まず始めに必要なのは「私たちは決して、悟りや覚醒や見性体験を求めて、このような探求 ・探索を始めた訳ではない」との明確な理解です。
私たちの探求の、そもそもの出発点はどこにあったのでしょう?
それは、日々職場に通い、せわしなく働き、疲れて家に戻り、共に暮らす家族との感情に満ちたやりとりがあり、限られた休日の友人との交流や娯楽がありの、取りたてて素晴らしくも華やかでも愛に満ちてもいない、この日々の、あたりまえな生活のなかにではないでしょうか。
その生活のなかで、私たちが感じ ・抱える、あらゆる不満 ・痛み ・苦しみ―からだの、こころの、劣等感と優越感の、身体的不調と老いの衰えの、他者や環境に対する止められない怒りやイライラの、日々の趣味・娯楽と、なお満たされることのない生の虚しさ ・退屈の感覚の、仕事に関する物足りなさと経済的な先行き不安の、くすぶり続ける性的欲求の不全感の―それら「様々な(身体/心理的)不満 ・痛み ・苦しみ」と、「そこから解放されたい、どうにか楽になりたい」との思いの現実があったからこそ、私たちは何かを始めてみようと思ったのでしょう。
それが、いつのまにか瞑想宗教的な「さとり」「覚醒」の文脈に絡み取られ、
気がつくと私たちは、そもそもの動機と目的を勘違いしてしまっています。
「さとり」や「覚醒」を目指して情報収集し、瞑想実践をしているような錯覚を起こしてしまうのです。
しかし、「不満、不安、苦しみ」こそが現実であり、「さとり、覚醒」は夢でしかありません。
その「罠」に陥ることのないよう気をつけなければなりません。
私は、そもそも、何が問題で(何が苦しくて、何を解決したくて)、こんなことを始めたのか?
何が、そもそもの出発点だったのか?
それを改めて、真摯に、真剣に、知識や理論による雑音なしに、無防備に、問わなくてはなりません。
その問いと、それに対する答えが明確であるとき、はじめて道の出発点に立てています。
そのとき、行が実質を伴ったものとして展開し始めます。
「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり」
「迷いを悟る」のが気づきの修行であり、「悟りに迷う」道を歩む必要はありません。
研修は、その始めから終わりまで、不満 ・痛み ・苦しみの実感のみに目を据えて行なわれなければならず、そこに「さとり」「覚醒」という夢、もっと良い状態のイメージ(心象)を混入させ、気づき ・観察のエネルギーを逸らして(漏らして)しまってはならないのです。