気づきのアート

Art of Awarenessとは、私たちが生きていくなかで出会う、様々な悩み・痛み・苦しみから、自らを開放し、自由になるため編まれた、気づきの技術の体系(トレーニングプログラム)です。

それは、禅・ヴィパッサナー瞑想・内観など仏教の各流派が、あるいは東西の身体技法の各伝統が、時を費やし磨き上げてきた、身体/心理的技法の現代的な抽出物(蒸留精製物)であり、来るべき世代への大いなる贈り物のひとつです。

気づきの源泉

決して枯れることのない、決して澱むことのない気づきの源泉が、時代や文化を超え、私たち・存在の奥底に渾々と湧いています。

歴史上、ある人たちは、その源泉に至り、自ら喉の渇きを癒しました。

それだけでなく、彼ら(彼女ら)はそれを汲んで持ち帰り、自らと残る人々のため、気づきの教え(実践理論)を作りあげました。

多くの教えの流れ(伝統)が生まれ、幾多もの変遷を重ねながら現代まで伝わりました。

いま、歴史の末端に位置する私たちすべての眼前に、それら過去の集積のすべてが、開き、置かれています。

オープンシークレットとしての真理

しかし、それは開かれた秘密として存在しています。

何も隠されていないし、何も秘められていない― しかし、その全ては、不念(不注意)の状態にある私たち・日常意識にとっては、埋め隠された真実としてしか存在しません。

それはまるで、普通の文書に偽装された(宝の在り処の)暗号文を、そうとは知らず扱っているようなものです。

すべては、この表面、この表層に、あるがままに剥き出しで現成している。

しかし、それは、いまの、この「自我-思考モード」で動いている私たちには見えない(読めない)のです。

その、開かれた秘密の扉を開くため、その透明な暗号を解読するため、ある鍵が必要となります。

気づきと云うマスターキー

それは、磨き上げられ、結晶化された、私たちの内なる気づき、それ自体です。

そのマスターキーを使って初めて、オープンシークレットの、教えの扉は開きます。

そのとき、教典や指導者など、他人の言葉を通してではなく、直に、その源泉に通う道行きが始まります。

そのとき私たちは、どんな問題の解決も、他に、未来に、方法に、求めることはしないでしょう。

答えは常に、現在に、そして自らの気づきのうちに存在すると知るからです。

受容的な気づき

いま、現に存在する事実に対する受容的な気づきが全てです。

私たちが生の現実のなかで出会う、様々な悩み・痛み・苦しみ― そこから逃げ離れようとすることなしに、今ある状態から別の状態へ、此処(ここ)から彼処(あそこ)へ、変えよう・移ろう・至ろうとする心の根深い傾向性(衝動)に惑わされることなしに、いま・ここに現成している身体/心理的な事実に留まり、それに直に触れ、感じ、味わい尽くすこと― その営為(行為/無行為)が、すべてを変えてしまいます。


気づきが、弱く、遅く、滞っているとき、肉体的にも心理的にも、あらゆるものごとが問題となり、苦しみを生み出します。

そして、問題の解決(方法)が、思考と感情の動きのなかで探し求められます。

気づきが、強く、速く、流れているとき、生きることは滑らかで自由です。

生起する内外の出来事のすべては、受容的な気づきによって、見られ、味合われ、解消されていきます。


明晰な気づきと全面的な受け入れ― 能動性と受容性の双方が、その極みにおいてバランスしている状態が必要です。

受容的な気づきが熟すとき、それは問題そのものを花開かせ、問題を生み出し維持してきた構造そのものの理解・洞察へと導きます。

その理解が、独特な仕方で、問題を無効化(問題でなく)していきます。

そのとき、問題は、即、答えです。

自己を知るための技術

自らのカラダとココロが、無自覚的な認識できていない部分で、どのように働き、何をしているのか― その見難い動きを知ることによって、問題を生み出す構造そのものに変化をもたらすこと。

自分視点で物事を見、経験し、それが記憶として堆積し既成事実化していく、誰もが持つ世界認識と感情形成の仕組みから一旦離れて自身と過去を見つめ、再体験、再構成していく作業。

身体に対する感覚の鈍さと、誤った理論(知識・思い込み)のかけ合わせによって起こる誤使用と、そこから生じる不調や不具合(ノイズ)に気づき、より構造に適った身の使い方を見い出し、運動パターンとして定着させていく試み。

