この本、色んな科学者・学者さんに、「あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?:What is your favorite deep, elegant, or beautiful explanation?」と尋ねて、それに短い文章(1~3ページくらい)で答えて貰う、という企画です。
そのなかから、印象に残った冒頭の文章を。
さすが、スーザン・ブラックモア。
ひねりが効いてて、読ませます。
私自身の、進化生物学に対する感覚も、これに似たようなもので、そのインパクトを初めて実感したのは、40歳過ぎてからのことでした。
書評 「知のトップランナー149人の美しいセオリー」 – shorebird 進化心理学中心の書評など
「自然淘汰による進化」 スーザン・ブラックモア
もちろん、それはダーウィンであるべきだ。
それ以外の何ものも、ダーウィンには及びもつかない。
自然淘汰による進化は(実際のところ、自然にせよ自然以外にせよ、どんな種類の淘汰も)、すべての科学において最も美しくエレガントな説明を提供するものだ。
この単純な、三段階のアルゴリズムは、一つの簡素な理屈によって、なぜ私たちがデザインに満ちた宇宙に住んでいるのかを説明してる。
それは、なぜ私たちが此処に居るのかを説明するだけではなく、樹木や子猫や言語や銀行やサッカーチームやiphoneが、なぜ存在するのかも説明する。
これが、そんなに簡単で強力なのであれば、ダーウィンとアルフレッド・ウォレスがこれを思いつく前に、なぜ誰も思いつかなかったのか、そして、現在でもなお、多くの人々がその意味を理解できないのはなぜか、と不思議に思われるかもしれない。
私が思うに、その理由は、この考えの核心部分にトートロジー(同語反復)があるように見えるからだろう。
「生き残るものは生き残る」「うまく行く考えは、うまく行く」と言っても何も言ったことにもならないように見えるのだ。
このような同語反復らしきものを力のある理論に変えるには、すべてのものが生き残るわけではない、競争が激しくて有限な世界と云う文脈を付け加えねばならず、更に、競争のルール自体が変わり続ける、常に変化する世界だと云うことを理解せねばならない。
そのような文脈では、うまくいくと言ってもつかの間のことであり、そうなると、三段階のアルゴリズムは、同語反復ではなく、意味深くてエレガントな説明へと変わる。
生き残ったものに、少しだけ変異を持たせてコピーを沢山作り、この、常に移り変わる世界に放してやれば、新たな条件に適合したものだけが存続していくだろう。
世界は、生き物や考えや、制度、言語、物語、ソフトウェア、機械などに満ちているが、これらはみな、このような競争のストレスのもとでデザインされてきたのである。
この美しい考えは、確かに理解するのが難しく、私は、学校で進化を教えられ、理解したと思ってはいるものの、本当のところはまったく理解していない大学生を何人も知っている。
私にとって、教えることの喜びの一つは、学生たちが本質を突如として理解したときに見せる驚きの表情を見ることだ。
しかし、私は、この考えを心温まるものとも呼べる。
なぜなら、私がコンピュータの画面から目を離して窓の外を眺め、川にかかった橋の向こうの遠くの木々や牛を見るとき、宗教心の強い連中とは違って、これらすべての存在をもたらした簡素でエレガントな競争的プロセスに歓喜し、それらすべてのなかで私なりのささやかな場所を占めていることに歓喜するからである。
「冗長性の削減とパターン認識」 リチャード・ドーキンス
深遠で、エレガントで、美しいだって? ある理論をエレガントにする要素の一つは、なるべく少ない仮定のもとで多くのことを説明する力にある。
この点で、ダーウィンの自然淘汰の理論が圧勝だ。
それが説明するおびただしい量の事柄(生命に関するすべて:その複雑性、多様性、巧妙にデザインされたように見えること)を、それが依拠する数少ない仮定(ランダムに変化する遺伝子が、地質学的時間のなかで、ランダムでなく存続すること)で割った比は、ともかくも巨大だ。
人間がこれまで理解してきた諸分野において、これほど少ない数の仮定のもとに、これほど多くの事実が説明されたことは、他にない。
エレガントはその通りだが、深遠さは、と云うと、19世紀になるまで誰からも隠されてきた。
一方で、自然淘汰は、美しいと云うにはあまりにも破壊的で、無駄が多すぎて残酷だ、と見る向きもある。
いずれにせよ、私以外の誰かがダーウィンを選んでくれるに違いない、と見てよいだろう。