお布施しかない。ようやく化けの皮が剥がれて、宗門の危機だという、仏教のぶの字もない、死に絶えて久しいんですか。なをかつ坊主になろうという、お寺に入った人がいた、たまたま忙しいから手伝いに寄越せといって、わしの弟子が行っていた、「なんかもう居場所もないような、へ-んな感じ。」と云っていたが直きに引き上げる。するとその人やって来た、あんまりにこき使われるから、こっちへ来たいというらしい、板っぺらのような扱い、わしは取り合わなかった、出家の願い別なり、世わたるにたのしからんというはちくしょうなり。お寺といううまいパイを食うには、修行きびしく、やらせのまさにもって修行とて、この人三年はいる、やっと一人前になったらしい、そのまあほおっとしたふうの、お礼奉公に来た。やたら長い法要の好きな住持、足腰の痛さにまあ、随喜の涙を流す、ありがたい法要だという、なんという見るもおぞましい。法要とは法の要、仏の道は滅んだか、宗門といい世間多数を云えば、そりゃ滅び去ったです、至道無難はなをかつ生きています、厳然として日夜参ずる、これなくば無明黒闇、世の中まっくらやみです、たといたった一人も仏です、なにあろうとてもって正にこれ。

一 ある人にしめしていはく、仏法、今世とりみだし、外に仏をもとむ。たとへは妙は元来無一物。法は妙のうごく所也。法にあらされは妙あらはれず。故に妙法とつずく。法の是非につけて其人をしる。見性して、行住坐臥、性にまかせて身をつかふとき、仏性と云へり。

仏を物のように扱い、心を、こうあるべきという、標準というなにかしら物差しをもってあてがう、仏道の修行も刑務所の扱いも同じ、これじゃ欠陥車しかできないです、今にはじまったことじゃないんですが、今ほどみだれどうようもない世の中はないです。以無所得故菩提さったというが如く、なんの取り柄もなく、あらためて得ることもなく、強いて云えば引き算ですか、たとい元の木阿弥をもって、仏の本来となす。作りものは壊れもの、あるいはなんにも身に付かず、妙とはありようです、これをもって本来尊としとなす。氷が溶けて方円の器にしたがう如く、法によってまさにここに落ち着く。われらが仲間です、仲間という取り付く島もなしです。かえっておのれを弁えぬ、一木一草まさにもって成り立つ、妙は元来無一物、法というてもとあるなし。是非善悪という時と所に拠るんです、見性するという、飢えた虎に身を投げ与えるに似て、こりゃもうどうしようもこうしようもないです、昨日あれば今日あるんですか、はあてそんな覚えもなくば、ただちにこれ。たとい性にまかせて身をつかう、仏というまったく自覚症状なし。すなわち仏です、他の追随を許さぬ、真似ることの不可能です。

一 見性する事かたしといふ。かたきにあらず、やすきにあらず、万物のよりつく所にあらず、是非に応して是非をはなれ、煩悩に応じて煩悩をはなれ、死して死せず、生じて生ぜず、見て見ず、聞きて聞かず、うごきてうごかず、ものをもとめてもとめず、とがをうけてうけず、因果におちておちず、凡夫は不及、菩薩も行じかたし、故に仏と云也。

一 迷ひては此身につかはれ、さとりてはこの身をつかふ。

これ実にまさにこのとおり、もっともここから入ろうたってまったくそうは行かないです、見性かたからず、やすからず、こりゃどうにもこうにもなんです、あるとき得る、得ればなおさら脱するにかたしですか、自分というおのれというすべてをかけて、はじめてわずかに開けるんです、にっちもさっちも行かなくなったときに、とつぜん見えるんですか、だからといって、それが答えなんてないです、答えを出さなくては迷妄、答えを出したらさらに迷妄、万物のよりつくところにあらず、是非に応じて是非をはなれ、煩悩に応じて煩悩をはなれる以外に方法はないです、ノウハウなしが仏ですか、自分というもとノウハウなしなんですか、取り付く島もなし、生死を明きらめというんでしょう、死して死せず、生きて生きずです。手つかずの工夫、まずはなんでもありのめっちゃくちゃ、ただもう坐るから入ってください、捨てるものなく習うものなし、なにしろひまさえあれば坐る、なにがどうなろうじゃない、よくなった工夫ができたなどいううちはさっぱりです、あるとき身心失せて、風景そのものになっている、そうしたら坐が坐になるんですか、すこしは楽になったんです、ようやく坐に勤しむんです。でなきゃな-んにもならんの、なんの取り柄もなし、とがを受けず因果に落ちずの、無自覚の覚です、凡夫も菩薩もなく、凡夫に返るがよいなどの分別心あっちゃ、ただもうみっともない恥さらしです。菩薩とはこれ、首くくる縄もなし年の暮れ、仏というたしかにあるにはあるんです、他の追随を許さず、いわんやおのれの追随を許さず。

さとりとは他なし。

仏の教えはなんのこともないというのに、悟り終わればただの人です、ただの人という悟らぬ人には意味がある、ただの人というまったくの無意味、なんにもないんです、だから仏はこうあるべき、何をどうしなけりゃならんということがない、しかも名に迷い、色に迷い、宝に迷いする間、ただの人にはなれないですか。仏として坐りほせることができない、仇なるものなんです、日々痛感するんでしょう、なにかしら屈託あれば、ただにあらず、真の坐にあらず、それがさしてのこともないのに、日々また繰り返す。なんというわしのようなどうしようもないものはと、日々に思うわけです。仏を願うには願うほかに道なし、願いのほど強ければ、却って強きに迷うんです、かたくなです。ただの人まさに元の木阿弥なのに、後はなんとかならんというだに覚束ないです、これ常住座臥、仏としてあるべく無上楽、如来としてあるべき、来たる如しのまったく無反省です。後先なしを知るこれ、日毎に損なう、すなわち日毎に成就ですか、出たり入ったりするんですか、さあこれをいったいどう答えます。面白いんでしょう。

名に迷う浮き世の中の大たわけ
わが名も知らぬものとなれかし
あっはっはまさに次の一瞬これ、そうであったかと気がついて、まるっきりあとかたなしは、いつかまた名にまよいする、おもしろおかしき鵜舟かな、うっふうそういうこってすか。

一 をのれを以て人を見るものなり。愚人の見るはをそろし。をのれに利欲あれば、人をも其心を以て見る也。色ふかきは色を以て見る也。聖賢の人にあらされは、見る事あやうし。大道人ありても、みしる人まれなり。いたつらにすたれり。かしこき人は、をのれにあはぬを、其人のしなをわけて、其人の心得をつかふ。その人すたらす。かりにもものの大将たらん人、心得あるへし。

一 ものをよせつけぬ事はやすし。もののよりつかぬ事はなりかたし。

一 たとへは火はものをこがす、水はものをうるほす。火は物をこがすと、其火はしらず、水は物をうるほすと、其水はしらず。ほとけはじひして、じひをしらず。

おのれを以て人を見るものなり、愚人はおそろしと、無心の人いやというほどに味あわされる、ヤフ-も2チャンネルも、ただもう自分のありようを人に貼り付けるだけですか、おのれに利欲あれば、人をも利欲もって見、色ふかきは色をもって見る、今の人事のほか浅薄で、ほとんど人格の形成がないんですか、おむつを代えて貰いながら、文句百万だら、なんにもしないで云うことだけはという、そりゃなんにもしなければ、なにを云っても同じです、これが自覚症状のないことがいちばん問題ですか。聖賢にあらざればという、自分というフィルタ-を通してしか、人は見ない、フィルタ-失せてなんにもないただの人を無心、心が無いんです、これを聖賢という。すなわち見ることあやうし、危険なんです、おのれの得手勝手にしか見ない。サミットだろうが大統領だろうが経済家だろうが、まずはそれです、国の利益がかかってはなをさらです、言い訳申し訳うまければ、なんとか間に合うという御都合主義は、一神教のお国柄ですか、あっはっはなにしろたまったもんじゃないです。賢き人は人の心得をわけて、その人の心得を使う、その人すたらずと、これ大人なり、ものの大将ならんと、はいまさにそのとおりです。肝に銘じてといって、すぐ忘れてしまうから、わしは大人ってわけには到底いかんです。わっはっは、しょっちゅう腹立てていますか、どうしようもないですね。

ものをよせつけぬことはやすし、めんどうだから口聞かぬ、もののよりつかぬ事はなりがたし、そうねえたいていだれもよりつかんです、しょうがないです、はい。

ほとけは慈悲して慈悲を知らず、知ったらぶっ転ぶんです。花のようにおのれを知らぬ人、ただこれ正解。万物またかくの如し。平和なる地球これ。

一 念のふかきはちくしゃう、念のうすくは人、念のなきはほとけ。

一 人はおろかなるものかな。法師のをしへて、念仏となへよ、ほとけになるといへは、尤もと請けて、念仏となへし人のみありて、そのほとけはいかやうなるものそととふ人なし。

念という思想哲学という、神を信ずるという、いずれ畜生なんです、固執して他に譲らず、同じ羽根の仲間を求めて、くじらとるなグリ-ンピ-スですか、これ畜生の七転八倒、傍迷惑どうしようもない独り善がりです、一神教というたいてい二千年来続いたこれ、その功罪をというより害悪甚だを、そろっと顧みるべきです。愛という平和博愛という、ちくしょうの戯れですか、魔女裁判に十字軍にと、ポルポト派に北朝鮮ですか、たいてい同じことの繰り返しのような気がします。念のうすきは人ということをまずもって知る、仏は念なしをもって、はじめて地球のお仲間入りです。西欧社会に仏教が行かないのは、風俗習慣の別ではなく、それをも含めた根本的な過ちがあります。無宗教がいいということではないです、無宗教は雑念です、今の日本人のほうが、なんたってこりゃもうろくでもないものの代表みたいな、つけを払わされているわけですが。空白世紀というには、あっはっはお先真暗ですか。

人は愚かなるものかな、念仏をとなえて仏になるという、座禅をして悟るという、だれかれ仏とは何かを問わず、悟りとは何かを問わず、悟った、無門関を卒業した、だからどうのとまるっきり仏というより、仏をひけらかす俗物です。俗物というと喜んだりする、なんという無様。だれかれ仏なし、修行という以て回っただけの無駄な時間を費やして、自分という目の子勘定に入れる、もってのほかというより、これなんぞ。坊主と同じに仏教のブの字も知らんです、ただもう情けないんですか。たった一度の人生です、真面目これなんぞ。

一 をのれがさほうみだるるとき、天よりかならずばちをうくる也。天下のぬしは、天下即家なり。国主は国即家なり。大小によらず、家の中の悪事は、あるしのとが也。天災をうくるなり。

一 清浄心はことはれるものなり。清浄もなくなりし処は、われならではしらぬなり。我しるうちは悪し。しらぬ所のしらぬに有。
一 さとりは念を滅却するを云ふ。念を以て身をなす。さとれば、いきなから身なし。

おのれが作法という、人みなに云うおのれが作法じゃないんです、それを云えばたいていの人作法乱れよこしまにして、その報いを受ける、天より必ず罰を受けます。悟ろう仏を知ろう、ほんとうに元へ帰ろう、帰家穏座しようという、まさにこれが原動力ですか、このままではどうにもならんと知る、天罰覿面を知るんです。そういう一00人のうちの一人ですか、たいていは天罰覿面もお茶を濁し、傍迷惑おのれ不健康不都合のまんま、棺桶へ入る様子です。人を見ればかくの如し、よって件の如しという、みんなで渡れば恐くない、現代という赤信号ですか。家の中の悪事は主の科なり、痛烈無比にまさに思う心が欲しいです。一人天災を受けねばぜんたい大天災を受ける、道徳の低下というより、もう少し根元的な問題です。大分の教育委員会どもよりも、葬式稼業の坊主よりも、まずもっておのれは如何にの問題です。みんな仲良く平和にという、いったいなんでそんなことを云う、自他をごまかす根本原因いかに、ただもう楽をしていたい、差別用語にひっかからない方法をという、自分で自分の首を締めているだけの、みっともなさ。

清浄心という、ことわりなんです、理屈でありことわるんです、もとそんなタガを填める必要はない、広大無辺です、せせこましいんです。清浄心という、心のめりはり緊張も実に欲しい世の中ですが、仏を志す人一歩抜きん出てください。清浄を狙って、清浄のなくなるときに、これを知るはおのれのみ。清浄という物差しがなくなれば、誰に云うわけにも行かず、おのれに納得させることも不可能です。なをかつこれを知る、境地という微塵もないんです。仏の姿悟りの境地という、学者の扱う便宜が失せてはじめておのれです。自由の分があります、我知るうちは悪しと、どこまで行っても知るしか能のない人、百ぺん生まれ変わって来てください、知らぬ所の知らぬに有り、これまさに仏、もと生まれついての地球の一員です。人間を脱し去ってはじめて人間。

悟りは念を滅却するを云う、これが大問題なんです、どこまで行っても、馬の夜目の如く、虎の欠けたるに似たりやってます。たといどんなに苦労したろうが、透過してください、でないと使い物にならんです。人の云いなりになっている、独坐大雄峰ができない、念を以て身をなす、はいこれが標準です。生きながら身なしということが、必ずあるんです、そうして初めて生活です、日々新に行くんです。みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ。

一 大道に入る人、たしかなる師にあはず、いろをくるしみ、宝をこのむをくるしむ、大きなるあやまりなり。大道を心かけん人は、万法のあくはみな身のなすわさとして、天外地外、古今未来、へだてなきものあり、これをよくしりて、その一をまもれは、をのつから身の業つきて清浄になること、うたかひなし。

一 人と生れては仏道つとむへし。外にあらず、その人に応してよきは、みなその身の仏のするわさなり。

大道他にはないたった一つのこの道です、大道長安に通ず、如何なるかこれ道、道は籬の外にあり、自分という囲う垣根を取っ払う、もとないものなんです、自分という架空をもって事に当たる、一切苦厄の根本原因です。確かなる師に会わぬ時は、大道を外に見る、別に示すんです、色の道はかくの如し、よくないいけないという、色即是空だからなにをどうせい、悟れば分かる、悟らぬは業深き故にとなず。自分知らなければ、あれこれ示すんです、知るゆえに示すんですか、知らぬが仏とは、即今即今、たった今のただこれです。宝を好むを苦しみという、だからおれはだめだなんのかんのと縛るんです、すると却ってかたくなです。そうではない自ずから手放すのは、却って宝を宝と知るんですか、美しい珍奇な蝶を見て、我を忘れてすばらしいんです、しかも我が物にあらずを知る、蝶は大空に舞い飛んで行くんです、するとものみな我が物、空という何一つ欠けたるものがないんです。この世の中たった一人であっても十二分です、良寛さんを理解した人ほんの一箇半分ですか、子供らと遊ぶ春日の暮れずともよし、自ずからなる無心非所有の世界です、なんでも手にとっておらあがんと記す。一を守ること忘我、ただこれのまったく他にはなし、こうあるべきこうすべきの延長上にはないんです。師に会うことは会うています、他なしにまっしぐらです。

