過去の文章のお蔵出しです。
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> これは私にとっても大きなテーマなのですが、思い込みによる体験と、そうでないものの体験との違いは、どのようにして判断すればいいのでしょう?
同じことを、私の言葉で言えば、「理論の産み出した体験(ある観念に、はまり込むことによって生じた体験/経験)と、理論が抜け落ちたが故に起こった体験とを、どう見分けるか?」という問題なのですが、これでずれてませんか?
別の言い方をすれば、「眼からうろこが落ちたのと、眼にうろこが飛び込んだのと、どう見分けられるか?」という問題です。
もし、ずれてないなら、問題意識を共有できそうです、嬉しいことに。
これは、「私にとっても大きなテーマ」なのです、積年の。
我々は、通常、「理論を介在させず、裸眼で、あるがままに見るとき、世界を最も明晰に、正確に、鮮やかに見てとることができる」という瞑想宗教的通念を疑うことはしないように思います。
しかし、もしかして、人間の目はもともと(生まれたときから)ピンボケで、「理論」という眼鏡をかけなければ、世界はぼんやりとしか見えない、と云うことはないのだろうか?
その眼鏡がコンタクト・レンズ(一生、外しも、手入れもしなくてもいい)になった場合はどうか?
「眼からうろこが落ちた! おお、世界のなんと鮮やかに見えることか!」と言ってるのが、実は新手のレンズが目に飛び込んできただけに過ぎぬ、と云うことはないのか?
> 思い込みによる覚醒というものもあるのでしょうか?
> あるいは覚醒とは、説明する必要もなく、疑いようもないほど圧倒的なもので、「ひょっとしてこれは私の思い込みが創り出した幻想なのでは?」 などといった疑問が発生する余地さえないものなんでしょうか?
本人にとって、「疑いようもないほど圧倒的なもので」「疑問が発生する余地さえない」ほどの、明晰で、強烈な体験であってさえも、自分の観念が作り出した(あるいは、混ざり込んだ)“まがい物”であり得るのが、その手の体験の怖いところだと思います。
しかし、これは、簡単に扱って済ませてしまうことはできぬ問題ですね、難しい問題です。