純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。
苦痛や極度の疲労がこうじて、たましいの中にこれは果てしなく続くのではないかとの感じが生じるまでになったとき、その果てしなさを素直に受け入れ、愛しつつ、それをじっと見つめつづけるならば、人は、この世からもぎ離されて、永遠にいたる。 「重力と恩寵」
神を否定する人の方が、おそらくは神により近い。 「ノート」
神について考えようとするときに、何ひとつ捨てようとしない者は、自分の偶像の
ひとつに、神の名をつけているにすぎない。このことにはどんな例外もない。
神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。
そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ。 「超自然的認識」
外的な成功を得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけがはいることのできる、真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできないということを、くやしく思っていたのでした。真理のない人生を生きるよりは死ぬ方がよいと思っておりました。数ヶ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、しかも永遠に、いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無にひとしい者であっても、もしその人間が真理を欲し、真理に達すべくたえず注意をこめて努力するならば、天才にだけ予約されているあの真理の王国にはいれるのだという確信を抱いたのです。たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の目には見えないことがあっても、この人もまた、こうして一人の天才となるのです。 「神を待ちのぞむ」
さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて同一の真理の種々ことなった反映にすぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです。ところがこのことが理解されていません。各人はこれらの伝承のひとつだけを生きており、他の伝承は外側からながめているからです。 「ある修道士への手紙」より
「シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)の言葉」から