人と生まれては仏道つとむべし、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり、もとこれを習う、身の仏これを助けおのずからに成ずる他なしを知り行く。

一 ある人大乗をとふ。予いはく、身をたたしくして、守る事なきを、大乗といふ。

一、最上乗をとふ。予いはく、身をほしきままにして、守る事なきをいふ。故に大事なり。かるがゆへに世にまれなるもの也。

ある人大乗を問う、大乗とは何か、身を正しくして守ることなきを大乗と云う、すばらしいです至道無難万歳、歴史上にそう何人もいないんですよ、しかもただの人。人の本来です、雪月花と同じ、地球のお仲間入りを果たした数少ない人。身をただしくしてとは、もってまわる所がないんです、真実はこうであるらしいが世間付和雷同、ものみなこうあるからこうあるべしなどいう、自分を売る卑怯未練がないんです。まったく今の人れっきとした大人から、若い元気もあるはずが、みなこれです、どうしようもこうしようもない、一民族滅びの過程ですか。そりゃそれでいい、一箇仏として生まれたら仏たるべし、それ以外になんの生き甲斐もないはず、人類滅びようが、花は花のように咲き、月は押し照る他になし、まっすぐあとさきなしです。しかも身を守ろう、心を正しくなどいういらんことをしないんです、自分といういらん囲いをしない、捨て去ってのみ本来です。これ捨身施虎仏の本来、無上楽と生まれてこれを知る即ち大乗です、知るとはまるっきり知らんのです。はいどうぞ。

最上乗という、これを得られねばついにこれを求める、身をほしいままにして守ることなき、坐禅はすなわちこれなんです、坐ってまさにこれ、自分こうあるべき、こうしちゃならんと徒らにする、それが失せるときに、菩提さった無上乗、知らぬが仏のニ-ルバ-ナです。たとい古来稀なり、微妙幽玄ちらともあれば至らずあれども、朝に晩に坐ってください。平和博愛宗教だのサミットだの無駄こと云わぬ人生です。どうぞ行じ尽くしてください、たった一つの威儀です、浮き世の縁尽きて、さっさとおさらばにいいです、如来現じ如来滅す、他には地球宇宙な-んもないです。

一 予が弟子に。いろいろ工夫とて、むつかしき事をこのむや。平常はみな仏、直に見、直に聞く。臨済禅師は、聴法無依の道人有り、無依をさとれはほとけも又無得とのたまへり。六祖大師は、応無所住而生其心を聞召して、さとりをひらきたまへり。

一 世の末になるといふ事、知る人まれなり。

釈迦如来の法、二千六百年余になり、日本にわたりて千年に及て、ことことくすたるにつけて、慥にしれり。万物のすたる本は、我智なり。智あるもの、大かた信すくなし。万事のもとは信なり。信のすたるもとは智なり。此智より何のみちもすたれり。是を世の末といひなり。大道はつとめてつとめぬ所にいたるはつよし。大かた、師の道をわがものにしてつとむるもの、まれなり。

いろいろ工夫して難しいことを好むとは、無門関逐一する、碧巌祿百則など、あたかもそれが仏の道だと思うには、なにかしら技術的に、あるいは心という剣術何段のような、物として他にひけらかす間接手段です。直かに我れと我が身心を持ちうるさえ覚束ない、といって元他にはないのに、そんなすっ裸は恥ずかしくって、恐くってできないという、本末転倒事ここに極まれりです。ただおのれ身心という、すなおに他なきものを、仏教という別ものに交換するんですか、でなきゃ世間体がない、飯食って行けない、なんというただもうそれです。弟子にあるいは他愛ない女にでも、法を説くと、必ず知ったか振り知識をもって答える、禅坊主は嫌いだの、あるいは変な心理学ですか、いずれてめえのよしあし、利害得失をもってしかしない。これを切るには呆然です、ほったらかすしかできない。聴法無依の道人となるべく、大力量ですか、知らぬから聞くはずが、知っているなにがなしに寸法を会わせる、すこぶるつき頭の悪いことを、却って智慧と呼び、すなわち筆記用具の足しにする、これじゃさっぱり応無所住而生其心にならんです、どこへ行こうがてめえの家を拵えて便宜に住む、悟りにも仏にもならんです。

世の末になるということ、わしの後には仏教なしということ、よくよく知る。
万物のすたれるもとは、我智なりと、自分を振り回す判断智慧です、まずもってこれが不備を知る、まったくの欠陥車を知ることが真っ先です。そういう人皆無です、たとい如来の言あったとて、それをあげつらいもって回ること百万だら、これを是とする、なんにもならん混乱と自己満足風ですか、答えにもならんのを得々とする、滑稽自堕落です、ほんとうの智慧が晦まされている、各人これを知るをもって、文明の夜明けなんです。我智無明黒闇です、何の道もすたれます、中小企業の習熟のすばらしさは、そりゃ我智によらんところです、日本の支えです、物がわかったってそれだけじゃなんにもならぬことを知ってください。ものみな信によって成り立つ、鳥の飛ぶのも雲の浮かぶのもです、水を飲むさえ飯を炊くさえ信です。信仰という以て回ったものじゃないんです、ただこれ無心です、あるとも云わずないとも云わず、恁麼ただこれです。大道はつとめてつとめぬ所に至る、臣は君に奉し子は父に順ずと、まさにただ他にはないんです。

一 大道行ふ人は何をもよく心得んといへり。予云、万法のもとなり。そのもとをしりて、わが家の法をたつる事なり。法師はほとけのほかは心得ぬもの也といへとも、くちなる人は、聞得る事なし。たとへは侍の道、我が家々の事なれとも、あまたはしる事かたかるへしといへとも、聞えぬ。あさまし。

大道という仏の道を知れば、すべてが解かるというのは、仏にならぬ人の想定ですか、そうあるべきという、ではオ-ルマイテイですか、元を知る、仏の道の他にはなんにも知らんというのがほんとうですか。わしはこの事の他なんにも知らんですと、テレビで老師が云って、まことに爽やかな思いがしたです、駒沢学者の大威張り、きらきらしいのとは似ても似つかぬ。すべてを捨てると、人間という自分という色気なしに物を見る、世間習熟の法とは反対ですか、さむらいの道とは他にさぶらう道ですか、すると却って物が見えるのが禍しますか、一目瞭然事、相対する以前に答えが出ています、愚かな人の、鏡におのれの姿を映し見る、あまたこれのあさましさ。

一 つねに逢ふ事ならぬ女に法語を書きてやる。

一 人は家を作りて居す。仏は人の身をやどとす。家のうちに亭主つねに居所あり。ほとけは人の心にすむなり。
一 じひにものことやはらかなれは、心明なり。心明なれは、仏あらはるるなり。

一 心を明にせんとおもはば坐禅して如来にちかすくへし。

一 くふうしてわが身のあくを如来にさらせよ。かくのことくつとむる事たしかなれは、仏になる事、うたかひなし。

年月日を書きてをくる。

ものごとやわらかという、めくじら立てないという、みなまた掌にあり、子宮とおのれと宇宙全体と、心明とは、心というあるいは体という、わがものにするなしをいう。如来ただここにこうあり、来たる如くです、花のように挨拶してください、そうして息付きする、ほかにまったく浮き世に用事はないんです、如来という如去という、女というんですか、それそのもの、仏というてまったくに仏です。

物に熟する、習熟するという、参禅ものみなこれです、忘れ去って行くほどに身に就く、投げ打って投げうって行くんです、ただもう坐る。なかなかそやつがただにならない、必ず損得勘定です、得たか得ないかとやる、苦労が実を結ぶのを願う、つまりこれあるうちは中途半端です、ただの人にならんです。せっかく大苦労の末に、ほんとにまあさんざくたをもっての故に、みな人の得がてにすとふうずみこ得たりですか、有頂天ですか、だからただの人にならんのです。大苦労のはてに元の木阿弥、なんにもならんは、およそだれも相手にしてくれないんですか、無理解あるいは敬遠のまっただ中です。無一物中無尽蔵、花あり月あり楼台ありという、たった一人まさにこれを知る、あほうの口なし、ぽけえとなんにもならんことは、たとい寒山拾得ですか、お仲間の一人でも欲しいんですか。淋しいたってそりゃ愚痴るなんてわけにゃ行かんですが、大丈夫かつかつ平仄もない詩でもひっかくですか。それもよし、慈悲という、わしにはさっぱりその心なし、あばずれほうけの、檀家にはなるたけ会いたくない、坊主組合見るもおぞましく、右を向いても左を向いても、猫またの世の中、鳥や草木や虫けらなんぞと、けっこう仲良く過ごしています。あいつら半分受け入れるってふうですか、閉じ込められた鬼やんまが、戸を開けるのを待ってだだをこねていたり、烏がなんのよしみかくそをひったりする、ふわあごめんだ、これ当分付き合わんなどでたらめ、あっはっはたいてい人はわしを避けるな。

 慈悲はみな菩薩のなせるわざなれば、
 身の禍の如何であるべき

は-いわしは被害妄想でびくついて暮らしていたり、うふ一呼吸二呼吸の間に忘れ去る特技がありますが、そりゃまひでえめに会いっぱなしは、身から出た錆のさ。

一 此道にあたる事、つよきあり、よわき有り。予わかきとき、つよくあたれり。ある時孔子のことはを見るに、天下国家をもじたひすへし、しゃくろくをもじたひすへし、やいはをもふみおとすへし、中庸は用かたしと云へり。我思ふに、まことなるかな、大道あたりよはくしては、我身のあくを何としてか去つくすへきや。

一 大きにほつしんして山にいらんとおもへる人にいはく、ありかたき御心さしなり。おこたりたまふな。たとへ山のをくなれはとて、うき世のほかならす。もとの心をはなれすは、住所かへたるはかりにて侍らんといひてよめる、

  心よりほかに入るへき山もなし
  しらぬ所をかくれかにして

この道に当たること強きありと、出家求道のこと何よりも第一にする、今でもわしはそうです、なんにもならずは元の木阿弥を思うにしろ、如来現じ如来滅する他に、思想という信ずべき筋合いはないです。生活も社会もほかなにもかも二の次三の次です、愛だの平和博愛だの余慶なことは考えんです、ただこれを本来本当にすること、天下国家も辞退すべき、爵禄も問題じゃない、刃もあるいは踏み落とすべしと、命より大切なものです。中庸という中道ですか、真実を知るほかにはなし、これをないがしろにしたら、一人の人生も他人の百生もないです。無明黒闇のたった一つの光明です、まずもっておのれを照らすことは、断じて以てするほかないです、いいかげん妥協の産物じゃそりゃ、仏の道に入るべきじゃないです。

大いに発心して山に篭もって修行しようという、ありがたいことじゃ、たいしたもんだ怠りたもうなと、しかも一首をはなむけするんです、こりゃ心の問題です、もと山も都会もないはず、住所を変えてそれでもって事足りたら、云う甲斐もなし。

  心より他に入るべき山もなし
  知らぬ所を隠れ家にして

ちゃんと真正面に目を向けてごらん、それではたして是か否か。おむつを替えて貰って文句百万だらの新成人ですか、現代風俗にしちゃ云う甲斐もなし、ちっとは人間の姿を。

一 ある友にいさなはれて、黒谷を過ぎ、清水のかたへおもむきしに、ひだりにほそき道あり、行きて見れば、かきまはらなるに、柴の戸ほそをおしひらきてみれは、をくにあれたるゆかのあたりは、ちりにうもれ、すたれにむくらしけり、あさけのけふりたえたえに、あかたなかたぶき、かうはなをたむくるにもあらず、仏とおほしくて、御手あしもかけそんし、それとも見わかず、仏となふる声うちしはがれ、よはひ五十にもやあまり侍らん、けたかく、いにしへよしある人のなれるはてとおほしきがひとり居て、いつくよりととひしに、このあたり過ぎかてにゆかしく思ひ、此草庵にたつねたるも、縁ふかきなるへし、いろいろものかたりなとし、いにしへ今の人のうへ、よしあしにつけて、とさまかうさまにほむるもそしるも、ともに世にとどまらず、ついのわかれをなげきて、みたのなをとなへ、ゆふへのかねを聞きて、けふもいのちつれなくいけるよとおもひけるとかたりけれは、ふとあはれもよほされて、

 世の中をおもひはなれてきくときは、
 いりあひのかねははまのまつかぜ

かきまはら、垣根もおそまつにまばらに、柴の戸を押し開いてみれば、奥に見える床は塵に埋もれ、簾はむぐら、よもぎややえむぐらに生い茂り、朝食の煙もあったりなかったりする、閼伽棚という水を通して桶に溜めるんですか、これも傾いたまんま、香や花を供えるにもあらず、仏らしいものが、手足も欠けてそれともわからず、念仏を唱える、五十あまりの人が、気高くむかしは身分のある人に相違なく、たった一人で住んでいた。どこからおいでなさったかと尋ねられて、この辺りを過ぎがてに、床しく思いこの草庵をお訪ねましたと云って、これもご縁といろいろ物語して、むかしの人や今の人や、よしあしにつけ、あれこれ誉め謗り、おたがいいつまで浮き世に留まるわけもなく、終いの別れを嘆いて、弥陀の名をとなえ、夕の鐘を聞いて、今日も命つれなく生きるよと云う、ふと哀れに思いて詠む、

  世の中を思ひ離れて聞くならば、
  入相の鐘は浜の松風

どうですかむかしの人のこのような暮らし振り、情けないみっともないと思いますか、まずは世のため人のためですか、なにかしら意味合いを見つけたい今の世ですか。わしはさっぱりそうは思わんです、かえってむかしの人のがっしりして撓みある心を思うです、情けない世間お騒がせなどしない、自殺もしないです、かつかつ食らうばかりに、おのれを失わないんです。しかも世の中を離れることあれば、自由自在の天地ありと示す、哀れきわまりなしの夕の鐘も、浜の松風です、虫けら一匹の生きる死ぬになんのけれん未練もあるか、月は月日は日です、今日の次は明日あっはっはまあそういうこってす。

一 人はかり、かしこからぬものはあらし。行住坐臥、くるしみかなしみ、むかしを忍び、しらぬ行末をなけき、ねたみそねみ、をのれを立ててもの思ふ、かなしみながら世にからめらるる。此世一生は、とやかくと過ぎぬへし。来来世世、生をかへかへてくるしめとも、捨つる事ならず。まことにまよひのふかきなり。

  じごくがきちくしゃうしゅらは世の中の
  ぼんぷのつねのすみかなりけり

一 仏の教のそのまますなほなるをうけて、じきに万物を放下して、如如の体になりて、大安楽をうくる事、更に別にあらず、身をおもふとおもはぬとの二つ也。此をしへも実にとおもふ人はあれとも、つとめて我物にする人かたし。

