I am angryとI feel angry(感じている私と、私の感情)

この観察を行うにあたって、とても重要な理解(必要な認識)が一つあります。

* これは、本来、「徹底した観察の結果」として自らのうちに生ずべき「答え(結論)」でもあるのですが、それと同時に、まず最初に、理(理屈)としてでも、この認識を持っていることで、いま行おうとする観察が初めて可能となる循環した構造を持っています。
それは、自己の内に根本的な変化を引き起こす誘発因でもあり、かつ、その結果でもある特殊な認識です。

私たちが問題に苦しむとき、常に、自らの内側に、主体(主観)と客体(客観)の二元性(区切り・分離感)が存在します。
私に感じられている感情と、それを感じている意識主体としての私の間にある、分離感・隙間・区切られている感じ―
「部屋(空間)と、その中に置かれている家具」、あるいは「鏡と、その中に写る具体物」と同じで、私たちが、悲しみや苦しみ、怒りを感じるとき、あるいは心の中の絶え間ない雑念に気づくとき、それら飛来し、移り変わる思考・感情(意識の中身)とは別に、それらの消滅・変転が起こっている芝居の舞台のようなもの、あるいは背景にある鏡面のようなものとしての「私と云う意識主体」の感覚が存在すると思います。
たとえば、「私は悩みを抱えている」と云うとき、抱えられている(意識内容としての)悩みと、それを抱えている(主体・意識)としての私は、(当然の前提として)別物として存在していると感じられます。
その区切られている・分離されている感じが紛れもない実感として存在するが故に、肉体的/心理的に、悩み・痛み・苦しみが現存し実感されている今この瞬間、それが無くなったあとに残る(いつか、未来の)容れ物としての自分を想像することが可能となります。
その分離感が実際には無い・錯覚であるのだということ、現時点で、常に/既に存在してないのだ、と云う認識が、ここで瞑想と呼ばれている自己観察には必要となります。

雪が降ったので、雪だるまを作ります。
夜中に、その雪だるまに意識が降りてきて、受肉し、宿ります。
そして、「はっ」と気がついた雪だるまは、こんなことを考えます。
「うー、冷たい! どうしてだろう?」
「そうか、お尻が地面の雪に触れているから冷たいんだ。
それなら、ここを離れて、もっと暖かい場所に移動しよう、そこで焚き火でもして暖まろう!」
しかし実際には、雪だるまは外界の雪と別の物質でできている訳ではなく、自身の全体が「それ」なのです。
そして、「冷たさ」も、雪の本性・性質としてあります。
雪だるまが心に思い描く、暖かい場所・温かい状況が実現したとき、雪だるまは無くなります。

私たちの状況も、それと似ています。
虚しいとき、苦しいとき、腹のたっているとき、私たちは、それと異なる、それと離れた主体として存在している訳ではなく、すべてが「それ」です。
私は、「その感情を持っている主体」なのではなく、「私自体が、その感情」なのです。
そのことの理解があるとき、現在ある、いま現前している事実がすべてです。
心が未来の、「これとは違うもっと良い状態」という想像(理想)に逸れ、エネルギーのロス(漏れ)が起こる、時-空の(時間的/空間的な)隙間がありません。
この、「いま感じている感情が無くなった未来」と云う心が生み出す想定自体が嘘だと分かるからです。
そのとき、観察に必要なエネルギーが存在します。
気づきのすべてが現在の、今ある事実へと注がれ、変化を起こすに足る熱量を持つのです。
いまと違うもっと良い状態(未来)と云う想像に逃げず、すべてが今に結集され、意識の内圧は、爆発に至るところまで高められます。
そこには、悟りや覚醒や問題の解決などの想像(イメージ)はなく、ただ、いま現にある、迷いや苦しみ、問題である事実だけが残ります。
そこに、問題が答えへと変貌する契機が生まれます。
* そのとき実現されてある意識の状態を「受容的(passive)な気づき」との言葉で表現しています。