― それら各々の実践を、瞑想、内観、ボディワークと、仮に呼びます。


瞑想とは、現在の瞬間における自己(の心身の)観察であり、

内観とは、過去の関係性を通しての自己(の来歴と正体の)観察であり、

ボディワークとは、身体感覚を主とした自己(の身体/運動イメージの)観察です。

それらを行った結果、それぞれの領域における認識の深まりと転換が起こり、各人の抱える身体/心理的問題が解決する可能性が出てきます。

それは、自らの心身における事実・現実を、正しく認識し、理解したことによるものです。

統合的なアプローチ

実践は、瞑想、内観、ボディワークと云う、三つの技法(方法論)を柱とします。

それは、麓に登山口が三つある山(三角錐)に似ています。

各人の抱える問題に応じて登り口は選ばれます。

が、登り進めるにつれて、それらは徐々に近づき、頂上で一つになる。

そのように、三つの技法は、習熟に応じて相互に浸透を深め、最終的に一つ場所へ流れ込みます。

そのとき、瞑想・内観・ボディワークの区別はなく、それを見分けることもできません。

ひとつが全てを含み、全てがひとつとなって、三位一体で働きます。

日常とリトリートの往復運動

リトリート (retreat)とは、徹底的・集中的に自己と向き合うため、一定の期間を設け、世間から離れてお篭りし、自己直面と観察の行に専念する行為を云う。

通常、睡眠中を除いたすべての時間、修行の厳密な継続が求められる。


私たちが生きている現実という荒海において、現に(リアルタイムで)苦しみの真っ只中で溺れ喘いでおりながら、そこから脱出する方法(泳ぎ方)と方向(ルート)を見いだすというのは、実際、容易なことではありません。

そこには、「いま現に、どことも知れない海で溺れておりながら、片手に地図と教本を持ち、必死で泳ぎを覚えようとしている」に似た難かしさがあります。

そこに、いったん(期間限定で)陸にあがり、温水プールのような制御された環境のなかで基本から泳ぎ方を学ぶ、集中訓練期間(リトリート)を持つことの意義や価値が存在するのです。

それは、「畳の上の水練」に似た予行演習ではありますが、小さくはない効果を持ちます。

それが(疑似環境である)プールの中であったとしても、一旦泳げるようになりさえすれば、再び現実の荒海に戻ってからの身の処し方― 楽に浮かび流れるコツ― を学ぶことができるのです。

年に一度の(あるいは、理想的には二度の)リトリート期間を持てたなら幸いです。

リトリートと日常との往還は互いを深め合い、最終的に、生きることそのものの質を変えていきます。

気づきのアート

この気づきの実践(修習)は、最高の娯楽、あるいは最後の道楽となり得るでしょう。

それは、自身の持てる知性(知的理解力・思考力)、身体(感受・制御・運動)能力、精神力(気づきと一点集中との総合力)― それらすべてを注ぎ込み、身を尽くし心を尽くして、全身全霊でおこなう挑戦・冒険・霊的遊びであり、そのなかに、人として味わえる極限の寛ぎと快感が、自己を見ることの大いなる苦悶と絶望が、そして強烈な明晰さの体験があります。

それを一度味わった後には、あらゆる外なる刺激は、二義的な意味・価値しか持たなくなるでしょう。

遊びに行きたいければ、私自身と云う(内なる)テーマパークへ行けば良いし、映画が見たければ、私自身と云う(常に生成し続ける)作品を見れば良いと知るからです。

それは、貸切の映画館で、自らの心身(因果の宇宙的な網の目)によって編み出される即興の作品の上演を見ているようなものです。

その映画の主人公は私であり、客席には、ただ一人、特権的な正客である私だけが座っています。

それは、気づきによる、生そのもの(存在そのもの)の刻々の芸術化/作品化の運動であり、その現場に立ち会わせることなのです。


たとえ、それがどんなものであれ、いま現に存在している事実(不安・不満・痛み・苦しみ)に留まり、それを変えよう(無くそう・離れよう)とすることなしに全的に気づいていること。

それは、事実が自然な仕方で花開き、真理へと変貌していくのを助けます。

気づきのアートの美しさが、そこに存在します。


大道無門 千差有路
透得此關 乾坤獨歩

大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩す。

Yves Klein – Monochrome bleu (IKB280)