アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?
わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。
完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし如来は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。
如来は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。
アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、如来が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
(中略)
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
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しからばアーナンダよ,比丘たちはわたしに何を待望しているというのであるか.わたしは,内もなく外もなく,ことごとく法を説いてきた.アーナンダよ,如来の法には,あるものを弟子に隠すというがごとき,教師の握りしめる秘密はないのである.まことにアーナンダよ,あるいは<わたしは比丘サンガを導こう>とか<比丘サンガはわたしを頼っている>とか,そのように思っている者ならば,最後にあたって,比丘サンガについて何事かを語らねばならぬやも知れぬ.だが,アーナンダよ,如来は<わたしは比丘サンガを導こう>とか<比丘サンガはわたしを頼っている>とも思っていない...さればアーナンダよ,なんじらは,ここに自らを灯明とし,自らを依所として,他人を依所とせず,法を灯明とし,法を依所として,他を依所とせずして住するがよい.
(マハーパリニッバーナ・スッタ)
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アーナンダよ、如来の教法には、教師の握拳(弟子に秘すべき奥義)は無いのである。(ブッダ最後の教え)
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ブッダの嘘と方便 -スピリチュアル寓話集