痛み・悲しみ・苦しみがあるとき、それを観ている自分、それを恐れ、それに巻き込まれること無く、それを制御しようとしている自分という感覚があります。

「それを観察しよう(観察していよう)」とする心の動き(行為)自体が、それを恐れ、それをコントロールしようと云う、自我に発する制御欲求・安全欲求に発している場合がある。

「(観ている自分と、見られている対象の)分離感のある自己観察」の極みが「分離なき観察」であり、更に言えば、それは「観察」ですらなく、ただ「それ(対象物)」であること、「それ」になっていること、「それ」としてハタラクことである。

観ている自分(自我)と云う残り滓なしに、完全に「それ」しかないとき、「それ」が自然に働き、純粋な衝動・エネルギー・振動として展開する。

それを、「フラワリング(開花)」と云う言葉で表現することもできる。

禅の逸話にこういうのがあります。

白隠禅師に長く参じたおばあちゃん(大姉)が居ました。
白隠さんにも一目置かれるほどの、いわゆる「悟った」おばあちゃんでした。
あるとき、そのおばあちゃんの孫が事故で死にました。
そのお葬式の時、おばあちゃんは、ワンワン言って泣いてました。
それを見た近所の人たちが、「何だ、あのばあちゃん、普段悟ったとか何とか言ってるけど、あんなに取り乱して泣いちゃって、普通の人と何にも変わんないじゃない」とか囁きあっていました。
それを聞いたおばあちゃんは、「あんたら何も分かっていないねー。自分のこの号泣は、どんな偉いお坊さんのお経よりも功徳があるんだよ」と答えました。

大きな山を貫通しているトンネルを抜けて、その先に行きたいなら、そのなかに真っ向から入っていくしかないように、トンネルを幾ら外から観察したところで、その通路を抜けた先にはいけない。
雨雲を外から見ていても、何も分からないように、そこに突入して、暗く、濡れた場所を、モミクチャになりながら通り抜けるしかない。

痛み、苦しみ、惨めさ、喪失感などを超える、最高で、最短の道は、ただ全面的に苦しむことである。

苦しんでいる、そこから逃れようとしている自分すらないまでに、苦しみに打ちのめされ、打ち負かされて、苦しみそれ自体しかない状況に、真っ直ぐに飛び込んでいくこと(あるいは引きずり込まれていくこと)、これは、テクニックなどではなく、単に、どうしようもなく駄目になることである。

それが起こるとき、「これはマズイ! このままでは駄目になってしまう」との自我の足掻きが起こるが、それに構わず、負けて、飲み込まれて、駄目になって、訳が分からなくなってしまえば良い。

つまり、最高の方法は無方法であり、(方法を求めることこそが、最大の問題からの逃避・延期であり)方法など考えずに、全面的に、それに負け、突入することが必要である。

ただ、これは自分(自我)が行なえることではなく、起こるときには起こること。
不慮の事故、あるいは神の(宇宙の)恩恵に近いもの。

これは、禅が得意とする法の説き方であるが、それは禅にしか言えないこと(禅の専売特許)ではなく、クリシュナムルティであれ、ヴィパッサナーであれ、インド系の教えであれ、(言い回しは違うけど)行き着くところまで行けば、そうなるしかない。

私たちにできることは、ただどこまでも、いまある苦しみを観ることだけであり、その極みにおける飛躍は、狙うことも訓練することもできず、ただ起こるべきときに起こるだけで。

この「観察の先、観察対象へのジャンプ」は、自己観察と云う道(通路)を通り抜けた先にあるものであり、そこに向けてできることは、地道な、弛みない、粘り強い観察の訓練のみです。

「絶望(何もしないこと)と飛躍」が起こる為には、「あらゆることをし尽くさなくてはならない」。
その「できること」とは、気づきの訓練、今ある問題を純粋に観ることの持続、強化でしかないです。

I am angry 「私は怒ってる! 私は腹が立ってる!」じゃなくて、
I feel angry 「私は怒りを感じている」…を越えた、
I am angry 「私は怒りそのものだ」