  本物の物となりたるしるしには
  をかす事なきみのとかとしれ

人ばかり賢こからぬものなしと、行住坐臥いつだって納まるということなし、いてもたってもいられないんです。苦しみ悲しみ、昔を忍び、知らぬ行く末を嘆き、妬み嫉み、なにしろおのれを立てて物を思う。嘆き悲しみながら世に搦め取られる、世の中に束縛されて、にっちもさっちも行かないんです、そんなことはない、自由で平等だ民主主義だという、どうも関係がないです、主義主張もです、いいことをしているから、信仰があるから、多数決だからという、まったく関係がないです。苦しみ悲しみ云々です、ないものまでこさえ立ててやっています、なんで鳥や獣のように、花や草木のように行かぬのか、おのれを立てて物を思う故にと、これを知るさえ難問なんですか、すべては自分なければ解消するという、では自分というそれが間違いだ、自分あるかぎり七転八倒、もうこりごりだといいながらに捨てられぬ。捨てる方法を知らない、せっかく坐禅をしながら、捨てずに得ようとする、それなんです、捨てろ取り去れといえば却ってしがみつく、そうして必ず前よりはちっとはましになったと云っている、そういう自分を後生大事なんです。生まれ変わり死に変わりしても同じ、迷いの深いことどうにもこうにもです、少しは思い当たること、仏の事始めです。もう今生の地獄餓鬼修羅畜生人間天上六道輪廻たらいまわしはごめんこうむると、通身に思い当たってください、自分をよりよくする、仏たらしむるんじゃないんです、そういうなんとかしようの自分をなげうつんです、ことは一瞬です、簡単なんです。

  地獄餓鬼畜生修羅は世の中の
  凡夫の常の住処なりけり

なんとしても抜け出してください。

仏の教えそのままを素直に受けて、万物を放下する、生まれ本来の無一物中無尽蔵に返るんです。ものみなわがものにあらずと知るときに、我れというこの身心も我がものにあらず、如如の体になる、如如をありのまんまという、ありのまんまなんてあるわけはない、仏教学者は如如ををまったく知らない、なんにもないはなんにもないんです。無心とは心が無いと読む、大安楽はちらともあれば不成立です、坐禅して仏とならずは、そりゃただの無駄骨折りです。世間知我欲のちらともあれば、涅槃ニ-ルバ-ナは現成しないんです、人々よくよく心してください。一瞬もこれありさえすれば、他人の百生をも救い得る、他人の百生がまるっきり障りにならんのです。ありのまんまなどお茶を濁したとて、なんの答えも出ないんです、答えの出ないのが正解だなど、見たふう聞いたふうを振り回す、百害あって一利なし。

  本来の物となりたる印には
  犯す事なき身の科と知れ

なにをどう犯そうたって犯されんのです、これを身の科を犯すことが無くなる物と知れ、と訳すのは間違いです、さあよく見てください。印下とは自ずからにです。どうぶったったこうが何しようがです。

一 出家は、内外打成一片とて、かたちのすくやかなるをいふなり。ひっきょう死人のいきかへることくなるを云ふ。死人は物をほしからず、人にこひせず、人をきらはず、大道成就して、人の是非をよく知り、その人をすすめて仏道にいたらするをいふなり。

一 世中の人のならひとして、めなれぬ物をねかふ。大道つとめて平常無事なる人、その道々によろしくすなほなるをきらふ。

一 ある人、平常大道つとめやうをとふに、いはく、凡夫即仏、ほとけとほんふともと一たいなり。しるを以て凡夫、しらさるを以てほとけと云ふなり。

出家は内外打成一片と、なにはなんたってこれをやらねば駄目です、心は内万物は外、心も万物も一つと考えてと、仏教学者は云う、主観と客観の対立をなくして云々、そういうこったでは百万年無駄骨折りです。学者布教師というのは奇妙なもので、知ってさえいれば役に立つと思う、つまりありがたやの銭金になるんですか、それじゃ反対なんです、そう云っている自分を木端微塵にしなけりゃ、入り口にも立てないです。でたらめめっちゃくちゃ、どうにもこうにもならんいくたび死ぬか生きるかして、はじめてなにかしら坐になるんです。自分はかくしてこうある、八正道だ正修行だやってるうちは、まるっきりものにならんです。老師はこういう、そのとおりやっているはずがさっぱりです、老師はないという、あると聞こえ四苦八苦、あるときどうにかせにゃならんの手が離れるんですか、ほうっとこう歩いている、どうなったんだこれは、自分というたがが外れて内も外もない、風景が風景を行く、へんだようという、そうか老師の云うことは正しかったんだと、ようやくに気がつく。すると坐が坐になっている、かすっともかすらない、太虚の洞然としてという、死人のよみがえる如くという、大死一番大活現成ですか、いったん死んだら二度と生き返らないんです、間違えちゃいかんですよ。踏ん反り返る師家なにがしですか、死人は物を欲しがらず、人に恋せず、人を嫌わずです、大道成就するとは彼岸に渡り切るんです。般若波羅蜜多ぱ-らみ-た-智慧とはこれ、おのれという身心まったくなきがゆえに、おのれなけりゃ人ものみなのありよう、鏡に映る如くです。汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝、同時というは不違なり、人間の如来は人間に同ぜるが如しです、宝鏡三枚これです、他をして仏道にいたらしめるのは、世の中仏道しかないからです。

人は目慣れぬ物を願う、お寺でストリップでもやりゃあテレビが取材に来る、坐禅修行をしてもそりゃ来ないです、珍しいことは売れる。求道心のない坊主なんて、ただのナンセンス、ところが坐禅を売り物にすると、人が寄る、嘘であり危険なんですか、世の中そういうことは問わないんでしょう。でもこれ平常無事しかないんです、雲が浮かび花が咲くごとく、宇宙のなりわいそのものです、仏は素直です。ものみな仏しかないんです。

凡夫も仏もまったく同じです、凡夫は悟りを云い迷いを云う、あるいはそんなものはいらないんだという。仏は悟りも迷いも知らず、要不要を問わないんです。知らぬが仏、は-いまったくこの意を凡夫は知らないんです、うっふっふ知っているんですか。そりゃ始末に悪いです。

   ゆめをとふ人に

  ねてもゆめをきても夢の世中を
  ゆめとしらねはゆめはさめけり

寝ても夢起きても夢の世の中を夢と知らねば夢は覚めけり

どういうことかわかりますか、人生五十年難波のことは夢のまた夢と、死ぬ時には人生もまた夢ですか。生きながらの平常心一年三百六十五日夢ですか、では夢が覚めたらいったい何ものなんですか。女子中学生が父親を刺したという、夢であればよかったと痛烈に思うんですか、刺している即夢なんですか、現実であればあるほど夢という、どうぞお答えください。

   あまた人をつかふに
  心得しみちにつかへはつかふ人の
  あやまることはつねになきなり

イチロ-にバッテイングをやらせればあやまることはないかというに、三割超えているあれほとんどあやまりがないんです、人力人知の究極みたいな所があります。たいていの仕事はもっと平常です、適材適所に人を使えばよし、仏の道は常に100%いえ200%当たるんですよ、一目瞭然木人まさに歌い石女立って舞う、むしろ思慮を入れんやとこれ、ものみな思いの他の事実です。

   もののふの道をたしなむ人に
  いきしにをのかれはてすはもののふの
  みちもかならすあやまるとしれ

生き死にを逃れはてずは武士の
道も必ず過ると知れ

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとはこれもののふの道、はがくれですか、老師を剣道七段が切ろうとして切れなかった、隙がないというんです、老師の云く、なに切りゃ切れるんですとさ、あっはっは。

   とせいをくるしむ人に
  世の中はふくべのしりになまずのを
  をすがごとくにわたるべらなり

瓢箪鯰です、瓢箪に鯰を捕えるようにするがよかろうという、各人どういうことかお考えください。今の人西欧式の論文等却って至らず隙だらけ、人為のものは届かずを知るによし、関係ないんですか、もっとも精確な論文は芭蕉の俳句、もっとも正当な評論は兼好法師のつれつれ草ですか、ともに人間としてのぎりぎりをさらに一歩超えて、優しく弁えがあります、あっはっは、仏として舌を巻いてばっかりはいられんです。

   仏道ありかたしといふ人に
  ものことに心とむなととくのりの
  法にこころをとむる人かな

物事に心留むなと解く法の
法に心を留むる人かな
はいこの公案を透過してください、わずかに自由の分があります。たとい坐はここからに始まりですか、仏仏を知らず、長長出させてください。

   しゐて仏をねかふ人に
  さかさまにあびじごくへはをつるとも
  仏になるとさらにおもふな

阿鼻叫喚という阿鼻地獄無間地獄八熱地獄の一ともいう、もうこれ以上の悲惨はないんですか、坐っていると気違いになるかも知れない、もう恐いどうしようもないってことあります、そういうときこそ一歩を進めるんです。狂うんなら狂え死ぬんなら死ねと、自分というたがが外れます、自分という思い込み、自分という架空が失せればもと仏、空の空なるかな、そうしてもって、自由の分ありとは、あらためて仏のたがをはめ込むことじゃないんです。

   大道のもとをとふ人に
  おもはねはおもはぬ物もなかりけり
  おもへはおもふものとなりけり

思わねば思わぬ物もなかりけり思えば思うものとなりけり

これ無心にしていれば無心ということすらなくなるなんていう、学者の愚をしちゃだめです、無心なんてものあるわけはないんです。無心心の無いことを知る、お坐なりじゃどうにもこうにもなんです、思わぬことができるか、ではやってごらんなさい、たしかにできますよ、ただじゃあただにならんですよ、どうあったって思い込み決め込み人形をする、どこまで行こうがこれです。さあどうするという、命がけの問題です、さあやってください、学者布教師坊主どもが逆立ちしたって、届かぬものです。初発心の問題ですか、法を得て一旗上げようという、すると思えば思うものでしかないんです。ひとまず人間を去ってください。

   大道聞得て行はぬ人に
  とく法に心のはなはひらけとも
  そのみとなれる人はまれなり

説く法に心の花は開けどもその実となれる人は稀なり

法を得たという人、たしかにこれ我がこと他にはなかったと知る人、あっちこっちいます、得たというそれっきりになってしまう、仏はこうだからこうだという、天才だというものみなかくの如くあるという、それは未だ認知の辺のことなんです。色即是空の色なんですよ、知らぬ人になってください、元の木阿弥です、虚空なんの取り柄もなし、わずかに鼻先頭のてっぺんで仏と云っている、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。日夜に弁道して怠らざること、心の花という実という雲泥の違いをどうか知ってください、相手は人間だけじゃないんです、とんぼも雀も空の雲も仏ですよ、ものみな各仏とは云わないんです、却ってまったく自覚症状なしは地球宇宙これ。

   じゅしゃに
  主に忠おやには孝をなすものと
  しらてするこそまことなりけれ

儒者に、主に忠親には孝を為すものと知らでするこそ真なりけれ。はいそういうことですたとい忠孝よきことなりと知るには、物差しをあてがって是非に及ぶは最低のこと。面白うもなし。

   直きに見直にきく事を
  主なくて見聞覚知する人を
  いきほとけとはこれをいふなり

物差し杓子定規を外せば人もとこれ仏です、三世の諸仏知らず、狸奴白虎却って知ると、仏あるいは仏教について知る人は、ほんとうは知る分が無知なんです、花のように知らぬこれ200%、虎の威を仮る狐の弁、人間だけがするもの、どうしようもないもの常識と云い、あるいは情識という、従うべきという、それが卑怯未練を知ってください。

   修行におもむく人に
  身のとがををのか心にしられては
  つみのむくひをいかてのかれん

身の科を己のが心に知られては罪の報いをいかで逃れん。修行とはまさにこれが他にはないんです、今の宗門故に修行なく仏教なく、仏のかけらもないです。猿芝居葬式稼業の無理無体、ただのいじめ僧堂です、こんなものは早くおしまいにすべきです。集団自閉症とマンガにもならぬ為体ですか、身のとがを知って、いかにすべきか、ついにとがなしを知る、これお釈迦さまの道です、もとこれ仏です。本来人これ、触れるだけでがっさり落ちるものは落ちる、仏法僧宝のみあって、即ち修行のみちのりです。

   さとりはならぬといふ人に
  さとらねは仏の縁はきるるなり
  一さいきょうはよみつくすとも

悟らねば仏の縁は切れるんです、たとい一切経は読み尽くすとも。だから門徒などいうのはほとんど仏教じゃないんです、言い訳教ともいうべき、自分という口幅ったいものをもって、救いといい救われるという、嘘とは云わぬまでも持って回って、たいていなんいもならんです。間違うと道にそれてひどい陰惨です、あるいはないにしくはなし。

   念仏行者に
  となへねばほとけもわれもなかりけり
  それこそそれよなむあみた仏と

念仏なみあむだぶつと唱えねば仏も我もなかりけり、そりゃそうなんです、仏という仏の道と知りこれを求めて止まぬ、なみあむだぶつと唱えれば仏なりという思い込みではなく、唱え唱えてやがて仏になるという、向こうに置いては百年河清を待つ、どこまで行こうが向こうの物は向こうなんです、なみあむだぶつという=仏です、たといおうと云いおうと応ずるも、あるいは応ぜぬも仏、まさにこれを知るたった一つの道です。念仏行者念仏を忘れ、行ずるを忘れ、ものみなぜんたいです、ぜんたいを知る、知らぬ人これ。

   ある人仏をねかひねて夢に見るも起きても仏のあたりにゐる心地するといふ人に

  おもふままになせはなりぬる心にて
  後世ねかふる人そはかなき

後世願うという、あるいは今の人仏を願い、悟りを思うこと寝ても覚めてもですか、あるいは仏となり悟ったという、いっときまたしばらくですか。たった今のおのれ仏にもあらず悟りにもあらず無心にもあらず有心にもあらず、満足にもあらず不満足にもあらず、ただ行きすぎる姿をも見ずです。このとき仏と呼ぶなく、日々新にして、たとい省みることなし、省みるおのれなし、思うままにしてください坐る200%ですよ。

   ごくらくをねがふ人に

  ごくらくの玉のうてなはほかになし
  いきなから身のうてなをしるへし

極楽の蓮の台という、では蓮の台に坐ってください、いっときよく清々として次には有耶無耶、なんともどうしようもないという。自分というふしだら問題にならん、今様歌も絵筆も持てない、たとい人間のくずあくたですか、くずあくたも次の一瞬有耶無耶ですか、無心ですか。自分というたとい物差しもあてがう甲斐なし。あっはっは情けなし蓮の台、ほんとうに美しいんですよ、お盆が来ますたった一日だけの花。彼岸に渡る花。

