粉雪が舞う被災地を、祈りをささげながら歩く僧侶=4日午前、岩手県山田町
写真ニュース:被災地で祈る僧侶から
http://www.47news.jp/photo/170726.php
—–
この写真を見るかぎり、この方は私と同じ禅宗(臨済宗)の方で、
来ている服装は、和尚さんのものではなく、修行僧(雲水)の装束ですね。
私は、この方のことを知りませんが、写真から想像するに、
在籍期間の長い現在、道場に在籍して修行中の雲水さんか、
あるいは僧堂歴の長い(道場に長く居た)方で、現在は、どこかのお寺に入って居られる方で、
(なぜ、そう思うかと云うと、来ている藍染の雲水衣が、少なくとも5年間は着込んでいるであろうほど色落ちしているからです。雲水同士では、その色合いで道場の在籍期間が推測できます。
もし、この衣が2枚目であれば、もっと長い人でしょう。)
今回の震災を聞いて、そして、僧侶であるから、テレビには映らない死者が何千、何万人も、埋もれ、放置され、死んでいくのをリアルに想像でき、そして、止めようもない衝動から、せめて供養のお経をあげようと現地入りしたのだと思います。
「坊主のお経に何の価値がある」「そんなことで、誰が救われるか」と感じられる方も居るでしょう。
それは、そうでしょう。何の価値もない行為かもしれない。
しかし、祈りとは、そんなものでありません。
あるところに無神論の大金持ちが居たとします。
常日頃から「神なんて、いやしない。真実信じられるのは、金だけだ、身内だけだ」と豪語しています。
その、最愛の娘が誘拐されました。
犯人は、このところ連続で幼児誘拐娯楽殺人を繰り返している、ある男だと分かりました。
その男は、金でも性欲でもない、ただ、退屈しのぎに子供をさらい切り裂いて殺します。
そのとき、父親は、見境なしに祈るのではないでしょうか?
「神よ、いや神でなくても何でもいい、どうか私の愛妻の娘を救ってください。
助けてください、そのためには何でもします」と、泣きながら祈り、懇願するのではないでしょうか。
そとき初めて「祈り」と云うものを知ります。
祈りとは、そういうものです。
お経も、違いはありません。
効果があるか無いか、そんなことは分からない。
ただ、已むに已まぬ感情を鎮めるために読む。
それにお経の(人の叫びの、そして踊りの)様式化される以前の一つの姿があるのでしょう。
かって、僧侶の役割とは、鎮めであったのでしょう。