『総理の誕生』 阿比留瑠比
良い作品だと感じました。
安倍首相に好意的な人も、そうでない人も、読んでみて損はない、抑制の効いた良質な評伝だとの印象を受けました。
一般に、誰か(あるいは何か)を批判する(否定的に語る)際には、肯定的に語る場合よりも、そのことに関する知識・情報が必要になるはずなのですが、(例えば、誰かを褒める場合には、仮に間違えていてもそれほどの罪はないが、逆の場合は、大きな問題を生み出す可能性がある)、現実には多くの場合、嫌いなものに関しては、そもそも情報を得る動機もないし、それもしないまま否定していることが多く、それが色々な社会的問題をこじらせている要因になっているのかな、と、読んでみて感じました。
何か(誰か)に対して自分のなかにある、既存のイメージを変え・超えて物事を見ることの難しさを感じます。
それは、この本に関するアマゾンのレビューを読んでみても改めて感じました。
画像は、「あとがき」より。
私は、この著者の阿比留瑠比(あびる るい)さんは、基本的に感覚が似ていて、「それはもっともだなぁ」と感じることが多いのですが、最近フェイスブック(https://www.facebook.com/rui.abiru)で、こんなことも書かれていたので紹介してみます。
ここのところ、FBでいろいろな意見やコメントを見るにつけ、本当に悲しくなることがあります。もちろん、それぞれ「こうあるべきだ」「こうあってほしい」という思いがあるのは当然です。だけれども、社会経験も豊かな立派な成人、また組織人は、現実社会ではその思いの実現がいかに困難であるかを嫌と言うほど味わってきたはずなのに、何で政治にだけは短兵急な極論をぶつけ、それをできて当然のように言うのか。
そう言いたい気持ちは分かるにしても、それをやることでどんな事態が生じるのか本気で考えて言っているのか。憂さ晴らしがしたくて他者に攻撃的になった挙句、しっぺ返しをくらうのは誰なのか。その巻き添えを食う人をどう思っているのか。
また、これも繰り返し書いてきたことですが、日頃はマスコミは屑で信用ならんと主張している方々が、なんで左派マスコミや背景の分からん情報を鵜呑みにして、それが正しいと決めつけて他者を批判するのか。それは、日頃、困ったもんだと嘆いている情弱者の姿勢とどう違うのか。
誰がこう言った。また別の某はそれを否定した。さらに違うある人はこう解説した…。一つ一つの事象は、それぞれ事実でしょう。とはいえ、事実と、その奥深い背後にある真実とは異なります。事実は複雑な形をした多面体の一部にサーチライトを当てて照らしたにすぎません。真実は簡単に分かるものでも理解できるものでもないことがほとんどだと思います。
大事なことは、垂れ流される「最新」情報に流されず、一歩引いて、その一断面を切り取ったにすぎない報道に短絡的に反応するのではなく、全体像をもう少し長いスパンで確かめようとすることではないでしょうか。
偉そうなことを言える身分でも立場でもありませんが、コロナ以後、あまりに簡単に「最新」情報に飛びつき、即座に激烈な反応を見せる人が多いと感じているのです。物事は複雑でわかりにくいのが当たり前だという大人の常識が、ワイドショー的なわかりやすさ万歳の単純化路線の前に、消えてなくなりそうで心配です。
……
自分で期待を高めておいて、すぐに失望する人々に長年、失望してきた。そういう人々は、失望した自分を正当化するために、失望を覆すような事実が出てきても目をそらし、ただ失望したと言い募る。