   法をとく法師に

  ころせころせわか身をころせころしはて
  なにもなきとき人のしとなれ

実にこういう人皆無です、仏教というもとありもしないものを知ったか振りして、なにしろ生噛り中途半端でとくとくとして法を説く人。法師というおのれどれだけの悪たれいたずらか思って見るにいいです。宗門の特派布教師という、もはやだれも聞こうとはせぬのに、教区お寺で人数を集めて語呂合わせをする、人畜無害でいいですか、自分で自分の首を締めているだけの。まずは問題の、人も聞き少しは影響力のあるという法師、さあやって来なさい、一目瞭然です、至らぬ分を指摘します、逃げないでお出でなさい、ないものには丸見えです。死んでいない=役に立たないんです。キリスト教の宣教師などとはまったく別なんです、個人個性の入る余地はないです。っでたらめやってないんです。

   道ををしへて

  でくるぼうをまはすは人のまはすなり
  人をまはすは一物もなし

木偶人形をでくるぼうというらしい、あやつり人形を廻すは人、猿回しが大好きな日本人は、木偶人形になって人に廻され、人を木偶人形にして廻して見せる、そりゃ滑稽でおのれをだしにして人を笑わせる分にはいいですか、でもどこかでそんなこっちゃない、無位の真人かくの如しと知るからに成り立つんです。宗門猿芝居法要という法の要はおろか、木偶人形になってただもうちんたか動く、みっともないです、愚かなこともはや人とは云えんです。威儀即仏法というのは無心なんです、省みるなし、省みるおのれがないんです、履き違えてます、仏教のぶ字もないんです。

   坐禅の大事

  せぬときの坐禅を人のしるならば
  なにかほとけのみちへだつらん

坐りもしないで坐ったという、悟りを得たと云う、もしそういうことならばなんの苦労もいらんです、ただの人とほんとうにただの人とそりゃ同じことになります。これを学者も坊主も坐禅を知らず、動中の禅だ、坐禅するときだけが坐禅でないなど、坐禅していないときの坐禅を人が悟れば、仏の道と人との隔てがなくなるなど、いい加減以ての外のことをいう、たとい百万回悟ったとて、坐らにゃそりゃなんにもならんのです、心して書物だの学者だののいうことにたぶらかされんでください、まったく近似値にもならんのです。坐らないで悟ったという、あるいはおれは悟っただからという、そうやって異を唱え、迷って山河の箇を隔てること、あっちにもこっちにも転がっています、たとい動中の禅無自覚の覚、なにかちらともあれば業障です、いえ近似値ほど悪いんです。

心のありようはたった一つ無心です、有心はうそです、間違いなんです。仏といい仏心といって、いかにもそれらしい慈悲であり博愛めかすとき、有心です、わざとした偽物なんです。一神教の神も有心です、事を起こして騒々しいんです、法王の就任演説が妄想にしか聞こえないのは、色即是空を知らない、いらぬお節介だからです。仏神天道という、あるいは世界の三大宗教という、せんずるところは同じ道という、そりゃまったくの俗説です。至道無難のたといみな共通の心だという思想にする、学者というなんにも知らぬ連中の我田引水です。思想の酒に酔うてはならぬことこれ仏戒、なんで至道無難ともあろう人がいろはのいをおろそかにするものか、本を書いてそれが売れりゃ、仏なぞ二の次三の次というみっともなさ、坊主の御布施稼業も同じです。無心を知ることあまりに遠いんです、困ったものです。

  なにもなき心をつねにまもる人は
  みのわさはひはきえはつるなり

なにもなき心とは、担いで帰れという無一物とはまったく違うんです、仏を習う人まずもってこれを知ってください、学者坊主も布教師も師家と云われる人も、ここがいい加減です、なんにもないということを夢にだも知らんです、なんにもないがあるんです。人の振り見てわが振り直せ、いえ本来の人に出会わぬかぎり、夢にも見ないことと思ってください、どこまで行こうが身のわざわいです。すなわち相対する人、あるいはものへのわざわいです、なんにもない人になってください、らちあかんとはこれ。仏を語ることなかれ。

   念仏行者に

  仏とは何ばかやつかいひそめて
  なもなきものにまよひこそすれ

仏とは何だかだ馬鹿厄介なことを云い出してからに、なんでもないことに足を掬われている。ほんとうにまあ門徒さんの説教は堂に入っている、なんだかだ馬鹿厄介に聞こえる、だのに日常茶飯が解決できないんですか。喫茶去に意味を持たせる禅坊主もそりゃ、目くそ鼻くそですか。一一にこれ他なしです。

   あまりによくふかき人に

  ぼんぷめらあまりにものなほしかりそ
  わが身さへわかものとならぬそよ

我身さえ我がものとならぬこと、欲深いだろうが無欲だろうが、たった一つ我と我が身心我がものにならぬ、それじゃなんにもならんです。どうですかこれ、まずもって他にはなし。大欲とはついにこれ、ただちに小欲すら修習すべしとは、ついにもって銘すべきなり。

   法師に

  衣はこくうになりてきれはきる
  坊主のきるははちうくるなり

衣は糞雑衣という、汚物を拭うて捨てたものを拾い集め、縫い合わせて使った、五条衣七条衣九条衣これです。お釈迦さまはじめ仏祖師方の労苦を忍んで大切にした。法を習い法を広める印が衣です、衣を着るとは身心脱落の印、虚空となり終わって初めて仏法僧宝です。ちらともあればそれによって過つ、嘘を付くんです、罪科これに過ぎたるはなし、俗の人罪軽し、法を説く法師まさに重し。責任重大です、心は両刃の刃です、坊主が衣を着る、格好を付けて猿芝居ですか、冬袈裟五十万円からという、罰が当たるという以外になし。

   仏道にちゑをきらふ事を

  人のうへわか身につけていろいろの
  あしきに出つるちゑと知るへし

智慧という本来心です、愚の如く魯の如くただよく相続するを主中の主と名ずくと、般若の智慧はパ-ラミ-タ-彼岸に渡ることです、自ら作為してもってする知恵というのとは違います。人の辺我身につけていろいろの悪知恵もってする、いよいよ仏に遠いばかりです、今の世まさにこの愚直から始めるにいいです、多数決売らんかなですか、あまりに悪知恵ばかりですか、すると自分の足をさらうばかりです。

   りんざいのうへに

  をのれめかはかいのひくとなる事は
  仏祖をころすむくひなりけり

己めが破壊の比丘=僧となることは仏祖を殺す報いなりけり。仏祖を殺すとは、まったく仏祖の影響を受けない人になることです。生まれ本来のおのれに立ち返る、仏祖という虎の威を仮る狐を脱する、先生の云う通りに出来たということではなんにもならぬ、先生をないがしろにすることですか、仏の道のみこれを云う、門より入るものは家珍にあらず、もとあるものにしか用はないんです、仏祖を殺した報いを受けてください、人の物差しによらないとは、人の物差しさえ使いえて妙、責任重大です。如来の一言覆すべからず、仏を殺した報い歴然は、たとい業火の燃え盛る如くです。だれの慰めも受けないんです、仏祖の頭なでなでなんてないんですよ、一神教と違うんです、さあどうぞ。

   後世ねかふ人に

  死て後を仏と人やおもふらん
  いきなからなき身をしらすして

生きながらなき身、なんにもないという担いで帰れじゃないんです、なんにもないを知る人、わしは七十年の生涯にあるいはたった三人しか知りません。だのに大小の師家法師ども仏を云々し悟りをあげつらい、死んだ後をまた云う、云うはしからに嘘なんです、どこかで自分もそれを知っている、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風をいとはず、響きがないんです、はったりばかりの二枚舌。

   りんざいののたまひし聞物を

  耳も聞かず心もきかず身も聞かず
  聞くものの聞くをそれと知るへし

臨済です、無位の真人面門に現ず、智慧愚痴般若に通ずと、いったいどこにその無位の真人があるのかと出て来た僧の、胸ぐらひっとらえてこのあほんだれがと突き放す。呆然自失の僧に、傍らの人がなんで礼拝しないんだと云う、この僧礼拝している最中に、はあっと気が付くんです。耳も聞かず心も聞かず身も聞かずです、聞いているという自覚がないんです、自覚のある間は嘘っことです、わかりますか、聞いていると弁える分が余計です。聞くものの聞くをそれと知る、たった一つになり終わる、全世界掌するんです。まさにこういうことがあります、聞くものの聞くということ、学者坊主どものまったく預かり知らぬことです。

   まよひふかき人に

  をのか身にはかさるるをはしらずして
  きつねたぬきをおそれぬるかな

おのれに化かされるのも知らないで、狐狸を恐れる、欲深い人です、欲によって化かされる自分=人間俗物ですか。俗物と云われて仏は俗人であるべきだといって喜んでいる人、愚かな話です。仏と云われたいという欲深いことは、なにからなにまで化かされ、死ぬまでそれが修行していると思い込む。喜劇役者はさらりとしてますが、俗物さえ知らぬという重ったるいんですか。

   草木国土悉皆成仏

  草木も国土もさらになかりけり
  ほとけといふもなほなかりけり

はいこのように修行してください、ちらともあれば日々に失い去ってください、首くくる縄もなし年の暮れ、ほかに仏のありようとてないのです、以無所得故に修菩薩行、ほかは我慢の七転八倒です。あっはっはいつのまにかえらくなっているんですか。

   つみをくるしむ人に

  思ふままにこのみにつみをつくらせて
  ちこくの中へつきおとすへし

罪に苦しむ者には罪の底をぶち抜くによし、やってごらんなさい、たとい平凡上等の人も悪いことはしない罪を背負わないという人も、万死に値するなにがなしの一つや二つあります。もし本当に見るならば、断じて許せない、自分を是とはしない、生きられないってことあります、しかも生きています、さあどうするというのが、あるいは参禅です。知らぬまに自分を閉ざす、仏である我れに反する、いえ反することが出来ないんですか、いたずらに七足八足です。面と向き会うこと、地獄の中へ突き落とすことこれ、よくよくおのれというものを見てください、おのれという掌するに、なんの謂れもないんですか、さあぶち抜くによし、いったい誰か、これに答えるものありやなしや。

   出山のしゃかのうへに

  ひたすらに身は死にはてていき残る
  ものを仏と名はつけにけり

智慧を尽くし修行を尽くすんでしょう、あれこれ記述するんじゃないんです、すべては尽くされたり肉は悲しという西欧流じゃないんです、いいことしいの甘え根性ではない、まったくそんなこっちゃないです。一箇半分これをよく看取ってください、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきと、月は月花は昔の花ながら見るもののものになりにけるかなと。ヨ-ロッパアメリカにはまだ仏教は伝わっていません、鈴木大拙が大変な苦労の末にその困難を知る、小浜の雪渓老師でさえ或いは届かなかった。どこまで行っても有心なんです、信ずるものは救われる、いいことしいの頭なでなでです、独善です、無心という夢にだも見ない。インドの聖者どもの脳天気な猿芝居ですか、お釈迦さまとは似ても似つかぬ、なんていうんですかこれ、まったくに詐欺なんです。そういうことではないんです、仏というあとにもさきにもたった一つです、道元禅師以来本当に得た人は、そう数多くはいないです。出山の釈迦の辺に、臘八接心にはこれを掛けます、まずもって人類滅亡前に、人の生きたしるしとして得てください、有意義とはこれをおいてないです。至道無難正受と継いで、はたして白隠に伝わったかどうか、飯田とう陰老師が只管打坐を復活したです、由来どうにかこうにか伝わっております。

   しらて法をとく法師に

  をのか身のとがをもしらてとく法を
  聞得る人もをなしちくしゃう

学者坊主のだいたいこんなふうとか、本当は知らずとも遠からずなどいうのは、まったく違うんです、仏を説く畜生です。仏を知らず説かぬ人の万増倍も悪いんですか、どうしようもこうしようもないんですよ、水をタ-ルと説く如く、これをあれと云い、奪い取らねばならぬのを、付けたし塗りたくる、そりゃもうとんでもないことです。四苦八苦ひどい目に会わないように。浜砂の一握にも及かぬ正師に会う僥倖、これを大事にしてください。

   後は人の師とならん人に

  無一物になりぬるときに何事も
  とかにならぬと見るそかなしき

無一物となりおわる時に、いいですか如来観音さまです、するとおのれを如来とし観音さまだと云うことないんです、成り終わって無一物とは直ちに悲しいだけです。身に科なきは科をも責めず科をなくすることさえ是としないんです、生まれついての本来です、人みな凡俗という妄想という、凡俗だろうが妄想だろうが、だれをも自然のものみなをも傷つけないです。害意敵意は無知による、我がままによる不自由、水の中の氷です。一目瞭然事、忍耐もなく我慢もなく十字街頭です、磔という他に見せしめもないです。無いものは傷つかないという、ただこの道理あるだけです、しかもたった一人なんでしょう、一休の他に一休なく、良寛を知る貞心尼も、君なくば千たび百たびつけりとも十つつ十を百と知らじおや。その絶学無位の閑道人たることを、かつがつに知るんです。ついには如何ともし難し。

   心のおにをとふ人に

  世中の人はしらぬにとかあれは
  わかみをせむるわかこころかな

科あれば我身を責めるという、たいていの人正しくそうです、世の中の人は知らぬに科あれば我身を責むる我が心かな。けだし実感なんでしょう、夫が癌で死ぬのに看病し尽くして身も心もずたずたになって、しかも死んだあとに愛情が足りなかった、行き届かなかったと我身を責める妻。鬼です。どうしたらよいか、忘れるにはどうしたらよいか、坐ってください、救いがあるかも知れぬと。坐ってなおさら我身を責める、泣きたいだけ泣きなさい、仏さまの警策です、二度と同じ苦しみはない、同じ苦しみもまた変わるんですと。

   われなれはこそじひすると思ひし人に

  つねつねに心にかけてするじひは
  じひのむくひをうけてくるしむ

自他ともになんです、これを知るずいぶん仏に近いです、今の人慈悲というすら知らないんですか、みんな仲良く平和にという、ただもう自己弁護の安穏しかない、そう云いながら極悪のことさらに平気でやる。心以前の問題ばかりですか、成人していない、おむつを替えて貰いながら文句百万だらです、こういう大勢にどうしたらよいか、もしくは社会刑罰の問題ですか、目には目をから習うべしと、我と我が身心にじかに聞く以外にないです、観念有耶無耶の試験問題からまず目覚める。慈悲を心がける人、必ず慈悲を勘定に入れる、しっぺ返しを食うわけです、そうですなあ人間になってからの心配ですか、はいでは心配とはいったいなんです。

