6月6日
★幼かった日も、ヤンチャだった頃も、幸福の絶頂期も、全てを失った今も、どの瞬間も本当だった・・・と考えるべきだ。
優しさがこぼれたのも、残酷だったのも、清らかな心も、真っ黒な心も、ふざけていたのも、命懸けの一瞬も、どれも真実だったし「私の人生」だったのだ。
何が起きようとも、あるがままに、潔く引き受けていく人生は輝きを放つ・・・。
6月4日
★家族を失い、地位や名誉や財産を失い、生きる拠りどころを奪い取られ、絶望に立ちすくむ悲嘆・・・。
得られたのも失ったのも、いかんともしがたい因縁の流れによって、そうなるべくしてなったのだ。
天からお預かりしたものを、天にお返ししただけではないか、と考える。
元々無一物だった原点に帰れば、「私のモノ」という執着が作り出した心理的苦痛は必ず乗り超えられる・・・。
5月31日
★究極に達した阿羅漢の聖者でも、この世に留まる限り、業が展開する事象の流れに逆らうことはできない。
病むのも、罵られるのも、殺されるのも、因果が帰結するのはいかんともしがたい。
善業を作ろうが不善業を作ろうが、楽受を受けようが苦受を受けようが、エネルギーが意味もなく生滅する宇宙内現象に過ぎない。
現象世界にいささかの執着もなくなり、悠々と苦受を受け、淡々と楽受の過ぎ去るのを観ている聖者たち・・・。
5月29日
★苦楽は等価と納得していても、土壇場では、快楽を貪り苦を嫌悪してしまう。
それが、知的理解の限界だ。
サマーディがもたらすウペッカー(捨)は、悟りを錯覚させるほど強烈で全身的だが、それも禅定が醒めれば消えていく。
究極のウペッカーの完成は、涅槃の体験が煩悩にトドメを刺す瞬間・・・。
5月27日
★苦受を味わう瞬間に不善業が消え、苦を受け容れ、苦を乗り超えようとして、自己中心的な視座が手放される。
快楽が人を堕落させ、苦が智慧の眼差しをもたらすのであれば、苦に腹を立て、楽を貪り求めることもなくなるだろう。
こうして、苦楽を等価に視るウペッカー(捨)の心が確立していく・・・。
5月25日
★激烈な苦が乗り超えられていく時にこそ、人の心は成長する。
高慢の鼻がへし折られ、因果の理法が骨身に沁み、失意のどん底から立ち上がり、怒りを手放し、赦しがたいものをゆるす度量が培われる・・・。
苦が掛けがえのない宝となり、災いをもたらした加害者が菩薩に見えてくる日が、必ず来る・・・。
5月23日
★怖れることはない。
どれほど激烈な苦しみにも、必ず終わりがある。
命も、事象も、現象の世界は、無常の法則に貫かれている。
幸福も壊れていく。
ドゥッカ(苦)も変滅していく。
苦を受ける瞬間に、不善業が消えるのだ。
怒りや絶望や復讐のエネルギーで、新たな悪業を作らない覚悟・・・。
5月21日
★最低の人に出会い、最悪の事態に巻き込まれ、最大の苦を受けるのは、自分が埋めた不善業の地雷を踏んだからだ。
悪業の大量一括返済のスタートだ・・・。
タイトルマッチのリングに上ったボクサーのように、ドスン、ドスンとパンチを受けながら、悪業が消滅していく晴れ舞台を楽しもう・・・。