   ある法師に

  さとりても身より心をしはりなは
  とけさるうちはほんふなりけり

悟っても身より心を縛りなば解けざるうちは凡夫なりけり。おおかたまあこういう師家法師ばかりです。自分で自分を縛る、ちらともけい礙あれば、それにて不自由です、だれ知らずとも自分が知っています、夢にも見ぬ本来があります、自由無礙です、これを得るためにあっはっは釈迦力になってください、地位だの名誉だの、仏の為人を説得せねばなど二の次三の次です、なにごとかなすにつけ過つんです。云っていることは同じではないか、正しいではないかという、仏から見ると泥で泥を洗うような間違いです、凡夫でいいではないかという、断じてそんなことはないです。誤魔化したってごまかし切れんです。

   大道のかたきを

  世の中の人のかたきはほかになし
  思ふわか身はわかかたきなり

応無所住而生其心という、身心まったくなきを知る、すると無いという身心があるんですか、まったくないとはものみなです、宇宙全体というときなにかしら宇宙とあるんです。風動幔動という、それを見ている自分があるときに、やっぱり繋げる駒伏せる鼠です、自分が承知しています、とことん納得してください。いいわるい、是か非かを云わなくなります、閃電光撃石火、眼流星に似てと古人のいう、打てば響くんですか、一瞬の滞りもない、生まれついての本来人です、仇持ちしていないんですよ。

   物をくるしむ人に

  何事も修行とおもひする人は
  身のくるしみはきえはつるなり

参禅とはまさにこのようにするんです、結果こうあらねばならぬという、たしかにそういうことあります、でももとっこ標準なんです、朝に晩に坐って悟入し悟出する。身の苦しみ心の苦しみ、あるいはこれ生活自体です、あるときよくあるときわるくという、もと標準なしです。自ずからに知るとは、まったく知らぬ自在底です、一生を通じて実にこれ、故郷の山河大地ですか、月を見て忘我あり、星とともに覚悟ありする、ただもうこれっきりとは、もとほんとうにこれっきりなんです。

   道をしへけるに

  道といふことはにまよふことなかれ
  あさゆふおのかなすわさとしれ

道本元円通、道というただ大手を広げるだけです、道は籬の外にあり、垣根の外にある、なんの変哲もないアスファルトの道ですか、そうかと云って気がつく。道という特別なものはなかったんだ、ただの現実ほこりまるけのでこぼこ道。あるいは自分という、道を追い求めるは、すなわち閉ざされたものです、自分という囲いを外す、垣根をとっぱらう、求めていたものがもとまったくなかったんです、解決済みです、全体はるかに塵芥を絶す、ほこりまるけが信じられぬほどの清々です、清々の埒外です。我が問うは大道なり大道通長安。朝夕おのがなすわざと知れ、閉ざすも閉ざさぬもない、ただこれうち坐る、他にはないことは、他に求めるということしなければもとこれっきり、いいのわるいのないんです、すると無上楽。

   あまたに道を尋ぬる人に

  いろいろのをしへにまよふ法の道
  しらすはもとの物となるへし

知らなきゃもとのおのれきり、はい根も葉もないこれが仏です、仏道というただこれっこっきりです、仏教多種あり、宗派ありする、すべてまったくの間違いです、そんなものに用はないんです。鳥や獣の仏を説いてごらんなさい、山や川に仏教を示してごらんなさい、鳥が逃げて行かず、山川がそっくりにわがものです、清々比較を絶するんです。禅宗も門徒もなくキリストもマホメットも騒がしくうるさったいだけです。絵画も詩歌も別段のことはないです、我ら底無しのすばらしい世界に住んでいます、無心という尽くせども尽くし得ない心です。多数に道を尋ねる貧相ですか、そんなものおぎゃあと生まれて、まったくに余計なお世話。子供は三つまでに親の恩を返すという、ほんとうにそう思います。大人という貧相です、いいえ赤ん坊のほうが大人であったりする、おかしなこれ本末転倒事。

   むなんかつねをとふ人に

  月も月花もむかしのはななから
  みるもののものになりにけるかな

至道無難これです、花は花月は昔の月ながら見る者の物になりにけるかな。はいなり終わってください。まったくに夢にも見ぬ世界があります。

   生死をとふ人に

  いきて居る物をたしかにしりにけり
  なけとわらへと只なにもなし

生きている実感というんでしょう、自分というものに確かめるものこれ嘘なんです、実感を確かめるものがないとは100%実感です、夢のようです、ほんとうであればあるほどに夢。一年365日夢とはこれです、幼児の記憶がないのはあるいは正にこれです。泣けど笑えど只なにもなし、忘れもしないというのは、どこかに別口があるんです。

  死て後をたしかにおもひしりにけり
  只なにもなしなきものもなし

死んだのちはどうなるかという、生死別段のことなし、まったく変わりのない実感があります、それは自分というものがないからです、ないという担いで帰れじゃない、だから死ぬと同じなんです。これ人間の、いえものみなの生の実感なんです、実感まったくなしのただ、もとのありようです、生死という思い込みを離れること。

   応無所住而生其心

  すみ所なきを心のしるへにて
  そのしなしなにまかせぬるかな

身心脱落というんでしょう、ほんとうにそれが行なわれるさま、観察する自分がないんですよ、一念起こってこれを知る、その間のことまったくないんです。デビットというアメリカ人がいて、投擲の選手であった、あるとき投げ終わってから、始めて投げたことを知る、州のハイスク-ル記録を作った。大学へ入っていったいどういうことかと調べると、どうも東洋の禅らしい、海を渡って日本へやってきた、あっちこっち食わせものの師家に出会い、明きらめずに老師のもとへ来た、面白い男だった、ついに確かめ得て帰る。これがどういうことか、もとこれっきりなんですよ、学者坊主の儲け口なんてないです、人生生死もとこれっきり、哲学宗教詩歌なとみなもとこれっきり、身も蓋もないんです、よくよく知ってください。

   生死即涅槃

  生死もしらぬ所になをつけて
  ねはんといふもいふはかりなり

生死というんでしょう、生はよし死はわるしといつのまにか決め込んでいる、生死といって楽しい苦しいあざなえる縄の如しと思う、そりゃ暑いときには涼しいがいいんでしょう、病気のときには健康を願う、でもそれ比較検討することなければ、ずいぶん違うんです。死来たれば死がよろしく、地震来たれば地震がよろしくと良寛さんの言葉です、他にはないんです、比較してとやこうあげつらうしかない。涅槃もそうですか、実際の涅槃は出入の周辺に知る、涅槃のとき無心です、箇の無体験ですか、しかもなをなにものにも変えがたいと思うのは、自分という100%いえ200%だからです。生死を知るとは生死そのものじゃないんです、脇見運転ですか、われらはなにものであるか、知るにはほんとうに知ってください。でなきゃなんのための人生なんです、いつだって嘘偽りを、強いてそれでいいんだ、人なんていつだって悟ってるんだだからなど云っている、つまらんです。

   仏をとふ人に

  世中の人の心のかなしきは
  なきをたつぬる仏なりけり

もとないんですよ、なんにもないのを仏というんです、なんにもないからものみな現ずるんです。実感というおのれが関わらないんです、仏を求めておのれが関わろうとする、哀れはかなし、いっそなんにもいいことがないんです、どうか痛切にこれを知ってください。

  いかにせんわれらさへしらぬものなれは
  ひとにをしへんことのはもなし

正師と邪師を見分ける方法です、実にはっきりしています、仏は仏としてこうあるきりです、知ったか振りがなにもない人、仏説というもってまわったことをしない、すなわち一目瞭然です、仏をたぶらかすこと不可能です。

   たるまのうへに

  いかにしてこれほとうそをつきぬらん
  さりとてはなきさとりなりしを

悟り終わって悟りなし、これをほんとうに知る人がいかに少ないか、無一物中無尽蔵花あり月あり楼台ありというさえに、なにかしらあると思い込む。老師に食ってかかったことがあった、あるあると云うからあると思って来たのに、な-んだなんにもないんじゃないかと、しかもそれまだあったことに気がつく、なにゆえですか老師の苦笑。

   念仏行者に

  みた仏のちかひのあみはひろけれと
  われからもるる人そはかなき

南阿弥陀仏と唱えるんでしょう、唱えている人と唱えられている物とあるんですか、あるいは唱えるがあって、期待する人がいるんですか、漏れるとはこういうことです。阿弥陀仏という、そういうものがあるんですか、有り難いとはないことですか、誓いとは阿弥陀仏になることですか、それとも阿弥陀仏の云うことを聞くんですか、するとどこかで漏れる、漏れないようにするにはどうしたらいいか、我というものを忘れる以外にないんです、唱名とはほんとうに唱名すれば終わり。

   己身弥陀唯心浄土

  一すちになみあみた仏ととなふれは
  ほとけも見えず身もなかりけり

大きな念珠を十人二十人でつまぐってなむあみだぶつなむあみだぶつと百万回唱えることがあった。忘我に入るんです、これが修行の本来であり、言い訳申し訳ただもううるさったいきりの門徒物知らずじゃなかったはずです。今は禅宗もまったく滅んだと云い条、門徒もだらしなく悪たれです。双方とも焚書坑儒にいいですか、世の中ちったあさっぱりします。

   趙州和尚因僧問云狗子
   還仏性有也無州云無

  無といふもあたら詞のさはりかな
  むともおもはぬときそむとなる

わしらのお寺の新入りさんにはホ-ホケキョと鳴いてみな、蛙のかあでいいからという、鳴ければお経がさまになります、鳴けないとそういうのどだいお経って云わないです。自分という裏腹ありの猿芝居、らごじゃあるまいしってわけです。らごお釈迦さまの息子、転じてお寺の子、世襲になって四代仏とはなんの関わりもなくなったです。あっはっはお寺を不法に乗っ取っているわけですか、出家が邪魔物なんですってさ。座禅という商売道具を、てめえの修行の為にする以ての外。

  趙州の無といはれしはおほつかな
  いかにとしてもしられさりしを

無というからすでに有るんです、無というものみな無のレッテルを貼る、もとそんなわけにゃゆかんです。これを知る人いつの世にも一人二人はいるんですか、さて知るということがただこれ日常茶飯を、どんな実智慧よりも真実不虚底抜けなんです。仏の一人二人たしかにいつの浮き世にあります、ぜひ行き合うてください、ほかに人生に意義はないんです。あっはっは会いながらにそっぽを向いている罰当たり、情けないですか、あとまた生まれ変わり死に変わりって、そんなおろかなことないです。

   庭前柏樹子

  草木も国土もおなし法の道
  実ありかたきをしへなりけり

常に法の大海にどっぷり浸けです、だからなにもしなくていいんだという、ではほんとうになにもしないでください、それができない、不幸これに尽きたるはなし。なんだかだと泳ぎ出しては、かき汚しごみあくた、ろくでもない騒々しい世の中を作る。反省もなければ自覚症状もなし、一人半分庭前の柏樹子の真剣にぶち当たってください。人ものみなの救い他にはないんです。まさに反省も自覚症状もなし。

   麻三斤

  仏はととへは答ふる麻三斤
  なにかほとけの名にもれぬへき

何を仏と云っても漏れることはないという、俗物はだからわしらものみな仏なんだ、このまんまでいいという、このまんまじゃさっぱりよくもなんともないのを、一朝事あれば痛烈に知る、いったん破家散宅しなけりゃどうにもならんですか。それゆえに学者坊主ども仏を棚に上げて安楽椅子やってるだけです、大威張りかいています、安楽椅子ってまあそういうもんですか、仏を問うつもりの世間一般もまずはこの類です。夢にも見ないところです、無心という手応えを知る、赤ん坊とお釈迦さまです、音でいえば雷の落ちる如く、色でいえば世界のはて通身これ、目で聞き耳で見るのたとえ、いったいまさにこれを得てください。

   あるとき真実なる人に

  本来はをしへもならすならはれす
  しらねはしらすしれはしられす

真実というんでしょう、仏教以外には真実を知らずという、仏教のいう真実はかくの如し、本来は教えもならず習はれず知らねば知らず知れば知られず。どういうことかというにもと真実なんです、もと本来であるとき、これを教えてもこれを習うのも間が抜けてます、

醒覚する、気がつくんです、悟る他にはなんにもならんです。自分を知るという、知る自分と知られる自分の二分裂では、そりゃ届かんです。無心じゃないんです、無心とは心が無いと読む、どうですか能書したってしょうがないでしょう、悟りというものがあるわけじゃないんです。直かに知ってください。首くくる縄もなし年の暮れ、貧乏も底抜けですかあっはっは、でもってどうにか物の役に立ちます。

   ある人道をとふ

  松風をあさの衣にとちつけて
  月をまくらに波のさむしろ

松風を麻の衣に綴じつけて月を枕に波のさ筵

まあそういうこったで味わってみてください

  ほとけはととへはまよはぬ人そなき
  をのかこころと知る人もかな

仏はと問えば迷わぬ人もなき、おのが心と知る人もがな。
おのれの心と知るとは、死んで死んで死にきって=比較検討聞いたふうなこと物差し勘定を抛つんです、人間を止めることです、よってもって思いのままにするわざぞよき=ただです、手付かずなんですよ、どうかこれを得てください、人生まさに他にはないんです、取り付く島もなし。

  のりの道ふかくたつぬる人あらは
  あさき所にのこる物なり

趙州因に僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄と。州答えて云く、汝が問うは真髄にあらずして、皮袋にあらずやと。どうです、よくよく証左してみてください。浅き所に残る物なり、はいこれと知るときにまったく離れます、仏というあとかたもなきを、四智円明の月ですか、たとい聞いた風な物が消え失せるときです。

   法語

一 身の外は仏なり。たとへはこくうのことし。かるかゆへに、ゐはいのうへに帰空と書くなり。
一 常に何もおもはぬは、仏のけいこなり。
一 なにもおもはぬ物から、なにもかもするかよし。

  生きなから死人となりてなりはてて
  おもひのままにするわさそよき

 諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽、此歌のこころなり。

法語は法を語る、坊主どもの嘘八百は自分がまったく法に外れているのに、法語し香語する、ただのお経猿芝居を法要という、なんともこれ救いようがないです。身の外は仏なりと、参禅は外に向かってしなさいとわしは云う、もし内と外とあるならです。坐ろうが坐るまいが内のあるはずがないんです、自分の内なんて見えないです、自分を観察することもできないし、自分というものがないんです、あるではないかという、あるという思い込みなんです、外は虚空です、内も虚空です、位牌に帰空と書く、あるいはただ空と書く、もとの姿に帰ったということです。間違えておのれの所有のものと思っていた、死んだらおのれの物なしおのれなし、もとから身心なし、仏とはこれ、我というよこしまを去る。

常に何も思わぬは仏の稽古なりと、たとい妄想百般ももとなんにも思わぬと同じです、妄想思念するおのれを観察しないんです、出たら出っぱなし、無心です、仏という心の無い姿です。常に何も思わぬ、仏の稽古なりと、他に仏教というものないんです、だれかれ他になにかあると思っている、だからおれはという、騒々しいです、稽古を一歩進めてください。

何も思わぬものから、なにもかもするがよし、はいこれが正解なんです、やってごらんなさい、これができる人皆無ですか、優れたスポ-ツ選手にたまにいますか、剣の達人などもしやおのれを100%使い切るのはこれです。無心心無しという、先入観念無しのオ-ルマイティです、もっとも技量は習熟する必要があります、生活はただこれ、常にまったく新しいゆえに生き甲斐ですか、生え抜きですか、思いのままにするわざぞよきです。

諸行無常とは、いくらこう決めてこうあるべきだといったってそうはならない、だから面白いんです、是生滅法、生まれりゃ滅するんです、エントロピイは増大するという、増大宇宙か縮小宇宙かという、もと我らはこれを知っているはず、ただとはこれです。生滅滅己、おのれというその上のよこしまを滅するんです、すると万法の中の万法です、涅槃無上楽です、なにものもこれを欠くことができない、不増不減不垢不浄不生不滅です、不生の人と盤珪禅師の云うこれ、一目瞭然事です。

   神道をとふ人に

一 たかまがはらは、人の身なり。神とまるは、むねのうちあきらかなるをいふ。

高天ヶ原は人の身なり、神止まるは、胸のうち明きらかなるを云うと、どうですか、まったくこのとおりですから、確かめてみてください、確かめるとは忘れ去ることです、もとこうあるっきり、ちらともわだかまりあれば、物の役に立たず。

   仏道をとふ人に

一 天命、性と云ふ。身の外は天也。むねのうちなにもなきは、天より命じたると也。即性と云ふ。性次第にするを道といふなり。

天命を性という、性、本性ですか、もとのありようこれ天命、はいまったくそのとおりです、それを我儘勝手よこしまにして、自分といい自分の思い個性といい、もしくは天分の才といい、利用し助長し他にひけらかすというんでしょう、よくみてごらんなさい、なにか自分という中途半端です、もと天命本性をけちって小出しにしている様子です。胸の内なにもなきは、天より命じたることなりと。100%信じ切ってとは忘我なんです、性次第にする、自分というけちな小出しですか、そやつを抛って思いのままにする、これを道と云うと、仏の道他にはなし。

   出家精進をとふ人に
一 出家精進をするは、五辛(にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、しょうが)酒肉を以て気血甚しき故に、むねのうち清からず。是一。有情皆我友也。是二。君臣父子夫婦兄弟朋友、なにものか魚鳥にへんせん(生まれ変わり死に変わりする)をしらず。これらを以ていむなり。

はいまことにそのとおりです、申し訳ありません。戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、仏遺教経にあります、はいそのとおりだと思うです、わっはっは。

一 ある人、民をなつけん事をとふ人に云く、かわきに水をあたへ、寒きに衣をあたへ、飢に食をあたへは、民なつくへし。

民が懐く法は、渇きに水を与え、寒さに衣を与え、飢えに食を与えれば、民懐くべしという、みんな仲良く平和にというのとどうもたいてい違うんですよ、自己満足は卑しいことです。火中の栗を拾わぬ人、云うこと云えばいいという、現代病ですか、老いも若きもです。

一 少将にてをはせし人、厳子に世をゆつられしとき、
 第一 慈悲
 第二 無欲
 第三 万依怙なく
 此三言をもって国を治めよと也。ものをよまでも心をあきらめられししりしなり。

一に慈悲二に無欲三に依怙贔屓なくという、親が子に接することこれ、どうもさっぱり忘れられています、ゼニカネと生活の他に基本があるはず、心というもののありよう、習い覚えのものではないはず。心をもって心に対する、ほかに説くなし。

一 釈迦にしゃかなし、法なし、教なし、ならひなし。
これを妙と名つけて妙法をとき、
阿字と名つけて真言をとき、
仏と名つけてあみたきゃうをとき、
四十九年一字不説とのたまふ。根本なき故也。元来ここはいふ事ならず。かるがゆえに此一字はとかれず。これを得道を禅といふなり。

不説の一字を得てください。

一 道を修する人、千万人に一人も、道を知る人ありとも、わかものにする人なし。わか物にする人あれとも、それをすつる人なし。

捨ててください、自分を押さえ込まないんですよ、飽きる欲しい嫌だ切ない口惜しいいえなにもかも使ってぶち抜いて、これを得てわがものにして、ついには捨ててください。もとこうできあがっているんです、安楽椅子なんかないです、一瞬もとどまらない、さあてついにはどうなるか、正に新たなり。

47 2008年08月12日 07:17 neo◆u12SwCEviQ
一 大名高家に生まる事さへ世にまれなり。過去にて能くよく慈悲をなし、功徳をして、今世に大名高家、そのしなしな、因果をあらはすなり。たまたま大名に生まれては、我意にまかせ、いろいろのあくをし、むかしよりあさましくなるへし。あはれなり。ある人、我に問ふ、生れ替る事慥かなるや。予云、生国はいつくぞ。かれいはく、西国。又とふ、その生まれし所に行きて見たまへといへは、いかにも行きて、我もとのやしき居所、今目前にありといふ。予云、只今身ありやととへは、なにもなしと云ふ。ここにて心得たまへ。その身死すれは、思ふ所にととまるなり。さひこくへつまはしきせさるうちに念行く也。只今これへはなにのためにをはするそ。かれいはく、法のため。予云、法のためには寺へ来る。色をこのめは遊女を尋ねて行く。常にきたなき心あれは、ちくしゃうにかたちをうつす。きれいにじひ心あれは、人に生る。うたかふ事なかれ。念は方々へ行く。仏といふは、かしこへも行かず、ここにも居らず、一念もなし、こくうと一たいなり。かれたしかに心得て去る。

生まれ替わり死に替わりする輪廻転生ですか、ようもわからんですが、生まれ替わって出直して来いと云いたくなることままあります、またよほど前生の因縁がよかったと思える人、悪かったと思える人がいます、過去において慈悲し徳を積むという、すれば大名高家にも生まれ変わるなど、大名高家に生まれても、悪の限りを尽くしてという、哀れなりということ世間体これです。ダライラマのように生まれ替わって出生する、またそれを覚えることありという、そりゃそういうこともあるかも知れんです。ほんとうに仏の生まれ変わりという、そんな人に出会うこともあります。めったら苦労しても得られぬ人、まっしぐらに得る人、そりゃ現世の理屈はあるんですが、にもましてすっきりと並みならぬ生まれと思えるんです。わしはよっぽどろくでもない生まれか、せっかくの前世因縁もよこしまないがしろにして、年月かけてかつがつに仏如来を知る、申し訳なかったと心底思うものです。前のありようと云えば、特別なことはないです、茂みあり川あり山あり、人ありする単純な場面だけです。同じなんですよ、たといいつの世だって、たった今の目前のようになつかしいです、わがものです。ちくしょうに生まれたくないです、鳥獣ではない、でたらめです。思想の酒に溺れ、勝手な主義主張、信心宗教、あるいは共産中国のそれは成れの果てですか、きれいに慈悲あれば人に生まれると、我という中途半端思い上がりをしないんです。疑うことなかれと、仏というあれやこれやないんです、念思い込みは方々に行く、仏というはかしこへも行かず、ここにもおらず、一念もなし、身心もなし、虚空と同じです、思い込み人生じゃないんです、生生世世を尽くしてとは何か、いまだ至らずということです。

48 2008年08月13日 07:16 neo◆u12SwCEviQ
一 火のあたりはあつし。水のあたりはひややかなり。大道人のあたりへよれは、身の悪きゆるなり。これを道人といふ。そつじに道人といふ、おそろしき事なり。

火の辺りは熱い、水の辺りは冷ややかだ、大道人の辺りに寄れば、身の悪は消える、これを道人という、率爾に道人というは、恐ろしいことだ。老師はそばへ寄るだけで、外れるものはがっさり外れるからなあと、わしの弟子が云った、ほんとうにそうだった、当時のわしとはたいへんな違いだった。観念をもって知り、ものごと華やかにする、まったく別のこと、ほどけば仏の、仏という、触れるものみな脱落する、救いなんです、悟った、だからどうなという五万といる連中、恐ろしいということをまずもって知ってください、軽はずみにもてあそぶことなかれ、取り返しの付かぬことをしちゃいかんです。

  我庵門徒中に法度之事
一 坊主は天地の大極悪也。所作無くして渡世す大盗人也。
一 修行果満ちて人の師とならんとき、天地之重宝也。万渡世の師のみ有り。大道の師まれなり。
一 一紙半銭、をろそかにする事なかれ。
一 平常、身をつつましやかにして、身のためにする事なかれ。法てき仏てきは身なり。
一 人よりものをうくる事、毒薬とおもへ。大道成就之時、人のをしむものをうくへし。其人をたすくるゆへなり。
一 修行之内、人にうたれふまるるとき、過去にてわがなす業つくると悦ふへし。
一 一夜をあかすとも、亭主のきる物かる事なかれ。すみによりかかりてふすへし。大かたはふくすに入れて持ちて行くへし。やくそくの日、あめ雪にも行くへし。
一 大道成就せさるうち、女をちかつくへからず。
一 心さしなき家にとまるへからず。
 右九ケ条常にまもるへし。外は古徳の語にあり。

一 坊主は天地の大極悪なり、為すことなくて世を渡る、大泥棒なり、お経を読むとはいったいなにごとか、お経が何かの役に立つ仕事か、よくよく顧みるべき、田んぼの蛙のほうがよっぽどましだとは道元禅師の語。

一 修行仏果満ちて人の師となる、天地の重宝なり。世渡りのための師だけあって、大道の師は希なり。
一 一紙半銭おろそかにすることなかれ、はい。
一 常に身をつつましくして、我身の為にすることなかれ、法の敵仏の敵は我が身なり。
一 人よりものを受けること毒薬と思え、無心無身の修行、なんにもないを得るための身心に物を受ける、毒薬これ。大道成就のときは、すべからく奪え、彼がもっとも大切なものを奪え、なんにもないというものからなんにもないを奪え、金持ちには大金を乗っけろ、重みでぶっつぶれると、はいこれ。

一 修行中に人に打たれ踏まれることは、過去にておのれなす業が消えると思って喜べ。たしかにそういうことなんです。
一 一夜を明かすとも亭主の着る物を借りてはならぬ、すみに寄りかかって寝ること。大体の物は行鉢、風呂敷に入れて持ち歩くこと。約束の日には雨が降っても雪が降っても行く。

一 大道成就せざるうちは、女を近つけてはいけない。女に負けること必定。
一 志なき家には泊まるべからず。
49 2008年08月14日 07:20 neo◆u12SwCEviQ
一 人に、をしへかたき事あり。行住坐臥、直きに是大道、愚なる人はやすしと思ひ、たまたま本心見る事あれとも、つねになれなれし道にかよふ心つよし。

人に教え難きことありと、仏教であり悟りであり、身心無しといい、自他の垣根が外れるという、なにせ大道通長安手段あり形ありする時分は、これを求めたまたま得ることあるんです。するとたいていそこで終わって、だからおれはと開き直るんです、するとそりゃ元の木阿弥です、悟りという幽霊を見、仏教というあるはずもないもの=妄想に振り回されるんです。俗物なんですよ、俗物と云えば却って我が意を得たりというほどに、観念倒れ、どうしようもこうしようもないです。教えがたきは、行住坐臥直きにこれ大道、ほんとう本来の元の木阿弥です。自分という如来を見てようやく修行という時に、まさにもってなおざりにするんです。愚かな人はたやすいと思う、もとこれがこれだからという、たまたま本心に触れても、世の中のなあなあ馴れ合いに帰ってしまう、おれもいっぱしのというほどに、なんの役にも立たないんです。つねになれなれし道から外れること、畢生の大事これなんです、此岸を離れて彼岸に渡る、赤貧洗うが如くにしてください、本心もとよりなにごとも得ることないんです。どんな人よりもまるでなっていないでめちゃくちゃというがほどに、無常定めなきに身をさらす、捨身施虎です。取り柄なし、強いていえば毎日が修行ですか、至りえ帰り来たってとも云わんのです、赤ん坊のようにまっさらの毎日、そりゃどうしようもこうしようもないです、ただこれ得たといい、仏をいう思い上がりを切るんです。

50 2008年08月15日 07:14 neo◆u12SwCEviQ 一 人にをしへかたきあり、世智の過ぎたる人。

世間智の過ぎたる人、常識情識のまんまそのたがを外れることができないんです、仏の道さえ情識の延長上にある人、こりゃなかなか救い切れんです、弟子にウイトゲンシュタインですか哲学からやってきたのがいて、なかなか坐ってもらちあかん、おまえ止めたほうがいいよ、キリスト教の牧師にでもなったほうが早いといったが、三年四年がんばってます、これを得てドイツに布教に行くんだという、すればそれも情識なんです、どこかで自分という衣を脱ぎ捨てる必要がある、まずまっさきにそれです、単純な生まれついてでいい、それをヤフーだの2チャンネルだのいう人、終始情識のとりこでだからおれはいいんだと、頭なでなでしてるばっかりです、いかにもらしいことを云い、いつか悟り終わってるとうそぶく、なんにもならんことは女子供さえ一目瞭然なんです。

一 人にをしへかたきあり、富貴を好む人。

これは奪い取り、脱し去りして行く、仏道を習うつど富貴になる人がいます、人に説くべき材料豊富、あるいは判断に優れと、しだいに偉い人になるんですか、しかもそれが仏教、仏の道に反することだとは夢にも思わないんです、脳天気というか、仏教をただただおのれ自堕落の弁護に使い、ほかをやっつけ騒々しいんです、これも一目瞭然です、近ずかぬことほっておきゃいいです。あるいは富貴には富貴を、うんと褒めりゃおのれ気がつくんですか、馬鹿らしいってほどにですか。
51 2008年08月16日 09:10 neo◆u12SwCEviQ 一 大道、心かくるには、あしき友を去るへし。

悪しき友とは、一に坊主ですか、二に布教師仏教学者どもですか、この連中はどうしようもこうしようもないです、思想の酒に溺れるもの、宗教の毒に感染するもの、つまりは十重禁戒、仏戒にもとるものみなこれ悪です、だらしない人、色欲に溺れる人、あるいは道徳観念一辺倒とか、世にいわゆる先生という観念倒れとか、さまざまある中に若しおのれが得道のものなれば、だれとも付き合うがいいです、触れるものみな解き放つ。

一 ある人、さとりのもとをとふ、よしあしをしるがもとなり。

はいその通りです、よしあし、是非善悪を知ってはじめて大道を求める、そうでなけりゃそりゃなんにもならんです、犬畜生にも劣ると云われて、犬畜生の仏性を知る、云わく無というときに、是非善悪を卒業し得るんです、横滑りは不可です。学者物知りはそりゃいつまでたっても学者物知りです、情けないったら生まれ変わっておいでと云うがほどに。

一 我心をいかかして見んといふ人に
  色このむこころにかへて思へたた
  見る物は誰そ聞く物は誰そ

心はたった一つ、たった一つの心がたった一つの心を見ることは不可能、にもかかわらずたいていの人が、自分という心が見えていいのわるいの、色好みだの剛直だの云っているんです、まったくの嘘八です、嘘に振り回されて、ではこいつをどうにかしようという、信仰道徳刑務所みなまた間違い、人間を捻じ曲げるためにあり、平和を祈願して戦争に突入する如く、たとえて云えば共産中国の狂犬病じみたどうしようもなさですか、人みな根本に於いて省みるべきです、省みるにおのれなし、省みる心なし、無心です、無いものは傷つかず金剛不壊、これを仏如来です。
52 2008年08月17日 08:27 neo◆u12SwCEviQ
一 ありかたき事をおもふ。これほど下部まて何院かいんといへとも、王といふ字をのそく。

そういう世相時代であったんでしょう、差別撤廃なぞ云っている今の世も実はたいして変わらんです、より曖昧で複雑になっているきりの不都合、てめんことっきりのぜにかねですか、責任逃れいい訳申し訳の世の中。赤ん坊は王様です、はいあなたも王様、心という上下四ゆいなく生まれついての無限大です、王である自覚無自覚のはい責任を取ってください、ありがたきことこれ。

一 その道道のかしこき人にたつねは、よろしかるへし。法師を俗よりよしあしをえらふ、法師より俗のよしあしを云ふ、あらましはしるへし、いたりてはおほつかなし。むかし、わかき時、人ののたまひしをきくに、鐙に名のおほきをおもふに、武士の我家の事さへ、いたりてははかりかたし。ましてわか家にあらぬ事は、おほつかなし。

その道のエックスパートに聞けばたいがいのことはよろしくと、法師、道を説く人も世間の噂ですか、どうもさっぱりあてにならんです、法師も世間人のよしあしを云う、そりゃま世間人だからですか、至り得るにしたがいわけがわからないんです、世間のことは世間に任せというがほどに、源氏物語がよし、お釈迦さまはどうなという、瀬戸内寂聴の文化勲章ですか、世の恥みたいな、うふふ世の中が恥を掻くんですか、鐙に名というのは、馬具というより軒瓦に鐙の形したものを用いて、その家の紋章を示すという、武士という家門のことですか、平民はたいてい明治を過ぎても問題にならなかったり、でも我が家はこうこう、従いかくあるべしといってプライドを持ったにしろ、若い時いっときはなるほどってことがあった、至りてははかりがたしと、そりゃどの道でもそうです、弓の名人が弓を忘れて、まさにもって本物になるたとえ、わがことさえわからず、ましてや他人ことなぞというにおよんで、ようやく大人ですか、そりゃ世間常識、ヤフーだの2チャンネル人新成人どもの、ちっとは煎じ薬あっはっは。
53 2008年08月18日 07:16 neo◆u12SwCEviQ
一 予が弟子、死霊を弔ふ事を問ふ。第一、身を消し、心をけし、しゅぎやう成就して弔へは、うかふ也。年老、色の念なくても、心にうつるうちは、とふらひてもうかふ事なし。必す無念にして弔へは、悪霊もうかふなり。此道成就する人には、たしかなるしるしあり。むかふ時、男女共に悪念消ゆるなり。これを道人といふ。

死霊を弔うこと、葬式法事の根幹ですか、いえなによろずものに処するこれ以外になし、身心共に失せて始めてものみなに触れるんです、身も心もありとはよこしまにするんです、もとなんにもないものを我という架空に囲う、するとなにやっても、我というだけです、我田引水です、平和と云えば戦争、博愛と云えばほかを思い通りにする、支離滅裂の世の中ですか、どうにもこうにもすっきりしない、浮かぶ瀬がないんです。必ず無念にして弔えと、でなけりゃひっかきまわし、かき汚すだけです。このことよくよく肝に銘じてください、肝というもの失せて、もと身に就くを知る、これを道人という、対するとき男女ともに悪念消えるなりと、悪霊をも解き放つんです。ただもう坐ってものみなと同生同死底ですよ。目的ただこれのみを知ってください、無上楽。

一 しゃか如来の御心をさして、道心といふ。御かたちを出家といふ。御さほうを乞食といふ。仏法すたりはてしも、ことはりなり。寺につかふ下坊主を道心と呼ひ、非人を乞食といふ。二つの御名は、筆にし及はぬいやしきものにゆつりぬ。今一残る出家は、身のなきをいふ。天下に誰か身のなくなる人あらんや。

お釈迦さまの道は今も昔もまったく同じです、その心を道心と云い、その形を出家と云い、その作法を乞食と云う。仏法廃り果ててもこれ理りなりと。たとい現実生活管理社会、良寛五合庵は無理という、だが良寛五合庵がもっともたやすいんです、乞食には違いぬといえ、離れるにしたがい余計です、七面倒です。坊主という非人という、筆舌に尽くし難い卑しいものになり終わって、しかも仏の名を語る、これは心の崩壊です、心理学病理学上の問題ですか、金襴に塗り固め猿芝居の、ごんずい塊集団自閉症です、今一つ残るは身のなきを云う、天下に誰か身のなくなる人あらんやと、一箇半箇を求めています、無心無身の人。
54 2008年08月19日 07:11 neo◆u12SwCEviQ
一 衣をきるほとの人、必す女のあたりへよるへからず。いかに身のあやまらすとも、心にうつるなり。故に女にちかつくは、かならず畜生のけいこなり。老僧の女をいむは、ちくしゃうの心残る故なり。

女のあたりへよるべからず、女犯です、身にあやまらずとも心にふれるなりと、色香というのは抗いがたく打ち勝ちがたいんですか、なら別に女犯なぞと云わずにやってみればいい、たしかに妄想思い込みの世界です、それなくばたいてい物もおったったんですか、即物的面倒くさってほどの、至道無難さんだって、子をなし一家をなした人の、別にどうってこたないのは百も承知、しかもちくしょうの心残るなりというのは、女を断つからってことあるかも知れぬ、女=優しいもの、我が物というには畜生の心残るんですか、あっはっは女優しいもののほうが荷厄介だったり、そりゃどうもこうもならんとこあって三十六計逃げるにしかず=女ですか。一休さんは逃げなかった、どうにもこれがめったやたらを透過する、裏を見せ表を見せて散る落ち葉ですか。衣をきるほどの人、必ず女のあたりへよるべからず=けだし正解です。女を抱いてしかも億劫年の遠くにある人、始めて仏を得べし、なんにもないとはなんにもないんです、ちらともありゃ畜生また人間。
55 2008年08月22日 07:16 neo◆u12SwCEviQ
一 人は名と装束にて、位にのほる。ひてよしは、尾州あつたの宮より五十町へだて、中村と云ふ、かや屋わつかに三十ほとある所の、あさましき下人の子也。天ちくにも、大唐にも、日本にも、これのみの御人なり。実にありかたき事なり。兵法も軍法もしろしめさて、大てきをかたふけたまふ事、風に草のなびくがことし。武士の氏神たるへしと、ある高家ののたまひしを、けにもと思へり。

秀吉のことはまだ生々しい現実で、名もなく装束もなく位人身を極めた破天荒のすがたを、げにもと思うありさま、息付き通へるが如くですか。

一 もろこしに、となり家くつれて、其内の女さむしとて、ふところに入れてふす。もろこしにもかかるめいよのおとこなれはこそ、書きととむれ。我師ゆあひたまへるに、女うしろより前にいたりて、のこらずあらふ。これもわが国にめつらしからんと思ふ。

湯浴みです、入浴したときに、女がうしろより前にいたりて、残らず洗う。隣の家つぶれて、女が寒いというので、ふところに入れて寝た人があるという、セックスのなんの下世話のことなしです、我慢の子じゃなくって、さらりとかくの如くができますか、おのれ仏というんならやってごらんなさい。是非善悪のほかのことですよ。

一 たとへは栗をうへれは栗の木生す。人のたねは白露なり。故に年老ても、法に心ざしなければ、心に絶えず。利欲は色をかさらんがためなり。りよくはなはたしきは、主君をころし、をやをころす事、たしかなり。

栗を植えれば栗が生える。人はもとまっさらです、だれが生んだからどうなるなんてことないんです。法に志なければ、年老いても妄想まるけ、まっさらに帰ることができない。利欲は色を飾るためのもの、利欲はなはだしければ、主君を殺し、親を殺す。たとい今の世のでたらめ殺人、めったら犯罪も、妄想に振り回されの思い込みによるんです、情状酌量などまったく不要のことを知ってください。
56 2008年08月23日 09:54 neo◆u12SwCEviQ
一 維摩居士は、一度に二三百人をさとらせたまふ。大唐の六祖大師は、柴をうりて渡世したまひしが、如来のときおかせたまふ、何もなき所より出る心は万事によしと、人のよみけるを聞召して、直に御心ひらけりと、今にいひつたへ侍る。さては物をしらてもなる事とおもひ、何もなき心をたうとみ、よくよくおもへは、いたつらに色をこのみ宝をのそむは身なりけりと、如来仰せられしなり。さて身のなきやうのをしへをひろめたまふ。我人、身死て後ならては身はなくなるましとおもひしに、常は身のなき事を、たれもたれもしる事なり。ほとけのをしへはやすくしてすなほなりと心得て、人にもかたれは、ものしりは、なにとて不学にてならんやとて、聞き入れぬなり。心ある人は、ありかたしといふて悦ぶ。

維摩居士はお釈迦さま在世のころの、在家の菩薩、いっぺんに二、三百人を悟らせたという。水因あり、十六人いっぺんに悟ったということもある、身心失せること別段なし、もと身心なし、たがの外れるように、応無所住、而生其心と、目に一丁字もなかった六祖禅師が、人の金剛経を読むのを聞いて、これがありようを知る。なにもなきを尊び、よくよく思えば、いたずらに色を好み宝を望むは、身なりけりと、あるはずもない架空の身心のために七転八倒する、如夢幻泡影です。これを知りこれを広めること、如来の道人本来のありようです。身死んでのちでなくてはなくならないと思う、百人が百人そう思っている、思い違い悪習慣です、常は身のなきこと、心なきこと、だれもだれも実は知る、それによってものごとが成り立ってます。心は心が見えない、一つ心が見えるはずもない、身という架空の囲いのたがを外れると、本来本当のありようです、自由無碍、学問だのおためごかしではない、単なる実際です、心ある人はありがたいと云って喜ぶ、ものごと人生人間一般にほかの道はないんです、仏というなんにもなしに帰するだけ。
57 2008年08月24日 10:42 neo◆u12SwCEviQ
一 をかしき事なから、むかし、なに人にてかあらん、かまくら殿のまへにて、めつらしきものをうけて、道もて行くに、子ともあつまり、それたまへといへは、とらせて行となん。中々なりかたき事と、かしらふり、めにしはよせて、うちうなつく。われも人も思ひ入てかんしける所に、いとわかき人、何をかんしけるとて、ふところより餅とりいたしてあたへたり。折ふしはらふくれ、くはすして、われもまたふところへ入れている所へ、人きたりて、なににても食せはやと云ひけるに、とり出し、かれにあたへてくはせり。かれも悦ひ、われもよしと思ふにつけて、たしかにおもひあたれり。なにもなき心からなすわさは、むかひもわれもよしとおもふ。これやほとけならん、しらず。

鎌倉殿、西行法師が頼朝に銀の猫を与えられて、それを門前に遊ぶ子供にやったという故事だそうです。まあとやこうのこと、あとさきなく仕出かすこと、今の世の人極度に困難だったりします、やれどうの我はどうのト書き能書きうるさったいほどに、単純な一つことが単純に出来ない、つまりはなにもかもあやしげにつまらなくしてしまう。曖昧な顔くっつけて生きている男ども、オリンピックにゃ勝てないですかあっはっは、一生はたとい生まれ変わり死に変わりでも、おのれみそなわすものたったの一度です、

九のまり十まりつきてつきをさむ十つつ十を百と知りせば
君なくば千たび百たびつけりとも十つつ十を百と知らじをや
まり一つつけない、これを人生と云いうるか、死んでも死にきれないとは、あんまり情けなや、どうか坐ってください、人生を我が物にしてください、もともと我が物なんです、借り物人のものじゃないんです。
58 2008年08月25日 07:12 neo◆u12SwCEviQ
一 ある人のかたりしは、心経を人のよみてきかせらりし中に、かたちをなくせよと仰せらりしなり。さてもありかたきをしへかな。人はしらず、我たしかにおもひあたりてしる事なり。むかし、朝夕、ふうきを好み、身もやすらかに、子ともにあたへんと、わかきときよりおもひつめて、くるしみ奉公して、主君の御心にかなひ、また家の年老ぬる心にもちかはぬやふにと、仏神にもいのりしが、たた今すきとなくなりたり。今まて身をよくせんと思ひし故なり。釈迦如来の仰のことし。身をおもはねは大あんらく也、こくらくなり。仏のおん、いよいよふかし。さてまた常にたのむ人のあたりへ行きぬれは、いつより心安くまへちかくよひ、今まてはその方なにとやらんものむつかしかりつるが、今はなに心もなしと、ほめられしなり。わかむねあんらくなれは、人も見しれりと思へり。

ある人、心経、般若心経です、そこに形をなくせとあった、さてもありがたき教えかなと云う。人のことは知らず、おのれは朝夕富貴を好み、身を安らかにして、子に少しでも残そうとて、若いころから、苦しみ奉公して、主君の心にかない、家の年寄りの心にも違わぬようにと、神仏に祈って一途に努めて来たが、ただ今すっきりした。今までは身をよくしようとばかり思って来た。釈迦如来の仰せられること、身を思わねば大安楽なり、極楽なり、仏の恩いよいよ深し。でもって常頼む人のもとに行けば、もそっと近うよれとて、今までお前さんは気難しいようであったが、今はなにごともなし、気心もいらぬと云って褒められた。おのれ安楽なれば、人も見知れりと思えりと。はいまことにこのようです、ちらとも解ければ、人が寄って来ますよ、自縄自縛の縄のはしくれを自分と思い違えて、なにをあくせく、仏はほどけ、解き終わればもと仏。まずもっておのれのトゲを抜いてください、従い人生なんです。仏を云いながら仏にあらずじゃ、どうしようもないんですよ。
59 2008年08月26日 07:12 neo◆u12SwCEviQ
一 物しり坊主、あるとき予にむかひていふ、その方も禅と聞く、禅も十色なとをおへて禅といひかたし。予無言にして居す。つらつら思ふに、あさましき事なり。大道元来知るはあたまるといふ事をしらず。常に学に苦しみ、覚にくるしみ、己をたかふりて、とかあり。

  物しりは仏に遠くなるみかた
  しらぬはちきにみのおはり也

物知り坊主ですか、仏教につく、禅をやろうという、坊主にかぎらずたいてはこの類です、絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずとは、大道元来知るはあやまるということを知らず、常に学に苦しみ、覚に苦しみ、己をたかぶりて、咎あり。仏もとほどけば仏を、追及し、是非善悪のまな板の上に載せてどうのこうのです、悟ったといえばどこまで行っても、はたして悟ったか、これは違うんではないかといい、悟り得たと思うからに昂ぶるんです、なにをどうやったろうが収まりがつかぬ、これをもって咎というんです、氷です、ものみなも人もよけて通る。十色とは、五根五境のこと、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法という、もとのありようを手に入れるんですか、身心脱落ですか、それを終えたたころで禅とは云い難しという、終えるとはいったいどういうこったですか、いったいまあ仏に出会って仏が見えぬとは何事、自分の仏教でいっぱいになってなんいも見えぬ、気がつかないんです、坊主組合では、仏に出会うとみんあでよったくって爪弾きする、でないと商売が成り立たない、達磨さんに毒を盛る連中ですか、こんなの咎というより燃えないごみの日ですよ。

物知りは仏に遠く鳴海潟
知らぬは直きに美濃尾張

それを知らずば身の終わりですか、知らぬ人身をも心も知らねばおしまいってもとより終わり、鳴り物入りの鳴海潟ですか、美濃尾張と美しい肥沃の地ですか、うっふっふ好きだねえ。
60 2008年08月27日 09:53 neo◆u12SwCEviQ
一 ある人、つねのつとめやうをとふ。予いはく、人々、心におそるへし。主君はゆるす事あり。心にみつけられしとかは、ゆるしなし。

常の勤めようとは、お経をあげ托鉢をし行い清ますこといかようかというんではない、下士官一兵卒を問うているんではないです、常のありようなにほど勤しむべし、主君は許すことあり、生きてゆくための何事かは、たとい許されもしようが、心に見つけられし科は許しなし、心=人間とはそういうものです、今の人新成人のわけのわからん、中高年の曖昧な面ぶらさげて、云うことは百万だら云う、しかもどうやら人間というにはすっきりしない、なんでもありありのさっぱり信用ならんです、心のこれをないがしろに、おろそかにするからです、心の科許すに許されぬ、このことあってはじめて一個です、参禅はこれ故になんです、でなけりゃなんにもならんです、一寸もゆるがせに出来ぬもの、これ元来仏。

一 本来をしへの外なれは、せんかたなし。しゃか如来、妙法とのたまひしも、大きなるあやまりなり。
 ある老尼、心経の註のこまやかなるを持来り、是をみれとも、むかしの人ののたまひしは、聞分けかたしとなげく。いとあはれにおもひ、おろかさをかへりみす、ことはをそへ侍るなり。

教外別伝という、不立文字、直指人身見性成仏と言い習わすからに、すでにして習い覚え、むかしの人ののたまひしは、聞き分け難しと嘆くんですか。自分という標準を習い覚えたら、こりゃ切りがないです、どこまで行っても難難の近似値はかえって遠いんです、もと取り付く島もなし、手を触れなきゃ現成しているんです。だからこうこうと説くおろかしさ、ぶんなぐってもなをさら泳ぎ出すだけですか、たいてい匙を投げるよりないです、不思議にこれを得て来たる、何人か、捻花微笑するに、我に涅槃妙心の術あり、迦葉に付すとこれあるんです、手を取り足を取ってするほどに遠いんですか、わしの法を継いでください。いまだ心残りあり。
61 2008年08月31日 22:14 neo◆u12SwCEviQ
此世にて親のかたきをうたぬハ、一世のはじなり。此身ここにてころさねば、万劫の苦なり。此身をころすは、直に如来になればころすなり。大乗最上乗の人には、如来を教へ、万法を不言。如来は慈悲功徳有、勿論無虚無実無去来。

親の仇討たぬは一生の恥なりと、今の世みんな仲良く平和にだからそういうことはない、もってのほかだという、常識におのれを売って、でたらめめったらの生涯、今もっとも必要なのはあるいはソクラテス、自分という嘘のかたまりを打破すること、まずもって急務です、でなけりゃ仏法もへちまもないですか。なんだかんだ飛び飛び坐って三年も埒開かぬ男に、しゃあない公案だ、ビッグバン以前のおまえのきんたま持ってこいと云った、ちっとは真剣に坐っている。この身を殺すには、直きに如来になれば殺すなり。別の女の子には百万劫年坐っとれと云った、なにかどっかうまく行きそうだ、もと手付かずの方法、だれかこれを得てくれという、なにをどうやったって、なにをどうやるだけがある、即今これ他にはまったくなし、大乗最上乗の人一個半分、如来を教え万法は云わず、慈悲功徳これ、真実不虚、不去不来舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相玩具するが如しと、参ずるんなら自分の外に参じてください、自分というとやこうにはまったく用事はないんです、即ち始め終わりです。
62 2008年08月31日 22:16 neo◆u12SwCEviQ
 或人、地獄を問ふ。予云、汝が身にせめらるるを云ふ。極楽を問ふ。身のせめなきを云ふ。仏を問ふ。身心ともになし。かれいはく、死人におなし。予云、生きながら死人になるをいふ。我が宗は悟なり。なんじ古今の苦楽、目前に有りや無しや。かれいはく何もなしといふ。

  人の身の作法をさらにかへすして
  さとりて見れば只何もなし
  人の身の作法をさらにかへすして
  まよへはつねにくるしかりけり
 仏法、天地の内の霊とて大善なり。人は天地をかたちとする故行ふなり。

或人地獄を問ふ。身に責められるを地獄という、極楽を問う、身の責めなきをいう。仏を問う、身心ともになし。それじゃ死人と同じではないか、そうだ、死人と同じ我が宗旨なり。生きながら死ぬること、我が宗は悟りなり。なんじ古今の苦楽、いままでの苦しみや悲しみが目前にあるかと聞く、何もなしと答える。

こんなに完結要を得る後はないです、ほかのなにやかやみな蛇足です、よくよく人々たしかめてください、悟りとはなにか、省みるに何もなし、省みる我なし、ちらともあればそれによって迷うんです、苦楽のもとです、よくよくこれを見てください、必ず何かあってそれによって振り回されている、迷いと地獄極楽とものまねふりが口を聞いている、なんたる情けなさ。

人の身の作法はさらに変えずして、これがありようのまんまです、悟りてみればただ何もなし。がらりがらりと変わったような気がしている、いっとき、悟ったなんいもないといういっとき、どうぞ坐って坐って坐り抜いてください、大悟十八小悟その数を知らずと、その万倍やったとて糠に釘、どんぐりの背比べめったらばかのこのおのれを、そっくり仏にお供えして、まったくの無料奉仕です、ただもう坐るんです、そうなってきてようやくに是是ですか。人の身の作法はさらに変えずして、迷へば常に苦しかりけり。坐っていて苦楽がないんです、つらい悲しいもそのまんまに行く、そのゆえに大聖です、自覚症状がこれっぽっちもないんです、強いて云えば抜きん出て益なしですか、知らぬが仏、廓然無聖個々別々です、なにかしらあれば昂ぶったりして坐は中途半端。

仏法天地のうちの霊として大善なり、自性霊明です、人は天地を形とする故行うあり、一挙手一投足あるんですよ、威儀即仏法という、まるっきり省みないんです、人間という知ったかぶり、俳優の詐欺行為を止めてください。あほらしいだけですよ。鶯さへ通身もってホーホケキョです。
63 2008年08月31日 22:17 neo◆u12SwCEviQ 心
仏と云、神と云、天道と云、如来と云、色々難有名は、人の心をかへて云也。
心本一物もなし。
心の動き、第一、慈悲なり、和らかなり、直を也。
主君に向へは忠を思ひ、親に向へは孝を思ひ、夫婦兄弟朋友にむかへは、其品々に道をたたしくせんと思ふ。是心の本意なり。かく有かたきものなり。
心を妙と云、阿字と云、阿弥陀と云、悟と云。我心に見られては、ゆるす事なし。必ず悪人、とかをうくるは、其身の心ゆるさぬ故なり。疑ひ無し。善人したひによくなるは、其身の心よりよき事をあたふ。うたかひなし。かくあきらかに人人そなはるなり。

心です、これっきりないです、たった一つあることは無です、無心です、心が無い、無いものは痛まず損なわれず、不垢不浄、不増不減、不生不滅、金剛不壊とはこれ、これを得るのに父母未生前、ビッグバン以前のおのれに帰るのがもっとも手っ取り早いです、だれにでも出来ます、ちらともあればまったく役立たず、仏にもならず、天道にもならず、如来来たる如しを外れて、よこそまにするんです、自業自得これ参禅の目安です、自分作っておいて七転八倒する、いえたった今の現象です、じきに消えて、慈悲あり、和あり、直ありです、おのれの取り得なんにもないです、善人悪人という、わが心に見られるをもとこれ基本わざ、それなければ人間とは云えぬです、すなわちまずもって人間から始めてください、ついにわが心なしを知る、心なければ知られんです。知っている分を嘘。
64 2008年08月31日 22:18 neo◆u12SwCEviQ
 かかる有かたき物なり。上一人をこなひ給へは、天下平なり。国主行ふ時、其国安し。家主行ふ時、其家安し。それをしらすして、万我意にまかせ、身の悪にたまされ、人のうへを色々によしあしにつけてねたみそねみ、我身我心かた時もやすからず、常に苦しみかなしむ事たえず。其悪念にひかれ、死していく世もうかふ事なし。あさましくかなしき事なり。

 仏世に御出有りて、身のとがを去るへしと、とかなけれは身なし、身なけれは直に仏と、御をしへ有がたし。
 修行と云は、人々身のとかを去るへし。立居につけて、我とかをわが心に見せて去る事をこたらねは、つひに去りつくして、我身直にこくう、こくう直に我身なり。うたかひなし。其時、生も死も、万物すきとのかれて、大あんらくなる故、極楽と云。ねかひもとむる事なき故、仏と云。うたかひなし。

  身も消えて心も消えてわたる世は
  つるきのうへもさはらさりけり
うたかひなし。

古い仮名遣いにも馴れて、まことにこれこのとおりそのとおりです、坐禅の仕方まさしくこれです、何も云うことはないです、よくよく身心もって立証してください、仏になり終わってください、なり終わりまさに始まりです。またたとえば理想社会、理想国家について考えてみてください、日本では鎌倉時代ですか、タイでは3世紀から8世紀ごろですか、騒々しくみっともないばかりではない世の中が実現したです、わしはそう思ってます。

65 2008年09月10日 19:59 neo◆u12SwCEviQ   人つねにあやまる事

人にたまされてくるしみ、我にたまされて悦ふ事。
人の死をしりて我死をしらず。
人の是非をえらひ我無作法の事。
本来無といへは無としる事。
仏道に法をたつる事。
仏道に不入は身守る事ならず。
きねんする人有、身の仏を不敬。
貧をくるしみ、のかるる事しらず。
悟を以て仏法と云。悟る人まれなり。
一念悪気ひるかへす事ならず。

これは絶品です。この最後の項行われている人まったくになしといっていいです。でもまさにこれ仏道です、一つあやまればすでに不可。人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ事。空手還郷、眼横鼻直にして、他に瞞ぜられずは、仏のありようです、一神教から共産党までまさにこれ、人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ以外にないです、あるいは世間一般これです、平和といっては戦争を起こす、人類めったやたらの教育美徳ですか、せっかくお釈迦さまがこれを知り、仏を示してのちも、めったやたらのでたらめ無明暗黒です、多少とも気がつく人は、この数箇条よくよく身心もて省みてください。

人の死を知りて我死を知らず、万事あやまりのこれが元なんです、いったん死ぬること以外に生きる道なく。
人の是非を択び我無作法の事、すなわちこれ生活の基本ですか、それじゃまったくに収拾がつかんです。つまらんこってす。
本来無と云えば無と知る事、師家とか坊主学者の類、あるいは悟った悟らぬ人100人が100人これが類ですか、担いで帰れというわけの、まさにこれ試金石、無と言えば無を知る人も無しなんです、単純数学ですよ、1は0になるんです、1を観察するものあれば2ですよ。

仏道に法を立てる事。以無所得故にぼーじーさっとば、修菩薩行です、わしがありようありていに白状すれば、たった今悟った、昨日までのおのれはまったくなっちょらんとこれ毎日やってます、人は呆れて口をあんぐり、知らぬが仏ですか、仏は仏こっきりまるっきり取り得なし、無上楽あり。

仏道に不入は身を守る、仏道に入らなければ身を守る事が出来ないと思うこと。仏は身を守るすべばし、わずかに守るべき身心なしをもって長らえるんです。これをたいていの仏者は、おれは悟っただからといってふんぞり返る、あるいは仏道をもって自己弁護に当る、てめえ自堕落に二重丸つけて、俗物と不識をごっちゃにする、こりゃ害悪もまあ云う甲斐なし。

祈念する人有り、身の仏を敬わず。仏を願うとは100人中100人これ、自分を捨ててというとかえって握り締める、捨てるということさえ出来ぬ、情けなや。
貧を苦しみ、逃れることを知らず。とにかく工夫してください、もっともたやすいことですよ。
悟りをもって仏と云う、悟る人まれなり、残念ながら未だ一人にも会えず、悟りという本来を知らぬだれかれ、云ってみりゃ偉い人ばっかりですか、ほっときゃ偉くなるばっかり、いちばん馬鹿でめちゃくちゃでまるでなってない人やや親し。

一念悪気、チラッとも念あればこれを翻すことならず、これは基本わざです、一念起こったらもはやそれっきり、だのにあくせくというのが万ず病のもとです、無心は心無し、かえりみること不可能、無いもの痛まず金剛不壊これ仏法。

 右此一冊、寛文庚戊末秋、是をあつめぬるにつけて、此上加筆あやまりににたりといへとも、ふしきに命なからへて、よはひ七十四才に及て、釈迦如来御説法、少も説法せずと仰られし事、生も死も万物直ニなき事なと、のへをかれしにつけて、予ふとおもひ出て、世か一世のなす事一もなし、是れたれもたれもしることなれは、もしはおもむく人もかなとねかふにつけ、辞しかたく、筆をくはへぬるも、わかことくおろかなる人のたすけにもやならんかし。七十四才にて、此一枚のおく書をと、しいて門弟このむねにまかせ、筆ヲそめ侍る也。

  延宝四年丙辰仲夏      無難花押

釈迦如来少しも説法せず、もとはじめっからあるこれを損なわず、予が一世のなすこと一つもなし、これ誰も知ることなればと、もし赴く人あれば、予の如くにおろかな人あれば、しるべにもせよと至道無難七十四才奥書して花押です、わしもすでに七十ニ才、おろかなることはようやく日々を過ごす、わがなすこと一もなし、まったくにそのとおりです、あっはっは花押もなしの。